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臼井城(千葉県佐倉市) 2021年2月

原氏が拠る臼井城を軍神上杉謙信が攻めたものの、大敗北を喫し、関東の国衆が謙信から離れる節目となった臼井城の戦い(1566年)。臼井城の戦いは小説「最低の軍師」で描かれ、興味が高まっていた。というわけで訪ねた臼井城。主郭部の城址公園だけでなく、周辺の砦をめぐる探訪。臼井城と砦群には現在、臼井の街が広がっている。

臼井城の歴史

千葉氏一族の臼井氏が拠点を置いたのが鎌倉時代。室町時代には千葉孝胤と太田道灌の合戦の地ともなる。その後も臼井氏の居城であったが、足利義明が小弓公方となると、古河公方方の千葉氏を臼井氏は離反。国府台合戦で足利義明が滅びると、臼井氏は千葉氏に屈服し、その後、千葉氏重臣の小弓原氏の娘が臼井氏に嫁ぐ。代が変わって臼井氏当主が幼いことを理由に、原氏が後見役となり、やがては原氏が臼井城を幼い当主から奪い取る。千葉氏・原氏 vs .里見氏・正木氏が対立する当時の状況の中、原氏による小弓と臼井の支配がされるようになったようだ(参考:下総原氏・高城氏の歴史<上>第一部 原氏)

臼井城主郭部

撮影地点

まずは臼井城(千葉県佐倉市)の主郭部である城址公園を巡る。本丸と二ノ丸には豊富に遺構が残る。城址公園の解説板の縄張り図に遺構の撮影地点を落とすとこんなになるくらい見どころ多い。クリックでTwitter投稿が別ウィンドウで開きます。

解説板の立つ入り口を入ると二の丸の大きな広場。
二の丸の西から北にかけては、深い空堀に囲まれる。地点Oから立体視。
カシミールスーパー地形でもはっきりと表れる空堀。天然の谷津を掘り込んだ部分もありそうだが、三の丸と二の丸を分けるために人の手をかなり入れてつくったのではないだろうか?
二の丸の西から北にかけては、深い空堀。濃密な植生に覆われていて、さっぱり写らない。地点Mからの画像には、植生の向こうに本丸の地点Iあたりが写る。
二の丸と本丸をつなぐ土橋を眺める地点Bからの
立体視。
二の丸と本丸をつなぐ土橋上の地点Bから、北側の空堀を望む。右手に本丸、左手に二の丸。
立体視
二の丸と本丸をつなぐ土橋を地点Aから眺める。ちなみに地点Aが城址公園の駐車場となっている。空堀の中に車を停めるという貴重な体験。
立体視
いよいよ本丸に入り、地点Cから虎口をふりかえる。本丸は二の丸よりも高い位置にあることを実感。
立体視
地点Dの虎口を形作る土塁に登り、二の丸方向を眺める。間には空堀。
立体視
地点Eあたりからは印旛沼と成田街道沿いの臼井の街を望む。
地点Eあたりからは宿内砦も眺められた。
地点Fからは、本丸の北にある一段低い郭を見下ろす。
立体視
本丸が西に飛び出たような感じの地点Hからは立体視しがいのある本丸の土塁の風景。
立体視
地点Iから空堀をのぞき込む立体視。
本丸の縁に立ち、地点Jから土橋を眺める。横矢をかけやすい見事な構造。
立体視
土塁の上に祠があったので何気なく撮った地点Gあたりの風景。帰宅後に「首都圏発戦国の城の歩きかた」を読み返したら、枡形虎口だというではないか。風景の撮り方が甘かった。
北の小さな郭から本丸へは枡形虎口を介してつながると「首都圏発戦国の城の歩きかた」。地点Lから。
立体視
地点Rで本丸を印旛沼側に下りる。搦手口として、中世にも存在した出口といってよいのだろうか。

