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布川城(茨城県利根町)


布川城の立地と歴史

布川(茨城県利根町)の台地は孤立台地のように見えるが、龍ケ崎市のページによると現在の利根川の流れは1630年の開削の結果だという。開削前を想像すると、我孫子から連なる台地の先っちょ。中世城郭をその先っちょに構えたのが豊島氏。

新四国相馬霊場88ヶ所を巡る会のページにあった地図を参考に古代の常総の河川・内海と東海道を考える。布川(茨城県利根町)は手賀の海と広川(常陸川)の合流点であり、我孫子から台地上をたどる東海道が向きを変え龍ケ崎へと行く地点(渡船場?)でもある。古代の交通ルートを中世も受け継いでいたのだとすると、豊島氏が拠った布川は水運・陸運の交通の要衝として栄えたと想像。

龍ヶ崎市史は「布川領の形成と豊島氏の動向」で豊島氏に関しても詳しい。太田道灌に滅ぼされた豊島氏との関係がありそうだ。広川を遡った地にある古河の豪商・福田氏に1578年に出した布川津への往来許可書が残るようで、やはり水運を支配していた領主か。

本丸・二ノ丸の撮影地点

常総の内海と河川の低地に突き出した台地の先っちょにある布川城。その中で遺構が多く残る南西部の本丸・二ノ丸周辺をまず訪ねる。

本丸

布川城の本丸があった台地上には徳満寺。1571年という豊島氏の時代に開基の寺院。開基当時は今の門前にあったというから台地の下か。布川城が廃城になった後に本丸の台地上に移転と説明板。

徳満寺の境内には布川城の縄張り図。本丸と二ノ丸の間の橋の推定がある。抜け穴も表現されている。発掘調査の結果だろうか?

布川城の本丸。徳満寺の地蔵堂の裏手の土塁を地点Aから立体視。

布川城の本丸。徳満寺の地蔵堂の裏手の土塁や馬出郭への土橋を地点Bから立体視。地点Bもヤグラとの表記がある。

布川城の本丸にある徳満寺は、若き柳田国男に影響を与えた間引き絵馬が有名

布川城からいったん低地に降り、地点Cから馬出郭へと上がる。

布川城の馬出郭には琴平神社が鎮座。創建不詳で天明6年に再建。日本歴史地名体系によると江戸時代には布川河岸の守護神として信仰される。天明6年(1786年)というと浅間山天明噴火(1783年)の影響により利根川で史上最悪の洪水があった年。布川河岸にも甚大な影響があっただろう。

布川城の馬出郭内の地点Dから、本丸へと続く土橋を眺める立体視。

布川城の馬出郭と本丸をつなぐ土橋上の地点Eから空堀を眺める立体視。

布川城の本丸と二ノ丸を隔てる大きな空堀を地点F(一枚目)、地点G(二枚目)から眺める。明治迅速測図でもざっくり切られている表現なので、車道を通すための拡張工事前も迫力ある姿だったと想像。

利根川東遷事業に伴う1630年の開削の前は我孫子から連なる台地の先端だった布川城。勝手に開削前の台地の線を復元するとこんな感じか。有事の際は台地の先端に籠るべく、二ノ丸と本丸の間の空堀は台地を遮断する大堀切として機能していたと想像したくなる。

二ノ丸

布川城の二ノ丸に足を踏みいれる。抜け穴があったという地点H。抜け穴とはどんな機能を果たしていたのか。

布川城の二ノ丸の地点I。このあたりから本丸に向かって、大空堀にかかる橋があったと縄張り図は推定。電線を支えている電柱が建っているのは堀の底。

布川城の二ノ丸の現在は利根町役場。中世の行政の中心だった城址が現在まで中心として続いていると心躍ったが、この地に庁舎が建ったのは平成元年だと碑が語る。それまでは気象測器工場があったという。

布川の街歩き

布川城のある台地南縁の崖下の道を東に行く。治水地形分類図を見ると、段丘崖の下に低地ではなく段丘崖の下にまた段丘面があるという不思議な表記。その崖下の段丘面上に明治時代の街道が通じ、街並みも賑やかそうだ。

布川城のある台地南縁の崖下の道は段丘面。カシミールスーパー地形で眺めると崖下は低地に比べると確かに少し高い。崖の傾斜は急崖。

布川城のある台地南縁の崖下の道を東に行き、栄橋方向をふりかえる。

布川城のある台地南縁の崖下の道を東に行き、崖の方向を眺める。わずかに高い駐車場。一帯は利根川に隣接し洪水も多かったはず。崖を崩して後退させ、その土砂で崖下の低地のかさ上げを行った可能性はないだろうか。

布川城のある台地南縁の崖下の道沿いにある利根町 布川地区コミュニティセンターもわずかに高い。

布川の台地下の道を東に行く。台地の下ではあるが低地よりわずかに高い場所に来見寺。1560年に豊島頼継が開基。その際には頼継寺(らいけいじ)と呼ばれたが、豊島氏滅亡後は家康によって来見寺(らいけんじ)と改名と伝わる。

日本歴史地名体系によると家康がこの地を訪れ、来見寺と改名したのは1604年。気がつかなかったが家康の植えたという梅も現存するらしい。家康と縁があることで赤く塗ることを許された赤門も残る。家康にまつわる伝承が多い寺院。

来見寺には豊島氏の墓所があるというので探し回ったが見つからず。古い墓石が並べられた台地の崖の途中から利根川方向の低地を眺める。

来見寺裏の台地の崖下に近づくと地面の上に貝殻が落ちている不思議。布川貝塚であることを来見寺そばの解説板で知る。

来見寺の前には鉤型路。崖下の微高地地形の影響か、あるいは中世から近世初期の防御性を高めた街道形状の名残か。

布川の台地南縁の崖下の道を東に進み到達した布川神社の参道階段。

布川神社は、1630年に行われた台地開削を元に戻すと我孫子から続く台地の先っちょとなる。

布川神社は鎌倉時代に豊島氏によって創建と解説板。鎌倉道沿いと推定されるので、13世紀に布川が栄え、創建はあり得そうだが、豊島氏による創建というのはどうだろうか。武蔵豊島氏の遠隔地の所領だったろうか。鎌倉時代は相馬氏の勢力圏ではないだろうか。

布川神社は鎌倉時代に豊島氏によって創建と解説板。太田道灌に豊島氏宗家が滅ぼされた後に一族が遠隔の所領に逃げ、布川の豊島氏の流れとなったという考え方は龍ケ崎市史でもあったが、鎌倉時代にすでに領有していただろうか。

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