料理屋のごちそうを食うたことのなき人は味が知れん
金神参りというて、遠方から参って広大のおかげを受けて喜び、しだいしだいにおかげをいただいた人もあり、この大谷の土地でも参らぬ人もある。わしの顔を知らん人もある。
たとえば、なにほどのよろしい料理屋が隣にあっても、その料理屋のごちそうを食うたことのなき人は味が知れん。これと同様である。
これはただ、例えである。料理屋のごちそうは食わんでもよいが、此方が話しておる天地の神様のおかげは、受けずにというわけにはいかん。
金光教教典
396頁
山本定次郎の伝え
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おはようございます。
最近、あるところでこんな言葉に出会いました。
「料理のレシピを見て『おいしそうだ』とは言えるが、料理を食べないと『おいしい』とは言えない」
信心も同じです。
おかげのありがたさを実感しないと、ありがたいと言うことはできません。
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おかげのありがたさを実感する工夫は色々あります。
いつも申しております「四つのお礼」を積み重ねることもその一つです。
当たり前のありがたさに気付き、その当たり前が文字通り「有り難い」ことだと知ることもその一つです。
住むところがある
毎晩、安眠できる
食事ができる
蛇口をひねると水が出る
噛むことができる
消化吸収する働きがある
着る服がある
履く靴がある
歩くことができる
突然、命を奪われない
等々
世界にも日本にも、この当たり前に恵まれない人がたくさんいます。
当たり前のありがたさ(有り難さ)に気付くと、「天地の神様のおかげは、受けずにというわけにはいかん」ということも分かります。