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倶楽部サピオセクシャル日記110:わたしたちはなぜ他人の幸せが嫌いなのか?今夜は自分の中の「いけずちゃん」と向き合ってみる ※追記あり


いろいろあって炎上したルームのまとめを書くことにする。「神回」との声もあり、評価はまさにさまざま。燃える中でぼくが確認したのは自らの「いけず力」だったかもしれない。


千々に乱れる――いや、有り体に言うと、「やれやれ」という疲弊と諦めのカクテルを傾けつつ、イラッとクスッとしている感じなのだが、文章にするとどうなるのか。

◆他人の幸せは別に嫌いではない

今回のテーマを思いついたのは、しばしば話題になる「意地悪な日本人」について語ってみたかったからである。社会学の教授が実施したある実験では、自分の利益が減っても他者の利益を減らそうとする日本人の性質が明らかになったという。

アメリカ人と比較すると、明らかに日本人の方が意地悪傾向が強かったそうだ。実際、他者の幸福をうらやみ、足を引っ張る民族性が国際競争力を引き下げている、との分析もあり、同調圧力を好む人たちは誰か1人が突出して幸福になることを抜け駆けとして許さないようだ。

ぼく自身は他人の幸せが嫌いではない。誤解のないよう、書き添えておくと、別に聖人君子だからではない。嫉妬は「欲しいものを持っている同族」に対して抱く感情だという。子どものころから集団に馴染まず、長じた後もフリーランスとして働いていることからぼくには嫉妬の対象となる「同族」がほとんどいないのだ。

一方、相方のつよぽんさんは嫉妬の名人である。そのことがときにうらやましく思える。「欲しいものを持っている同族」が彼にはたくさんいるのだ。ある意味、それは幸福を構成する要素の一つだろう。
この短い文章において矛盾が生じるのは本意ではないが、ぼくは彼には嫉妬しているかもしれない。

◆『聖なるZOO』が盛大に炎上

さて、今回の本ネタに触れる。テーマとは関係のない話が広がるのは『倶楽部サピオセクシャル』の常だが、今回はそこに火がついた。話の流れから『聖なるZOO(濱野ちひろ著・集英社)』を話題にした方がいたのだ。

開高健ノンフィクション賞をとったルポルタージュである。ぼくも読んだが、書き手の偏りがテーマと見事に結合した名著だと思う。ただし、テーマは人のタブー意識を直撃する「動物性愛」というものなのだ。

別の方がそのことに噛みついた。「なぜ、そんな話題を持ち出すのですか?」という問いから延々数時間、ルームに火がついた。噛みついた方の「なぜ」は明らかに修辞的疑問であった。「動物とのセックスを話題にするなんて、あなたはド変態である」という非難を疑問文の形にしたわけだ。

ただ、疑問には答えを返すことになる。必然的に書籍の内容を話す流れになり、さらにその方が「動物性愛」という言葉に激高するというカオスが生じた。文脈を読まず、言葉に対して発作的な脊髄反射を起こすのは、知性からかなり遠い振る舞いであろう。

詳細は省くが、もっとも大きな謎だったのは、その時点におけるルームが自分にとって嫌な話をしている場であるとしたら、なぜ、退出しなかったのか、という点である。ぼくが感情を露わにする彼女から読み取ったのは「価値観における同調圧力」であった。

タブーの共有を強いるきわめて非社会的な振る舞いであり、ぼくとしては当然、受け入れがたいので「嫌なら落ちてね」と要請するしかなかった。結局のところ、なにゆえかはわからないが、ルームは続き彼女は最後まで残ることを選択した。

そのなりゆきをもって「神回」と評価してくれた方もいたが、オーディエンスには反対の見方も強かったようだ。聞いた話のとおりであるなら、文脈を読める人はかくも少ないのだな、と嘆息するしかないのだが。

◆まとめ

燃えただけでは面白くないので、その熱で焼き芋でも作ってみようか、と思い「タブーと知性の関係」を次回のテーマに据えてみた。炎上したことで、いろいろと噂になっている、とも聞いた。ご意見のある方には、ぜひ登壇いただきたい。

ただし、誰がどの立場から語るのか、はとても重要だと思う。ご批判をいただいた折にはその方がモデレートする「理想的な語り場」を見学するつもりでいるw

追記:まとめの次の回を終えたので、追加情報を書いたのだが、相方に怒られたので、書き換えておく

前回のルームを終えて、悩ましい思いを追記として書いたのだが、「そういうことを書くのはどうか」と相方に怒られたw

というわけで、書き直しておく。

端的にいえば、考えることの多いできごとだった。
「なにゆえ、こんなに話が通じないのだろうか?」と。

つよぽんらと話をする中でたどり着いた結論は「聞く力」「聞こうとする気持ち」がない人とは話が通じない、というものだった。
その結果、つよぽんは「聞く力」を培う教室を開くことになった。
これはとても興味深い展開だと思っている。

もう一つ、ぼくがたどり着いたのは、「意識できる変数の違い」という問題である。

これは「X」にも書いたのだが、世界は無限の変数でできている。

変数を2つだけ意識するなら二次関数、3つ意識すれば三次関数で世界をとらえることになる。
10の変数を意識できる人と、2つあるいは3つしか意識できない人では、話のレベルが合わない。
そう考えると、彼らとの対話がすぐ堂々巡りに陥る理由を理解しやすい。
二次関数の世界は小さく単純なので、話が広がらない。十次関数の人が語る世界にアクセスできないのだ。

さて、聞く力と変数――答えは出たのだが、そこから導き出される最適解はもともとぼく自身が選択してきたものと同じだ。
彼我の言葉は交わらない。理解し合えぬ以上、距離をとることがお互いにとって最良の選択だと思える。

2024 年2月10日 谷垣吉彦

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