見出し画像

《オーロラの正体 Santacraft 0》



注意事項

・この小説はフィクションであり、実在の人物、団体等とは一切関連がありません。

・この物語はオリジナルの設定と登場人物、パロディ、私のわがままを多分に含んでおります。パラレルワールドやスピンオフものとして楽しんでいただければ幸いです。もし内容がご自身の好みに合わないと感じた場合には、ブラウザバックをお願いします。

・読み終えるのに約2時間半を要します。





プロローグ


メロディーが止んだ。

ディナーショーのクライマックスで起きた突然の出来事。

会場内は一瞬の静寂に包まれ、次いでざわめきが渦巻き始める。

小刻みに震えるヒナの手を、ヒメの手が握った。

ステージを見つめる二人の瞳に映るのは――炎だった。



1章:君の名前、ヒメって言うんやね


「ああああ寒い寒い寒い死ぬ死ぬ死ぬ!!」

二人組のアーティスト、ヒメとヒナが澄んだ冬の夜空の下で、心の底から叫びをあげていた。

現在の気温はわずかに氷点下を下回り、基本的にインドア派の二人には、相当堪える。

「ヒナ!これで例年よりあったかいんだってー!」

「ひょえー!嘘でしょ!?」

そんな二人の頬を紅潮させるのは寒気だけでなく、期待のせいでもあった。

ヒメとヒナは、太琉瑠島たるるとうへの到着の瞬間を確かめるため、フェリーの甲板へ足を運んでいた。

フェリーの中心から柔らかい光が船内に広がり、周囲の旅行客たちは談笑や飲み物を楽しむ姿で賑わっているのがわかる。

遠くの暗闇に浮かび上がる太琉瑠島のシルエットに、二人は寒さに震えながらも胸を躍らせた。

目的の島は北海道南部から少し離れた、海にぽつんと浮かぶ、隠された宝石のような島だ。


目をぎゅっと閉じると、凍りつきそうな二人の瞼の裏に、数日前のクリスマス・オンラインライブが鮮明に思い出される。

バーチャルな空間の中で、二人のパフォーマンスはリアルな感動をファンに運んでいた。

それぞれの楽曲ごとに、画面越しであっても拍手や歓声がはっきりと聞こえていた。

あの暖かなクリスマスライブの余熱を胸に、今宵、ヒメとヒナが足を踏み出した新たな冒険――

それが、ヒナがこっそりと計画していた今回の旅行だった。

ライブの成功を祝うと同時に、ヒメへの感謝の気持ちを込めて、この冬の旅を遅ればせながらのクリスマスプレゼントとして用意していたのだ。

フェリーの振動が静まり、ヒメとヒナは港に足を踏み出した。

「うわ!こりゃ外国に来たみたいだね!」

周囲を眺めると、目の前に広がる港町の景色は、異国情緒に溢れていた。

雪の積もった赤い瓦屋根の家々、白く塗られた壁、小窓には花の鉢植えが飾られ、歴史的建築のような雰囲気が漂っていた。

路地には、古い街灯と並木道が続き、カフェのテラスで窓越しに地元の人々が談笑している。

古びた石畳の道を歩んでいると、遠くで鐘の音が聞こえてきた。

「何の音?お寺とかあるのかな?」ヒナが首を傾げた。

「え、お寺はもっと、ゴーーンって感じじゃない?教会か?」

返事をしながらヒメが視線を上に向けると、山の輪郭が見え、その中腹に点灯する温泉宿の灯りは、まるで星のように輝いていた。

港の一角には、緑色のシャトルバスが待機していた。

そのバスには宿の名前が大きく書かれており、温かい灯りの中でドライバーがゲストを待っている。

ヒメが指をさして

「あれに乗れば宿まで行けるのかな?」と言い、ヒナが笑顔でうなずいた。

15分ほどでバスが停車すると、そこには一面の雪景色を背景に、二人の宿泊する温泉宿が優雅に佇んでいた。

夜の闇に照らされる外観は、伝統的な風格と、現代の洗練を併せ持っていた。

特徴的な多角形の屋根が雪をまとい、いくつかの煙突からは白い煙が立ち上っている。

北国の寒さを感じさせる外観とは裏腹に、宿の中からは暖かな灯りがこぼれてきていた。

