共感の副作用

今日、哲学カフェがあります。
共感という病 https://www.amazon.co.jp/dp/476127560X/ref=cm_sw_r_apan_glt_i_S7WWJS52ADXXTGFTFM5T

寄り添わない支援について投稿した本旨はここにあります。

常に価値観のアップデートを求められ、新しい価値観、元々あったけど表出してきた考え方をどうしても受け入れられない人たちを「古い考え」「時代遅れ」と揶揄する。
留まることも良しとせず、さも「俺は新しい考えに理解があるぜ」と。

【共感という病】
ソマリアでテロ・紛争解決スペシャリストとして活動している永井陽右氏が出した『共感という病』
無条件に良いとされる共感の裏の部分を説いた本。
帯には「胡散臭いけど、逆らえない。共感中毒時代の生き方・働き方」とある。
共感の主作用を強く感じていている人ほど、薄々感じているのかもしれない。妄信していなければ。
「つながろう!」が合言葉のようになっているのは割とそれに近いように思う。(またいいねが減るようなことを)

【トイレ事情】
かつてのマイノリティが、世論や共感によってマジョリティになりつつある事例も増えている。
一方で、例えば見た目が男性、中身が女性の人が女性のトイレに入ることは「怖い」とされる。
だけど、男性トイレを女性が掃除することにさほど違和感を覚えない。(これに関しては就労の問題もあるから一概には言えないけど、気持ち的な嫌悪に似た感情の抱きにくさは注目してほしい)
ちなみに、私は男性であれ女性であれ、中身がどうであれ、トイレしてるところを見られるのはごめんこうむる。
見えない社会的障害の共感のしづらさはまだまだ健在。

【主観への冷笑と客観性への怒号】
別の事例。
例えば、オリンピック、パラリンピック。今年の炎上トピックスの宝庫。単純化しづらく、主観も客観もいりまじる稀有な事例。政治も経済もスポーツも公衆衛生も全部引っくるめるからごっちゃになる。
政治、宗教、野球は揉める話題として有名だが、そこにもしかしたら東京五輪は入るのかもしれない。
いや、パラリンピックは別だ。開閉会式は素晴らしかったし、アスリートも素晴らしかった、という意見もでるが、それ自体なんのための差別化か、と思ってしまう。かといって、すごい!感動した!という感情は別だけど、一緒にしてしまいがち。

冷静に考えるととか、客観的に見るととか、データがとかを持ち出して感情に訴えでる場合もある。
そうすると「そのデータは作られたものだ」「何を思おうが、何を言おうが個人の自由じゃないか!」というのが横行している。
一見「私は冷静ですが何か」というのも見る。(私のことではあるw)
主観的、感情的になる人たちを見て、客観性を重視する人は冷笑する。、
そして、見てる第三者は余計混乱する。

哲学カフェをやっていてもどうしても、二項対立になりやすい。
議論が深まらない。ファシリテーターの能力不足、不甲斐なさを覚える。

一見主題と関係ないように見えて、「つながって」ます。
深く広く、時々浅くやっていきたいものです。

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