3万4397文字の独り言


 ポケットコロッケは今春から1年間、NSCに通うため
上京することになった。2人して故郷の北海道を去り、
2人して東京都世田谷区…から始まる住所に引っ越してきた。相方のたくまは僕より一足先に東京に踏み込んだ。僕も東京に住み始めてから3週間以上が経った。
今は絶賛ホームシック中で早くも北海道に未練タラタラになっている。おまけに東京に来て早々に胃腸炎などの体調不良を拗らせていたので、1週間くらいゼリーと
お茶しか口に入らない時期があった。東京に来て1週間で2回も薬局にお世話になるとは思わなかった。

 僕は故郷の北海道がこの上なく大好き。無人島に一つだけ持っていくなら北海道を持っていく。それくらい好き。そもそも、21年間も暮らしてきた故郷を嫌いになれる人間なんているのか。いたらDMで教えてください。

 そんな愛国心ならぬ愛道心が強い僕は、東京に行く
直前からもの凄く淋しさと名残惜しさがあった。
 そこで、故郷を忘れないためにもこの「note」に、
北海道で過ごした21年間を書き残しておこうと思った。

 保身に聞こえてしまうかもしれないが、僕が今回このnoteを書こうと思ったのは「みんなに読んでもらいたい!」からというよりは、単純に自分が北海道で過ごしてきた21年間を何処かに記録しておきたかっただけで
あり、完全な自己満足だ。
 僕は熱い文章を綴るのが苦手であり、そして下手だ。だから、「これから東京で頑張ります!」とか「今までの感謝を込めて!」なんてことを今回は書くつもりはなく、ただ単に自分の21年間分の年表みたいな感覚だ。
 この先東京に慣れてきても定期的にこのnoteを読み返しては、夏に蟻が大量発生する実家と、最寄り駅に毎朝いたステレオ爆音おじさんを思い出しては故郷愛を募らせる時間があると思う。

 ということで、長々と自分の21年間を記していこうと思う。

未就学児時代

 僕は2000年11月3日、小樽市で産声をあげたみたいだ。実家には今でも、僕が産まれた時のへその緒と産声が保管されてある。

 小さい頃は、よく両親の実家である祖父母の家にいた
記憶がある。幼い頃人生で初めて下痢を経験したときに
「お尻からおしっこが出た!」とビックリして飛び回ったのも確か祖父母の家だったはず。
 祖父母の家は、母方が小樽、父方が積丹にある。
 4人とも、僕が21歳になった今でも元気だ。健康な
遺伝子が組み込まれているはずなのに僕は東京に来て
早速胃腸炎になったのだ。
 未就学児の頃から21年間、祖父母の家は毎年欠かさず行っており、特にお盆と正月は自宅にいる方が違和感があるくらいに祖父母の家に行っていた。大晦日と元日は毎年、積丹の父方の祖父の家でダラダラ過ごし、1年間の反省と来年の抱負をダラダラと考えるのが恒例だった。祖父母の家での思い出は小さい頃から多い。

 しかし、本当に小さい頃の記憶は当然ながらほとんど
覚えてない。1歳の頃にハワイに行ったこともあるらしいがそれも全く覚えていない。

 保育園の記憶からは割と覚えている。
 僕は小さい頃、ウルトラマンが大好きだった。多分、
人生で初めて神様から授かった「趣味」がウルトラマンだと思う。ウルトラマンマックスやウルトラマンメビウスの世代。毎週録画していた。録画の容量が足りてなくてちゃんと録画されてなかった時はブチ切れてテレビにクッションを投げつけていた。
 家にも保育園にも、ウルトラマンや怪獣のフィギュアが山ほどあった。親や親戚によく怪獣のフィギュアを
買って欲しくておねだりしていた。50体くらいは持っていたと思う。積み木やミニカーで街を作り、ウルトラマンと怪獣を戦わせて破壊して遊ぶのが僕の保育園時代の生きがいだった。

 あとは絵を描くのが好きだったり、意外と男の子らしく友達と戦いごっこするのも大好きだった。戦隊モノや仮面ライダーだってちゃんと毎週見ていた。
 そう考えたら僕が人生で1番「普通の人」だったのは
未就学児時代なんだなと気づいてしまった。


小学生時代

 よく考えてみると、小学生時代はいろいろと自分の 原点になったものがたくさんあったと思う。

 人生で初めて「学校」という空間に解き放たれた時の緊張と不安は今でも忘れない。なんで周りの奴らは平然としていられるんだ、さてはこいつら俺以外全員同じ
幼稚園出身だな、なんて思っていた。
 思えば僕は昔から人見知りだった。初めての集団下校で猿みたいな顔のヤツに「ちょっと、ちゃんと列になって歩きなさいよ!」って急に言われた時は本気で学校
辞めてやろうと思った。

 そんなある日、Rという友達ができた。
そいつはおそらく、人生で初めてできた親友だ。
家が近くて、毎日一緒に登下校した。そいつはいわゆる問題児というか、なかなかファンキーなやつだった。
 冒険しようとか言ってしょっちゅう通学路と違う草藪みたいなところから帰ったり道端の草食ったり。朝、家まで迎えに行ったらパンツ一丁で出てくる日もあった。
 泥だらけになって帰ることもしばしば。その度に親に怒られていた。でもRは交友の上手い奴だったから、
おかげで友達も増えていった。ようやく、「学校」と
いうコミュニティで生きていく術を覚え始めた。

 低学年の頃は、ゲームを持っていなかったというのもあり、とにかく外で遊ぶか絵を描くか本を読んでいた。
 とくに本は大好きだった。中でもよく読んでいたのは「怪談レストラン」「ひみつシリーズ」「かいけつゾロリ」。図書館でほぼ網羅していた。あとはことわざの本だとか地理関係の本とかも好きで読んでいた。
 自分でいうのもなんだが、学校の勉強は得意ではなかったが、雑学的な知識や謎解き問題はそこそこには自信がある。みんはやもAランクまでいったし、松丸君の
謎解き問題もすぐ解ける。
 昔から社会科が大好きだった。今、芸人を目指していなかったらおそらく社会科の教師を目指していたと思う。

 そして、漫画もよく読んでいた。「MAJOR」「名探偵コナン」「金田一少年の事件簿」「ONEPIECE」「クレヨンしんちゃん」、今でも好きな漫画だ。そしておそらく、今芸人をやっていることの原点として、本の存在はすごく大きかった気がする。何かを創造したり表現
することの面白さは本や漫画で学んだ。
 とくに「かいけつゾロリ」は、伏線回収やメタフィクションみたいな、大人が味わう面白さみたいなものを僕に教えてくれた。僕は小学生のうちに既に伏線回収や
メタフィクションの面白さを理解していた。ようするに僕は天才の可能性を秘めているのだ。
 小学生の頃は、夏休みの自由研究でよく漫画のようなものを作ったりしていた。特に、小学4年生の冬休みに
作った、「あらゆるものの世界一を漫画と一緒に学んでいくコンセプトの本」は、とてもジャージが1番かっこいいと思っている年代の子どもが作ったとは思えない
クオリティの作品だった。やはり僕は天才児だったの
かもしれない。

 そしてもう一つ、僕が芸人をやっている「原点」が
小学生時代にあった。
 毎週土曜日にやっていた「爆笑レッドカーペット」。  
この番組こそ、僕をお笑い沼に引きずり込んだ番組だと思う。本当に毎週見ていた。ここでお笑いの面白さに
気づき、小学生の頃からTVにかじりついていた。今でも実家のTVには僕の歯型がついている。 
 人間って、辿っていけばだいたいは子供の頃には既に
原点になるものと出会ってるはずだ。

 あとは僕が小学生の時はよく両親が家族でキャンプや旅行に連れて行ってくれることが多かった。
 北海道は東西南北ほとんど制覇したんじゃないかと
いうくらいに行った。特にキャンプは毎年のように連れて行ってくれた。
 僕の親は家族をすごく大事にしている人たちだった。   だから僕も将来は家族を大切にできる男になりたい。

 ただ学年が上がるにつれ、徐々に家族で出かける頻度は減っていった。
 小学3年生から僕は野球を始めたのだ。これは、今の時点で僕が人生で1番長い間続けたコンテンツだ。
 僕が入ったのは地元の少年野球チーム。父親の影響もあり昔から野球は大好きだった。
 そこの監督は、いわゆる「鬼監督」だった。
 比喩表現とかじゃなく、本当に鬼がグラウンドにいるんだと思った。とにかく怖かった。普段は優しくてとにかく「面白い」監督だった。子供ながらに、トークが
上手い監督だなぁ、なんて思っていた。
 そんな監督は、怒ると本当に火を噴いていた。だからグラウンドが雨でビショビショになっても、監督が火を噴いてグラウンドを乾かしてしまった。
 練習もエゲツないくらい厳しかった。今考えたら、
よくあんな練習3年間も耐えたと思う。1回、夏休みに
練習に行きたくなさすぎて、「学校の畑の水やり当番が
あります」と嘘ついてサボったことがある。そんなわけあるかって話だが

 僕の一つ上の先輩達がもの凄く強かった。札幌で2位までいったり、地区大会はしょっちゅう優勝していた。
 そんな先輩たちと一緒にいる時はすごく楽しかった。

でも、先輩たちが卒業して僕の代になった瞬間に僕は
得も言われぬプレッシャーに襲われた。
 厳しい練習のおかげで、僕の代の同級生が全員辞めていたのだ。僕は気づいたら6年生1人になっていた。
 必然的にキャプテンになっていた僕は、年下の小学生たちをまとめるのに悪戦苦闘した。僕には統率力がなさすぎた。
 僕はエースで4番でキャプテン。どこの主人公だよ。試合には小3が4人も出てる状況。はっきり言って弱小。先輩たちが強すぎただけに、落ち幅がデカすぎた。それでも、まず最初に公式戦で1勝することをチーム目標に頑張った。そしたら、意外にあっさり春先に接戦を制し勝利してしまった。ウチのチームは、チーム目標を達成すると祝勝会をするチームだったので、みんなでスタミナ太郎に行った。どこの世界に1勝して祝勝会あげる
チームがあるんだよ。
 その後は、新たに公式戦2勝をチーム目標にした。
そしたらまた、あっさり2勝してしまった。また祝勝会に行った。何回祝杯あげるんだよ。海賊かよ。

