村上春樹とイトウ

#村上春樹 という作家はどうしても好きになれない。でもなぜか手に取ってしまう。 #風の歌を聴け にはじまり、 #騎士団長殺し が発売した日には本屋に走った。ふと本屋で手に取った #本当の戦争の話をしよう の訳者に彼の名前があった時には、「あ。この本は間違いない」なんて感じた。こんなに相反する想いを抱いている作家は他にいない。

イトウが村上春樹を好きになれないのは、その掴めなさだ。どこまでいってもスルリと手の中をぬけて虚空を掴むようなそんな感覚を心に残す。正確に克明に人物の見た目や、彼もしくは彼女が目にしている風景、食感、香り、そして心の動きもその全てを描写しているのに何故か掴めないのだ。

彼の著作の中では、各小説を通して共通のキーワード(記号と言った方が正しいだろうか)が頻出する。穴、小人、猫、ワタナベノボル、耳、そしてちょっと癖のある特定の人だけに魅力的に見える"美女"、そしてやたらと美味しそうな #サンドイッチ と #スパゲティ …。 枚挙に暇はないのだが、この頻出する記号に未だに意味を付与できていない。村上春樹の小説は其々のストーリーの中で #パラレルワールド であるかの様にこの使い古された記号が何度も何度も登場し、其々に違ったものを追い求め(それはある時はピンボールであったり、ある時は消えてしまった娼婦であったり、ある時は自分自身であったりする)そして、手に入れたか基本的には不確かなまま物語は幕を閉じる。

人が比喩を用いる時、それは時代や場所を越えて概念を伝えたい時だと考えている。人生は儚い、という意味を本当の戦争も飢餓や貧困の恐怖も知らない私達が自然に受け取れない一方で未だに #漢文 の胡蝶の夢、という逸話は世代・文化・時代を越えた説得力を持つ。それは抽象化する事によって様々な事柄に対する超越性を持たせる事ができるからである。

面白いのは村上春樹の比喩はむしろ彼が伝えたいなにかを隠す作用をしている様に感じさせることだ。彼の用いる記号や比喩を追えば追うほど、迷路に迷い込んでしまうのだ。超越性を持たして理解される為のものを、彼は敢えて誰かに簡単には理解されない為に用いているような意地悪さを感じてしまうのだ。

彼の本を読んでいると隠す事自体が目的であってその先のものは無いのではないか、と思ってしまうことがある。彼は頭に浮かんだ美しいイメージ、ふと浮かんだ #メタファー、そして彼の原体験として持つ何かからイメージを膨らまして #ナンセンス な物語を書いているだけなのではないかと。

意味をそこに付与するのは読者の方であって、あくまで彼は思考する為の材料を提供しているに過ぎないのではないか。可愛らしい女の子とのウィットに富んだ会話も、突然迷い込む異世界も、素晴らしい #コーヒー の香りのする昼下がりもあくまで材料であってそこに意味を作者は持たせていないのではないか、という考え方である。(さらに彼がズルいのは物語のはじめに、「この話には教訓めいたものはないのかもしれない」だなんて、逆に深読みしたくなる一節を置いてくる。)

一方でもう一つの考え方がある。彼は材料だけでなく何かを伝えようとしている。でも、それはあくまで排他的に、という考え方だ。

理解の一助の為に、現代美術の話をしたい。昨今眼を見張る様な価格がつく絵がルネサンスで描かれた絵と根本的に違い初見だけでは理解しづらいのは、写真が発明され見たままを模写する事に意味がなくなったからだと説明される。そこに作者のどんな風に心で見えるのか、という主観がなければ意味がないという考え方である。

ただ、それだけでは無いと思っている。むしろすでに25にもなっているにも関わらず中二病から抜け出せないイトウは #陰謀論 の方がしっくりくる。つまり、現代美術は時代の要請によって"創られた"のだと。

かつて貴族のみが楽しめた芸術作品が革命などの時代の流れにより民衆へと開かれていく中で、知識階級は「分かる人には分かる」芸術作品を求め、敢えて一般大衆との差別化を図り、芸術への独占欲を満たしたのではないか、という説である。選ばれた人である、という自負とプライドを芸術分野で捨てたくなかったし、むしろ難解な芸術作品の意味を理解し、富を惜しまない自分へ酔いしれたのではないかと。(芸術作品が、作者の意図も無視されたままに投資対象としてオークションに上がっている現代よりは幾分かマシに感じるが。 #バンクシー のとった行動はこれに反旗を翻す最たる例だと感じる。)

村上春樹の小説を読むと、この分かる人には分かるそんなエリートの #選民思想 が背後にあるのではないか、と読めないこともないのだ。この難解な記号とそしてその意味を掴んだかのふりをするような読者。なんとも似た構図ではないだろうか。

それでも、何かを掴みたいと思い今度こそはと期待をこめつつ本を取るのだが未だに手応えを掴めたことはない。どこかで、自分が彼の意図を介する"選ばれた人"であると信じたいのかもしれない。

ここまで村上春樹を好きになれないと言いつつも、晴れた日の昼下がりに緩いジャズを聞き、少し温くなったコーヒーを飲みつつハムのサンドイッチをかじっている時、結局ふとまた彼の本を手に取りたくなってしまうのだ。

#文学 #小説 #読書感想文 #コラム #エッセイ


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