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ココアと月面着陸

日差しは暖かく風の強いある日
自然に癒しを求め公園に赴くと
暖かい飲み物が飲みたくなった

甘いやつ
ミルクティーとか

あっココア!

温めたスチール缶に
抗生物質たっぷり乳牛の血液
サトウキビから全てのビタミンやミネラルを取り除いた白砂糖
天日塩から全てのミネラルを取り除いた精製塩
発がん性!塩化メチレン入りアセスルファムK、
農薬作るときにたまたま発見したスクラロース

これらを乳化させてとろみを出して繊維で固めて安定させた溶液

飲めるわけがぁにゃっ
ジャっ
チャリン
ポチ
ドン
プシュッ
ごくっ

好奇心が勝って飲んでみたけど
思ってたより美味しくない

この「美味しくなさ」はどこから来るのか
成分表は見なくても大体わかっていた
まさか自ら背負ったリスクに文句は言えまい

そういえば10年程前によっぽど美味しいんだろうと思って
食べたマックも別に美味しくなかった

日頃から手間暇かけたものを食べていると
ラボ食を美味しく感じる感性が退化するのか

にしても美味しくない
そもそも薄いし、いろいろと入れて”安定”させた割にはコクもない
私が作るココアはもっとカカオが多いし、
黒砂糖使うからコクが出るし葛粉でとろみがついているし

まぁそんなのはいい
私が美味しく感じないことがわかったのだから。

でも想像していた味はなんだったんだろう
たまにフードコートや遊園地にある
「想像通りの味」の醤油ラーメンがあるけど
あれはなぜイメージと味が合致するのだろうか

自ら好んで食べたいでもないけど消去法で
注文して、食べて、定期的に
”いつもの味”を確認しているからか

つまり”いつもの味”が想像通りであるためには
定期的にイメージと体感をのすり合わせが必要になるのか

でもお母さんの味はどうだろう。
お母さんの味は久しぶりに食べる か ら「安心感」
を伴うわけで、どんな化学調味料が使われていようと
定期的に味を確認する必要はなさそうだ

ではプルーストは。
紅茶にマドレーヌを浸した瞬間に不思議な幸福感に襲われ
理由を探るうちに過去の記憶が蘇った

記憶と味覚の差異どころか
嗅覚や味覚が記憶を蘇らせた!

つまり「お母さんの味」は幸福感の味
もっといえばその味に反応した脳内から放出される、
セロトニンだとかオキシトシンのような物質の放出を伴う
現象だとも言える  か?

遊園地の醤油ラーメンがお母さんの味であったのならば
定期的にイメージと味覚のすり合わせをする必要もないし
ある人にとってバンホーテンココアが母の味であったのならば
20年以上の時を隔てて美味しくないと感じることもないだろう

そういえば私の母の味は手作りのココアの味だ

人生において母の味から独自ルートを開拓することがなければ
味覚が変わることもないだろう

そして子供たちは自由に選ばせると本当に味のセンスがないことにも留意したい
子供の頃は喉から手が出るほどに欲しかったスーパーのお菓子も
今食べると大して美味しくない

昔はたけのこの里だったのにいつの間にかキノコの里派になっていた
それでも氣が乱れない限り買うこともない。
そう、自販機のココアは私にとってなんとなく「イケナイ」魅力を備えた味だった

私の母がそうであったように、私も子供にスーパーのお菓子を
極力与えたくない。

この経験から考えるに、
よっぽどのことがない限り味覚が変わるということはない

プルーストがマドレーヌを浸して、「え、まずっ」
とならなかったのはきっとお母さんの味から大きく逸脱しない
食生活をしていたからだろう

ところで脳には記憶の3ステップというものがある
1.情報を受け取り 2. 保ち 3.呼び出す

記憶の保存をもう少し細かく説明ならば
プルーストがマドレーヌを食べて記憶が蘇ったのは、
食べた味と記憶が海馬に一瞬保存されたものが、
長期保管に値するに認定されて大脳新皮質に貯められていたから。

一部の、目に入ったもの全てを記憶してしまうだとか
ヘリコプターから見下ろした景色を全てデッサンできるだとか
突出した能力を持つ人を除き、

脳は出力依存性学習という傾向がある
つまり、アウトプットしないと記憶に残らないということ
話したり、書いたり、体で表現したりアウトプットすれば残りやすくなる

比率は3(学習):7(アウトプット)
読んだり聞いたことがあっても自分で説明できなければ理解のうちに入らない
情報詰め込み型教育を受けた現在のアクティブ日本人は
なんとなくの情報に惑わされ、記憶ともいえない記憶がやりとりされている
のかもしれない
とにもかくにも繰り返し認識した出来事が記憶にのこっていく

ところでこれを読んでくださっている方は月面着陸について
どんな記憶をお持ちだろうか

アポロ号は1969年7月16日ケネディ宇宙センターから打ち上げられ
4日後の1969年7月20日ついに月面に着陸した

私は生まれていない
今検索してやっといちご味のチョコレート菓子の名の由来がわかった
>アポロ号ってこんな形してたんだ

その時を生きていた人たちにとってはニュースで報道される
ニール・アームストロング氏がポヨンポヨンする姿に
興奮したことだろうと思う

人類が初めて月へ行った!!!
人間ってすごい!科学ってすごい!!
僕たちには無限の可能性があるんだ!!
バズ・ライトイヤーみたいに

日本万国博覧会が翌年大阪で開催され
当時の小学生は鼻息を荒くしながら
太陽の塔に行ってみたい!と
両親に懇願したことだろう

その時の小学生はお爺さんお婆さんになり、
日本もだいぶ変わった

先日の月面探索機着陸の映像に???(ハテナ)が浮かぶ人は
少なくなかったはずだし
(なんだこのCGは?!これから天才てれびくんが始まるのか?
と思ったのは私だけか?」)

太陽の塔といえば今日は
”大阪イチのイケメン”がバイクに跨って写真を撮るところだ
(誤解のないように、芸術は確かに爆発だしミニ太陽の塔は家にあり今は3歳児の尖ったおもちゃの扱いが怖いのでしまってある。イルミナティだろうがコミナティだろうが私の世界線ではない)

つまり月面着陸について語り継ぐ(アウトプット)人がいる限り、
人々の記憶でもニール・アームストロングがぽよんぽよんし続ける
(私のように全く響かない異端児はどの時代にも一定数いる)

逆に語り継がれないと記憶は薄れていくマンデラエフェクトが起こる
モナリザは微笑しているか?口角は上がっているか?への字か?

海外ではへの字で記憶している人が多いところもあるらしい
のっぽさんの没年は?私は少なくとも10年以上前だと思っていた

記憶に纏わる証拠、例えば文献の廃棄や
https検索結果の削除、情報の塗り替えが起こった時、

私たちはどこまで自我を信用できるのか
昔は飛行機雲はあんなんじゃなかったと自信を持って主張し続けられる人はどれだけいるか

政府の計画によると2050年ニンゲンは「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会」=サイバーフィジカル空間において「誰もが多様な社会活動に参画できるサイバネティックアバター」と化す

みんなが同じココアの味を好きになり
みんなが同ように月面着陸に興奮する
ニンゲンは汎用化した幸福の記憶をシェアし、
記憶の相違によるマンデラエフェクトも起こらなくなる

それが本当にダイバーシティが実現している社会と言えるのだろうか
私にはその言葉が科学的な甘みを演出した神経毒のように思える


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