 監督は僕にピッチングを教えてくれた。おかげで、
小学生の頃は球速やコントロールは上達し、相手チームに褒められることもあった。僕が初めて、練習の成果を実感した瞬間だった。逆にここが僕自身の野球人生の
全盛期だったのかもしれない。
 同地区の各チームから6年生から1〜2人選手が選ばれて札幌市の別の地区と戦う少年野球のオールスター戦があったのだが、1人しかいない僕は当然選ばれた。
 僕のチームは有望選手が多く、僕は何もしていないのに決勝まで勝ち進んだ。そして僕は決勝の先発投手と
してマウンドに上がってしまった。
 しかし、味方の守備が凄かったというのもあり、僕は3回を見事ノーヒット無失点に抑えたのだ。そして見事チームはサヨナラ勝ちでオールスター優勝を果たした。
一応、3回を無失点に抑えたんだぞという顔をしながら歓喜の輪の中に入った。でなけりゃあんなタレント揃いの中にアホ面メガネ出っ歯が紛れ込んでいるのはどう
見ても違和感があった。とりあえず、少年野球で初めて充実していると感じた瞬間だった。


 学校生活の話もしておこう。友達は小学生の時はそこそこ多い方だった。
 4年生の時、お年玉で初めてDSを買った。嬉しかった。今まで友達がDSの話をしていたら急に静かになり指をくわえながら聞いていた。指はしょっぱいから、
なるべくくわえたくはなかったのだ。
 当時小学校で流行りすぎていたポケモンや、定番の
マリオ、僕が愛してやまないパワプロ 、あと持っていたのはONE PIECEのギガントバトル。一時期は中毒とも言えるくらいDSにハマっていた。
 僕は完全なる「DS世代」だったので、学校終わりに
みんなで約束してポケモンをやることも頻繁にあった。
 あとは僕が小学生の時に流行ったものといえば逃走中だった。毎週のように近所の公園でかなりの大所帯で
逃走中を行い、気づいたら半分くらい勝手に家に帰っていた。勝手に逃走して勝手に家に帰るという、意味の
わからない奴がたくさんいたのだ。
 小学生というものは何故あんなに元気なんだろうか。
僕も小学生の頃は今の何倍も元気だった。昼休みは友達とドッジボールや"かたき"をして遊び、放課後は自転車で近所を走り回り公園を駆け抜け友達の家でゲームを
する。これが僕ら世代の小学生の典型的な日常だった。今の小学生はどうなんだろうか。案外変わっていないのだろうか。小学生というのは、1番何も考えずに純粋に楽しめた時代だった気がする。

 小学校は行事の記憶も著しい。
 僕はいわゆる「社会科見学」と呼ばれる類のものが
大好物だった。逆に、何故あんなにも楽しいものを
めんどくさがる奴がいるのか理解出来なかった。
 授業もしなくていい、弁当が食べれる、バスに乗れる、遠くの場所に行ける、自由時間がある、、小学生のテンションが上がるオプションが付きまくりなのに。
 なので、3年生の時に風邪をひいてラーメン工場の 見学に行けなくなった時は相当落ち込んだ。事後学習でクラスのみんながラーメン工場での感想を発表していく中で1人だけ、「日本で1番最初にラーメンを食べたのは
水戸黄門なんです」というネットで調べたことを発表
しているだけの自分が情けなかった。
 校外学習と言えば中でも記憶に残っているのが動物園と青少年科学館だ。もうご褒美以外のなんでもない。
学校は勉強するところなのに、こんな休日にお父さんが連れて来てくれるような場所に来ていいものなのかと、小学生ながらに不安を覚えたほどだった。

 行事と言えば、高学年になると宿泊研修や修学旅行
といった行事界の帝王が現れた。何気に、小学生の頃の修学旅行や宿泊研修が1番思い出に残っている。
 小、中、高の修学旅行の写真を見返したとき、僕が
1番無邪気に笑っているのは小学生の写真だ。

 そして小学校を支える二大行事は、やはり運動会と
学芸会だろう。こいつらは親が見に来るというブーストまであるので、迂闊にはしてられない行事だった。
 僕は何故か昔から、こういう学校行事ものの雰囲気が大好きであり、毎年楽しみだった。かと言って大活躍
するわけでもないのだが。なんだろうか。あのいつもと違う空気の中、みんなでワイワイするのが好きだったんだろうか。
 ただ、僕は5年生の時の学芸会で一度だけ主役を務めたことがあった。主役と言っていいのかなあれは。
 5年生のとき、ミュージックステーションのパロディと称した、劇と演奏の兼ね合いのようなことをしたの
だが、そのときにたまたま受けたオーディションで僕は見事にタモリさんの役に受かってしまったのだ。
 昔から、何か人と違う変なことをしたいという感性があったためダメ元で受けたタモリさんが、まさかの合格という形になってしまったのだ。
 親や周りからの評判は良かった。僕が人生で初めて
主役をやった瞬間だった。ちなみに僕は人生で、もう
一度主役を演じる時が来るのだが、この時は知る由も
なかった。
 そして6年生の時の学芸会でも僕は脇役ながら名演技を披露した。もしかしたら僕が1番演技が上手かったのは小学生の頃かもしれない。

 ちなみに僕は小学生のうちに2回引っ越しをしている。しかし1回も校区外には引っ越さなかったので転校はしなかった。
 6年生の時にようやくマイホームが立ち、あれから
10年近く住んだ。だから公式的にはあの家が僕の実家になるだろう。夏になると家中に蟻が大量発生するのが
本当に嫌だったが、他人事になった今では良い思い出である。

 少年野球最後の試合、僕はあっけなく負けた。最後の打席はセカンドフライだった。ヒットエンドランの筈がアホみたいな内野フライを打ってしまった。最終回で
主人公があっけなく死んだ。
 涙は出なかった。正直、ホッとしたんだと思う。このキツい環境でキャプテンという呪縛からやっと解放される…小学生の僕にはこれくらいしか考える余裕はなかったのかもしれない。

 そして僕はこの時期あたりから本格的にプロ野球に
ハマり出した。本格的にハマり出した年に、我が北海道日本ハムファイターズは見事リーグ優勝を果たした。
最後の冬休みの自由研究が、2012年のプロ野球の全試合結果と選手成績を手書きでまとめるという、小学校生活の集大成を飾る超大作だった。

 そして、僕は小学校を卒業した。人並みに楽しんで、
人並みにNHKでがんこちゃんを見た小学校生活だった。

中学時代

 思い返してみると、僕が少し「変な人」だと思われ
始めたのは中学生の頃からかもしれない。
 当時は自分では自覚なかったが、今思えば確かに僕は変な人だった。

 中学では野球部に入部したが、入ってすぐに髪が長いと言われた。普通ならそこでバリカンで坊主にすれば
済む話なのだが僕は何を血迷ったのか、授業中にハサミで自分の髪を切り、先生の目を盗んでその髪の毛を窓
から捨てていた。隣の席が、たまたま小学校の頃から
仲の良かった女友達だったので「アンタ何やってんの」で済んだが、隣がもし接点のない女子だったらきっと
警察を呼ばれてたんじゃないかと思う。
 次の日、僕は無事父親にバリカンで坊主にしてもらうことができた。僕が髪の毛を捨てた窓の外に行ってみると、真っ黒な塊が落ちていた。まさに黒歴史だ。

 そして僕は中学に入り勉強をしなくなった。
 自慢ではないが、小学生の頃は勉強は決してできない方ではなかった。成績もそこそこだった。何故中学に
入って勉強をしなくなったか。言い訳と隣り合わせの
理由が2つある。
 1つは、これも完全なる血迷いなのだが、「勉強できない奴の方がカッコいい」という恐ろしい程お門違いな思考になってしまったのだ。バカすぎる。中学の頃に
タイムスリップして自分に言いたい。その思考は迷惑系YouTuberくらい間違っていると。
 そしてもう一つの言い訳は、中学のとき好きになった子が勉強のできない子だったからだ。
 僕は昔から「自分の好きな人と同じことをしたい。
自分の好きな人と同じスペックでいたい」という独特な思想があった。つまり、「自分の好きな子が勉強できない人だから、自分も勉強のできない人間になりたい」という信じられないポリシーを持っていたのだ。

 中学1年生のクラスは、アホみたいに楽しいクラス
だった記憶がある。面白い奴やイイ奴も多かった上に、小学校の頃から仲が1番良かったRやTもいた。中学になっても、このRやT達と連むことが多かった。僕の家で録画したお笑い番組をいつも皆んなで見ていた。今考えたら、あれは入場料を搾取してもいいくらい僕の家が溜まり場になってた。その度に母親に「こんな散らかってる家に友達呼ぶんじゃないよ」と怒られていた。俺が呼んでると言うよりむしろ俺の方があいつらに呼ばれていたのだが。みんな家も近かったもんで、毎日のように
近所の公園でくっちゃべっていた。
 ただ、そんなことを言っているが何よりも1番楽しかった理由は、正直前述した好きな子が同じクラスだったからだ。人間は自分の好きな子と同じクラスになると
授業中に発言する回数が増えるということがわかった。
 ちなみに、この子とはなんと一時期両思いだったことがあり、クラス替えで別々のクラスになった後にまさかの数ヶ月間だけ付き合ったことがあった。人生で初めての彼女とやらだった。
 ところが、僕は当時あまりにも恥ずかしがり屋の
ナヨナヨ小心者だったので、付き合ってるとは名ばかりの数ヶ月で1回一緒に帰っただけ、しかもその時にした会話は「なんで野球部ってボウズなの?」と、聞かれたのに対して「俺もわからない」と言っただけという
常識では考えられないくらいつまらない会話で終わってしまった。数ヶ月後、僕はその子にフラれた。普通、
人間は何か嫌なことをしてフラれるのだが、僕はまさかの「何もしなさすぎてフラれる」という結果になった。
僕は昔からこういう男だ。男らしさのカケラもない。

 中学では相変わらず野球とも付き合い続けた。同級生は3人。僕とMとK。これでも小学生の頃に1人だった身
からしたらありがたかった。
 中学でも先輩の代が桁違いに強かった。そして、
一個下の代も強かった。そのおかげで僕の代もある程度試合になるくらいには戦えた。

 ただ、自分の野球に対する姿勢はこの頃あたりから
徐々に薄れていったのかもしれない。
 周りに凄い先輩や後輩が多くて、自分に対して卑屈になることが増えた。そして何より、考えて野球をやっていなかった。才能がないのを言い訳に努力もまともに
していない最低な人間だった。
 まさに、「MAJOR」で茂野吾郎様が海堂高校時代、
寺門に対して放った「本当に才能がないと言えるだけの努力はしたのかよ」という目から鱗の名言を彷彿とさせる状態だったのだ。

