脱アンチ・アンチ・アンチ

ここ数ヶ月、文体を意識的にあるいは無意識的に変えてきた。

今までは迷っていた。

よくよく迷っていた。

「主張はするけれども、何を言いたいかがわからない。一貫性がない。コンセプトはなに?」と突っ込まれたこともある。

ならば、と。

今の「アンチ当たり前」に対する違和感を綴ってみている。

言い換えれば、マイノリティへの違和感・不信感・不安感だ。

神格化される当事者性、当事者に救われてしまう家族、治ってしまったあとの病気をアイデンティティにしていた元患者、福祉的就労(就労継続か就労支援)か一般就労かのハザマ、逆差別化などなど。

ツッコミたいところは山ほど出てきた。

以前「さらみの言葉は誰もが向き合わないといけない正論なんだ。だから見ている方は自分の首を締められているようで苦しいんだよ」と言ってくれた人がいた。

この書き方は楽ではある。

誰への配慮もしていないから。好き勝手やってるだけ。

でも同時に、視界が狭くなっていった感じがした。

「多分、このラクさは苦しい」

自己主張がゆるい、フラフラする書き方は、実は頭をとても良く使う。こっちの立場はどうか。あっちだとどうだろう。昔だったら?今だったら?大人だったら?こどもだったら?たくさんの例をシミュレーションする。

それぞれの立場ででる暫定的な答えを出すと、結果何が言いたいかわからなくなる。

でも、なんかそれが心地よかったんだと思う。

今の書き方はしんどいが、おかげで違う視点を少し知れた。

自分を知ることは、自分だけを知ることじゃなくて、他の人に瞬間的に憑依しながら見てみること。そのためには自分に余裕が必要だ。

もっと迷ってみようかなぁって今、思えてる。

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