建物の周りはしっかりと除雪されているものの、所々には足跡が残り、人々の行き来の様子がうかがえる。

宿の庭には高くそびえるモミの木が点在し、その木々の間には風鈴のような飾りがゆらゆらと揺れていた。

建物の正面には大きな木製の看板が掲げられ、比較的新しい筆跡で”極光の湯宿”と、そのすぐ下には古めかしさを感じる”霜弧亭”という文字が。

「これ、何て読むのかな?」ヒナが看板を指差す。ヒメは笑って

「えー!?予約したのはヒナでしょ?…まあヒメも読めないけど」と言った。

二人はちらりと視線を合わせ、雪景色の中で声を合わせて笑った。


他の客に続いて、ヒメとヒナは宿のエントランスを抜けた。

障子をガラスに張り替えて拡大したような引き戸を開け、一歩足を踏み入れると、冷えた体を溶かすような暖かな空気が包み込んできた。

ヒメとヒナは思わず息をのんだ。

ヒメは目を輝かせ

「すごいすごい、こんなに豪華だとは思わなかった!」と跳ねた。

一方、ヒナも

「えー!こんな立派なのー?」と驚きの声を上げた。

オフシーズンだから何とか予約の取れた、人気の旅館であった。

二人はしばらく、その場でキョロキョロして独特な雰囲気を堪能した。

縦格子の間仕切りが部屋全体に和の趣を与えつつ、白と淡いベージュの優しいカラーパレットがそれを取り囲んでいる。

壁際には、きゃしゃなフォルムの観葉植物とドライフラワーが飾られ、季節感を醸し出していた。

北欧を思わせるミニマルさがありながらも、部屋の各所に置かれた小物や照明から、わびさびを感じられる。

エントランスの一角には、外に面した壁がガラス張りになっており、その透明な窓越しに外の景色が望めるようになっていた。


「おシャンデリアだ!」

と、ヒメがダジャレを交えながら指差したのは、折り紙で作った風船を思わせる、提灯状のシェードに包まれたシャンデリア。

隙間からキラリと鏡のような反射板が見え隠れしている。
広いエントランスの奥のカーテンの前で吊り下がる、不思議と目を引く存在だった。

インテリアのどれもがただの装飾としてではなく、部屋そのものがミュージアムのような雰囲気を持っていた。
 

チェックインが完了し、二人が部屋へと向かおうとしたその時、ヒナがいきなり立ち止まった。

「あ、ちょっと待って、ヒメ!」

と、その声はいつもより真剣味を帯びていた。

「どうしたのヒナ?」

「Wifiのこと確認してくる!」

ヒナはスマホを握り締め、避難経路を確認しに行くかのように、早足でフロントへ引き返していった。

ヒメは内心、(荷物を置いた後で良いのに)と呆れつつも、ヒナのあとを追った。


二人がフロントでWifiのパスワードを確認したのち、再び部屋に向かって歩いていると、年配の女性と、黒髪の女の子が楽しげに会話している横を通った。


年配の女性は濃紺の雅やかな着物を纏っていた。

その着物の七宝柄の模様は、ところどころに光る箔押しが施されており、落ち着いた中にも風格がある。

髪はきっちりと束ねており、それが更なる格式を演出していた。

首元には小さな真珠のネックレスがさりげなく輝いており、上品でありながらも存在感を放っている。

彼女の所作からは、多くの人々と接してきた経験と、余裕を感じさせるものがあった。


一方、その隣に立つ、黒髪の女の子は鮮やかな緑の目をしていて、背丈はヒメやヒナと同じくらいに小柄だった。

前髪は綺麗に切り揃えられ、長い髪はナイロンの黒いフードコートの中に収められていた。

コートは腰ベルトで少し絞られており、両胸に長い八の字のジップラインが際立ったデザインだった。

そして、フードの裏地からも彼女の目と同じ鮮やかなグリーンが覗いていた。彼女はリュックを背負っており、周りと同様に旅行客のようだ。

左の手首には白くふわふわとしたファーの付いたブレスレットが見えた。