 でも、僕は中学の野球部の練習、体育の授業で自分の新たな得意分野に気付くことができた。
 僕は、長距離走が得意だった。
 意外に思われるかもしれないが、野球部で長距離を
走るトレーニングがあっても毎回トップを争う位置にいた。僕の中学の野球部では毎年、学校の外周を50周するという脳液が沸騰してないと思いつかないような過酷な
イベントが年末にあったのだが、それも僕は2年連続
上位でクリアした。2年生時は1位だった。
 それが引き金になったのか、一時期は短距離も速く
なったことがあった。クラスでもそこそこ上の方にまでなった。クラスの委員長に「お前、顔は鈍臭いのに足は
速いよな」と言われたことがあった。後期からそいつは委員長の座を降りた。

 ある日、何気なく見ていたTVに一組のアイドルグループが映っていた。アイドルに全く興味が無かった僕が、初めて好感を抱いたグループだった。
 僕がももいろクローバーZに惹かれた瞬間だった。
 あの日から今日まで、僕は生粋のももクロファンだ。
そして、このももクロというグループは後に僕の人生を左右する存在にまでなる。

 中学生の時にも、僕が今芸人をやっている原点はあっただろうかと探したら、あった。バリバリにあった。
むしろこれが引き金だろというくらいのものがあった。
 僕の中学の野球部では毎年、卒業する3年生を送る会が行われ、その演目の一つとして下級生がお笑いを披露する場があった。もちろん、お笑いと言っても自分たちでネタを考えるというよりは、みんな芸人の既存のネタをそのまま練習するといった感じだ。そりゃそうだろ。
 僕は、キャプテンだったMと2人で漫才をやることに
なった。当然、芸人の既存ネタ。その当時ハマっていたパンクブーブーさんの「隣人」というネタを若干アレンジを加えつつMと披露した。
 これがなかなかに手応えあった。
 もちろんプロが考えたネタなんだから、そりゃ面白くて当たり前なのだが、僕は完全にここで漫才の魅力に
気づいてしまったのだ。なんなら野球より熱心に漫才の練習をしていたかもしれない。

 ここで味を占めた僕は、もう一度Mと漫才をすることになる。
 3年生になって修学旅行があったのだが、今度はその
修学旅行の学年レクの出し物で学年全員の前で漫才を
することになったのだ。これがまた爆ウケ。なんなら
今のところ人生で1番笑いをとった日かもしれない。
ただ、取り分で言えば8割がパンクブーブーさんの取った笑いである。
 ちなみに、修学旅行ではこの前日の学級レクでも別の友達とサンドウィッチマンさんのハンバーガー屋のネタをやってクラスの爆笑を掻っ攫った。他人のネタで二夜も爆笑を取り、上機嫌で修学旅行を終えたのだ。
 実は、この僕の修学旅行漫才計画は裏でとある人の
アドバイスを受けながら進行していったものだった。
国語の担当だったU先生という女の先生だ。僕とMの
所属していた学年協議会の担当でもあり、僕等の漫才を見ていろいろ助言してくれた。
 この人は本当に変な人だった。何を考えているかわからない、感情があるかわからない、なのにキレッキレのワードセンスと知識で生徒を翻弄してくる。AI大喜利みたいな先生だった。一度このU先生がサラッと結婚してると発言したとき、クラス全員が本気で驚きすぎて数分時が止まり、そのせいで授業が時間内に終わらなかったことがあった。それくらい変な人だった。
 しかしこのU先生は、僕が人生で出会った人の中で
5本の指に入る面白い人(芸人以外で)の1人だった。

 3年生の夏に近づくにつれ、最後の中体連が迫ってきた。僕は外野手のレギュラーだった。ビヨンドをぶんぶん振り回していた時代が懐かしい。
 中体連目前の練習試合で、顧問のI先生から突然言われた。「駿介、お前ピッチャーで投げれる準備しておけ」

 実は、僕は中学時代ピッチャーをずっとやっていなかった。小学生時代あれほど精力を注いだのに。
 顧問のI先生は、大学時代ドラフト候補まで昇りつめたくらい、野球エリートだった。体格もデカく、身長は
テニスコートの柵を越えていた気がする。そんなプロの世界も見据えたことのあるI先生に、僕は「投げ方が変」という理由でピッチャーをやらせてもらえてなかったのだ。
 そんな、僕のことを「投げ方が変」とピッチャー生命を断ち切ったI先生に、ピッチャーの準備をしとけと言われ、どういう風の吹き回しだと僕は疑ったが、理由は
大会前だから練習試合で少しでもピッチャー陣を温存させたいからという、もっともな理由だった。
 とにかく、棚ぼたで再びマウンドに上がる権利を与えられた僕は、ウキウキで練習中にプルペンで投げていた。
 そして僕は3回ほど練習試合で登板し、全試合無失点に抑えるというモイネロ並の投球を披露したのだ。
 ピッチャー相川駿介が復活した瞬間だった。

 最後の大会、中体連当日になった。僕はライトで
スタメンだった。序盤からチャンスはあったが、なかなか点が入らない。そんな中、相手に点を入れられはじめ、3点差ビハインドで最終回まできてしまった。
 投げていたのは後輩のエース。最終回になり、I先生はマウンドに僕を送った。今思えば、I先生は試合に負ける可能性が高いことを察し、最後に花を持たせるために僕にピッチャーをやらせてくれたんじゃないかと思う。
 結果は、僕は相手を0点に抑え、最終回の攻撃を迎えた。
 ワンナウトで、キャプテンだったMが僕の一つ前に
代打で出た。Mはセンター前にヒットを放ち、出塁した。全員が盛り上がった。控えのキャプテンが最終回に代打で出てヒット。盛り上がらないわけがない。
 そして僕に打席が周ってきた。少し涙が出てきた。
涙目のままバットを振り抜くと、打球は三遊間を破る
レフト前ヒット。最後の大会で3年生の連続ヒット。
これも当然盛り上がる。1.2塁になった。
 しかし残念ながら、後続は打ち取られてあっけなく
試合終了。1回戦敗退で終わってしまった。
 中学最後の打席はレフト前ヒットだった。ちなみに、中学初打席の結果もレフト前ヒットだった。何かの巡り合わせだろうか。 
 試合後はめちゃくちゃ泣いた。後輩も皆んな泣いて
くれていた。試合後、I先生に労いの言葉をもらった。
僕はいつもI先生に怒られてばかりだったので、それを
思うと余計泣けてきた。
 ひとまず、僕の中学野球は終わった。

 野球部を引退して、一気に進路に対する意識が芽生え始めた。高校受験に向けて頑張らなければいけない。
僕は親が「お受験」っていうタイプの親ではなかったので、受験というイベント自体が人生初めてのことだった。
 残念ながら、僕は学力が特別良い方ではなかったので行けそうな高校が限られていた。地元にはA高校という高校があり、僕の中学では1番行く人が多かった。
 正直、偏差値はかなり低く、行き場の無くなった人が妥協で入る高校だと思ってた。友達はA高校に行く奴が多かったが、僕はA高校に行くのだけはプライドが許さなかった。
 同地区の高校を調べ、自宅から距離は遠くなるが僕のスペックにちょうどいい高校を見つけた。その高校こそ僕が入学する高校だった。入学した後、民度に関してはA高校とさほど変わらないことを悟ったのだが。

 高校受験に向け、僕はこれまた人生初めての塾に通いはじめ、勉強をした。
 ただ正直今だから言えるが、実際には塾に行かなくても僕の当時の学力ではその高校に入るのには余裕だった。自分でしっかり勉強すれば楽々合格ラインだった。
 だが、受験に向けて学年のほとんどの人が塾に行き始め、自分も行かなくてはいけないのではないかという
完全に周りに流されたのもあり、親に塾に行くことを
懇願してしまったのだ。お金もバカにならないので親には申し訳ないことをしたと思ったが、おかげで苦手だった数学と英語を強化できたのと、美人塾長のTさんの
笑顔を毎日見れたのが功績だった。

 この頃から、僕はLINEをやり始めた。父に買ってもらったiPodにLINEのアプリを入れ、毎日クラスメイトと
LINEをした。今となっては何がそんなに楽しかったのかがわからないが、LINEを始め立ての中学生ほど幸せな
人間はいないだろう。特に僕の中学時代はタイムラインが流行っており、大人になってから考えるとゾッとするくらいつまらないタイムライン指名リレーみたいなヤツをみんなでやっていた。人間はあれをやってる時期が
人生で1番つまらない人間と化す時期である。

 受験を控えてはいたが、僕の周りは比較的アンパイな高校を受験する友達が多かったためか、毎週のように
遊んでいた。特に僕は一時期バスケにハマったことがあり、毎日体育館で友達とバスケで遊んでいたこともあった。ドラえもんやサザエさんの世界をバカにできないくらい、近所の空き地でみんなで野球をやるのにハマった時期もあった。男子はいつの時代もなんだかんだで汗をかく遊びが好きなのだ。

 中学は秋に三大行事があった。球技大会、学校祭、
合唱コンクールだ。小学生の頃からの行事好きもあり、僕はこの学校行事ラッシュの時期を毎年楽しみにしていた。意外にもこういう学校のイベントごとには精力を注ぐタイプの人間だった。
 1年生時のクラスでは球技大会で優勝し、2年生時は
合唱コンクールで金賞をとった。学校祭も存分に楽しんでいたので、3年生の行事でも何か思い出ができるだろうとワクワクしていた。
 ところが3年生時の学校祭で僕は、脳の奥深くまで
トラウマを植え付けられることになる。
 3年生は学校祭で、クラスごとにステージ発表をする
ことになっていた。そのステージ発表も、何かのテーマに沿ったものをやる決まりになっていた。
 ウチのクラスも何をやるか協議が始まり、最終的に
「世界の果てまでイッテQのパロディで、世界遺産を
テーマにした劇」をやることになる。脚本、監督は
クラスでもリーダー格の女子たちがやることに。
 僕はキャスティングでデヴィ夫人に選ばれた。仲の
良かったTが出川さんの役だったし、ウケもとりやすいのでなんとかなるだろうと思っていた。そしてこの考えが当日地獄を招くことになる。
 冷静に考えてみてほしいが、たかだか中学生が考え、たかだか中学生が演じるイッテQのパロディ劇。悲惨なことになるのは決まっているはずだ。
 当日、僕らは全てのクラスの中でもダントツで滑り
倒し、しかも僕(デヴィ夫人)がカツラがとれるという
下りが他の組ともろ被ってしまい、ヤケになった僕が
「○組と被ってるじゃないのよ!」と、大変下手くそな
女口調で叫ぶと、更に会場が凍りついた。
 今後、どれだけ芸人として滑っても、あの滑りを越すことはないと思うのでそこは安心している。 

 その後も、最後の合唱コンクールは2年連続の賞とはならなかった。あの時はみんな誰のせいでもないよと
励まし合ったが、よく考えてみれば僕のゴリ滑り夫人の呪いのせいではないかと思っている。

