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小栗城探訪(茨城県筑西市) 2023年1月

小栗城の歴史

小栗城は、山地から西に張り出した、小貝川をよく望む高台に立地。平安時代末期の小栗御厨成立の頃から一帯に拠った小栗氏の居城。頼朝に嫌われた常陸平氏の中では、早い段階から頼朝に気に入られ、鎌倉時代を生き抜いた小栗氏。しかし南北朝動乱(1336年)の際には南朝方の攻撃。室町時代に勃発した上杉禅秀の乱(1416年)の際には鎌倉公方・足利持氏からの攻撃。その後、再び反抗した小栗満重の乱(1422-23年)により小栗城を失い、小栗氏は没落。結城合戦のすきをついて満重の子・助重は小栗城を一時奪還(1440年)。しかし、享徳の乱では上杉方が小栗城に籠った末に、足利成氏の攻撃を受け、落城(1455年)。

「里の国の中世 常陸・北下総の歴史世界(網野 善彦 」「日本歴史地名体系」「図説・茨城の城郭(茨城城郭研究会)」「享徳の乱(峰岸純夫著)」などを参考にすると、上記のような歴史を小栗城は持つらしい。

小栗御厨とともに始まる小栗氏の歴史。伊勢神宮領であった小栗御厨の鎮守だった小栗内外大神宮の裏の山が小栗城である。

撮影地点

小栗城へは内外大神宮の裏手から登ることができる。入口には城址の碑も立ち、解説板も設置。藪で見にくいところが多いが、城址見学のための道が整備されている。とはいえ、かなり急な傾斜を登るので、滑って落ちると怖い、ちょっとした山登りである。解説板の概略図は実際の地形と対応が付けにくいので、撮影地点はカシミールスーパー地形図で表現。クリックでTwitterの投稿ページが別ウィンドウに開きます。

関東平野の中世城郭というと、段丘面上のローム層を掘って盛って切ってつくることが多いと思うが、地質図ナビによると小栗城は北東の山地から延びる付加体の地質。ローム層よりも固そうな地質を加工して造った山城の様相で、山頂に向かって階段状に郭が設けられている。

カシミールスーパー地形でも味わえる階段状の腰郭

小栗城への登り


地点Aは堀底の道のような登り。立体写真。
地点Bでも堀底のような道が続くが確証は持てない。立体写真。
地点Cでは主郭部に登る道と、地点Dの湧水地へ至る道が分岐。
地点Dに行くと確かに森の奥から湧水が流れてきている。
地点Dの森から流れ出た湧水は低地に到達したところで溜まっているか。
分岐点の地点Cに戻り、主郭部に向かって登り始める。立体写真。
主郭部へ少し登った地点Eから地点C方向を振り返る。地点Dに湧水をもたらす天然の谷が横切っているが堀の役割を果たしているか。立体写真。
腰郭の平坦面を歩いて地点Fを通過。立体写真。
歩いてきた腰郭の平坦面を地点Gで振り返る。立体写真。
地点Hで腰郭から再び登りが始まる。
地点Iには下から2段目の腰郭か。立体写真。
地点Jに向かってさらに標高をあげる。
地点Jから下を見下ろす立体写真。
地点Kには土塁というには上面が幅広い土壇のような構造。立体写真。
地点Lで地点Kの土壇のような構造を振り返る。立体写真。
地点Mに至ると目の前に巨大な送電鉄塔。三の丸に設置されている。

小栗城山頂部

三の丸に出ると送電鉄塔に目を奪われてしまうが、三の丸に入る手前の地点Oあたりに本丸へと登る道がある。
本丸には標柱もたてられている。
本丸の地点P2から小貝川の低地を見下ろす。一帯を監視するにはもってこいの高台だ。
送電鉄塔が足をつく三の丸の平場の地点Nから山を下る道をたどる。

小栗城からの下り

しばらくは大した下りではないが、地点Qあたりから強烈な下りが始まる。道は送電鉄塔の管理道だろうか。
急な下りに風景をとる余裕もなく、地点Sの腰郭らしき平坦面で一息ついて立体写真。
さらに下って、地点Tの腰郭らしき平坦面で立体写真。

小栗城周辺

小栗城のそばを流れる小貝川。小栗城の山にあたって、南流してきた流向を大きく西に変えている。
小栗城そばを流れる小貝川には堰が設けられ、城郭地名である根古屋が付いた設備が存在。
今昔マップで100年以上前の地図を眺めると根古屋の集落が記載されている。治水地形図で眺めると自然堤防の微高地に存在した集落らしい。
小貝川の堤防から現在の根古屋地区を眺めるパノラマ。送電鉄塔が建つ背後の山が小栗城。現在の根古屋は、栃木県真岡市に属する不思議。
小栗城から筑波山へのパノラマ


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