ヒメとヒナが通り過ぎようとした瞬間、黒髪の女の子の声が耳に飛び込んできた。

「なんや、姫はおらんの?」 

「え?!ヒメ?!」

とヒメはその名前が聞こえたことに驚いて、指を自分に向けた。

その大きなリアクションに、女の子は一瞬不思議な顔をしたが、すぐに状況を理解して

「あは、ヒメって名前なんや!君の名前、ヒメって言うんやね」と、明るく笑った。

その横で、着物の女性が女の子の方に微笑みつつ

「ゼン、ため口はいけないよ。この二人は本日から当館の大切なお客様よ」と軽く注意した。

その後、ヒメとヒナの方に向かって、その女性は優雅に手を挙げて、

極光の湯宿 霜弧亭きょっこうのゆやど じゃっこていへようこそ。お二人を心からお待ちしておりました。」
と、温かな笑顔で歓迎した。

この女性は旅館の女将だった。


「きょっこーのゆやど、じゃっこてい」

と、ヒナが女将の挨拶を繰り返してみる。宿の入り口で、読めなかった漢字だ。

「はいリピートアフタミー、キョッコーノユヤド、ジャッコティ」

とヒメが突如ふざけだしたので、ヒナは笑った。

他の二人も少し笑ってくれた。


「“極光”っていうのは、オーロラのことなんよ」ゼンと呼ばれた女の子が説明した。

 ヒメとヒナは目をきらきらさせて

「オーロラ!?…オーロラを見るのが、われわれの目的なんです!!」

とヒメが元気に言った。

ヒメとヒナの目には、強い期待が輝いていた。


オーロラ、太陽から放出される太陽風が地球の磁気圏と接触することで生じる美しい光の現象だ。

太陽風の影響で、大気中の酸素や窒素が発光し、空に幻想的な光景を作り出す。

実は、日本の歴史の中にもオーロラに関する記述は存在している。

『日本書紀』や『明月記』には、赤気としてオーロラの様子が記されている。

かつては、日本の磁気緯度が現在よりも高かったことから、京都や鹿児島といった本州の地でもオーロラを観測することが可能であったと考えられている。

しかしながら、現代においては日本でのオーロラ観測は一般的でなく、特に本州や四国、九州ではまず見ることができない。


一方で、この太琉瑠島では3年前から異変が起きていた。

それは、太陽の活動周期とは全く相関しないシーズンの出来事だった。

ある日、夜空に虹色の帷が現れ、幻想的な円環を描き空を一周した。

その光景はまるで、時空の裂け目からこぼれる星の涙のようだったという。

この出来事はたちまちメディアで取り上げられ、一夜にしてこの島は観光地としての人気が急騰した。

その時のような壮大なオーロラの光景は、その後見られていないものの、稀に小さなオーロラが現れることがあり、幸運な観光客がSNSに喜びの声を投稿している。

なぜこの特定の場所でオーロラが見られるようになったのか、科学的にはっきりとした理由は解明されていないが、それが逆に魅力となって、多くの人々を惹きつけている。


 
ヒナが興奮気味に言った。

「そういえば、入り口にあった大きい看板、"極光の湯宿"って部分が、他よりも新しかったよね?オーロラがここで見られるようになったから、後から追加されたのかも」

ヒメははっとしたように目を見開いて

「ヒナ!天才天才!!」と手を叩いた。

「たしかに天才やなあ。ここの宿の商魂たくましさに気が付くとはなあ」

とゼンが少しいたずらっぽく言いつつ女将の方をチラッと見た。

「確かに、この宿は企業としての側面も持ち合わせています。伝統産業だとしても、それは経済の一翼を担うもの。堅実な経営と効果的なマーケティングは欠かせません。しかし、最近になってオーロラが見えるようになったのは、まさに天からの賜物でした。その幸運による追加収入は、地域社会への寄付に充てています。この自然の恵みを島全体で享受し皆で分かち合う。それが私たちの経営する上での、もう一つの大切な原則です」

