見出し画像

蟹オール巨人「蟹やったらパンパンやな」

ほんまにパンパンやったんやな

Q.働くとなぜキモ日記が書けなくなるのか。

A.書いていいことといけないことの差がわからず、ムズいから。
業務関係で色々なことがあるが、会社というのはひとつの国なわけで、競争や個人情報の保護があり、一体どこまで書いて良いものかわからない。あとインターネットで勤務先がバレるのは明らかにご法度である。命握られるのと一緒。結果いままで以上に内面と向き合うなどしないといけないが、この時間が簡単に取れるかというとそうもいかない。→ちまちま書くしかなくなる→書くのが遅くなるという算段。

他者の容姿などに対して大きいリアクションを取れる人(主にネガティブな方面で、髪型や服など)に驚く。どうしてそこまで我が事のように反応できるのか。特に自分に影響はないのに…。全身にサバイバルナイフを生やした友達がこちらへ歩いてきたらさすがにリアクションするが、それくらいじゃないとあんなに驚いたり批判したりする整合性が取れない。
領域を審判されたような気持ちになるのだろうか。自らの価値基準では誤とされている事項をあたかも正であるかのように扱う人を見ると、価値観が揺らぐ危機を感じてしまい、そのゆらぎや戸惑いが表面化したのがあのリアクションなのかもしれない。価値観なんて揺らぐものなのだから元のものに固執しなければよいのにと思ってしまう。そういう事態に出くわしたときは「お~(笑)」くらいがちょうどいい。「お~(笑)」をずっとやっていたら、リアクションの薄い人間が生まれてしまった リアクションの濃い(濃い!?)人間が羨ましくなる。一長一短である。

『とるにたらないものもの』を読んだ。アド街では見ていない。
江國香織のエッセイかっこよすぎる。「だ」「である」調であるのに硬すぎず、気取った感じもなく(失礼)、あと読点(これ→、)の使い方がとても巧みで、するする読めてしまう。それでいて文章は「鎮座」という言葉がまっすぐに似合うほど確かさを備えている。か、かっこよすぎる…。文章を書くことに慣れている人間は文章に芯が通っている。真っ直ぐに物事を書いて面白いというのは本当にひと握り。あれは、フィジカルが、違う。バーガーキングと一緒である。彼らの前では、我々は小手先だけのマクドナルドボーイズだ。ひれ伏すしかない 自らのフィジカルを鍛えるしかない。
あとエッセイの面白い文筆家は当然のように恋人がいたり、恋をたくさんしたりしている。あれはなんなのだ。面白い人生や考え方には恋がつきものなのか。恋人の話が出てきたりすると、垣間見える人間味に少し安心しながらも「ああこの人もか」と、どこかの井戸へ石が落ちていく音がする。

眼前でイチャついているカップル、やけに輝かしいなと思ったらスパンコールの服でペアルックをしていた。本当の愛とはこういうものか。スパンコールの服は日中さぞかし輝いて目立ったろう。目立つことの恥じらい、スパンコールであることの恥じらい、ペアルックであることの恥じらいをはねのけて共にあることを選んだのか。かっこいい。

自分が標準語になってしまう夢を見る。標準語であることに気づくが、関西弁に戻すことは叶わない。「〇〇なんだよね(ちゃうねんこう言いたいわけじゃない)」関西弁で考えていても(あるいは関西弁で考えることができずに)標準語で話してしまう夢。会話は続く 口からは標準語が出る。恐ろしい。
どうやらいつの日か関西弁が出力されなくなることを恐れているらしい。生きた轍であるところの言語(方言)をそうやすやすと手放してたまるかという思いがあり、標準語に侵食されて関西弁を話せなくなってしまう可能性にわずかながら怯えている。抑揚や語尾にこもる温度感、ツッコミに適度な圧の語気(私にとって適度なのであって、標準語圏の人は怖いのかもしれない)を私は結構愛している。自分にとって最適な言語であり、自己表現(自らの感情や人柄などの表出)の手段である。
ここまで意識的になって使用している以上、そう簡単には失うことはないだろうが、それでも怖い。ある日起きたら、関西弁が出なくなっていたら。こういうものは緩やかに進行するから、指摘されて初めて気づくのかもしれない そこまで行っていたらおそらく手遅れだ。ああ、恐ろしい。なので、関西にいたときよりも抑揚を強めにしたり語尾をあからさまにしたりしている。できるだけ抗う、方言レジスタンスだから。

「レジリエンス」という言葉が好きだ。ただ負けないのではなく、負けても戻ることの出来る強靭さ。センターだったか二次試験だったか、いつかの受験問題に出てきたその言葉は未だに自分の芯の方に残っている。

通販で何かを購入した時には何ものにも変え難い高揚感が得られる

なんとなく使えない言葉
多様性、教養、男、女、宙吊り、ときほぐす、冷や麦、マジで勉強してない、親友、自認、高尚、かわいそう、
僕が自発的に使えなくしたというよりも、世の中の潮流や空気感が使えなくしてきている。僕の言葉のピックをBANされているという印象。

