結城城(茨城県結城市)
歴史
結城城址解説板によると、結城城は南北朝期に築造されたと推定され、中世は結城氏の居城として栄えた後、廃城となるが、近世に水野氏が再興。1440年の結城合戦では結城の名を天下に轟かせたと、誇り高い内容の解説板である。
「図説 茨城の城郭」からも要約。結城氏の祖の結城朝光は小山政光の四男で、源頼朝の平家打倒に参陣、その後の志田義広の乱の際の恩賞として、結城の地を賜ったという。1440年の結城合戦の際には、永享の乱で滅亡した関東公方・足利持氏の遺児の安王丸・春王丸を奉じて、結城氏朝が挙兵。将軍・足利義教が関東管領・上杉清方をはじめとする関東の諸侯に討伐を命じ、結城城は包囲される。結城方は10倍の敵を相手に善戦するも落城。結城氏朝は自害し、結城氏は一時断絶。その際、氏朝の末子の七郎は多賀谷氏により脱出に成功し難を逃れ、その後の再興につながる。戦国期の謙信越山の際には、結城地域は小田原北条氏と上杉方との境目となる。その後は佐竹方に付き、北条氏と対峙。小田原北条氏滅亡後は豊臣秀吉の養子で、徳川家康の次男である秀康を養子に迎える。結城秀康の越前への転封後は一時、結城城は廃城となるも、1700年に水野勝長が再興し、幕末まで結城藩の城として存続。
立地
結城城は、湾曲する田川の低地の内側の台地に立地。賑やかな結城の城下町とは少し離れた場所にある。
明治迅速測図特有のケバを使った地形表現がとても良い感じ。明治のころには城の構造がしっかり残っていたのだろう。
カシミールスーパー地形でも結城城にクローズアップ。空堀の地形などは結構残っている方かもしれない。
撮影地点
城域を巡る
結城城の北東部の曲輪は城跡歴史公園になっている。
館と呼ばれる曲輪の北端から、北を眺めると田川の低地。かつては実城という小さな曲輪が堀を挟んで北側に存在したようだ。明治迅速測図では残っているように見えるが現在は消滅。
館と呼ばれる曲輪には近世の結城城によった水野氏により文化年間に建てられた聰敏神社。結城の水野氏が初代の水野勝成を祀る。
館と呼ばれる曲輪の西寄り、現在、車道が通じているあたりには大きな空堀が南半分残存(地点A)。ここに堀や曲輪に関する解説板が建つ。空堀の北半分は埋められて浄水場になってしまったようだ。空堀を立体視。
館と呼ばれる曲輪の南から中城と呼ばれる曲輪へと渡る土橋が残る(地点B)。堀の中は藪で写らない。
用水が通う地点Cのあたりには水辺公園。城だった時代も水堀だったろうか?
地点Dあたりから眺める結城小学校。遺構ではないが、頑強な城壁に囲まれている小学校。
東側の低地から台地上の結城城を眺める。低地には気になる森の茂み。
森の茂み(地点F)に近寄ってみると塚のような盛り上がりだが何もない。ただ地理院地図には寺院マークがあるのが気になる。
結城城を訪ねたのは彼岸花の季節。地点Eから結城城を眺める。