女将の瞳の奥がほんのりと光ったように見えて、ヒメとヒナは真顔になった。ゼンは笑って

「実は私もオーロラの研究をしていて、京都から来たんや。大学生やけど。でも、これまでの記録から言って、見られたらほんまラッキーや」と続けた。

ヒメとヒナの楽しみはそれだけに留まらないようだった。

「オーロラが見れたらそれはそれで最っ高なんですけど、見れなくても、観光や温泉でのんびりするのもすごく楽しみなんです」

ヒメが話すと、ヒナも「ねー」と同意した。

ヒナが観光パンフレットを素早く取り出して広げた。

ページの端には島のゆるキャラと思われる、二足歩行するぶどうのキャラクターが小さく載っていた。

ぶどうの実の全てに、だ○ご3兄弟のような顔が描かれており、ちょっと不気味だった。

下に『たるるん』という名前がプリントされていた。

そして、ヒナはパンフレットの文言を一気に読み上げる。

「明日はたるるワイナリーの見学に、たるる…いね…に神社、そして、しらが…ざき展望台に行くんです!」と元気よく宣言した。ヒメが

「やけくそで読むな!」と軽くツッコミを入れた。

「太琉瑠ワイナリー、太琉瑠稲荷神社たるるいなりじんじゃ白樺崎しらかばざき展望台、やで。さらにここは展望風呂もあるし、オーロラ無しでも十二分に楽しめるはずや」

ゼンが笑いをこらえながら訂正してくれた。

「やー、お詳しいですね」とヒナが素直に返した。

ゼンは少し照れくさそうに
「実はもう何回もこの島に来とるんや。ちょっと、好きになっちゃって」と明かした。そして

「二人ともええなら、明日の観光の一部、ガイドさせてもらえへんかな?夜以外はほんまにヒマなんや。もちろん、二人の邪魔はせんから安心してや!」とゼンが提案してきた。

女将が微笑みながら二人の方を向き

「ゼンは確かに何度も当館を訪れています。お二人が楽しんで旅をするように、しっかりサポートしてくれると思います。それに、この子ならこの島の魅力を現地の人間以上に紹介できるかもしれませんよ」

と信頼の言葉を投げかけた。

ヒメはヒナを見つめて

「良いと思うけど、どうする?」と声をかけた。

「何かアニメみたいな流れでワクワクするね」とヒナが答えた。

ヒナの脳内では、自分たちのこの瞬間がアニメの一場面のように展開しているのを想像していた。

それではお言葉に甘えて、と二人はゼンの提案を受け入れた。



ヒメとヒナはお礼を言いながら、自分たちの部屋へと戻ることにした。

廊下を歩きながら、ヒメはゼンの言葉を思い返した。

そういえば、はじめに言っていた「姫」というのは、一体、誰のことだったのだろう。

小さな疑問を残しつつ、部屋の扉を開けた。


2章:贅沢すぎんだろーーー!


二人の客室に足を踏み入れると、パチュリのようなエキゾチックで爽やかな香りが鼻をくすぐった。

床はフローリングと畳でエリアがきれいに分けられており、フローリング部分には和の雰囲気を持つベッドが配置されていた。

「ドーーーン!」と叫んで、ヒメはベッドへ一目散に駆け寄ってその柔らかさに身を任せ、顔を埋めた。

ヒナが窓の方に目をやると、障子と窓が美しく調和をとっており、その傍にはスタイリッシュなソファが。

和の落ち着きと洋の華やかさが融合した部屋の中心には、手仕事感溢れる大きな提灯型のペンダントライトが吊り下げられていた。そのライトは黒に塗色されたオーク材のアクセントと相まって、部屋全体に暖かさとモダンな雰囲気をもたらしている。

片隅にある暖炉の奥で、柔らかく揺れるオレンジ色の炎が二人を迎え入れるかのように輝き、それを支えるように、美しく伸びたパイプが天井まで続いている。

「うわ、高そー…」と言いながら、ヒナは配置されたソファやランプを一点一点品定めしていた。

そして、テーブルの上に置かれたウェルカムフードに目を留める。ジンジャークッキーやクランベリーのビスコッティが並び、さらにホットチョコレートが添えられていた。
 


「と、いうわけで…」

ヒメの掛け声と共に、二人は手を合わせて「いただきまーす!!」と、目の前の夕食に感謝の気持ちを込めて声を上げた。

部屋の隅に静かに待っていたウェルカムフードにかぶりつきそうになった二人だったが、すぐに夕飯が運び込まれたので、それらはデザートに回すことに決めた。

太琉瑠島は、ふぐの名産地として知られていた。

国内でふぐ漁獲量1位である北海道の一部であるこの島も、特に高い品質のふぐを提供している。

今夜のメインディッシュは、もちろん、そのふぐを使用した洋風の料理。テーブルには、ふぐのフリットが金色に輝き、そこから立ち上る香ばしい香りが部屋中に広がった。

そして、ふぐのカルパッチョ。薄く切られたふぐの上に、柑橘のさっぱりとした香りが漂い、目と舌を楽しませていた。

一方、ふぐのクリームスープは、深い白の器に澄んだアイボリー色のスープが注がれている。スープの表面を飾る緑のハーブと、その中に見えるふぐの身が、美味しさを予感させていた。

