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キミだけのモーニングルーティンデッキを作って友だちとモーニングルーティンバトルだ!

「白湯飲み」、「チアシード食い」、「フルグラ」の盤石のカードをデッキの軸としながら、決め手として「窓から猫と自由落下」を加えている環境モーニングルーティンデッキ

ネタだけ溜めてたら結構な量になっていた。おはようございます。モチベを与えられないと書けないので、あらゆる角度からモチベが与えられることに感謝の正拳突きしながら書いています。これで88記事らしいです ウボォーさんありがとうございます。

美味しいものは好きである。幸福感が伴うので。しかしながらひとくちに美味しいものと言っても(ダブルミーニング)、その内実は単純なものではないように思う。どう考えても美味しさには質の異なる種類がある。美味しいとはつまり好ましい味であるということだが、この好ましい味というのは2種に分けられる気がしている。「直感的に好きな味」と「楽しんだ上で好ましく感じる味」に分けられると思っている。
直感的に好きな味は「快」が舌から脳へ直接届くような味である。脂や塩気や砂糖、にんにくなどの「強い」味がこれに分類される。ジャンキーなものって美味しいですよね 美味しいのは脳へ直接届くからです。
楽しんだ上で好ましく感じる味は、複雑だったり香りが関わっていたりする味である。こちらが「楽しむぞ」といった気概を持って口に入れた上で吟味(深度や時間は問わない)しないと美味しいと感じづらい。なんやろう、春菊とか?苦味と独特な風味があって直感的には好ましいと思いづらいが、食べてると慣れてきてあの春菊特有の爽やかともいえる味が欲しくなる時がある。遅効性の味わい。

あるものが商業利益と強く結びついているときに「資本主義の〜」と安直に言うのは多分やめた方がいい。今の言葉ではそう言わざるを得ないのかもしれないけど、資本主義のなんたるかへの理解が足りていないので、こういった発言をする時の重みというのはゼロに近く軽薄ともいえる。必ずしも商業的・競争的=資本主義ではないというのはわかっていながら、象徴的で誰にでも伝わる言葉がそれしかないのでやむなく使っているというような、言葉に対する不誠実さがそこにはあるように思う。「資本主義」と名指した対象が別のバックグラウンドによってその形態を取っていることもあるだろうに、表面だけすくい取ってラベルを貼り付けるなど一番軽薄な行為である。
よく知らないものをまるで知った上で用語として用いているかのように振る舞うのは自分を大きく見せてしまう行為だと思うので、そうやって積み上げられた虚構の自分像に苦しめられるのは回り回って自分自身なのである。気を付けなければならない。こうして自己検閲を強めていくのが生きる負荷を上げていくコツです。負荷を上げることで人生筋(じんせいきん)がムキムキになる。

中村文則の『何もかも憂鬱な夜に』で、死刑囚に対する主人公の発言によって提示された「命それ自体の価値は尊く、またそれとは別に罪業がある」という価値観は目から鱗だった
連綿と続く生命のリレーの結果としてのひとつの命を尊びながら、同時に償うべき罪があることも肯定する。生み継がれてきた大きな奔流の中にいながら、考える主体を持ってしまっているヒトの営みをどこに位置づけるかという問いに対するひとつの答えのような気がする。命の価値と人の価値は別様なのだ。ここを切り分けることで「死んでもいい人間」というのはなくなりうるのではないか。いやしかし、命の価値を下回るような露悪的な行為をしてしまった場合、(つまり命の価値によるプラスを塗り替えて価値の合計値がゼロを下回ってしまった場合)、「死んでもいい人間」が生まれてしまうことにはなるまいか。そもそもテキストを読み違えているような気がしてきた。「価値」なんて言ってたやろうか。価値という言葉がいけない気がする すごく数値的で、まるで計ることができるかのような前提を作ってしまっている気がする。

親密さゆえに移ってしまう方言というのは美しい。
私も祖父母の家に行った時は次第に方言が移っていく。方言ネイティブとまではいかないものの、細かい言い回しやアクセントが普段の関西弁とは違うものになる。ただ、完全にはコピーしきれないので、歪な方言で話すことになる。自分でも満足はいっていない。周りに聞くと方言が移ることはやっぱりあるらしい。祖父母でも友だちでも恋人でも。
意図的でも非意図的でも、「相手の言葉の使い方で自分も話そう」という歩み寄りの姿勢は美しいと思う。領域が重なり始めるみたいで。なんかそういうあからさまではないにしろ、じわっと人が融和を求めている瞬間みたいなものをもっと見つけたい 虹より美しい。
ところでエセ方言が疎まれるのは、そういった姿勢を見せずあくまで外にあるものとして、定型文的なかたちで方言を使うからではないか。そこには歩み寄りの姿勢はなく、むしろ見世物小屋の客のような視線を感じる。エセ関西弁を俺は許さないぜ 踏んづけてやる

