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(2024)ドラゴン

昔むかし、私がとても小さく、中つ国のカステラが並んだような集合住宅に住んでいたころ、敷地のはずれに高い煙突のついた焼却炉が建っていた。いつも黒い煙がもくもくと上がっていた。私の母はそれを「ドラゴンの煙だ」と言った。私はドラゴンを知らなかったが、ドラゴンという言葉は知っていた。母が掃除機をかけるとき、「パフ・ザ・マジック・ドラゴン、リブド・バイ・ザ・シー」と歌っていたからだ。パフは掃除機になったのだった。つまりドラゴンは掃除機に似ているのだ(昔の、ずんぐりした胴体に細長いホースがついた掃除機である)。このようにして私はドラゴンの形や習性をぼんやりと知った。
洗濯物が黒く汚れてしまうので、母は対策を求め、同じ集合住宅の主婦らとともに私を抱えて焼却場に申し入れを行なった。職員の男性が二人出てきて強い口調で母らに何か怒鳴った。ほとんどが私の知らない言葉だった。申し入れの様子は新聞で報道され、ほどなく黒い煙は止んだ。ドラゴンは町外れを追われたのだ。
白いページを細長く黒いとげとげしたものが飛んでいる挿絵のついた本が母の枕元にあった。これは怖い本だ、と母は本を取り上げて私の届かない棚に隠した。隠す前に、黒いものの名をスマウグと言った。スマウグというドラゴンだった。スマウグは昼間の町に来るのだった。私はとても小さく、カーテンが引かれてからは外の夜を注視する習慣がなかったため、怖いものがあるとすればそれは昼間にあった。カステラの並んだ上に広がる昼間の空をしげしげと見た。透明なビーズのようなものが繋がって動いていた。時折、大きなものがゆっくりと渡っていった。多くの場合、それは飛行船だった。
何年も経って母は中つ国を追われた。本棚の何冊かに印をつけ、「これを読むように」と言って去った。もう手の届く高さだった。そのうちの一冊にスマウグがいた。ドラゴンは執念深く、元来なかなか追われず、一度居を決めれば何千年も居着く。そして滅多に死なないのである。

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