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「テリー・ライリーの弟子って、どういうこと?」


私がテリーさんの弟子になってから、会う人の顔がそう言っているように見える時があります。

「どうしてあなたが?」という疑問も、当然あるかと思います。

先ずは、弟子になった経緯から説明します。

私は、テリーさんと会う前、大好きな音楽との関わり方が分からなくなっていました。
加えて、自分の選択に自信が持てない、迷走期を過ごしていました。

自分の選択に自信が持てないと、言葉でも声でも表情でも、表現すること自体が怖くなります。なるべく人に会いたくなくなります。

高校時代に引きこもっていた時期もあって、その状態が更に困難を生むことは知っていたので、自分がそのような状態であるという事は、なるべく表に出さないようにしていました。当時は新婚の頃でもあり、人生の最高と最低が同時に存在していました。異常な精神状態だったと思います。

そんな時、夫がテリーさんの来日公演を企画制作しました。私も現場を手伝うことになり、テリーさんと息子のギタリストのギャンさんのアテンドを担当することになりました。

自分に自信がない私にできることは、目の前のことをとにかく一生懸命やることしかありませんでした。

結果的に、テリーさんからは「今までで一番の日本滞在だった」という言葉を頂き、夫婦でカリフォルニアの奥にあるご自宅に招待されるという大変名誉な展開になりました。滅多に口にする事ではないようで、息子のギャンはとても驚きつつ「ダディはとてもプライベートな人で、そんな機会はホント無いから、絶対行った方がいい」と言っていました。そこから、夫婦で個人的な付き合いが始まり、何度かカリフォルニアを訪れました。

その頃もまだ、私の心の中は、これからどうやって生きていこう..という状態でした。

数年後。私が30歳を迎える時。夫から、節目相応のお祝いがしたいと言ってもらい、思い切って、1ヶ月テリーさんのところで過ごさせてもらいたいと言ってみたところ、快く許してもらいました(最高の夫)。そして、テリーさん、そしてご近所の皆さんのご協力のもと、1ヶ月の滞在を叶えてもらえることになりました。

どうしてテリーさんのところで過ごしたかったか。それは、音楽との関わり方が分からなくなった自分を、更に追い詰める為でした。「テリー・ライリーと過ごして何も感化されないようなら辞めちまえ」ということです。

音楽がやりたいけど何をしたいのか分からない。そんなヌルいことを言い続けている自分に嫌気がさしていました。一方で、自分には音楽以外に人生をかけて取り組みたいことは思いあたらなかったので、下手すれば生きる意味を見失うかもしれない、ギリギリの賭けでもありました。

初めの一週間は、テリーさんがギャンとのツアーで不在だった為、テリーさんの親友のJohn & Jody Deaderick邸でお世話になりながら、素晴らしいコミュニティの皆さんと充実した時間を過ごしました。

Deaderick邸の庭のことをお手伝いしたり、60年代当時のボブ・ディランやグレートフルデッドのコンサートを追っかけてた時のことの話を聞いたり、Johnの友人のLauri TwitchellとPeter Sucheckiのガーデンハウスプロジェクトを手伝ったり… Johnの奥さんのJodyや、RichardとShirleyのDicKard夫妻にマッサージしてあげたこともありました。テリーさんが帰ってきてから、テリーさんの調律師のShabdaと三人でよく散歩に行ったのも楽しい思い出です。

なるべく人と関わりたく無いと思っていた自分が、テリーさんのご近所の方と英語でコミュニケーションをとることは、今思うとかなりのチャレンジでしたが、彼らの人柄に救われ、また、とても優しく良くしてくれたので、一生懸命、自分の思いを伝えたり、英語が聞き取れなかったり分からなかった時に流したりせずに、思い切って聞いてみたりすることを大切にしようと思うことができました。