 何はともあれ、僕の中学校生活は順調に進んでいった。そして卒業が近づいたある時期に、僕にほんのり
甘い青春が訪れた。
 小学生の頃から仲の良かった女友達がいたのだが、
その子と一緒に帰ることが増えた。その子は弟が僕と
同じ少年野球チームだったこともあり仲が良く、小学生の頃からお互い良い雰囲気だった。 
 その子こそ、中1の時に僕が窓から髪を捨てていると
「アンタ何やってんの」と声をかけてきた子だ。ここでまさかの伏線回収タイムを挟んでみた。
 中学に入り、僕に好きな子ができてからその子とは
なんとなく疎遠になっていた。僕は男としての能力が
低すぎる上に抜群に女心のわからない最低な人間なのだ。しかし、その子はそんな僕のことをずっと気にかけてくれていた。僕もようやくその気持ちに気付き、中学卒業までの短い期間ではあったが何度か一緒に帰った。その子は高校から道外に行った。あれっきり連絡はとっていない。

 高校受験が無事に終わり、あとは卒業を残すのみと
なった。中学はなんだかんだ楽しかったので、僕は卒業するのが嫌だった。
 卒業式では、ファンキー加藤モンキーベイビーズの
「ありがとう」を卒業生合唱で歌った。
この曲は本当に思い入れが深い曲であり、卒業ソングといえば?という質問に対して僕は毎回この曲を思い浮かべる。この曲を思い浮かべながら「3月9日です」と、
置きに行った回答をする。
 相方のたくまはファンモンが好きなので、この頃から何か縁があったのかもしれない。ない可能性もある。

 卒業式の次の日、高校の合格発表があった。
 僕は無事に合格していた。絶対落ちない自信はあったが、それでも発表の直前は緊張するものだ。
 母親に合格を知らせる電話を入れたとき、僕が冒頭に冗談で「落ちたよ」と言ったときの母親のこの世の終わりのような嘆きは一生忘れられない。冗談の通じない
タイプの人間である母親には申し訳ないことをした。

 高校というのは、何かわからないがワクワク感はあった。大抵、ドラマや漫画の舞台になるのは高校だ。
 そんな高校生に、ついに僕もなるのかというワクワクで溢れていた。いったいどんな青春が待っているんだろうかと期待していた。
 しかし、現実はそんなに甘いものではなかった。

高校時代

 普通であれば、人間は高校時代が青春の真っ只中だろう。でも僕は、驚くほど高校時代に青い思い出がない。
 彼女どころか、好きな子すら3年間で一度も出来なかった。
 高2の頃は、休み時間が楽しくなさすぎて1人でトイレでパワプロをやっていた時期もあった。

 高校でも、当たり前の如く野球部に入部した。
 同級生は、途中で辞めた奴もいたから最終的に僕も
合わせて7人。これでも、僕の野球部人生ではダントツで1番同級生の数は多かった。
 相変わらず自分の才能のないことを言い訳に大した努力もせず流れるように野球をやっていたが、それでも
この野球部で過ごした時間は今思えば楽しいものだった。なんだかんだ、中学高校時代の友達で今でも会っているのは高校の野球部の同級生くらいだ。
 M、O、H、K、H、T。なかなかバラエティに富んだメンバーだった。
 もちろん、なんだコイツと思うこともあった。だけど僕は、高校時代は野球部に入っていなかったら本当に
友達が1人も出来なかったと思う。
 先輩や後輩にも恵まれていた。だから2年生のとき、
先輩が最後の大会で負けて引退したときは本当に泣いた。よくアニメやドラマや映画であるやつ、あれその
ものの泣き方してた。H先輩という、筋肉マッチョの
先輩が僕の肩を叩き「頑張れよ」と言ってくれたときは涙が止まらなかった。やはり筋肉は裏切らない。

 高校時代の思い出は7割くらいは野球部の記憶だ。 
 生真面目だった顧問のY先生の車からエロ本が大量に出てきたこと、犬猿の仲だったMとOが雪山から飛び
降りて2人揃って雪に埋まったこと、顧問のY先生が
練習試合で会場を間違えて隣のマンションに入って行ったこと、秋の大会で僕がライト前ヒットを打ったとき
油断しすぎてライトゴロになりそうだったこと、顧問のY先生が学祭でバイキンマンのコスプレしてきた翌日に練習で「お前らいつまでも学祭気分じゃダメだぞ」って言った次の瞬間コケたこと、Hが顧問のY先生のiPadを
漁ったらエロ画像がたくさん出てきたこと、僕がKの
お弁当袋の中にカタツムリの殻を入れたら昼休みKの
お弁当袋の中でカタツムリがウンコをしてたこと、、、
 他にもいろいろあってキリがないので、いつか野球部での珍事録をまとめた書籍でも出そうかと思っている。

 僕の通っていた高校は少し特殊な立地になっていた。
山の上にある学校で、自転車で通っていた生徒たちは
行きは坂道をずっと登っていかなければならなかった。そのかわりに帰りは1回もペダルを漕がないで帰った奴がいるくらい下り斜面の楽さが露骨に出ていた。
 山に学校があるので敷地が棚田方式になっており、
野球部とサッカー部のグラウンドは校舎よりも上にあり、テニスコートにいたってはそこから更にその上に
君の名はの最後のシーンみたいな階段を登っていき、
ポケモンのひでんわざがないと入っていけないくらいの秘境地にあるという奇妙な出立ちをした学校だった。
 野外の運動部は、練習場に登っていくだけで準備運動になっていた。

 近くには全国でも有名な心霊スポットや墓地があり、夜になると辺りも真っ暗になるので部活で遅くなった時は本当に薄気味悪かった。
 そのせいか、遅刻カンニング盗難チャリパンクなんて日常茶飯事、毎日誰かは先生に呼び出され、毎日どこかから誰かの奇声が聞こえ、何人かの生徒のジャージに
何者かのおしっこがかかってたり、女子の後ろで陰部を
出して写真を撮って停学になったり頭のおかしい生徒が山ほどいた。おそらくあいつらは霊に取り憑かれていたんだろう。

 高校の頃僕は、よく言う「陰キャと陽キャ」ってやつのどちらにも属していなかったと思う。中立というか、人畜無害キャラに徹していたので良い意味でも悪い意味でも人から興味を持たれないタイプの人間だった。
 1、2年生の頃は陰キャ寄りの中立だった。おそらく、仲の良かった友達にそういう人が多かったのもある。
 そんな中、1、2年生の頃に担任だったM先生だけは僕のことを毎回イジってくれた。お気に入りだったんだと思う。多分。僕もM先生にイジられるのは好きだった。
 あの人は僕が人生で出会った5本の指に入る面白い人
の1人だった。

 高校生の頃、我が北海道日本ハムファイターズが悲願の日本一に輝いた。大谷を筆頭に、あの頃の日本ハムは本当に戦力が揃っていた。日本シリーズでの、西川の
サヨナラ満塁ホームランは今でも忘れない。

 2年生の冬頃から、僕の中でうっすらと、将来芸人に
なるという選択肢がチラつくようになった。その時は
進路も全く決まっておらず、進路希望調査に適当に父の通っていた大学名と、それから第二希望にこれまた適当にNSCと書いた。 
 僕は高校1年の頃から、授業中にノートに暇つぶしでネタを書いていた。最初は遊び感覚だったが、段々と
この自分で書いたネタを「やってみたい」という感情も沸いてくるようになった。だが、あくまでも選択肢の
一つに過ぎず、どうせ自分はなんとなくどこかの大学に行くんだろう、みたいな気持ちでいた。
 そんなふうになんとなく生きていたら、高校2年生が終わりを告げた。人生で1番思い出のないクラスだった。

 僕の行っていた学校では毎年クラス替えがあった。
なので当然3年生になってもクラス替えがあり、新学期になると玄関にクラス表が張り出される。野球部の皆でクラス表を見に行った。
 ガッツポーズをした。
 シンプルに知ってる人や仲の良い人が多かったのだ。野球部は僕も含めて4人固まるという先生側のミスともとれるオーダーだった。
 1年生の頃から仲の良かった親友もいた。とにかく、相性の良い人が多いクラスだった。
   1、2年生では正直クラスにはハマらなかった僕に、
2年間我慢した代償として女神が降臨してくれたのだ。
 高校1、2年の記憶はあまり残っていないが、3年生になってからは一気に毎日が楽しくなっていった。

 野球部は他の部活に比べると比較的最後の大会の時期が遅い方で、最後の大会で夏の甲子園に繋がる大会がある。ただ、僕のいた学校みたいな弱小高校が甲子園にいくことはまずない。それでも最後の大会なだけあって、流石の僕らでも大会直前には相当気合いが入っていた。普段バッティングが嫌いで守備練習ばかりしていたTが打撃練習をしていたのは驚いた。

 大会当日になった。相手は練習試合で一度対戦した事のある学校。だからといって試合前に敵チームのエースとトイレで会って「俺は絶対に負けねえ」みたいな漫画のような展開はなく、淡々と試合はスタートした。
 スタンド席を見ると、学校の友達が何人も応援しに
来てくれていた。スタンド席を休み時間の教室みたいに使っている集団がいたのですぐ気づいた。後で聞いたらみんなでお菓子パーティーしてたらしい。
 僕はレフトだった。打球は2回ほど飛んできたが、
捕球するだけでスタンドの同級生応援団がいちいち盛り上がってくれた。人から応援されるのは気持ちがいい。
 僕は最終回が近くなると代打を出された。僕の代打で出たのは僕が野球部でおそらく一緒にいることが1番
多かったK。弁当袋でカタツムリがうんこしてた奴だ。
 Kが打った打球はライトの前に落ちそうな勢いで飛んでいった。ヒットを確信した瞬間、会場がどよめいた。相手のライトがダイビングキャッチしたのだ。その瞬間僕が一塁コーチャーボックスで頭を抱えて天を仰いでいる動画が、後に出回る。
 結局、最後は6-4で敗退した。僕の約9年間の野球人生はここで終わったのだ。最後の打席は送りバントだった。
 球場から出た瞬間、僕の代のみんなはやっと終わったと言わんばかりの解放感で笑顔に満ち溢れていた。多分最後の試合で負けてあんなにヘラヘラしてる野球部は
後にも先にもいないと思う。
 ただ僕は、涙が止まらなかった。単純に、いかなる
ものでも最後となると悲しくなるものだ。周りからは
「何泣いてんだよ笑」の弄りをウケる。試合終了後に
関してだけなら、僕が誰よりも高校球児だった。

