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第14話「前哨戦」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1578年(天正六年)3月、大友宗麟は、日向国の戦国大名・伊東義祐と、日向国でゲリラ活動を行っている伊東の旧臣たちの要請を受ける形で、九州南方への攻略、すなわち日向国への出兵を家中に命じました。

宗麟が最初に命じたことは

「裏切者の土持親成を滅ぼせ」

でした。
同年3月13日、大友家当主・大友義統が30,000の兵を率いて、出陣しました。これに従う武将は

佐伯惟教(佐伯氏当主/加判衆/豊後栂牟礼城主)
志賀親度(北志賀氏当主/豊後岡城主)
田原親賢(田原氏庶流/宗麟義弟/加判衆/豊前妙見嶽城城主)
田北紹鉄(大友家庶流・田北氏当主/豊後熊牟礼城主)
田北鎮周(紹鉄の弟/豊後甲ノ尾城主)

などで、豊後、豊前の精鋭部隊とも言えるものでした。

3月15日、義統は宇目(大分県佐伯市)に本陣を置き、ここを県(あがた/宮崎県延岡市)攻めの最前線としました。

佐伯惟教の憂鬱

この動きを察知した県土持氏当主・土持親成は、居城である県松尾城(宮崎県延岡市松山町)にて迎撃の準備を進めると共に、島津氏に援軍要請を行いました。

しかし、この時、伊東氏の旧臣で門川城主(宮崎県東臼杵郡門川町)の米良四郎左衛門や、石ノ城(宮崎県児湯郡木城町)に潜伏していた長倉勘解由左衛門尉が一斉蜂起して、県土持氏と島津氏の間の連絡を遮断しました。これにより県土持氏は島津氏の救援が得られず、孤立化してしまいます。

同年4月7日、大友軍は日向国入りし、社ケ原(現在の延岡市立東海小学校、東海中学校付近一帯)に布陣しました。

総大将である義統は、今回の大将の一人である佐伯惟教に県土持氏の居城・県松尾城攻略を命じました。これは宗麟の命令でした。

実は佐伯惟教の妹は土持親成の正室として輿入れしていました。惟教に取って親成は妹婿にあたります。そのため、戦争になる前から惟教は親成に降伏するように再三再四働きかけ、宗麟との仲介の労をとりました。

しかし、親成が折れなかったため戦争となり、さらに大将の一人として出陣命令がくだされ、惟教の心はズタズタの状態にありました。

宗麟は非情にもその惟教にさらに松尾城攻略を命じたのです。

(殿も酷いことをなさる......)

惟教の心は乱れていました。大友軍総勢30,000の前に松尾城など赤子の手を捻るようなものでした。もはや親成の運命は決まったようなものです。その妹婿を自ら手に掛けねばならない運命を呪い、それを命じた主君を憎みました。

しかし、やがて惟教は「これは最後のチャンスかもしれない」と考えるようになります。惟教は最後の賭けとして、惟教自身が松尾城を攻め落とすことで、親成を捕虜にし、宗麟・義統に助命嘆願を試みようと考えたのです。

県土持氏の滅亡

同年4月15日、惟教は軍勢を率いて県松尾城を包囲し、激戦の末に落城させました。しかし親成は数十騎を率いて城から逃亡しており、焦った惟教は周囲一帯に非常線を張り、行縢付近(延岡市行縢町)で親成を捕縛することに成功します。

惟教は、当初の計画通り、総大将である義統に親成の最後の命乞いを求めました。しかし、義統は「父上の御裁可を仰ぐ必要がある」として、親成の身柄を豊後に移送すること決めました。

ところが、その移送の途中、親成は豊後国浦辺(宇佐市あたり?)で自害しました。ここに平安時代よりおよそ700年続いた名族・県土持氏は滅亡することになります。

県松尾城を落とし、県土持氏を滅ぼした宗麟は、日向国北部の脅威を取り除くことに成功しました。宗麟は惟教に松尾城を修築させて次の戦いに備えさせると、「牟志賀」(延岡市無鹿町)への駐屯を命じました。そして一旦全軍を豊後に退かせたのです。