お世話になるということ。コミュニティの歴史に興味を持つこと。とてもたくさんの大切なことを、この時学びました。

そして、ツアーからテリーさんが帰ってきて、三週間に渡るテリーさんの家での滞在が始まりました。

この時、テリーさんは、John ZornとLaurie Andersonとのインプロ公演を控えていました。

テリーさんは、毎朝早く起きてラーガを歌い、その後は何時間もスタジオでピアノを弾き続けていました。当時、新しく使い始めたNord Stage3というシンセの音色を試すのに毎日数時間。その後グランドピアノで数時間、スタンダードやバッハを弾いたり、ご自身の楽曲を練習…。一人暮らしの84歳(当時)の体力精神力とは思えませんでした。

当時私は友人の女優 Zuru Onoderaの一人芝居プロジェクトの音楽を頼まれていたので、別室でその作業をしながら、何時間もピアノに向き合うテリーさんの放つエネルギーに圧倒される日々でした。

そして、Terry Riley・John Zorn・Laurie Andersonのインプロライブ2daysの日が訪れます。

ライブの日は、2019/5/17~18、そして、私の30歳の誕生日は公演翌日の19日。夫も弾丸でサンフランシスコにこの公演を観に来ていました。

会場は、テリーさんの家から車で4時間のサンフランシスコにあるThe Chapel。教会を改造したという素敵な会場です。プロモーターとテリーさんが電話で会場までの移動をどうするか話しているのが聞こえてきました。

電話が終わった後、テリーさんが「運転、お願いしていい?」と、私に聞いてきたのです。

確かに、私はこの滞在の為にサンフランシスコ空港から4時間かけて一人で運転して来たけれど、慣れない国で慣れない左ハンドル…しかもテリーさんを入り時間までにコンサート会場まで送り届け、更に会場から家まで安全に届けるなんて責任重大すぎる… 会場から送迎車を出すという案ももちろんありましたが…

ニコニコしながら「できるでしょ?」とこっちを見ているテリーさん…

ぐるぐると頭の中でどうするか考えて… いるようで… 実は心の中では答えは初めから出ている、そんな、変な時間が数秒流れて

「やります」

と、答えました。
我ながらイカれてると思いましたが、今思うと、この瞬間が弟子入りの歴史の始まりだったのでした。

日本では田舎暮らしなので田舎の道はまだ運転し慣れていますが、サンフランシスコ市内の交通事情と言えば、交通量が多く混んでいて難しいことで有名です(テリーさんのご近所の奥様も『私たちでもあんなとこ運転しないわよ』とおっしゃってました笑)。

必ず、無事故で無事に時間内にテリーさんを届けなければならない!そんな責任感から、会場の駐車場の住所を教えてください、ナビに入れるので、とテリーさんに言ったところ

「ナビはわしがやる。わしのナビが信用できないのか」

と言われ… ナビなしで行くことに。
細かいところは省略して、結果的に、私はこの難題をクリアしました。時間内に、無事にテリーさんを送り届けました。

兎に角渋滞している高速を降りて街に入るのが難しいのですが、テリーさんの指示を聞きながら落ち着いて高速で車線を変えた時、テリーさんがとても褒めてくれたのを覚えています。(こっちからすれば、そりゃああんたの命預かってんだからちゃんとやるよ、という気持ちでしたが…笑)

二日間の公演が終わった翌日は、私の30歳の誕生日。また家まで送り届ける時も、またテリーさんのナビで… ところが、この日はサンフランシスコ市内でマラソン大会があり、テリーさんが知っている道は全て通行止め。でも、この時も結局ナビに頼らず、二人で協力しながら高速までたどり着き、私はここで正式に「テリー・ライリーの運転手」に任命されたのでした。

日本では、弟子入りと言えばまずは運転手から(笑)。奇しくも私たちの師弟関係も運転手からスタートしたのです。

そして、無事に数百キロの長旅を終えて家に到着。テリーさんの好きな鍋料理を、スーパーで手に入る素材で作って、誕生日のお祝いをしてくれました。

この会場と自宅往復の運転を担当してから、私達の関係が変わったのを感じました。そして、ついにある夜、私は勇気を出して自分の胸の内をテリーさんに打ち明けました。

「ずっと、何がやりたいのか分からず、何の楽器も真剣に練習して来ずに30歳になってしまった。実は、音楽をもう諦めようかという思いで、テリーさんに会いに来たんです….」

