いじめと〇〇と

いじめってさ、その時はとてもじゃないけど止められない(典型的なのは「自分に矛先が向くかもしれない」「あいつ(被害者)も悪いし」)
だけど、ひとたび表に出ると、「いじめはいけない!」と。
学級会や学校集会で先生が「こういう事態がありました」と言う。もちろんその時その場にいた人たちもその場にいる。
止められなかった自分を責める人もいるだろうけど、正直「面倒なことしやがって」と思う人もいると思う。

ましてやいじめが運動部の中で起こって、事件レベルになったとき、出場中止とかになると、矛先は加害者に向く?それとも被害者に向く?

その騒ぎが学校を出ると、今回の小山田氏の件のようになる。

感情に任せて先陣を切って怒りを爆発させる人、声高に叫べる空気ができたのを感じて叫ぶ人、自分もそういう経験があった!と言う人、冷静に人権侵害を訴える人。

でもそうなる前に当日のその場には「誰か」がいたはず。
いくら時代は違うとは言え。
小山田氏は何度も雑誌などで語り、2ちゃんねるでもたびたび話題になり、ファンの中では周知の事実だったようだ。

もちろん、ここまでたくさんの情報がでてきてるから誇張されたものもあると思う。

いじめはいけない、というのは多分多くの人が思っている、はずだ。でも実際の声になるのは、話が大きくなってから。

ではあなたはいじめを見たことがないのか、したことがないのか。
被害に遭った、という声は圧倒的に多いけど、いじめをした、という人の声はその何割だろうか。
過去にいじめられた人が、今職場でいじめをしていないだろうか。
相手が悪い、と思うことはあると思う。
だけど、それをいじめという形で返してないか。
そもそもいじめを自分で認識しているか。

一万歩譲って、自分のやったことはいじめである、と認識しているだけ小山田氏の方がまだマシな気がしてきてしまう。

今回の事例から、何年経ってもいじめは叩かれ、これから公で仕事ができなくなるほど社会的な制裁を受けるということが明らかになった。
彼がこれから改心するかどうか、世間は興味はないかもしれない。
あの人はああいうことで騒がれた人だ、というレッテルだけが何十年経っても彼を縛り付ける。
決して擁護をしてるわけではないし、そんな気持ちもない。

そしてこの現象で自分が注目したい点は、「自分はこう思うから」ではなく、「道義的、道徳的、人として当然責められるべきだ」という考えが背景にある場合だろうと思う。

個人的な感情で怒った方のが断然タチがいい。
今回の批判の一連を見ると、感情と正義をごっちゃまぜにしてる人たちがとても多い気がする。

そしてこういう批判する人を批判すると、「わかってない」という返しが来るときがある。
そこにはこう返したい。

「それ、あなたの感想ですよね?」と。

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