 野球部を引退してからは、一気に肩の荷が降りた感覚があった。ずっと部活に時間を費やしていたので、野球という自分の中でのコンプレックスが剥がれ、自由の身になった気がした。
 実際、僕の人生はこの時期あたりから専門学校卒業
あたりまでの約3年間ほどで、楽しさのピークを迎えている。

 まず、部活を引退してすぐに学校祭があった。僕は
クラスのステージ発表に出ることになっていた。3年生なのでどこのクラスもステージ発表には力を入れていた。クラスが楽しかったので、僕は何の気負いもなく
みんなに合わせて楽しんでいた。
 そしてもう一つ。学祭には希望する人たちだけが出る有志発表のステージがあったのだが、その有志発表で、野球部のメンバーでももクロを踊ることになった。むしろ僕はこっちの方が楽しみなまであったが、練習や準備の段階で1.2年生の頃の学祭とは比べ物にならないくらい楽しかった。
 学祭当日は、有志発表の野球部ももクロダンスはその日1番の盛り上がりと言っても過言ではないくらい学校中が熱狂し、クラスのステージ発表に至っては全校1位になるという、これ以上ないシナリオが完成したのだ。
ちなみに、僕の親友がベースを弾いていた有志バンドは盛り上がりすぎて、3年生の男子が全員で体育館にサークルを作りイナズマロックフェス状態になり先生に怒られるという現象が起きた。
 こうして、高校生活最後の学祭はちゃっかり思い出に残ってしまったのだ。学祭の花火を女の子と一緒に見るという高校生最大の妄想は残念ながら妄想のままで終わってしまったが、ようやく思い出らしい思い出ができたのだった。

 その後も、体育祭で僕はサッカーに出ることになったのだが、右サイドバックに抜擢され練習を重ねた。僕は意外にもサッカーが少し出来た。経験者からしたらクソ下手なんだろうけど、サッカー部の友達に体育祭の
レギュラーとして使ってもらえるくらいには出来たというだけだ。なんなら野球より才能あったかもしれない。あの時期は毎週のようにみんなで集まってサッカーをしていた。野球部の練習では不真面目だったTが、何故かサッカーで熱くなっているのがすごく面白かった。
 ウチのクラスは野球部が4人いたが、キーパーにH、
サイドバックに僕とKが入り、鉄壁のディフェンス陣を
築いていた。
 体育祭当日は残念ながら予選で負けてしまったが、
僕のクラスは野球部勢の脅威のディフェンス陣の活躍もあり、唯一失点が0という結果だった。ならなんで予選で負けたんだよって話だけど。

 ようやく、漫画やドラマでよく見る高校時代の青春に近い青春が訪れていた。だが、あのクラスじゃなかったら僕は楽しくなかったと思う。もともと根暗だった僕があそこまで高校生活を楽しめたのは、神様の手違いとも言えるくらい偶然できたクラスに滑り込めたからだろう。とにかく、あのクラスでは毎日皆んなで何かバカをやっていた。ときにはコンプライアンスギリギリを責めた笑いもあったが、高校生のうちにあれくらいバカは
やっておくべきだ。大人になってからはあんなバカな事は簡単にはできない。
 高校3年生の時の僕はきっと、相方のたくまが1番嫌いなタイプの人間のグループにいたかもしれない。

 もう一つ、僕の青春を築いてくれた存在があった。
中学時代に知った、ももいろクローバーZの存在だ。
 周りからしたらただのアイドルファンの出っ歯に見えるだけだと思うが、僕にとってはこの世間からももクロと呼ばれる生命体の存在はとても寛大なものだった。
 ここまであまりももクロの話題には触れてこなかったので、この辺で一気にまとめたいと思う。

 ももクロを好きになった理由は、何か好感の湧く人達だったから。もともとアイドルに興味の無かった僕は、気づけば「ももクロ」という媒体が好きになっていた。
 ももクロの魅力に関しては、語り出すと朝日新聞10部分くらいの量の文字になってしまうので、今後機会があれば何かの形で語り尽くしたいとは思う。とりあえず、僕は今後あの人たちを超えるグループには絶対出会わないと思う。それくらい凄い。
 とにかく、僕はももクロが好きだった。高校に上がるとそのももクロ愛は一層増し、ファンクラブにも入るようになった。グッズにまで手を出すようになり、家族にもバレ始めた。親にエロ本が見つかったことはないが、ももクロの本は何冊も見つかったことがある。
 そんな中、僕が高校2年生の時、ももクロの緑担当
だった有安杏果さんがグループを卒業し、4人で活動していくというニュースが入ってきた。
 本当にショックだった。どれだけ泣いたかわからない。たかだかアイドルの卒業で、こんなに泣くのかと
自分でも引いた。ももクロ宛にその時の心情を手紙に
書いてスターダストプロモーションに初めてファンレターを送った。後日、住所が間違っていてファンレターが返ってきた。
 僕が好きになったのは5人のももクロだったが、結局僕は5人のももクロのライブには行けなかった。 
 ただ、ももクロは4人になってから死に物狂いで頑張って、グループを存続してくれた。僕は一生この人たちのグッズを買い続けようと決心した。

 そしてついに、部活も引退しバイトも初めたというのもあり、念願の初ももクロライブに行くことになったのだ。高3の夏、ZOZOマリンスタジアムでのライブだった。
 僕はそのライブで、とんでもない光景を見たのだ。
 僕はこの景色を見るためにももクロのファンを続けてきたのだと思った。この世の全てのエネルギーがあの
ライブ会場に詰まっている気がした。発電できるレベルのエネルギーがあった。
 自然と大量の涙が溢れてきた。あの空間は、世界の
どんなパワースポットよりも神秘的だった。
 ももクロのライブについても、語り出すと讀賣新聞
20部くらいの文量になってしまうので、いつか著書でも出版してやろうと思う。

 この初めてのライブ参戦の余韻は、帰ってきてもなかなか抜けないものだった。僕のももクロ愛は、薄れる
どころか破裂寸前まで膨れ上がっていた。 
 ももクロのライブ映像をDVDやYouTubeで何回も見た。ももクロの出ているTVは全て録画した。ももクロの能力は凄まじい。次第に僕は、この人たちが活躍する姿を見て、あるエモーションが沸いてきた。 
 「自分の好きな人と同じことをしたい」、僕のこの
ポリシーが動き出したのだ。自分もこんなふうに、人前に立ち何かを表現できる人間になりたい。ただ、自分はアイドルになるには何かが足りない。何かはわからないけど。とにかく何かをしたい。
 その考えが、僕の芸人になりたいという気持ちにトドメの一手を打ってきたのだ。
 気づいたら僕は札幌でお笑いを学べる唯一の専門学校の願書を書いていた。前々から目をつけていた学校ではあった。一時期は大学に行く選択肢も考えていたが、
中途半端な気持ちで大学に行くよりも、芸人になるという信念を貫こうと決心したのだ。

 11月頃、僕は専門学校に願書を送り、後日ちゃっかり
合格通知が来た。面接官をビンタでもしない限り不合格にはならないんじゃないかと思うくらい、何の努力も
せずに合格してしまった。友達はほとんど大学受験の為に猛勉強している奴ばっかりだったので、妙な背徳感があったが、ひとまず進路が決まったので安心した。

 その後の高校生活も僕の青春を主に支えてくれたのはももクロだった。僕は部活を引退してから、人生初の
アルバイトを始めた。自宅の近くの某弁当屋さん。その弁当屋さんは残念ながら高校生を23時まで働かせる
BLACK企業であり、人もあまり好きではなかったので廃棄の唐揚げだけ大量に貰って3ヶ月で辞めた。
 その後も派遣会社に入り、札幌市内で本当にいろいろな仕事をした。そのおかげで僕は貯金が増え、ももクロのライブに行ったりグッズを買ったりする資金に当てることができた。
 12月には、僕の影響でももクロを好きになった友達
2人と一緒に埼玉までライブ遠征をした。年が明けて、
2月に横浜に、4月には富山にまで飛んで行った。富山なんて今後行くことが果たしてあるだろうか。
 それくらい、あの時期の僕にとってももクロは生きがいだったのだ。だが勘違いしないで欲しい。僕はあくまで「ももクロオタク」であり、「アイドルオタク」ではないのだ。

 高校を卒業する直前から、僕は地元のスーパーでレジのバイトを始めた。結果的にこのバイトが今のところ
僕の人生で1番長く続けたバイトだ。2年間続けたので
高校卒業前から専門学校卒業前までの期間、ずっとこのバイトをしていた。いろいろイザコザもあったが、思い入れも深いバイト先だ。

 いつの間にか、高校生活が終わろうとしていた。
 なんだかんだで、最後の1年は思い出で溢れていた。
結局、最後まで甘酸っぱい青春は来なかったが、僕は
僕なりの脂っこい青春を味わえたと思う。
 最後まで楽しいクラスだったが、卒業すること自体はそこまで寂しくなかった。むしろ、早く自分のやりたいことをしたいという気持ちの方が強かったかもしれない。担任の先生が生徒一人ひとりに直筆の色紙を渡してくれた時は流石にウルっときてUruが流れたけど。
 これから自分は芸人を目指すんだという、未知の世界への楽しみと不安を抱えながら高校を卒業していった。
 この時はまだ、専門学校での毎日を想像することは
出来なかった。


少女時代

Gee Gee Gee Gee Baby Baby Baby
Gee Gee Gee Gee Baby Baby Baby

専門学校時代

 専門学校での2年間は、今までの人生でダントツで
1番楽しかった。これからもこの2年間を超えるキャリアはなかなか出てこないんじゃないだろうか。
 それくらい、僕にとって専門学校時代は青春だった。
 高校時代に獲得出来なかった分の青春ポイントをここでしっかり稼ぐことが出来た。

 4月に専門学校に入り、初めて同期の仲間たちの顔を拝むことができた。「絶対コイツ、高校時代友達いな
かっただろ」と思ってしまうような、胡散臭い奴らが
たくさん座っていた。
 しかし、結果的にこの胡散臭かった奴らが皮肉にも
僕の青春時代を共に過ごした仲間になる。

 相方のたくまもこの時に会った。胡散臭かった。
際立って胡散臭かった。初めて話しかけたときにギロリと睨みつけられた時の恐怖は今でも覚えている。
 会って2日目くらいのとき、たくまが急に「俺は来年にはM-1の決勝に立ってるつもりだ」と、いきなり豪語してきた。怖かったけど、少なくとも本気でお笑いをやろうとしているんだなというのは伝わってきた。
 試しにお互い高校時代に書いたネタ帳を交換し、お互いのネタを読んだ。
 第一印象が怖くて尖ってるヤツだったから、一体どんなネタなんだろう、見たことないようなネタを作ってるんじゃないかと思いながら読んだ。
 ほぼサンドウィッチマンのマネみたいなネタだった。
 僕のネタを読んだたくまは、次の日から僕に対しての態度が変わり、キャビンアテンダントくらい満面の笑みで僕に接してくれるようになった。
 その日、初めて2人で飯を食いに行った。札幌駅に
あるトンカツ屋さんだった。お笑いについて2人で語り合った。たくまがトンカツを食べる時の咀嚼音はCM
くらいキレイだった。

