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倶楽部サピオセクシャル日記㊴ 物語だよ人生は~来し方行く末を「起承転結」で語ってみるルーム

昨夜は久々に熱い夜だった。21時スタートのルームが終わったのは翌3時過ぎ。なかなか楽しかった。そろそろ締めという段階で、「パスタ作ったよ」と妻に呼ばれ、ラストに参加できなかったことがちょっと心残りなのだが、家庭の平和を優先したことはサピオな判断とお許しいただきたい。

◆今どこ? も起承転結でいいのか?

このテーマを掲げたのはナラティブを学んでいる相方と、「体験的には最長であろう人生という物語」を語ってみるのも面白いのでは、と考えたのがきっかけ。定番の構成である「起承転結」に当てはめたら、みなさんはどのようにとらえているのか? サピオな人たちの答えを聞いてみるのも面白そうだと考えたのだ。

「起承転結なら起」
「起承転結をグルグル回している」
「転をいっぱいちりばめた承」
「そもそも起承転結で語れるか?」

いろいろな声を聞けたことは、とても楽しかった。みなさんの理由にも、それぞれの歩みや人生観が詰まっていて、大きな学びになった。

◆サピオってなんだ? 排除と包摂の対立

昨夜のルームが盛り上がったのは、実は上記の議論によらない。最近、常連として参加してくれている方から「このルームはサピオなのか?」という疑念の提示があり、それをきっかけに、「ややこしい人」への対応について、さまざまな声が集まった。

前々回などのまとめを見ていただけると少しわかるかもしれないのだが、直近の2回において、アルコールの影響下にあるのではないか、と疑われる人の登壇があった。
荒い言葉や他者への攻撃、長時間の自分語りなど、ルームに集った人たちにとって迷惑な行為が目立ち、彼らが語るほどルームの参加者が落ちていく、という現象が起きてしまった。

彼らの言葉には知性が少なく、社会性の欠如もあいまって、ルームにとっては大きな負荷となった。「価値がない」と評する声も今回のルームであがったが、端的にとらえるならまさにその通りであろう。

社会から排除されやすく、生きにく人たちであることは容易に想像できるので、いくばくかの「発達障害」を抱えていると推測できる。つまり、彼らがサピオに振る舞うこと――ルームがこれまで標準としてきた知性の発揮は望めない。

登壇を許し、自由に語らせると高確率でトラブルが起きる。その状況下で、モデレーターはなにをなすべきか?

今回あがった疑義の声は、ぼくにとってはモデレーターとしての選択を考えるきっかけとなった。

◆突きつけられた二者択一 「彼ら」かサピオか

選択肢は二つあり、ものすごく簡素化すると以下のようになる。

①彼らを受け入れる
②彼らを排除する

①は現代社会において一つの理想とされる選択だ。ルームの名前になぞらえるなら、彼らがもたらす多様性を受け入れることもサピオな取り組みではないか、と理屈づけることができる。

相方のつよぽんさんは「生きにくい人たちへの支援」を仕事にしていることもあり、こちらを選択したい、という希望が強い。ぼくもその理想は否定しない。「異物」の存在が一つの課題となって知性を刺激する面は大きい、とも感じる。

プラスに評価するなら、彼らはルームにとってサピオを鍛えてくれる一種の「まれ人」かもしれない。

ただ、今回の議論を経て、ぼく自身は理想がはらむリスクを意識するようになった。ぼくやつよぽんさんよりもはるかに強い恐怖や嫌悪、苛立ちを感じた人が何人もいることがわかったからだ。

 多くの常連さんはモデレーターであるつよぽんさんとぼくを信頼してくれているという。たいへん有り難いことだし、だからこそこの癖の強いルームが1年近く続いてきたのだろう。

 いただいている信頼の中には、つよぽんさんやぼくが尊重したいと意識している包摂や「まれ人の乱入」に対する一定の許容も含まれていると認識している。

「ややこしい人」が幅をきかす状況になったら自分が出て行くだけ、という参加者の声はそんな信頼の裏返しであろう。ルームの舵取りはモデレーターの権利であり、それが自分に合わないと感じるときには退出すればいいだけ、というわけだ。

 この言葉からは一つの未来像が透けて見える。モデレーターに突きつけられているのは
「彼ら」か「サピオな人たち」か、という二者択一であり、前者を選んだ場合には最終的にはモデレーターと「彼ら」しか残らない未来がありえるわけだ。

 ◆理想を失わない現実主義の実現

 この状況下で、ぼくの優先順位は明確である。「ややこしい人の乱入」は場の知性UPに資するレベルまでは許容するが、それを超えた場合には排除する。

 ここまで約1年続いてきた「倶楽部サピオセクシャル」はルームの趣旨を愛好してくれる参加者――知的な会話を楽しむ人たちの存在で成り立っている。したがって、それに反する人、知的な会話を目的としない人の参加は拒絶する必要がある。

 アルコールについても同様の基準を適用する。自己コントロールできない量をきこしめしての参加はきっちりお断りすべきであり、この点についてはルームのルールとして明記しておく方がよさそうだ。

 もちろん、一言二言でアウトの判定はしない。ルームの趣旨を説明し、逸脱を指導し、それでも改善されない場合には……とする包摂への努力は知的な作業として尽くすべきだろう。「彼ら」を導き、迷惑の程度を抑えて迎え入れることは知的な理想ではある。

 ただ、実現性については経験上あまり高くないことを知っている。理想と現実のバランスを意識する必要があり、その点においてぼくは検察官的、つよぽんさんは弁護士的な役割を果たすのがよいかもしれない。

 有り体に言えば、つよぽんさんが理想を失わない弁護士たり得ると信じるからこそ、ぼくは安心して検察官をやれるのだ。

◆まとめ

 現実社会には「ややこしい人」がたくさんいるが、個人として彼らと向き合うのはそれほど難しくない。たいていの場合は忌避するだけでよく、それ以上の対応を必要とするケースはほとんどないからだ。

 だが、オープンな集団の舵取り役になると、話が少し違ってくる。考慮すべき変数が飛躍的に増え、それぞれがなるべく適切になるようバランスをとるのは容易ではない。

 その分、興味深い作業ではある。せっかくここまで時間をかけて議論したのだから、三度目の襲来でなにが起きるのか、なにができるのか、ちょっと期待しているところもある。

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