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手賀城(千葉県柏市) 2019年1月

手賀城は城主など歴史に不明な点が多いものの、現在の手賀集落全体に広がる結構大きな城。旧家が並ぶ集落内には遺構がわずかに残存。

「東葛の中世城郭」で推定されている縄張りをカシミールスーパー地形の上に図示。

I郭とされている場所には城址の碑。郭跡には稲荷神社。

II郭とされている場所には興福院。手賀城に拠った手賀原氏の帰依を受けた寺院との解説。

I郭とV郭の間の空堀は台地から低地へと下る道になっているとの推定。そのすぐ横の土塁はだいぶ消えつつある。周辺は大ケヤキ以外の斜面林が切り払われ、手賀沼を望む展望地になっている。大ケヤキは遠くからでも目立つ手賀城のランドマーク。

空堀は台地から低地へと下る道となっている。
わずかに残る土塁
大ケヤキ

手賀城の南側虎口付近の土塁は立派。

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手賀集落内の複雑な街路。確証はないが、防御性を高めた中世の街路の名残ではないかと想像が膨らむ。

「東葛の中世城郭」の手賀城の項では、著者が特に注目している船繋り(ふながかり)について詳しい。手賀沼側からは見えない、台地に入り込んだ谷戸に軍船を繋留したのではないかとの推定。台地と谷底の間の中間的な高さに腰曲輪が複数。

①船繋りの谷の入口から撮影。
②船繋りの谷の頭から撮影。

手賀城の南には兵主八幡神社。中世と変わらぬ雰囲気の土の道が神社前に一直線。この道は、戦国時代には手賀原氏の馬場だったとの伝承あり。

手賀城から南に離れた県道脇に手賀原氏の墓所。原氏は小田原北条氏と結んで主家の千葉氏に匹敵する勢力に成長。生実城、さらには臼井城と勢力を拡大後、手賀を含む香取の海周辺に進出。小田原征伐で手賀原氏も没落。子孫は江戸町奉行所与力として幕府に仕えたとのこと。(参考:歴史ガイドかしわ)

我孫子よりの手賀沼干拓地から望む手賀城。その視線の先には富士山も。

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