 これが、ポケットコロッケの誕生秘話である。その
トンカツ屋さんは明日からポケットコロッケファンが
たくさん押し掛けるだろうね。

 こうして無事、とりあえずコンビを組むことができた
僕は、専門学校生活がスタートした。
 その専門学校は、主に芸能関係やエンターテイメント関係の仕事を目指す人が通う学校だった。
 僕たち芸人コースは、俳優や声優といった、役者系のコースの生徒と一緒に授業を受けることがほとんどだった。そのおかげで、同期の友達のほとんどは役者軍団
だった。

 学校での授業はほとんどが演技関係だった。お笑いの授業は週に3回くらい。想像してた授業内容との差に、
僕は入る学校を間違えたと思い、隣に建ってた専門学校と間違えてるんだと思った。
 隣はパティシエの専門学校だった。
 流石に間違えたわけではないかと思い、演技の授業を受けた。お笑いにも演技力は必要だ。頑張ろう。。。

 僕は人生初の渾身の演技を披露した。ふと同期たちの顔を見ると、黒目がなくなっていた。
 僕の演技力は相当酷いものだった。他の同期たちも
最初は素人に毛が生えたような演技だったが、僕の演技は毛すら生えてなかった。未だに演技は苦手だ。毛が
全く生えてこない。僕は演技の永久脱毛をしてしまったみたいだ。 
 一方で、相方のたくまは割と器用なタイプなので、
最初から演技がそこそこできた。素人に毛が生え、更にその毛が他の人よりも濃かった。実際にあいつは体毛がビックフットくらい濃い。

 専門学校は、変な人が多かった。まあ、芸能関係を
目指す人なんて変な人ばっかりかと思い、特に気には
ならなかった。むしろ、自分も今まで変な人扱いをされてきたから自然と仲間意識が湧いた。人生で初めて、
お互い何も気にせず自分の好きなことや将来の夢を語り合える仲間ができたのだ。変な人っていうのは、案外
良い奴が多い。だから世の皆様は、是非とも身の回りの変な人と一緒にご飯に行ってみてほしい。
 僕はこうして、専門学校で新しい出会いが増えた。 
 専門学校に入学する前までは豆電球くらいの明るさ
だった僕の性格は、専門学校で過ごしていくうちに
室蘭の工場夜景くらいにまで明るくなった。函館の夜景レベルには達さなかった。

 最初コンビ名をどうしようか悩んでいたとき、たくま発案の「烏天狗」と僕発案の「白雪」で討論していた。
 どっちも鼻が詰まるくらいダサいコンビ名だったが、当時は気づかずに結局「烏天狗」に決まった。
 そのコンビ名を、当時お笑いの授業を受けていた僕等の恩師の1人でもあるS先生に言ったら即却下された。
 そしてその授業の中で俳優科の先輩たちから僕等の
コンビ名を募集し、多数決で決まったコンビ名こそが
「ポケットコロッケ」だ。当初はものすごく嫌だったが今では大のお気に入りのコンビ名だ。烏天狗よりかは
何倍もマシだ。
 ちなみに、僕等は気づいたらコンビを組んでいた身
だったので、コンビ結成日をいつにしようか話したことがあった。区切りよく、「ポケットコロッケ」という
コンビ名に決まった日にしようということになり、そのコンビ名に決まった日がいつだったかを遡った。
 5月17日だった。
 僕が愛してやまない、ももいろクローバーZの結成日と偶然にも同じ日だった。なんて奇遇なんだろうと思った。僕にとってはコンビ結成日もお気に入りだ。

 ポケットコロッケの初舞台は、1年生時の学校祭だった。たくまが高校時代に書いたネタにアレンジを加えた「出待ち」というネタだった。ポケットコロッケがまだコンビ揃ってネタを書いていた時代だ。
 結果は、まあまあのウケだった。今考えたらあれも
なかなかの素人育毛レベルだったが、当時の自分たちはあれで「俺たちは出来てる」と勘違いしていたのかも
しれない。
 おまけに翌月のM-1グランプリ札幌1回戦をうっかり通過してしまったものだから、知らないうちに天狗に
なっていたのかもしれない。せっかく烏天狗から脱却
したのに。

 肩書きは芸人コースだったが、専門学校では2人揃って舞台に出ることが多かった。ほぼ、俳優コースと一緒だった。
 そして恐ろしい事に、僕は専門学校で舞台や演劇の
面白さにも気づいてしまったのだ。ああ恐ろしい。

 そして事件は起きる。
 僕の通っていた専門学校は毎年、骨髄移植をテーマにした膨大なミュージカルを行っていた。
 何年も続いている歴史のあるミュージカルであり、
全国にある同系列の姉妹校を含め、毎年何千人という
生徒がそのミュージカルに関わる。
 僕の学校も当然そのミュージカルをやることになり、
ほぼ役者扱いだった芸人コースの僕も一応オーディションを受けることになった。
 大阪から来た、脚本演出のT先生という方がオーディションを見てキャストを決めていき、キャストを順番に位置に座らせていった。

 気づいたら僕は主人公の位置に座っていた。
 あまりに突然だったので僕は何が起きているのか分からず、しばらく鼻歌を歌っていた。鼻歌のCメロの時にようやく事の重大さに気づき、身体が凍結した。
 演技の永久脱毛をしてる男が、伝統ある舞台の主役をすることになってしまった……。ヤフコメだったら相当叩かれていただろう。

 本番までの期間、演技はもちろん、普段は触れるはずのないダンスまで、猛特訓が続いた。
 演出のT先生は凄く厳しい人だった。理不尽なこともしばしばあった。その理不尽さたる故、生徒の中には
T先生のことを良く思っていない人もたくさんいた。
 ただ僕からしてみれば、確かにT先生は生徒から反発を食らってもおかしくないようなやり方をしていたが、誰よりも演劇を愛しているように見えた。そして自分の信念を貫き通していた。そして僕が何よりT先生の凄いところだと思っていたのが、「トーク力」だった。
 面白い面白くないは別にして、T先生は関西人なだけあってトークがもの凄く上手かった。芸人としては勉強になる。そしてあの人は単純な演技の上手い下手では
なく、その人の見た目や素質、人間力でキャスティングや演出をしていた。僕がそれまでに全く気にしてなかった、エンタメで1番重要とも言える見え方の部分を大事にしている人だった。
 主役ということもあり、この舞台の期間で僕は学校での知名度が随分上がった。自分の知らない人から話しかけられることもあった。誕生日に話したことない人からカロリーメイトを貰ったこともあった。圧倒的に、違う学科の生徒や先生とも話せるようになった。いつしか
自分の殻が破れ、永久脱毛していたはずの演技もやっと少しずつ毛が生え始めてきたのだ。
 誰からも興味を持たれずにいた高校時代の自分がタイムスリップして僕に会いに来た時はめちゃくちゃビックリしていた。

 そのミュージカルは、無事に2日間の公演を終えた。
自分が何百人もの人間の中心に立っているあの光景は
今でも忘れられない。間違いなく僕の人生の中で分岐点になった出来事の一つだった。

 その後も着々と演劇の舞台を重ねていった。その一方で、久々にお笑いライブがあった。そうか、俺はお笑いがやりたくてこの学校に入ったのか、と我に返った。
 「笑いの階段」という、僕が札幌でお笑いをやってた3年間は毎年お世話になっていたライブだ。
 そのライブで、札幌の先輩芸人のブレイカーズさんに出会った。ブレイカーズさんは、札幌時代にいろいろとお世話にになった先輩だ。
 もともと、たくまがツッコミの伊藤さんと親交が深くなり可愛がってもらっていた。僕も一度伊藤さんの家にご飯に呼んでいただいたり何度かお話できる機会があったが、本当に良い人だった。笑いの階段のリハーサルでは、たくまが伊藤さんに煽られて生ケツを出してはしゃいでいた。その後の笑いの階段はスベった。ケツは出したが結果は出せなかったのだ。

 年末には、専門学校が主催する、全道の高校を公演して周る舞台のチームにも加入した。完全に自分を追い込むためだった。今思えば、このチームに入ったメリットデメリットは両方あったが、僕の中での経験値の一つになったことには間違いない。
 年明けには卒業進級制作の舞台があり、そのコメディの舞台で僕はまた主人公を演じることになった。更に、その1週間後にはポケットコロッケの初めての学校内
単独ライブも開催し、まさに順風満帆に全てが進んでいると思っていた。

 その矢先に、「ヤツ」が現れた、
 名前は忘れたが、「新型コロナウイルス」と名乗っていた気がする。とにかく、「ヤツ」のせいで一気に青春に狂いが生じ始めたのだ。
 僕等が2年生になったタイミングと同時に、「ヤツ」は猛威を振るいだした。調子に乗って猛威なんて振るうなよと思った。
 なので、2年生になってしばらくはリモートでの授業だった。芸人や役者の授業がオールリモートというよくわからない状況だったが、我慢を続けた。
 僕はこの期間を無駄にしないため、自動車学校の門を叩き、約2ヶ月程でちゃっかり免許を取った。本免試験まであと少しの日に教官に「相川さんは、免許取っても絶対に事故起こすと思いますよぉ」と半笑いで言われたのは今でも忘れない。これでもまだ無事故無違反だ。
あの教官は今すぐ俺に謝ってほしい。

 6月頃から、ようやく通常通りに学校での授業が開始した。気づけば学校の学生サロンにはパーテーションが置かれ、全員がマスクを付けて授業という、今では当たり前になってしまったが当時はなかなかに異様な光景が学校に広がっていた。あの光景を異常だと思えなくなることが本当に異常なことだとは思うが。
 ただ、授業自体は思っていたよりも案外いつも通りだった。相方とは3mの距離をとって漫才をしろとか言われるのかと思っていたが、お笑いも演技も特に変わったことはなかった。「ヤツ」も次第にそこまで気にされなくなり、2ヶ月ほどしたらほとんど前までの感覚に戻っていた。

 僕等が2年生になったということは、必然的に新入生と呼ばれる方々もぞろぞろ入ってくる。ある日、いつも通り学生サロンに行ったら、見知らぬ少年少女たちが
うじゃうじゃ湧き倒していた時の恐怖は、人間なら誰もが毎年学生時代に経験していることだろう。
 ただ、先輩になるというのは悪い気分ではない。後輩が良い子たちだったら存分に可愛がってあげよう、クソみたいな子たちだったら焼きそばパン買いにパシらせようという計画は立てていた。後輩はみんな良い子だったので、俺が焼きそばパンを食べることはなかった。

