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牛久城探訪(茨城県牛久市) 2022年1月

牛久城の歴史

牛久の中世城郭といえば牛久城。「牛久市史」によると、牛久城は佐竹氏の南侵を受けて岡見氏により1550年頃に築城と推定。東林寺城・谷田部城と共に岡見氏の城として1566年の「小田氏味方覚書」という文書に出てくるらしい。

南東方向から望む牛久城。

1570年代前半には佐竹氏方の多賀谷氏の攻勢が増したと「牛久市史」。1570年には谷田部城が落城。岡見氏は小田原北条氏に救いを求める。1577年以降は北条氏も多賀谷氏と戦い始める。1586年以降は牛久城の防衛のために北条方の井田氏・豊島氏・高城氏などの下総の国衆が在番。

常総戦国誌の舞台をカシミールスーパー地形で改めて地図化。

1587年には多賀谷氏は、岡見氏方の牛久城と足高城の間に八崎城(泊崎砦)を築城と「牛久市史」。その結果、足高城は落城。岡見氏はさらに危機に陥るも牛久城は守り切る。その後、豊臣勢の小田原攻めの際に牛久城は落城。

牛久城を巡る際には「図説茨城の城郭」を参考にしていたが、今回は「牛久市史」というさらに詳細な解説とともに。

撮影ポイント

「牛久市史」を参考に巡った牛久城の撮影ポイントは膨大。主郭部だけでなく、宿や町場を守る惣構えが存在したと推定されており、東西800m、南北1kmに及ぶ巨大さ。主郭部は「牛久市史」の縄張り図をトレースしてポイントを表現。(クリックによりtwitter投稿が別ウィンドウで開きます。)

牛久城外郭での撮影地点
牛久城主郭部での撮影地点

牛久城外郭

実際の探訪順序はさておき、地点fの大手門から出発。ここには牛久城大手門跡の解説板が立てられている。
大手門があった地点fは、城域の台地を狭窄するくびれ地形。大手門そばを通るのは牛久土浦バイパス。探訪時には工事中だったが、つい先日、バイパスが開通。城域を避けてくれて良かった。→NEWSつくば記事  
大手門があった地点fからVII郭に入ってすぐあるのが得月院。解説板によると、岡見氏牛久城落城後に入城した由良国繁の母の妙印尼が開基。 立体写真。
離反を繰り返すも北条氏に屈服した由良氏。屈服までは開城を拒否するほどに抵抗したのは妙印尼。その際、妙印尼は豊臣秀吉に窮状を訴え、つながりを持ったおかげで、小田原攻めでは国繁が小田原城に籠ったにも関わらず、戦後に牛久に所領を与えられたと牛久市史。

由良氏に縁ある得月院。常陸南部には由良氏に縁のある寺院が他にも多い。龍ケ崎市若柴の金龍寺、つくばみらい市城中の瑞源寺、取手市藤代の高蔵寺。


地点r'のあたりからVII郭のある北側を振り返る。この一帯には谷田部宿という小字名が残ると牛久市史。岡見氏の城だった谷田部城が1570年に落城後、谷田部の人々が牛久城外郭に移り住んだことを表すと、この字名から推定している。
地点sには愛宕神社。
地点sの愛宕神社は土塁の一部ということで 立体写真。この土塁は空堀と共に台地の西に続き、谷津まで伸びる。地点r'の道を挟んだ反対側の地点vにも空堀と土塁が入り、牛久城の台地の狭窄部を南北に分けていると牛久市史。
地点sの愛宕神社の社殿横から空堀をのぞきこむ 立体写真。確かに空堀が存在するが、森の濃さと夕暮れで写らない。
地点sの愛宕神社のそばには観音堂。中には薬師如来像が安置。


一旦、北に戻り、地点t,、uを経て、地点wから、牛久城東側の谷津とv郭を眺めるパノラマ。
牛久城東側の谷津内の地点w。一帯は田んぼなのだが、冬場でも湿っぽい。湧水が豊富と想像。田んぼの上を牛久土浦バイパスが行く。
地点fの大手門跡に戻り、惣構えを形作る空堀を眺めに地点gへと坂を下ってみる。
地点gの惣構えを形作る空堀で 立体写真。 
地点gから更に坂道を下り、地点hで惣構えを形作る空堀を立体写真。 
大手門跡から、台地の縁を切る空堀は台地の地形に沿って曲がり、地点g, hを経て、地点iにまで伸びていると牛久市史。地点iの空堀の立体写真。
地点iの空堀の台地側には土塁。その土塁は得月院の墓地を囲んでいる。 立体写真。
地点jは台地斜面の下の道。
地点kからは、牛久城が広がる台地の西側の谷津を眺める。台地によって出口が狭まる谷津。中世には船でも隠せた谷津だろうか。
地点kの台地斜面には、地点sの愛宕神社からの空堀が伸びてきていると牛久市史の縄張り図。それを認識するのはなかなか難しい。
地点oには稲荷神社。
地点oの稲荷神社境内にある小さな道祖神だろうか?奉納されている二股大根を立体写真 。
地点oに残る土塁を 立体写真。
台地の西の端の地点pには河童の碑。土塁のような盛り土に造られているが、中世の遺構なのかは不明。一帯は江戸時代に牛久陣屋になった地。 
地点n. qを経て地点rで大手門跡から南下する道に合流。旧家の長い塀や生垣が連なる。
主郭に向かって歩みを進めた地点c。地点bあたりまで続く空堀が残る。立体写真 。 