さらに、ふぐ以外の料理も続々と登場。ローズマリーの香り高い鴨のロースト、エゾシカのステーキの上には、深紅のワインソースが美しくかかっていた。

彩り鮮やかな季節の野菜のサラダや、新鮮なシーフードの前菜は、華やかな色合いでテーブルを飾っていた。


ヒナは、ハバネロソースのボトルを手に取り、自分の分の料理に思い切りかけた。かけられそうな料理にはもちろん、思いのほか意外な料理にまでたっぷりと。ヒナが口に運ぶたび発せられる「素晴らしい…」の一言だけが、彼女の感動を表すのに十分だった。

一方のヒメも「おいちおいち」と壊れたように繰り返し、それ以外の語彙を失っていた。

全ての料理を平らげて、ぽんぽこに膨れたお腹を抱えながら

「贅沢すぎんだろーーー!」とヒメが声を上げた。その無邪気な反応にヒナが微笑む。ヒメがこれほど喜ぶ様子を見て、旅行の計画を立てたヒナもかなりの満足だった。

ヒメは、ヒナに向かって感謝の気持ちをうやうやしく伝える。

「えー、ヒナさん、こんな素敵な旅行を計画してくださいまして、ほんっとにありがとうございます」と言葉をかけると、ヒナは軽く笑って

「えへへ、2泊3日、まだまだこれからだよ。楽しみだらけだから、期待してて!」と返した。

わずかな沈黙の後、さらに続けて

「あとは…オーロラが見られたら、もう最高だね」とヒナが言いながら窓の外を見つめる。

外はやや曇りがちとなって、時折満月が顔をのぞかせるが、待ち望むオーロラの光はどこにも見えなかった。

ヒメの視線が一瞬、片隅に置かれた自らのリュックに移った。
何かを思い出したかのような微細な動きだったが、その後すぐにヒナの顔を見て、気持ちを切り替えたようだった。

見られたらラッキーという、黒髪の学生の言葉を思い出しながら

「試されているのかもしれない。われわれが本日までに積んできた…『徳』の力を」とヒメが、ゲームの中で日々運試しをしているヒナの口癖を引用しつつ、にやりと笑った。

そんな二人の会話の最中、部屋のドアが軽くノックされ、中に入ってきたスタッフがテーブルにぶどうのシャーベットを置いた。

もともとテーブルの上には先ほどのウェルカムフードが残っており、さらに増えるデザートのラインナップに、二人は目を丸くした。

「デザートの渋滞だよ、これ…」とヒメが言い

「ほんとだよー」とヒナが楽しげに返した。

ヒメはシャーベットを口に運ぶと、目を閉じてその味わいを満喫した。

「これ、ワインになるんだよね?」とヒナに向かって話しかける。

「うん、明日の工場見学、楽しみだね」とヒナは笑顔で返した。

この霜弧亭は、ぶどうの栽培からビン詰めまで、ワインを一貫して生産する「太琉瑠ワイナリー」としての顔も持っていた。

ワイナリーは宿泊施設とは別のエリアに併設されており、これと同じぶどうを使用しているようだ。

それらに加えて、バラエティ豊かな商店やレストランも施設内に点在しており、宿泊客には様々な過ごし方が提供されていた。



3章:コーラ風呂はないのかな?


