守(も)りが喜べば神もともに喜び
神様に仕える者を神の守(も)りと言いましょうがな。
神様は子供のようなもので、その守りを喜ばせれば背中の子供は喜びます。守りの頭をたたいて守りを泣かせれば、背中の子供もともに泣くからのう。
守りが喜べば神もともに喜び、守りが泣けば神もともに泣くからのう。
神のおぼしめしにかなうよう、氏子もおかげを落とさぬように信心しますのじゃ。
金光教教典
295頁
近藤藤守
78
おはようございます。
「守り」のことを今日では教師というようになりました。
取次者は神様の「守り」です。それが原点です。
自分自身が「守り」としてのあり方になっているかどうか、よく点検をしないといけません。
守りは、何と言っても頂いている今日の命を喜ぶ者でありたいです。その喜びがあって守りとしての御用が成り立っていきます。
今日の御教えは、まず第一にそのことを思いました。
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自分はまた、神様の守りをしている人のお取次を頂く者でもあります。親教会にお参りするのはそのためです。
「守りが喜べば神もともに喜び」とありますから、親先生に喜んでいただくように、喜んでいただくようにしたいと思っております。
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