牛久城主郭部


地点Dから。いよいよ主郭へと入る。
V郭とIV郭をつなぐ土橋が地点Eに。
地点E土橋上から東の空堀を立体写真。
地点E土橋上から西の空堀を立体写真。
空堀の堀底を地点Fまで進んで東を向いて 立体写真。堀底には堀止めの土塁があると牛久市史。どれなのかよくわからない。
堀底の地点Fで南を向くと、分岐する堀底に通じているようだ。立体写真。
堀底の地点F'で西を向くと、IV郭とII郭を隔てる空堀が大迫力。 立体写真。
堀底の地点F'からIV郭の東端の地点Gに登り、IV郭とII郭を隔てる空堀を 立体写真。
IV郭の地点Hで西を向いて 立体写真。IV郭は東西に細長くのびているので郭というよりもIII郭への長い土橋のようでもある。とはいえ、北側(右手)をしっかり土塁が守っているのでやはり郭か。
IV郭の地点H'で、空堀を左手に西を向いて 立体写真。不思議な形のIV郭だが、牛久市史は馬出の機能を持つと解説する。築造は岡見氏か北条氏かは不明だが、極めて貴重な遺構といえるようだ。
地点H'を少し進むと目の前に現れるのがIV郭からIII郭へと渡る土橋。立体写真。
IV郭からIII郭へと渡る土橋周辺の遺構は牛久城探訪のクライマックスということでいろいろ書きこむ。
IV郭ーIII郭の土橋を地点Iから 立体写真。
地点Iの土橋付け根から東を向いて眺めるIV郭ーII郭間の空堀。II郭の土塁(右手)から横矢がかかっている感じ。 立体写真。
地点Iの土橋付け根から西を向いて眺めるIV郭ーIII郭間の空堀。III郭の土塁(左手)から横矢がかかっている感じ。 立体写真。
III郭の土塁(左手)から土橋に向けて横矢をかける想像図
土橋を渡ってIII郭には入らず、地点Iから西へと、細く続くIV郭を進む。立体写真。
地点Jから空堀を挟んでIII郭の土塁を見上げる 立体写真。
地点Jから西の谷津方向へと進むとIII郭下の腰郭に至る。地点Kから腰郭を眺める 立体写真。
地点Kから腰郭に入り、III郭の土塁を見上げる 立体写真。
III郭の腰郭は谷津内の地点aから眺めるとこんな雰囲気。
III郭の西にある腰郭の地点Lには奇妙な凹み。後世の改変かもしれないが、戦国期の船溜まりではないかと想像を膨らます。
III郭の西にある腰郭の地点Lの船溜まり?立体写真。
IV郭から土橋を渡ってIII郭に入ってすぐの地点OからIII郭を眺める 立体写真。 平場の向こうには土塁が連なる。土塁の向こうは腰郭と谷津。
III郭の南寄りの地点UからIII郭を眺める 立体写真。平場の向こうには土塁が連なる。土塁の向こうは腰郭と谷津。
III郭の地点Tで南を向いた 立体写真。左手のII郭の土塁から横矢がかかる位置。右手はIII郭。
III郭の地点OからII郭へと入る虎口を 立体写真。 
地点PからII郭を眺める。
地点Pでふり返って眺める虎口の土塁を 立体写真。
II郭の地点Qの土塁に上がり、北西を向くと、空堀を挟んでIV郭が見える立体写真。
II郭の地点Qからは土塁が北東方向に尾根状に突き出している。尾根上で南を向くと切れ落ちる斜面。牛久市史の縄張り図ではケバで表現されている斜面で竪堀を意味しているのか。立体写真
II郭の地点Qから北東方向に突き出す尾根状土塁。尾根上で北を向くとIV郭から伸びてきた空堀が斜面下へと急激に落ちる。立体写真。  
II郭の南東の地点Rにも尾根上に突き出す土塁があると牛久市史。しかし現地は竹地獄。立体写真。
II郭の南西の地点Sから、III郭側の土塁を眺める 立体写真。 III郭側に横矢がかけられるように曲がっている。
地点Uから眺めるII郭とI郭の間の空堀は大迫力。 立体写真。
地点UからII郭とI郭の間の空堀に下りて、再び 立体写真。
II郭とI郭の間の空堀を行く。地点Vには堀止めの土塁と牛久市史。確かに、堀内の移動を邪魔する高まりがある。立体写真
II郭とI郭の間の空堀を東に行く。地点Wでは、III郭からの尾根上に突き出しにより空堀が南(右)に屈曲。 #立体写真
II郭とI郭の間の空堀。東端の地点Wから、空堀を西に眺める 立体写真。
II郭とI郭の間の空堀を東に抜けると、東の谷津に面した腰郭のような微地形。立体写真
地点Uに戻り、南を向くと、左手に空堀を挟んでI郭の 立体写真。道はI郭へと向かっているが、I郭の高い土塁から狙い撃ちされる位置。 
地点YからI郭への土橋を 立体写真。
I郭への土橋の付け根にあたる地点Zのそばには牛久沼を望む櫓台のような盛り上がり。 #立体写真
I郭への土橋を地点Zから 立体写真。
I郭への土橋から北を向き、空堀を 立体写真。 右手がI郭。
I郭へと入り、地点2Bから郭を眺める。小さな石祠がある 立体写真。
I郭の地点2Dから郭と西側の土塁を眺める 立体写真。 
粘っこく巡ってきたがI郭はあっさりと見終え、地点Mから北西を向いた 立体写真。 郭とはされていないが平らな空間。城址の道はこのまま南に抜けるが、戦国期には無かった道かもしれない。
牛久城下の牛久沼畔から望む泊崎城の夕暮れを眺め帰路につく。


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