暫しの食休みのあと、二人は最上階にある展望風呂へ向かった。

エレベーターの扉が静かに開き、二人は明るく照らされた廊下を進んでいく。柔らかなカーペットが足元を優しく包み込む。

廊下の突き当たりには、休憩用のホールが広がっていた。

深緑の大きなソファが点在し、その間には小さなテーブルと椅子、壁には等間隔で自動販売機が置かれ、訪問者がくつろげる空間となっていた。すでに、数人の宿泊客が団欒している姿も。

二人は、ホールを通り過ぎて女湯の方向へと進んだ。

小さな木の暖簾が入口を示しており、ヒメがそれをそっとかき分けた。

脱衣所はとても清潔で、落ち着いた色合いのロッカー、綺麗に並べられたタオル、そして鏡の前にはアメニティが整然と並んでいた。


着替えを終え、大浴場の入口のガラス戸をそっと開けると、温かな湯気が二人の姿を曖昧にした。

足元のミディアムグレーの大理石が、柔らかな光を反射させている。

壁はどこも綺麗な白塗りで、丸みのある緩やかなカーブを描いており、それらの角の無い壁で優雅に区切られた各洗い場には、不規則な楕円形の小さな鏡が配置されている。

湯船の横にも、同様に美しく有機的な曲線を持つ大きな鏡が鎮座していて、別の世界への入り口にも見えた。

展望風呂という名の通り、湯船の先にはひと際大きなガラス窓が設けられている。扉を全開にすることで、半露天風のスタイルに変えられる仕様のようだ。

そして、メインの湯は淡い青みを帯びており、湯気によって幾分霞んだ星空が混ざり合っている。

さらに、地面から浮き上がるようなフロアライトや、壁面に取り付けられたウォールライトは、透明なガラスの中に幽閉された光の球体のよう。この球体の光はやや冷たい印象のモノトーンで、白とグレー、木のベージュ色で統一された空間の中で少し異彩を放ち、緊張感と高級感を添えていた。
 

現実と夢の境界線上のような光景に、ヒメは驚きのあまり、ヒナの方へと一歩寄って、無言のまま軽く肘でつついた。ヒナも目を輝かせていた。

他のお客さんも温泉を楽しんでいたが、皆この場の独特の雰囲気に影響されて、子供たちでさえほんのりとしたささやき声で話をしているようだった。

二人はしばらく言葉を交わすことなく、その感動を体の動きや表情で静かに共有していた。

特に、ヒナはガラスのフロアライトに釘付けとなっており、その魔法のような輝きに引き寄せられ、指先で触れようとした瞬間、ヒメがすかさず引き止めた。

「壊したら、ここでお掃除一生分しないといけないよ」と、ヒメが小声で冗談めかして言ったのに対し

「こんな場所でずっとお掃除なんて、悪くないかも。ここで働かせてもらおうかな」とヒナが軽く笑いながら返した。

神様が訪れる湯屋を舞台とした有名なアニメ映画のワンシーンを思い出して

「ここで働かせてください」とヒナが再び冗談を言うと

「贅沢な名前だね。今日からお前の名前は”ナ”だ」とヒメが続けた。

そのやり取りに我慢できなくなり、ヒナがそれこそ雛鳥か、もしくはイルカの鳴き声ような笑い声をあげた。

慌てて口を押え、顔を横に向けると、傍らにいた女児と目があって少し気まずくなった。女児は全身泡まみれで、白い産毛に包まれた雛鳥のように見えた。


視線を湯舟の方に戻すと、先ほど別世界の入り口にも見えた、湯舟の隣の巨大な鏡に、ガラス扉の輪郭が映っているのを発見した。

二人は湯舟の対岸に位置する、そのガラス扉の方へと歩み寄った。

扉の先に、微かに赤紫の色合いが漂う浴槽が現れる。
二人が目の当たりにしたのは、ワイン風呂だった。

宿が併設するワイナリーの恩恵を十二分に活用しているようだ。

扉に手をかけると、予想以上に重厚で、香りが他のエリアに出ていかぬよう、しっかりと気密性を保つ役割があるようだ。

中に入ると、真ん中には、真鍮の装飾が施されたリアルなワイン樽が設置されており、その樽の口からは紅色の湯が静かに溢れ出していた。

「うーわ、これはオトナの風呂だね」とヒメが言うと、ヒナは
「コーラ風呂はないのかな?」と半分ジョーク半分本気で返事をした。

ギッと音がして、背後でガラス扉が開いたかと思うと、先ほどまでは泡まみれだった女児が再び現れて、躊躇することなくこの大人の世界へダイブして行った。

後ろから焦った顔をした母親が後を追ってくるのを二人は目撃した。

その光景に思わず声を上げて笑うヒメに
「アルコールは飛んでるから小さい子も大丈夫なんだって」とヒナも笑いながら説明書きを指差した。

「一旦、移動しましょうか」とヒメが少し大人ぶったような言い方をしつつ、女児を横目に二人は別のエリアを探索することにした。
 
また別の一角に、温かな蒸気と白樺の心地よい香りが漂うスペースが確保されていた。

「あ!ここサウナじゃない?」というヒナの指摘のとおり、ここは、フィンランド発祥と言われる、サウナのエリアだった。

サウナ室内にストーブがあり、上に置かれた石に水をかけることで、周囲に熱い蒸気を充満させる。これがロウリュと呼ばれる方法で、体感温度を一気に上げることで、発汗作用を促すのだ。