臼井城主郭周辺

臼井城の搦手口のような公園入口を出て北に進むと円応寺
円応寺は1338年に臼井氏の中興の祖とされる臼井興胤によって創建と伝わる。臼井氏の菩提寺で、現在も臼井氏先祖代々の墓がある。
日本歴史地名大系によると臼井氏は千葉氏庶流で、鎌倉時代に臼井城に拠った氏族。円応寺にも千葉氏の月星紋。
円応寺を創建した臼井興胤は中興の祖。下記ページによると鎌倉時代末期に三歳で興胤は家督を継ぐも、親族が所領を強奪。その後、足利氏について数十年かけて所領を取り戻した歴史があるようだ。幼い興胤を命を張って助けた家臣の岩戸胤安の墓も寺にはある。
円応寺に続いては臼井城の三の丸へ。二の丸と三の丸の間の大きな空堀の中を登る道が地理院地図にもあったので、ワクワクして進んだものの、地点Tで藪に阻まれる。
二の丸と三の丸の間の大きな空堀の底を地点Tから眺める。植生が濃い。
二の丸と三の丸の間の大きな空堀は藪に阻まれ観察できなかったが、地点Tでは中世の臼井城の水の手だったかもしれない湧水を味わえた。
二の丸から三の丸へは、車道となっている土橋を渡る。明治迅速図でも描かれているので、現役の城の頃から土橋だったと想像。
二の丸から三の丸へと通じる土橋を渡った先の地点Pには太田図書の墓。享徳の乱の際にも臼井城では大合戦が勃発。太田道灌vs千葉孝胤の境根原合戦後、千葉方は臼井城に逃げ帰り、太田軍を迎え撃つ。千葉方は敗北、臼井城は落城するものの、太田方も討死者多数。
二の丸から三の丸の間の深い空堀を眺めながら北上し地点Qには天満宮。臼井氏中興の祖とされる臼井興胤が太宰府多々良浜の合戦に足利方として参戦した際、太宰府天満宮に戦勝祈願。臼井に戻った後に守護神として勧請したと「関東一円古城ハイキング」。
三の丸の中には星神社。日本歴史地名体系によると原胤栄が建立とある。上杉謙信の臼井城攻めの際の当主・原胤貞の次代にあたる当主が原胤栄。

臼井城主郭部から宿内砦へ

臼井城主郭部の城址公園の本丸・二の丸、星神社などがある三の丸を巡った後に大手道を南下。カシミールスーパー地形&地理院地図でも臼井城の大手道ははっきりしている。城の主郭部を囲むようにして砦が配置されている構造は惣構と「下総原氏・高城氏の歴史 第一部 原氏」。

大手道を南下すると、成田街道旧道との交差点に到達。成田街道旧道を眺める。
成田街道旧道沿いは明治時代は賑やかな雰囲気。
成田街道旧道との交差点付近の大手道は成田街道旧道に比べると狭く、緩く湾曲している。
臼井城の大手道から成田街道旧道へと曲がり、東に進んでみると妙伝寺。歴史は不明だが、台地の縁に建つ姿に惹かれて吸い込まれる。
妙伝寺は台地の縁に建っているので、台地と印旛沼の間に発展した臼井の街を一望。現在の京成臼井駅ができる前の中心街を眺める。
臼井城の東側の中宿まで来た。
中宿は現在でも渋滞が常態化する丁字路だが、明治迅速測図の時代も成田街道を行き来する人々で賑わっていそうな雰囲気。
中宿には道路元標が立つ。

宿内砦

近世の臼井宿を少し堪能した後、再び中世の世界。臼井城探訪は宿内砦へ。宿内砦は公園になっており、遺構が豊富に残るとされるが、縄張り図などの解説は現地では見つけられず。余湖さんのページを参考に遺構を巡る。

撮影地点

立体視撮影したポイントは多数。クリックでTwitter投稿が別ウィンドウで開きます。

宿内砦(千葉県佐倉市)の公園としての入口。駐車場も備わっていた。たんぽぽの丘という別名もあるらしい。 臼井出身のBUMP OF CHICKENの曲のモチーフにもなっているようだ。
地点Aに立ち、空堀らしき凹地の向こうの郭を見上げる。
立体視
郭への入口を地点Bより眺める。
立体視
郭への入口を地点Bよりパノラマ。
いよいよ郭の中に入って地点Cから振り返る。現在の公園の歩道は中世の虎口とみてよいのだろうか。
立体視
地点Cから郭の中を見渡す。少し段差がある。
立体視
郭の北の縁まで行くものの、あまり視界は開けない。木の間から印旛沼。
郭の縁に立ち、切岸かもしれない急斜面を味わおうと試みる。
立体視
主郭の南東には腰郭のような一段低い平場。地点Eから。
立体視
地点Fから郭の南勢の縁の土塁を再び眺める。
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郭の南勢の縁の土塁に登り地点Gから郭の外を眺める。
立体視
郭の南勢の縁の土塁に登り地点Gから郭の外を眺める。
立体視
郭の南勢の縁の土塁に登り地点Hから郭を眺める。

宿内砦から謙信一夜城へ

宿内砦の遺構を堪能した後は、街中を歩いて謙信一夜城へ。

宿内砦から謙信一夜城への道はニュータウンの中。途中、稲荷台砦があったようだが、気がつかずに通り過ぎてしまう。
見逃してしまった稲荷台砦。一帯はニュータウン造成で台地の削平と谷津の埋め立てが激しく、そもそも跡形もないのかもしれない。造成によって、緩い坂道の街並みになっているのだろう。リンクはちば情報マップ埋蔵文化財包蔵地での稲荷台砦の位置。
宿内砦から謙信一夜城へ道中、京成臼井駅を越える。
調べてみると、かつては近世臼井宿のあった町の中心近くに駅はあった。1978年に現在の位置に移転。それに合わせて移転後の駅周辺での大造成が始まり、台地と谷津の地形がなだらかになったようだ。