エネルギッシュな人間が報われる法則に納得いってない(嫉妬する?)部分があったけど、内在するエネルギーが成果に変わるというある種物理法則のようなものだと思うと腑に落とすことができた。人間の内在エネルギーが仕事になり成果に変換されるのだから、内在エネルギー量が少ない人間は当然仕事の量も減るので成果も控えめになるのだろう。
「そういうものなのだ」と思うことで、背伸びしかけた自分を適切な位置に戻している。むろん、ある種の諦めのようなものなのでこのやり方が正しい生き方なわけでもない。ただ自分が自分を適正に評価し、無理をさせずに済むというのはメリットかもしれない。

いったん休憩しよう

「リンパ溜まってますね~」と言いながら勝手にドリルで客の歯を削る、船舶免許と歯科衛生士免許だけ持ってるマッサージ師

たたら場で育てられたおばさん「大きくなるのよ~」(金魚の水槽に溶けた鉄を流し込んでいる)

休憩できたかな

心の隙間風が出てくるところをTwitterに埋めてもらっている感じがしていて、これはあまりよくない。インスタントに何かが満たされる感覚。我慢が必要。無理でした2023年11月24日午前0時23分

普通の座席がみちみちやのに優先席ががら空きのとき、そこにはおそらく「可能性」が座っているのだと感じる。誰もが優先座席に相応しい人間があそこに訪れる「かもしれない」と思いながら座ることを憚っていて、なんか勇者の剣みたいだと思う。

作業中はコーヒーと、クッキーを2枚ほど…みたいな感じのを度々目にするけれど、あれはフィクションだと思っている。
2枚て。クッキー2枚て。2枚でいけるか?作業のお供に?クッキー2枚? 10はいかんかい!!!!!10あったら「ああこの人は作業するんやな、1,2時間くらいは作業しそうやな」と思える でも2枚。2枚はあかん。2枚でこなせる作業時間は多くて20分や。10分に1枚、これが人間の限界です。考えてもみてほしい。お菓子が手の届く範囲にあったとして、しかも「食べてもいい」という許可が脳内で下りていたとして、我慢なんてせんよ普通。俺だったらあるだけ食べてしまうし、2枚では多分作業できない。2枚は2秒で終わる。あれって時間を分けてちょっとずつ食べてるんかな、それとも2枚を早めに食べて「エネルギー補給完了!頑張るぞ~」なのか。
俺は目の前にお菓子があったとして、食べ始めた1つ目が口の中からなくなればすぐに補充してしまうような人間です。お菓子を食べる間、蒸気機関車みたいになっている。そのため少量でお菓子をセーブできる人をすごいなと思うし、同時にありえへんとも思っている。違う生き物である。

家でお香焚いてからゼミ行ったら「タバコとか吸った?」と言われた。香りとかそういうのはなくなってモノが焼けた臭いだけが服についていたらしい。放火とかしたあとに「お香が趣味で~」って言うたら乗り切れたりするんかな。

小2のときに「総合」の時間か何かでスライムを作ったんやけど、あのときに使った材料(ホウ砂)を「魔法の粉」と呼称されたことに今更ながら反対したい。たしかに水に粉を加えてスライムみたいなぐにょぐにょの謎の物体ができるのは不思議な現象でファンタジー性に溢れてるかもしれないし、その不思議さをより演出するためにホウ砂を「魔法の粉」と呼ぶのはより幼い人間の感動を呼ぶかもしれない。でも洗濯のりや絵の具はそのままに呼称しておいて、我々の知識の外にあるホウ砂だけを「魔法の粉」と呼ぶのはなにかズルさのようなものを感じる。いわんや教師であれば、その未知のものこそどういったもので、どういう仕組みでスライムのような不思議な物体が作り上がるのかを伝えるべきではないのか。知らないものを知らないもののままにして乗り切ろうとするところにある種の怠慢がある。
科学で説明できることを「不思議」や「魔法」でつつみこんでしまうのはリテラシーとして良くない気がする。もちろん「子どもにそんなことを教えても」とか「感動がない」とかあるかもしれんけど、そういうファンタジーとかフィクションで誤魔化すことはあとあと危ないことになるのではないか。テスラ缶とかああいうのを見ていると、科学を「知らないもの・不思議なもの」に腑分けしてしまった最終形態のようなものに感じる。
あと「こどもの瑞々しい感性に水を差すのか」とも言われるかもしれない でもそうやって騙されて「魔法みたい」と思う虚飾の上に成り立った文学性よりも、メカニズムなど理解した上でそれでも「魔法のようだ」と思うほうが遥かに文学としての強度は高いような気がする。あえてやる(思う)ことの力強さというか。そもそも「魔法みたいでしょう?」と提示されて「魔法みたいだ」と思うことになんの意味があるのか ボールを投げて跳ね返ってくるのと同じじゃないか。やはり種も仕掛けもわかった上でファンタジーを見出すことのほうが望まれるべきだ ただそれはクラスから一人くらい出てきたらいい。無理やり育て上げるものでもない。

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