さらに、サウナ室の隅には、白樺の若葉で作られたヴィヒタという道具が用意されていた。サウナの隣には、立派な冷水風呂が設置されており、ヒメはその”深さ170cm”という表示に目を留めた。

「冷たい系の罰ゲームはやったことあったっけ?」とヒメが話題を振ると
「それ、やりたいって言ってるの?」とヒナがニヤリと笑った。

しばらくふざけ合いながら、入るか入らないかの攻防を繰り広げたが、おとなしくまずはサウナに入室した。

中は静かで、ありがちなテレビやラジオは無く、ただ熱い空気が体を包む。

木々で囲まれた四角の部屋の一面だけは透明なガラス壁がピカピカに光り、大浴場との境界がどこか不明瞭になっているようにも見えたが、湯気のせいもあってところどころ曇っていた。

そんな中、ヒメはガラスの結露を指でなぞり、得意の似顔絵を描き始める。ヒナはそれを見て、くすくすと笑った。
 
サウナ室のガラスに、似顔絵のヒメとヒナの顔が微笑みながら並んで浮かんだ。

「こんなところに描いても、すぐに消えちゃうか」
と、ヒメがつぶやくと、ヒナは

「消えないものもあるよ」と言って、似顔絵のすぐ上に

『ずっといっしょ』という文字を添えた。


その時、ガラスの向こう側から、またもや先ほどの女児が、突如として顔をガラスに押し付けてきた。

そのふざけた行動に、ヒメとヒナは驚きつつも、「気に入られたみたいだね」と、顔を見合わせて笑った。

その後も、二人は展望浴場内の各エリアを堪能し、時間を忘れるくらいに、至福のひとときを過ごした。


4章:オーロラが見られないって、どういうこと?


そんなこんなではしゃぎ過ぎたのか、ヒメは爆睡してしまった。


お風呂から部屋に戻った二人は、備え付けのお茶で乾いた喉を潤し、ひとしきり今夜の出来事を振り返った。

明日の計画についての話題は次第に膨らみ、既にリサーチしていた観光スポットや、訪れたいレストラン、お店の話で盛り上がった。

夜も更け、次第に各々がリラックスタイムに入っていった。ベッドの上で寝転がりながら、二人はそれぞれSNSを眺めたり、ゲームに興じたりしていた。

しばらくするとヒナは静寂に気付いた。

ずっと部屋に響いていたヒメの独り言やゲームの音が、途絶えていたのだ。

ヒナはヒメの方を見ると、手からはスマホがぽろんと落ちており、その画面には「ポ〇モンスリープ」のアプリが表示されていた。

アプリの中には「睡眠開始」というボタンが輝いている。そのボタンを押せば、ユーザーの睡眠時間や質に合わせて、ゲーム内での特典や報酬が獲得できる仕組みになっていた。

「ああ、ボタンを押す前に寝ちゃったのね」とヒナはヒメの代わりにそのボタンをタップした。そして、毛布をヒメに掛けてあげた。

明日もまた、楽しい一日が待っている。
 

この宿には、オーロラの出現を見逃さないための特別なサービスが用意されていた。

もし警備スタッフがオーロラを目撃すれば、その情報はすぐにフロントへ伝えられ、フロントからはゲストへその瞬間を知らせるためのSMSが送信されるというものだった。

期待半分で、ヒナは自らのスマホを手に取ったが、残念ながら特別な通知は現れていなかった。

〇ケモンスリープのアプリを起動して、自分も眠ろうかと考えたヒナの目が、アプリ一覧の中で「ポケモ〇GO」のアイコンに留まった。

現実を歩き回りながら、連動した仮想空間に現れるポ○モンを捕獲する拡張現実(AR)ベースのゲームで、特定の地方にだけに現れる特別な姿のポケ〇ンがいるという話をどこかで耳にしていた。