ねるねるねるねを作っている会社、クラシエは未だにねるねるねるねの影を追い、日夜あらたな知育菓子を生み出し続けている。そのうちの一つをこの前食べた。「スナック(スナックとは言うがあれはバーなのか?違いわからん)はまゆう」というところで、知育菓子「どどっとつぶぴょん」を実食。馬鹿げた名前である。タコ型のスポイトで液体を落とすことで粒状のグミを作り、それをねるねるねるね的なものに混ぜて食べるものらしい。
食べた。不味いわけでないが決して美味くない。さらに言えば味が薄い上にうまみが少ない。食事というのは口内に口内環境外のものを取り込む受容の儀式であり、つまり異質なものを取り込むのだから大小さまざまな刺激が生じるものだが、この「どどっとつぶぴょん」に関してはそういった刺激が非常に乏しい。おそらく体組成とほぼ同じお菓子なのではないか 我々はこのお菓子を「もともと身体に備わっていたもの」として判断を下すため、快も不快もなかった。生理食塩水である。ほんのりグレープ味の。
これをスナックで「0.3の味」と言ったらウケて嬉しかった。

鶏むね肉を一口大に切りまくっている。俺は家事に向いている。
(2024/05/28)鶏むね肉飽きてしまった。鶏むね肉に向いていない。

いただき女子りりちゃんのマニュアルを一部分だけ読んでいたら信念を持って悪行に励んでおり、ジョジョの敵役みたいに思えてきた。ジョジョの世界ではコスいことをしているやつでも信念や軸のようなものを持っていたりするので、多分そういうタイプになると思う。

毎日元気に生きているが、本当にただそれだけで、元気に生きる以上のことの難易度の高さに直面している。元気に生きたうえで好きなことや実現したいことをこなそうとすると、脚に少し力を入れなければならない。生活のスタンダードを維持するための行動を終えたあとで、グッともうひと行動できるかが、選択の二叉路となって人生に待ち構えている。洗い物を終えたあとで、映画を観に行けるか、晩ごはんを食べたあとで、ジムに行けるか。無理しては元も子もないが、好きなことをしようとするとき、露骨にMPが消費されているのを感じる。実家暮らしかつ時間の融通が効いた大学4年間(コロナを抜けば、ないし2年間)は、消費MPが本当に少なかったのだと思い知らされる。
しかしまあ家事自体もそれなりに楽しくやっている。家事を適切に行うことは私の中で自明に良いことであり、やればやるだけ良い方向へ向かっていくものなので、実行した分だけ「善」が増加していて好きだ。(私はやればやっただけ良い方向へ向かうようなことを好む。勉強も筋トレも多分それ)要は家事も「好きなこと」に取り込めばよいのだ。脳を騙すようなもので本質的な解決にはなっていないかもしれないが、好きなこととして身体に馴染ませればMP消費は少なく済むだろうという算段。現状好きな家事は床掃除とアイロン掛けくらいである 今後の好きな家事発表ドラゴンの動向に注目。

さも適切であるかのように生活を運用するの楽しすぎる。家計簿のアプリで支出の管理をしてみたり(決して支出を抑えられているわけではないので、支出を眺めているという方が正しいかもしれない)、積立定期預金を始めてみたり、積立NISAを続けたり、適切な生活リズムで寝てみたり。正しい。圧倒的に正しい。適切である。正しく生活をしていると、正しさの大きな波に乗ることができて気持ちがいい。
しかし、正しさに乗り上げる心地よさはいつか果てしない暴力性につながると思っている(正しさで肘を押されたパンチは容赦がなく、凄まじい威力を誇る 正論とかそう)ので、「正しく生きてんね(笑)」位の気持ちの小さい自分を傍らに置きつつ、常に正しさサーフィンをしすぎないよう正しさライフガードの監視のもとで正しく生きていきたい。

かじる程度に仕事をしてみて気付いたが、週5で働いていると無理やり休む日が必要だ。たとえば私は週何回かはジムに行くが、「いけるっちゃいけるな」のときに行ってはいけない。「いけるっちゃいけるな」でこなす自主的な予定は、疲労度としては致命的なものには至らないのだが、「いけるっちゃいけるな」を許してしまうと本当に休むタイミングがなくなってしまう。だいたいの体調は「いけるっちゃいけるな」なので。これを続けると「マジで休まないとヤバい!」のときにだけ休むことになるのだが、「マジで休まないとヤバい!」のときはだいたい一日で回復するわけがないので、ここに至った時点でややゲームオーバー気味なのである。無理をしない、無理やりにでも「今日は無理だ」と判断をつける、ラインを甘めに引き続けなければ、生きていかれない。

リサイクルショップでピンときたので、1000円の扇子を買った。
一人暮らしを始めると容赦なく物が買えていい。全部俺の責任だから。全権が俺にあるので、収納や食器等を俺の裁量で買えるのはかなり心地が良い。カトラリーは無印で買うといいです 持ち手の厚みが抜群にちょうどよいので。そういうふうに生きている。

なぜ筋トレを続けているのか、なぜ筋肉を増やそうとしているのかについて考えたところ、「筋肉があると中身が詰まっている感じがして嬉しいから」という結論に至る。なんでもそうだが、中身がぎっしり詰まっていると、嬉しい。視覚的に張り詰めた感じが、満足感をもたらしてくれる。蟹なんか特にそう。蟹は中身がぎっしりであるほど良い。俺は蟹になりたい。ぎっしりの蟹に。

これまで読んだ本
・山本冴里『複数の言語で生きて死ぬ』
・三木那由他『言葉の展望台』
・村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』
・江國香織『とるにたらないものもの』
・千葉雅也『センスの哲学』
・籾山洋介『認知言語学入門』
読んでいる本
・現代思想5月号『民俗学の現在』
・奥村隆『他者といる技法』←面白い!!!!途中だがおすすめする
・松永伸司『ビデオゲームの美学』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?