 7月頃には前述した全道の高校を周る舞台で、念願のキャストデビューを果たした。念願の内容がもはやただの役者だが、いずれにせよ舞台に立つというのは気持ちがいいものだ。
 その1週間後に、ポケットコロッケ2回目の学校内単独ライブを開催し、会場は同期や後輩で満席になった。
身内だけの前でライブをやればウケるウケる。その日、トリでやった「プロポーズ」のネタは、未だに僕等の
歴代のネタの中でもダントツで1番ウケた。身内パワーというものがどれだけ凄いかを実感した。
 ありがたいことに、ポケットコロッケは2人とも後輩から慕われていた。優しくて面白い先輩ということだ。

 この年、M-1グランプリ札幌予選に出場し、前年の
ように1回戦通過は出来なかった。しかし、この年の
札幌予選でポケットコロッケはナイスアマチュア賞を
いただき、嬉しいことにM-1の公式サイトにネタ動画が載ったのだ。これを機に、ほんの僅かではあるが全国にポケットコロッケの名が公開された。しばらくの間、
僕らはこのナイスアマチュア賞受賞を理由に札幌中を
顔パスできた。

 夏休み明け、一時は中止も危ぶまれた学校祭が開催
された。完全オンラインでの開催だったが、何もない
よりは断然良かった。
 その学校祭でやった演劇の舞台ら、僕が専門学校時代に出た舞台の中でも特に好きな話だった。脚本演出は、僕らが専門学校で演技の授業でお世話になっていた
A先生。僕らは舞台になると毎回チームに分かれて舞台をやっていたので、意外にも同期の俳優陣全員でやる初めての舞台だった。僕は肝試しに来て呪われた少年と、交通事故で死んで天国から彼女に手紙を読む男という、美味しい役ではあるが全く笑わせどころのない役をこなした。本当に芸人をクビになった気分だった。
 なので、学祭のお笑いステージでは同期の1人と一緒にトムブラウンさんのナカジマックスのネタを完璧に
コピーして大暴れしてやった。

 この時期は、専門学校の同期と毎週のようにご飯に
行っていた。あの外食ラッシュがなければ、今頃僕は
自分専用のWindows11のPCを購入できるお金があったと思う。それくらい浪費が凄かった。
 でも、あの同期と一緒に飲みに行ったりたわいもない話から真剣な話までを交わしたあの時間こそ、僕の青春をコーディネートする上で欠かせないアイテムだった。札幌で一度だけ、ビックリするくらいシンプルに料理が美味しくなかった居酒屋に当たったのも今では良い思い出である。ちなみに、僕らが学生時代に1番の御用達
だった店があり、すすきのにある「ハム○ツ神社」と
いうお店である。安い美味い時間制限なしの三拍子揃った居酒屋だ。学生時代バカみたいに行っていた。お店の
店員さんにもバカだと思われていた。札幌にいる人は、機会があれば是非行ってみてほしい。

 この年は「ヤツ」の影響もあり、前年僕が主役を務めた舞台が中止になった。正直残念な気持ちとホッとした気持ちは6:4くらいだった。あの大変な期間が今年も
あるのは嫌だが、本番のあのステージ上から見る景色はまた味わいたいものだと思っていた。
 ただ代わりに、公演予定だった会場を借りて舞台の
オンライン配信が行われた。ここまで来たら僕らはもう舞台役者を目指した方がいい気もするが、あくまで僕らは芸人だ。あのデカい舞台でポケットコロッケの単独
ライブでも開催してやろうかと企んでいたが、流石に
出来なかった。
 その1週間後には、前年と同様に笑いの階段があった。この笑いの階段というライブ、芸人以外の俳優科の生徒も出演するのだが、正直そうなると学生のお遊び
集団コント祭りみたいになってしまうのは否めない。
この回の僕はポケットコロッケのネタと集団コントを
合わせて6本のネタに出演するというハードスケジュールだったが、なんとか乗り越えた。終わった後の打ち上げの酒は美味かった。やはり自分は、お笑いをやってるときが1番イキイキしてることがわかった。

 怒涛の舞台ラッシュが終わり、専門学校生活も終盤に突入してくる。残す大きな行事は年明けにある卒業公演のみになった。
 この時期に、僕が趣味というか、卒業前に同期でできればいいなと思っていた舞台の脚本が完成した。
 実は、僕はこの専門学校での2年間で、自分は脚本を書くのが大好物だということに気づいた。
 きっかけは、1年生の頃にあった台本制作という授業なのだが、この授業の担当だったA先生や周りからの
評判がなかなかに良く、正直自分で書いた台本を見返しては惚れ惚れして余韻に耽るという気色の悪い性質も
あった。特に1年生最後の台本制作の授業で書いた
「ホームラン」という話があるのだが、この時の台本制作の授業は、全員でしりとりをして出てきた単語を適当に6個選びその単語を台本中に全て入れなければいけないという決まりがあった。しかし僕はそんな鬼畜ルールのもと行われた授業で、見事に過去最高傑作(自称)との呼び声高い話を作ったのだ。授業後、A先生のコメントを見ると「多くは語りません。殿堂入りです」の一言。
尊敬するA先生からのこのコメントがどれだけ嬉しかったことか。その台本は今でもショーケースに入れて保管している。いつ怪盗キッドに狙われてもおかしくない。
 たくまやお笑いの講師の先生にも、「駿介は芸人よりも作家が向いてる」と真顔で言われるほどだ。お笑いのネタを作っているときも、構成や発想を重視している点はある。小学生の頃にかいけつゾロリを読み込んだ効果が出ているのかもしれない。

 そんな中、僕が初めて書いた舞台の脚本は、同期の
みんなにはかなり好評だった。自分でも気に入っていた。結局、この脚本はいろいろあって同期のみんなでは出来なかったが、卒業前に後輩と同期の出演できる人に声をかけ、完全な自己満足ではあるが1本の舞台として動画に残してある。

 そんな僕は、卒業公演の脚本も担当することになってしまった。きっかけはいろいろあったのだが、卒業公演に関しては同期みんなの専門学校での優秀の美を飾る
作品になるので、絶大なプレッシャーがのしかかった。
 同期の1人が原案を出してくれた。その原案に沿って、僕は冬休み中に脚本を書いた。
 毎年恒例、年末年始に積丹のおばあちゃんの家に行ったときもパソコンと共に年を越した。ゆく年くる年で
名前もわからないリポーターが喋る中、僕は脚本を書いていた。
 そうして、一つの脚本が出来上がった。僕が出せる
精力を全て注いだ作品になった。これはかなりの傑作ができたと内心思っていた。 
 これもかなりの好評だった。脚ログがあったら僕は
星5つ貰っているのではないだろうか。
 卒業公演に向けて稽古が始まった。だが、専門学校
最後の舞台ということもあり、少しピリピリした雰囲気が出てき始めた。僕は最後の舞台で自分の脚本ということだったのでみんなで気持ち良く終わりたいと思っていたが、頭お花畑の僕にはわからないギクシャクした世界があった。そんな中、僕は「ヤツ」の濃厚接触者になってしまい、2週間稽古に出られない期間があった。ちなみに、この僕が濃厚接触者になったのと同時に、たくまも全く同じ期間に濃厚接触者になるという、気持ち悪いコンビ愛をみんなに披露してしまった。たくまはそれをニヤニヤしながらみんなに説明していた。
 卒業公演は、収録したものを後日配信するという形になった。なんだかんだで、僕が書いた脚本を同期みんなでやれているということに感動していた。僕の信頼していた同期なので、僕の思い描いていた通りの舞台をみんなが演じてくれた。そしてラストのオチ。このラストの大どんでん返しが綺麗に決まった。そしてこれと同時に2年間の専門学校での課程は終わった。

 後日、配信を見た。知り合いや家族、親戚も配信を
見てくれた。「俺が書いた脚本なんだぜぇ」という
枕言葉を必ず添えた。
 カメラワークなどで少し思っていたのと違う部分は
あったが、予想以上の出来だった。
 見てくれた人たちからも評判が良かった。普段ほとんど褒めてくれない知り合いが、面白いと言ってくれた。手前味噌だが、けっこう面白い。面白くないと思う人もいると思うが、僕は自分で凄く好きな話だ。自分で書いた脚本というのは我が子のように可愛いものだ。この
卒業公演は何故か未だにYouTubeにアーカイブが残っている。今でもたまに我が子を可愛いがっている。

 卒業式の前に、ポケットコロッケは卒業前最後の校内ライブを行った。一応、専門学校のポケットコロッケとしての集大成ライブだった。ネタ数も今までで1番多かった。同期や後輩がたくさん見に来てくれた。何人かの同期と後輩はライブのスタッフとして手伝ってくれた。そのライブを通して1番ウケたのが、ネタの幕間に同期のRが翼をくださいを突然歌い出すという、前日に考えた時間稼ぎの箸休めタイムだった。やはり身内ネタの
パワーは凄まじい。

 卒業直前、僕らは後輩にサプライズを仕掛けたり、
逆にサプライズされたりの、サプライズラリー期間が
あった。その度にみんなアホみたいに泣く。ウチの専門学校では毎年恒例なのだ。僕も先輩にサプライズされたときはアホみたいにないた。後輩からのサプライズは
アホみたいには泣かなかったが、デブみたいに泣いた。

 こうして僕は、無事に専門学校を卒業した。あんこ
たっぷりのたい焼きみたいな2年間だった。
 とにかく、人との出会いは豊作だった。
 専門学校では、僕が人生で出会った5本の指に入る
面白い人が2人もいた。同期のKと、一つ上の先輩Yさんだ。2人とも頭が良く、瞬時に予想しない言葉が返ってくる人で、尚且つ2人ともとびきり変な人だった。
 もしかしたら僕の中での面白い人の最低条件というのは、どこか常識から外れた部分を持ってる変態である事なのかもしれない。
 そして専門学校時代に、僕を今でも支えてくれている人との出会いもあった。
 もちろん相方のたくまとも出会っている。出会って
いなかったら、今頃お笑いの道は目指していない可能性もなくはない。すなわち、この専門学校での2年間が
なければ、僕は全く違う人生を歩んでいたかもしれないのだ。
 高校時代までは人から興味を持たれることすらなかった僕だったが、この専門学校に入り、僕の言ったことで笑ってくれる人たち、僕の考えたネタで笑ってくれる人たち、時間を忘れて話し合える人たち、僕の知らない
ところで僕を知ってくれていた人たち、そして僕のことを認めてくれる人たちがたくさんいて、それがすごく
嬉しかったのだ。
 きっと僕は、承認欲求が物凄く強いんだと思う。だから僕は、自分のネタや脚本や演技が褒められたり、人を笑わせれた時がとてつもなく気持ち良かったのだ。
 本当に高校時代までの自分に教えてあげたかった。
お前はやれば意外とできるやつなんだと