宗麟としては、前哨戦は勝利を収めたものの、島津の軍勢と戦ったわけではありません。よって、この後、島津氏がどういう出方を取るのか、また伊東の旧臣たちがどのように動くかの模様を見てから、次の動きを決めようと考えました。

この時点では、宗麟は本気で島津氏と戦争する考えはなかったと考えています。元々、大友氏と島津氏は両国を接しておらず、どちらかというと緩い同盟関係にあったようなものでした。よって、今回の宗麟の日向出兵は島津と戦争をするというより「裏切者の土持親成を成敗する」ことが主目的だったのではないかと思えてなりません。

ただ、日向国北部が大友氏の実効支配下に入ったことは確実で、その証拠にこの戦いの終了後、大友軍は県領内の神社仏閣をことごとく焼き払いました。これは宗麟の野望である「この地にキリスト教王国の礎を築く」ために神社仏閣が邪魔だったと言われております。

経緯はともかく、事実、寺社建築から仏像、古文書の類いまで宮崎県北部の近世以前の文化財と一次史料が破壊、消失しております。これが後世の宮崎県北部の歴史研究を大きく遅滞させた原因の1つになったのは確かでしょう。

島津氏の動き

宗麟が県土持氏が攻撃して県松尾城を落としていた頃、島津氏は何をしていたかというと、多分「何もしていなかった」と思われます。

土持親成から島津氏への援軍要請が伊東氏の旧臣たちの動きによって阻まれたとは言え、県土持氏の島津氏への臣従について、これまで主であった大友氏が黙っているはずがないと考えるのが妥当です。

一応、県の周辺に島津家久(当主義久四弟)が軍勢を率いて駐屯していたにもかかわらず、具体的な軍事行動がなかったのは、この時の島津氏にはその余裕すらなかったのではないかと思えるのです。

まず西暦1578年(天正六年)2月、島津家当主・島津義久は日向を実効支配していた伊東義祐を豊後に追放することに成功し、日向支配の論功行賞を行っている時期です。日向国内の各城主もこの頃に確定しています。つまり新しい支配体制に移行したばかりで、領国外からの軍事態勢が整っておらず、そんな時に大友が攻めてきたと考えられます。

また、島津氏の対伊東最前線が日向国の高原城(宮崎県西諸県郡高原町)から飫肥城(宮崎県日南市)にかけての山峰ラインだったのですが、伊東氏の没落、県土持氏の島津氏への臣従により、領国の最前線が日向国県地方の最北まで北上していることから、その最前線に対しての最適の布陣ができていたとは言い難い状況だったと思われます。

西暦1778年(天正六年)6月、県土持氏の滅亡を知った島津義久は、島津忠長(義久の従兄弟)、伊集院忠棟(島津家家老)に、兵7000を与え、島津氏の実効支配最北に位置する高城(新納院高城/宮崎県児湯郡木城町)の真正面に位置する大友方の石ノ城を攻めろと命じます。

この石ノ城は、大友軍が県土持氏を滅した際、伊東の旧臣・長倉勘解由左衛門尉が一斉蜂起して城を奪っていました。石ノ城は断崖絶壁の上に築かれた天然の要害です。なおかつ深い天然の渓流に守られており、その防御能力は格段に高い要塞でした。

同年7月6日、島津忠長、伊集院忠棟の両名は、石ノ城に対して攻城戦を仕掛けますが、その防御能力と、長倉らの決死の戦いぶりに成す術はなく、500兵以上の損害を出し、忠長は負傷という大敗を喫します。忠棟はこの状況を鑑み、体制を立て直すために高城よりはるか後方の佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)まで撤退することを決めました。

同年7月20日、忠棟の報告を鹿児島で聞いた島津義久は、合戦の舞台が高城(新納院高城)付近になることを察すると共に、実弟である島津義弘、歳久、家久に、島津四兄弟の総力を挙げて、高城を死守することを命じます。

日向国の支配権を巡って、北部九州六ヶ国を実効支配下に置く大友宗麟と、南部九州三ヶ国を実効支配下に置く島津義久の戦いは、もう避けられないところまできていたのです。

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