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芝原城(千葉県我孫子市) 2019年2-4月, 2020年5月

芝原城

別名・中峠城。かつての利根川、そして利根川東遷前の中世には常陸川(あるいは広川)の流れの跡である古利根沼の南岸に位置し、周辺には根古屋という地名も残る。朝霧の芝原城に行ってみた。

画像はカシミールスーパー地形で味わう手賀沼周辺の城郭分布。

芝原城の歴史

戦国期の芝原城は河村氏の城。河村氏は古河公方の家臣。古河公方足利高基と小弓公方足利義明が対立していた頃に、古河方の拠点確保のため当地へ配置されたと「東葛の中世城郭」。小田原北条氏が推戴する足利義氏が成立後は芝原城の西にある柴崎とともに一帯は御料所となる。義氏没後は小田原北条氏配下となり、佐竹氏方との下野での合戦で討死者も出している。秀吉の小田原攻めの際には、下総討伐軍の浅野長政・木村常陸介に攻められ開城。川に面する立地から、水運や水軍との関係も「東葛の中世城郭」では推定。「我孫子の地名と歴史」では順道塚について触れている。河村氏の家臣だった林順道は芝原城落城の際に城主の妻子の先途を見届け、従士32名とともに自害。江戸時代に入って供養のため自害の地にたてられたのが順道塚だという。

撮影地点

現地解説板に撮影地点を記す。クリックでTwitter投稿が別ウィンドウで開きます。

芝原城の遺構

芝原城址の一部は古利根公園自然観察の森になっている。
入口Aから森に入りしばらく行ったB地点。III郭とII郭の間の空堀を眺める。埋まってしまっているのか、かなり浅い。
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郭の北端地点Cから見下ろす空堀はなかなかの迫力。
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朝霧の中の光芒と空堀。II郭とIII郭の間の空堀の北端。
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III郭の北端にある盛り上がりをDから眺める。
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III郭の北端にある盛り上がりをCそばの空堀底から眺める。
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III郭の北端にある盛り上がりをDから眺めたパノラマ
III郭の北端にある盛り上がりの上を東に行くと幅がどんどん大きくなる。Eあたりで撮影。この構造はどう考えたらよいものか?
朝霧に包まれる廃城の森に現れた光芒。
自然観察の森を出て、車道を歩き、I郭とII郭の空堀をまたぐ。そのそばにあるG地点の土塁。
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G地点のI郭とII郭の空堀のそばにある土塁を角度を変えて。
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G地点の土塁の上からI郭とII郭の空堀を見下ろす。竹藪がひどくて表現しがたいが、結構深い空堀。
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I郭の西端H地点には異様な小山あり。先人のレポートでは物見櫓と考える人も。
急な石段があり、頂には名称不明の社が竹藪に囲まれて鎮座。
竹やぶの中の小山(櫓台?)を青線でマーク
I郭の西端H地点の社のある頂から下を見下ろすと怖いくらいの急傾斜。物見櫓に登った気分。

芝原城周辺

芝原城の南は狭窄地形となっている。「東葛の中世城郭」では、狭窄部に大手口の可能性も指摘。周辺には地理院地図にも根古屋と表記される城郭地名が現存。大手口から北方の根古屋を訪ねてみた。

カシミールスーパー地形で味わう芝原城周辺の地形。
中峠の台地の狭窄部。そこには追分道標。東は布佐・木下、西は布施、南は中峠村、北は足尾山と記されているらしい。地名は利根川水運で栄えた河岸。足尾山は筑波山系の山だが、恐らく根古屋にある足尾山神社を指すか?
中峠の追分道標。西への道は、芝原城中核部に至る。城だった時代からの道ではないだろうか?その後、岡発戸の低地の堤防上の道につながる。その先は水戸街道の街である青山・柴崎・我孫子があるが、河岸があった布施(柏市)が示されているのは利根川の水運関係者のための道標か。

下根古屋

中峠の下根古屋。新緑の春を迎えた旧家と畑の風景。お名前の他に「城代」という表札を出している旧家もある。中世から引き継がれている屋号だろうか?

順道塚

芝原城の東、根古屋にある順道塚。「我孫子の地名と歴史」によると豊臣方の小田原攻めの際、下総討伐軍によって北条方の芝原城(城主・河村氏)が落城。その時、城代だった林伊賀守順道をはじめ32人の家臣が自刃。自刃した場所に江戸時代に入ってたてられた供養碑と伝わる。

芝原河岸

下根古屋が乗る台地は古利根沼側で急崖となる。
崖の先には低地よりもわずかに高い土地があり、明治迅速測図の時代、そして現在も小さな集落がある。芝原河岸があった場所と想像。
中峠の下根古屋を抜けるとそこは古利根沼。

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