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倶楽部サピオセクシャル日記136:「存在の耐えがたき罪深さ」を感じるのはなぜ?今夜は胸中に潜む罪悪感を棚卸ししてみる

一昨日まで2泊3日で宮崎県に出張。1日置いた本日はライティング講座を2本こなした。猛暑の中ということもあり、なかなか疲労感は濃いのだが、いずれの仕事においても「あなたでなければ」という扱いをしてもらえるので、やり甲斐も濃い。

「余人をもって代えがたし」という存在になれる場がいくつもあることは、幸福の中で歳を重ねている証でもあろう。というわけで、唯一無二のヨシヒコとして、まとめを書いて進ぜよう。


◆空だった棚 罪悪感とは無縁の人生

今回のタイトルは、ルームでときどき語られる「生きていてゴメンナサイ」的なコメントをもとに設定してみた。ただ、ぼくの中にはまったくない発想なので、棚から下ろす罪悪感も見つけられず、前半は主に他の方が語るエピソードを聞いて過ごした。

同乗者が交通事故で大きなケガをした、という方等、エピソードベースの罪悪感については理解できるものの、自分が持っていない感覚ゆえシンクロしない。幼少期から「悪役」にシンパシーを抱いて生きてきたせいか、とも思う。

自身の定義を悪に寄せれば、一般に悪行とされる行為とて通常運行に過ぎない。たとえば、今回、ぼくは2名の方をブロックした。お一方はしばしばやってきては「そんな話をすべきではない」と宣う癖がある。

https://x.com/nukosama/status/1824008529814151220?s=46&t=eO7rclLYaGoselK6VPdwow

最近見つけたこの漫画そのものに思える。これまで、ギリギリセーフとしてきたが、面倒なのでアウト判定に変えた。

もう一方は、以前に一度ブロック済みの人物。アカウントを作り直したらしく、最近ちょくちょくやって来るようになった。他者の話をほとんど聞かず「私ってこんな人だから」という自分語りで場の時間を食いつぶすので、再度ブロック。

ブロックすることについてはときどき「苦渋の選択」と言われるが、まったくそんなことはない。必要性について少し丁寧に検証するのは、相方のつよぽんの理想に反するからだ。

しかしながら、ブロックという行為そのものは、単に住み分けをお願いするだけ、と認識しているので、そこに「罪」は存在しない。

◆罪と購いのセット売りは古き良き知恵

今回、興味深かった話題の一つに、宗教と罪の関係がある。キリスト教の原罪という考えは有名だが、仏教にも「人は3つの借金を背負って生まれてくる」という思想があるらしい。借金――罪である。肉食等がこれにあたるそうだ。

人は存在する時点で罪深い、という発想は宗教を司る者や為政者にとって使い勝手がよい。「免罪符」に象徴されるように、罪から逃れたい、という意識をうまく誘導すれば、莫大なとみにつながる。

存在を罪とする者には、「権利意識を持ちにくい」という側面もある。ネットスラング的に言うなら「おまいう」と揶揄される可能性が脳裏をよぎるのだ。罪を負いし人が権利を主張するなどおこがましい、と認識させることで、統治はより容易になる。

そういった仕組みには、罪を解消する購いの手法もセットとして用意されている。キリスト教で言えば告解がそれにあたるし、その他の宗教においても、各種の儀式が存在する。宗教に限らず、古くから生き残ってきた慣習には、人や社会のバランスを保つ優れた知恵が潜む。

古い文学作品などを読むと、しばしば「罪深き存在であることへの耽溺」を感じる。一種のナルシズムに近い精神状態に陥ると、社会において活動する能力が低下し、経済を担う能力が低下する。それを避けるために、バランスをとる仕組みが用意されているのだ。

◆ロビンソンクルーソーは罪を犯せるか?

そもそも、人は罪など背負っていない、と語る方もいた。この話を深める前提として、罪とはなんであり、犯すとはどういう行為なのかという定義の共有が欠かせないため、かなり煩雑な作業を要する。

そういった手順をすっ飛ばすべく、ぼくは「ロビンソンクルーソーは罪を犯せるか?」という疑義を出してみた。孤島に独り暮らす人間は、社会に対する罪を犯すことはできまい。犯罪者にはなり得ないのだ。

ただ、人道における罪はそういった環境でも依然、意識しうる。たとえば、ロビンソンクルーソーが食糧としてウミガメを捕らえたとしよう。カメをさばいて食べるのは、状況的にいたしかたないとしても、その際に不要な残虐性を発揮したら? あえてカメの苦痛が増すやり方で屠ったとしたら、そこには一般に「罪」と呼ばれるものが生じた、と多くの人は認識するだろう。

生命に対する不遜を罪とする考え方は本能に根ざす。社会を安定させるため、人為的に設けられた法律に比べ、より強い「罪悪感」をもたらすもの、とも言えそうだ。

◆幸福の追求は権利ではなく義務である

今回、ぼく的なハイライトは「幸福の追求は権利ではなく義務である」というコピーの生成だ。あるスピーカーが語った「幸福を求めないことは罪である」という言葉から派生したものであり、自身に照らしてもしっくりくる。

日本国憲法では国民に対し、幸福の追求を権利として認めている。ただ、奥ゆかしき我々はそれでは足りないのだ。権利ではなく義務である、と語ることにより、積極的に希求できるようになる。

この考えはあらゆる面で有効である。話を戻すと、ぼくは今回、Clubhouse上で出会う可能性のある方2人をブロックした。幸福追求の一環ととらえるなら、なすかなさぬかを選べる権利の行使ではなく、なさねばならぬ義務を果たす行為とも考えられるわけで、たいへん都合がよろしい。

◆まとめ

罪悪感は文学の世界においても、たびたびテーマとされてきた。それだけ、強いエネルギーを発する負の感情であり、人を偏らせ駆り立てるものなのだ。それゆえ、利用しようとする人や団体はあとを絶たず、世界の混迷を深める要因にもなっている。

ただ、読んで字のごとく「感」であり、実態はない。事実をどのような角度から評価するのかによって、「感」は色合いや温度を変える。しょせんはそのようなものであり、主体は自身にある、と信じ覚悟することで、痛みは消える。色即是空。


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