無自覚を自覚してみる

僕は時々、自分が書いた文章を見返す時がある。

内容、表現、文の長さ、更新頻度などを見る。

余裕のある時とない時、見れてる時と見れてない時、更新頻度が高いと低い時。そういうのを自分のバロメーターにしてる。

最近は、更新頻度が低いし、使う言葉も斜め下を冷笑するような言葉が頻発している。

見方も雑だし、深くも広くもなく、メタ的視点も中途半端。

突っ込まれたら何も言えないぐらいの脆弱さ。

こういう時は自分がない時にあらわれやすい。

最近何かに余裕がない。

仕事、は忙しいけどまだそこまでじゃない。

プライベート、か。休日は休んでも休んだ気がしてない。

体力や気力がなかなか回復していかない。

外へ出掛けても、心ここに在らず。

約束したことが守れなくもなり始めてる。

明らかにポンコツになってる。

なんかフワフワしとるな、と思う。

原因はわかってる。

待機疲れ。

10月から小腸移植の登録をして、早5ヶ月が経とうとしている。

その間、音沙汰はない。

あとどのぐらい待てば良いのかもわからない。

明日かもしれないし、あと半年、一年待つことになるかもしれない。

その「近いうちに来るのはわかってるけどいつ来るかわからない状態」のために、常に健康はキープしておかないといけない。

マスクは欠かさず、アルコール消毒のしすぎで手はひび割れを起こした。

疫病にかかるわけにはいかないのだ。

今の自分のリソースの大半がそっちに傾けられている。

これ、仕事をしていなかったらなかなかにおかしくなる自信ある。

最初、登録直後から仕事を休んで待機に集中しようみたいな話を家族としていた。

結果的にそれはしなくて正解だった。

限られた休職期間を無作為に、減給後の給与で過ごさないといけなくなるし、なによりも仕事という半強制的な目的がなければきっと僕は別のところが病んでしまっていただろう。

仕事のことで文句を言えるというのは、それだけで多分幸せなのかもしれない。

ただ、こうやって平日は仕事をして、土日は自分の時間をすごしている内に、ふと忘れてしまいかける。

自分が高度な専門医療を日々受けて、これから超高難易度の治療を受けないと長く生きられる体ではない、ということを。

多分、今のこの感覚は「苦しい」というものなのかもしれない。

家族からは「あんたじゃなきゃやってられないわ」と同情混じりの感心を受ける。

正直自分もそう思ってるし、そう自分を褒めてでもいないととてもじゃないがやってられない。

そんな余裕のなさが、僕の文章からは透けて見えた。もしかしたら気づいて心配してくれている人もいるのかもしれないし、いないのかもしれない。いるのだとしたら、それはとてもありがたいことだ。本当に、ありがたいことだ。

気が回せないようであれば、文章を書くことを止めないといけないのかもしれない。

だけど、それは多分しない。

唯一のアウトプットを。自分で自分をはかる、「人に見てもらえるもの」を。

微調整ができる自分の作品を隠すことになるから。

隠すぐらいなら、僕は書くと思う。

見返すときのバロメーターとしての機能を果たしてもらわないといけないから。


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