 ただ、世間はそんなに甘くはないということは、百も承知だった。

フリー時代


 専門学校を卒業した直後は、何も進路が決まっていなかった。3ヶ月くらい北海道にいて、夏頃になんとなく
上京していろんな事務所のオーディションでも受けようかと考えてた。

 専門学校時代がどれだけ環境に恵まれていたかを実感した時期だった。大人に甘えていたので、学校という
規定のある場所から解放された瞬間、一気に何をしたらいいのかが分からなくなった。

 とりあえず、コールセンターでの仕事を始めた。
 とにかく業務内容の難しいコールセンターだった。
ただ、職場の熟年女性の皆様が丁寧に仕事を教えてくださった。コールセンターという場所は熟年女性が比較的多いんだということを知った。
 その熟年女性たっぷりの職場は2ヶ月の契約だった。

 上京を先延ばしにしていた僕は、とりあえず次の職場もコールセンターにしようと思い、派遣会社から紹介された札幌にあるコールセンターで働くことになった。
 このコールセンターが大当たりだった。
 まず、電話が極端に少ないので暇な時間でネタを考えたり自分の時間に当てられるといった、芸人目線から
見て恵まれていた。仕事内容も難しくない。そして時給も普通に良い。仕事場が駅にも近い。夕方には勤務終了なので夜にライブをすることの多い札幌芸人にとっても都合が良い。
 極めつけは、その職場は人がとにかく良い人ばっかりだった。熟年女性も当然たくさんいた。
 僕は昔から熟女から可愛いがられる傾向にあり、その職場でも熟女たちが僕を可愛いがってくれた。
 僕の話し相手になってくれる兄さん姉さんもいた。
とにかく僕にとって、すごく居心地の良い職場だったのだ。

 この頃あたりから、僕はNSCに行こうかと考え始めた。理由はいろいろあって、だ。
 たくまに話すと、意外とすんなり受け入れてくれた。
前までは吉本には行かないような旨の発言をしていたのだ。こういうのは案外言ってみるものだ。

 夏頃から、僕等は札幌のフリー芸人として少しずつ
活動をするようになった。
 まずは7月にフリーになって初めての単独ライブを
行った。個人的には出来はあまり良くなかった。新ネタの本数も少なく、なんとなく消化不良に終わってしまった。ただこのライブで、あの有名な僕の代表的キャラクターの「ピッピ」が誕生した。ピッピの功績がデカい。

 たくまが人脈を作ってくれたおかげで、出れるライブが増えていった。 
 中でも札幌の先輩芸人である、やすと横澤さん主催のライブ「やすと横澤さんとみんな」には毎月出演させていただいていた。学校以外で、初めて自分たちのことを知らない人もたくさんいる会場でのライブだった。
 やすと横澤さんとみんなのお客さんはとても温かく、僕らも初出演の時から気持ちよくネタができた。
 札幌のライブに出始めたことで、知り合いの芸人が
たくさんできた。とりあえず原田というポケットコロッケの公式ライバルもできた。
 もともと札幌のお笑い事情に関してはほとんど何も
知らなかったが、周りの先輩札幌芸人さんと関わって
いろいろなことを知ることが出来た。

 そしてこの頃から、やっとポケットコロッケの漫才の方向性も少しずつ固まってきた。一時は2人で正座してお互いをビンタする漫才とかをやってたので、これは
僕等にとって大きな進歩だった。東京で受けたM-1の
1回戦で見事に惨敗したのも相乗していたのか、漫才をちゃんと研究するようになった。やっとかよって話だが。
 11月頃には、専門学校の先輩でありマセキ芸能社所属の高田ぽる子さんの主催ライブに出させていただくことになり、東京に来た。初めての東京のライブで収穫があり、専門学校の先輩と繋がることもできた。美味いラーメン屋も教えてもらった。500円でライブも見れた。
たくま曰く「初めて東京に行って嫌な気持ちにならないで帰れた」らしい。確かにそうだ。今まではオーディションでボロクソ言われたりM-1で負けたりと、東京では良い思い出がなかったから。その日の夜はいつもより
高いつまみを買った。

 その後も札幌のいろいろなライブやラジオに出させていただいたり、主催ライブや単独ライブも行った。
 そんな僕らが出るライブに、毎回のように来てくださるファンの方もできた。嬉しかった。
 だが、ポケットコロッケのライブはおろか、専門学校時代の舞台からほぼ全て皆勤賞で見に来てくれた人達がいた。僕の両親だ。
 専門学校時代から、ウチの親は僕のライブにほとんど皆勤賞で来てくれた。ありがたい。普通なら芸人をやるなんて言ったら反対されてもおかしくないぐらいだが、ウチの親は僕をずっと応援してくれている。ありがたい。ありがたい。ウチの親にとって僕の出演するライブはもはや冠婚葬祭扱いなのだ。

 そんな僕の親は、夏頃に久々に家族でキャンプに連れて行ってくれた。道東の方にある、相川家御用達の湖のほとりにあるキャンプ場だ。旅行がてら、家族で飲み食いしながら自然の中優雅に過ごした。相川家はこう見えて家族の仲は良い。兄弟も順々に独り立ちしていくものなので、もしかしたらあれが家族で行った最後の旅行になるかもしれないが、時間とお金と人権があればいつかまた家族で出かけたいとは思っている。楽しかった。


 たった1年だったが、僕はこの札幌でお笑いをしていた期間がすごく思い出に残っている。
 ライブ会場でよく使ったBLOCHやSpace Art Studioまで行く道のりの光景、札幌の街並みが頭に浮かぶ。
そういう些細なものが、何よりも記憶に残っていたりするものだ。
 いつの間にか、僕が北海道で過ごせる時間は残り少なくなっていった。

 3月に、札幌でのポケットコロッケ最後のライブとして、半単独ライブを行った。そのライブの最後にやった「健康診断」のネタは、個人的にポケットコロッケの
ネタの中でも屈指の傑作だと勝手に自負している。
ただ、動画を撮ったつもりがライブ序盤で容量切れに
なってしまったため、幻のネタになっている。
 ひとまず、ポケットコロッケの北海道での活動はここで終わった。たくまは4日後、僕より一足先に東京に
旅立っていった。たくまが去った後、僕は一度ピンで
「やすと横澤さんとみんな」に出演し、大爆笑を掻っ攫った。自分の記憶では。

 僕は10ヶ月働いた職場のコールセンターを、3月いっぱいで辞めた。僕が今まで働いた職場の中で1番の職場だった。いや、も、もちろんどのバイト先も素晴らし職場だった。
 最後は僕の推しだったOさんからの直筆メッセージの書いてある手帳のプレゼントという特典まで付いてきたのにはビックリした。
 北海道最後の仕事先があの職場で本当に良かった。

 そして気づいた時には、僕の北海道ライフは残り1日になっていた。

上京

北海道最後の日は、僕が今までお世話になった学校や地元のスポットなんかをレンタカードライブで回った。
 どんくりで買ったアップルパイの削りカスを車内に
ボロボロ溢してしまった。ごめん、レンタカー屋さん。

 地元を周ってみて感じたことがある。
 何か特別な出来事や場所というよりは、普段何の気
なしに歩いていた道や、毎日のように入った地元のセイコーマート、毎日使った駅、そして実家、いつも当たり前に僕の生活に与えられていた場所の方が、自分の頭に擦り込まれているんだなということ。
 だから僕はそういう場所に行き、「ありがとう」と
「行ってきます」と言ってきた。周りの知らない人から
したら、誰もいないのに1人で感謝の言葉とお出かけの挨拶をしてるヤバい奴だと思われていただろう。

 実はこう見えて、上京が近づくにつれ何回も泣いた。僕は意外とこういう別れ系に弱い。卒業式の直前とかも人知れず泣いてたタイプ。で、本番泣かないタイプ。
 21年いた所から離れるんだぞ。少しくらい泣かせろ。
実は僕が上京した時、両親も諸用があって東京に来ていた。2日間くらいは、両親や大学入学で上京してきた弟と一緒に過ごしていた。
 そして、両親が北海道に帰るとき、つまり21年一緒に過ごした親と離れるときがやってきた。
 弟の家の前で解散することになった。雨の中両親と
会話を交わし、そのまま帰ろうとした。
 父親は僕に笑顔で頑張ってとだけ伝え、弟と一緒に
帰った。父親は僕に似てそういう人だ。ちなみに、僕が人生で出会った5本の指に入る面白い人、残りの1人は
父親だ。1番身近にいた面白人間だった。
 そして母親は僕を最後まで見送ってくれた。僕はできるだけ平静でいようと、いつも通り出かける感覚で乗り切ろうとした。
 ふと後ろを振り返った。母親は僕が見えなくなるまで
ずっと傘をさしながら僕を見守っていた。
その瞬間、泣かずにはいられなかった。親の前で泣くのは避けてきたので、精一杯母親にはバレないように涙を我慢していたつもりだが、母親が完全に見えなくなった時、耐えていた涙腺の取り壊しが始まった。雨が降ってたからバレてないと思う。雨グッジョブ。
 今もあの光景を思い出すだけで涙がちょちょ切れる。
ウチの母親は最後の最後に息子にとんでもない後遺症を植え付けてきたのだ。あれは流石にセコい。卑怯だ。
 やはり家族というのは原稿用紙が何枚あっても書き表すことのできない存在なんだと思う。

 家族や地元の知り合いから離れるのも勿論寂しいのだが、やっぱりずっと過ごしてきた北海道という場所から離れるということに1番の不安がある。「東京の水は
マズい」とか言って脅してくる奴いっぱいいるし。

 僕が芸人として一人前になって1番叶えたい夢は、
北海道で冠番組を持つこと。賞レース優勝だとか他にもいろいろ目標はあるけど、1番はやっぱりこれ。
 理由は単純。北海道に何回も帰ってこれる口実になるから。あとは毎年北海道で単独ライブできるようにまでなれたらいいな。
 簡単な目標ではないけど、頑張る以外の選択肢がないから、頑張るしかない。

 こんなに長い文章を書けたということは、僕の人生はここまででもじゅうぶん濃かったんだろう。いつかこのnoteに100万文字くらいの文章を残せるくらい、この先の人生が濃くなってほしい。1人の芸人として、1人の
道産子として、1人の人間として。 



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