謙信一夜城

謙信一夜城へ到着。一夜城の名がつく公園となっている。
公園といっても歴史公園ではなく、ニュータウンの中の遊具がある普通の公園。
謙信一夜城周辺も、昭和期の造成で台地と谷津の地形がすっきりなだらかになっている。
昭和の造成前の地形上では謙信一夜城は台地の上。宿内砦や稲荷台砦のある台地とは谷津を挟んだ位置にある。造成前の台地の地形に謙信一夜城と臼井城の砦群を配置して、当時の対峙の雰囲気を味わう。
臼井城に攻めてきた上杉謙信。その前に小金城(松戸市)の高城氏を囲んだり、意富比神社(船橋市)に制札を出しているという。台地の上を進軍してきたのだとすると、地形からの推定はこんな感じになるだろうか?
臼井城(千葉県佐倉市)に攻めてきた上杉謙信。一夜城公園には巨大な石碑。大造成で失われてしまったが、地元の人たちにとっては一夜城の存在は大きかったのだろう。石碑を建てたのは土地区画整理組合だった。

謙信一夜城から田久里砦へ

謙信一夜城から跨線橋を越え北上すると現れる国道296号線・成田街道との大きな交差点。
このあたりが臼井城の大手門らしい。
大手門があったという臼井台交差点から大手道を眺める。
大手道を少し北上した後に、西に折れ、手繰川の谷へと下る。
手繰川は四街道のあたりから流れを発し、臼井城(千葉県佐倉市)の西側に大きな谷をつくっている。臼井城の西側を守る天然の堀となっていたのだろう。
手繰川の谷寄りの守りを固める田久里砦の解説板が立つ長谷津公園に到着。こちらも普通の公園。
田久里砦があった場所も、現在のなだらかな地形から判断すると造成で大きく改変されていそうだ。
造成前の田久里砦があった場所は北から南へと延びる舌状台地だったようだ。
田久里砦の解説板によると、鎌倉時代の臼井氏が市川道への押さえとして築城とある。
市川道は旧成田街道(現在の国道296号線)とすると、中世から船橋から通じる主要道があったのか。謙信が通った道かもしれない。手繰川には渡しでもあっただろうか。
田久里砦の脇を通る旧成田街道のルートは現存。
路傍には石仏。
田久里砦の脇を通る旧成田街道では眺めの良い場所を見つけパノラマ。
田久里砦の北の台地の上をくねる旧成田街道を北上すると鉤型路も現れる。
萌える鉤型
台地上を北上する旧成田街道が東へと向きを変える丁字路には古い道標。探訪は丁字路を西へと曲がった後に仲台砦を目指し北上を継続。
途中には実蔵院。由緒は不明だが、鎌倉時代末期の木造阿弥陀如来坐像が伝わるらしく中世の香り。
仲台砦も造成によって失われていることを地形図は語る。
造成によって失われた仲台砦。カシミールスーパー地形で眺めると一層よくわかる。台地が削られ、谷津が埋められ、なだらかな地形になり八幡台の住宅地となっている。
造成によって失われた仲台砦の台地の先端があったあたりに到着。造成された緩斜面のニュータウンを眺める。臼井城に興味を持たせてくれた「最低の軍師」では、小田原勢が守る仲台砦が大激戦の舞台となる。
造成によって失われた仲台砦の台地の先端があったあたりから印旛沼を眺める。「最低の軍師」では、白井浄三の奇策が次々にくりだされる。その中には仲台砦の土塁を崩すというシーンも。軍記物かもしれないが「千葉実録」なる文書にそのような表現があるらしい。

「千葉実録」と同様の表現が「千葉盛衰記」にもあるようだ。「片山の岸夥敷崩れて山際に扣へたる越後勢三百人はかり推に打れて死けれは」を検索したところ、下記の資料にあたる。
長くなってきた臼井城探訪。最後に訪ねたのは臼井八幡社
臼井八幡社(千葉県佐倉市)は、造成前に遡ると仲台砦の台地とは谷津を挟んだ向かいの台地上に鎮座。
臼井八幡社(千葉県佐倉市)は臼井氏中興の祖とされる臼井興胤が太宰府多々良浜の合戦に足利方として参戦した際、宇佐八幡に戦勝祈願。臼井に戻った後に1338年に守護神として勧請したと説明書き。
臼井八幡社(千葉県佐倉市)の説明書きには興味深い記述。本殿横のクスノキは臼井興胤御手植え伝承があるようだ。1861年に枯れ死して以降もご神木として保存されているとのこと。
臼井八幡社(千葉県佐倉市)。「最低の軍師」では、臼井八幡社の神職がヒロイン。重要な役割を果たす人物として描かれる。
臼井を離れる途中で師戸城に立ち寄り、臼井城の全容を遠望する。
師戸城から臼井城の全容を遠望するパノラマ


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