すると、テリーさんはたった一言

「音楽は、諦められないでしょ」

と。

はい…

「そうですね…。諦められないです…。」

10年以上思い詰めていた私の悩みが、テリーさんのたった一言で、一瞬で、解決されたのでした。

この時、私は生きながらえました。死なずに、済みました。

後日、確か、スーパーマーケットへ車で行った時だったか、私はテリーさんの車を運転しながら、ラーガシンガーとしての弟子入りを申し出ました。

その時のテリーさんの答えは「そこまでやりたいということではないなら、無理に弟子にならなくてもいい」でした。

理由を尋ねると
「時間をかけて教えても、途中で練習しなくなってしまうのなら、お互いの時間の無駄だから」と。

生きるか死ぬかの瀬戸際にいた私にとって、一度断られたくらいで諦めるわけにはいきませんでした。

「やりたいです。練習します」

このやり取りを、何度かしたことを覚えています。

そして、そこまで言うなら、と、遂に承諾してもらい、2019年7月、正式に弟子入りのセレモニーをするに至りました。

テリーさんは、北インドで400年続くカラナ流派の伝統を、Pandit Pran Nath氏から継承しました。ツアーを一緒に回り、コンサートでタブラを叩きながらたくさんの時間を共に過ごして継承したそうです。

ここで「テリー・ライリーの弟子ってどういうこと?」と言う、初めの問いに戻ります。

テリーさんからは「師匠には弟子の音楽的な成長をサポートし続ける責任があり、弟子には練習する責任がある。そう言う間柄である」と、説明を受けました。

また、テリーさんからは、Pandit Pran Nath氏はインドからアメリカに移住され、テリーさんが最も長い時間一緒に師匠と過ごしながらカラナスタイルを継承したこと。また、インドでは人の移動が増え、インターネットも普及したことにより、純粋なカラナスタイルはインドにはもう残っていないとのこと。Pran Nath氏がアメリカに移住したことで、400年 600年前(2023.06.29訂正)の伝統のスタイルが、より源流に近い形でテリーさんに受け継がれたということを聞きました。

私が弟子入りしたということは、それを継承していく立場となったということです。

これが、私の場合の弟子入りです。

今まで、近い友人から遠い関係の人まで、面と向かって様々なことを言われました。

「女だから」(テリーさんには男性のお弟子さんがアメリカにいます)、「セルフプロデュースの為」「計画的」… SNSでは会ったこともない日本の人が「私もテリー・ライリーの弟子になれるかな」と呟いているのをたまたま見かけたことがありました。

傷ついたり怒ったりとかは全くないのですが、猛烈な違和感は覚えたので忘れられない言葉です。

どちらかと言うと近い人から言われたことの方が多かったのですが、むしろ遠い人は思っても言わないということなのかもしれません。

今の私にとって、音楽を奏でる目的は、有名になることでも、音楽家として社会的に評価されることでもありません。むしろ、そういった事には全く興味がありません。
そういうことを気にした途端に、目指したい音が出せなくなると思うからです。

今私は「師匠であるテリー・ライリーを喜ばせること」それだけを常に考えています。
それだけです。

私とテリーさんの師弟関係を見て思うところがある人が居るかもしれません。その人に伝えたいのは、『私は私の人生を必死で生きているだけ』ということです。

佐渡でのプロジェクトが節目を迎え、今週末は「FUTURE TERROR」そして11月には「FRUE」での公演が決まっています。(プロモーターの方はテリーさんに依頼していて、私はテリーさんから一緒にステージに上がって欲しいと言われたので、私はテリーさんを喜ばせることに徹して音楽と向き合います。)

テリーさんには「ここが全ての始まり」と言ってもらいました。なので、これから、名前が表に出ることが増えることを汲んで、この文を発表させて貰いました。

長くなりましたが、ここまで読んでくれた人は居るのでしょうか…。

本当に、読んでくれて有難う御座いました。

2021/9/24 facebook投稿より転載

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