ヒメに先んじてそれをゲットすれば、明日、驚く顔が見られるかもしれない。

ヒナは〇ケモンGOのアプリを開き、「おこう」というアイテムを起動させた。これを使うと、15分間ポケ〇ンがたくさん現れるのだ。そして、その効果を最大限に活用するためには、少し部屋を出て、旅館の中を歩き回るのがベストだろう。

「ちょっとだけ…」と、ヒナはそっと部屋のドアを開け、静かな廊下へと足を踏み出した。


廊下の灯りは柔らかく、足元を照らすための低い照明が間隔を置いてぽつんと灯っていた。

ヒナのポ○モンGOの画面上では、周囲にいるポケ○ンたちがピョンピョンと跳ねている。しかし、目当てのポケモ○はまだ見当たらない。

途中、エントランスホールを通り抜けたヒナは、先ほどと同じ展望浴場へ向かうエレベーターの前に再び立った。

エレベーターのボタンを押し、展望浴場のある最上階を選んだ。
ドアが静かに開き、その中に入る。

展望浴場前のホールに到着すると、辺りは入浴時間を過ぎていたためか人の気配がまったくなく、静寂が広がっていた。

点在するソファのエリアには自動販売機の光だけが、微かに照明として機能していた。

ヒメならばこの暗さと静寂に怖がるかもしれないが、ヒナはそれを気にする様子もなく、スマホに集中していた。

しばらくすると、画面上に目当ての○ケモンが表示された。

スマホに照らされたヒナの顔には、満足そうな笑みが浮かび上がった。
手際よくポケモ○をゲット。


ヒナは一息つき、ゲームから目を離し、周囲を見渡した。

この時間になると、真っ暗な星空だけが視界に入ってくる。その幻想的な光景にしばらく目を奪われていた。


「さて、こちらもゲットしますか」と小声でつぶやくと、ポケットの中でスマホと小銭を交換した。

お風呂の時には持参し忘れたが、今回はポケ○ンゲットのついでに、自販機からコーラもちゃっかりゲットしようと考えていた。

 
静寂の中、自販機の微かなハム音とLEDの明かりがヒナを導いているように感じた。

近づくにつれて、その冷たい光が周りの暗闇を一層際立たせ、等間隔に並んだ自販機前のソファがぼんやりと輪郭を浮かべていた。

その中に、何かが横たわっているのをヒナは見逃さなかった。

ソファの上に、人の影が……

ホラーが得意とは言え、流石に心臓に悪かった。

背筋が冷えるような感覚と、喉の奥がカラッと乾くのを感じる。
まるでサスペンス漫画の一コマのようだった。

詳細がはっきりと確認できるまでの数歩が、すごく重たい。


知っている顔だ。

そのソファに横たわっていたのは、あの気さくな関西弁の女の子、
ゼンだった。

しかし、今の浴衣姿の彼女は、初めて会った時のような明るさはなく、何とも言えない不自然な態勢で横たわっていて動かない。


ヒナの歩幅が小さくなり、息を潜め、ゆっくりとソファに近づいていく。

ヒナの背筋は一層ピンと伸び、心臓の鼓動だけが異様に大きく響いていた。


そして、足が一瞬、地を失ったように感じた。


……ゼンの口元から、真っ赤な液体が滴っている。

その赤の濃さ、ソファの布に染み込む様子が、月明かりに鮮明に映し出されていた。

 

ヒナの震える手が、ポケットの中のスマホを取り出し、そのライトをゼンの方に向けた。


……ソファの隅には倒れた赤ワインのボトルが転がっていた。
彼女は酔い潰れていたのだ。

心臓をバクバクさせていたヒナは、ため息をもらした。

探偵もののマンガのような悪い想像を巡らせてしまった。

転がっているボトルを拾い上げて、ラベルを確認すると、綺麗に描かれたオーロラの絵の中に、英語の文字が記載されていた。

恐らく太琉瑠島の名産品だ。

ヒナは、漢字以上に得意ではないアルファベットの並びを、奇跡的に解読した。

「あう、おーろら、たるる、くらふと、わいん」と、何とか口に出して読んだ瞬間、ソファに伏せていたゼンが突然飛び起きた。

「何、何?」と驚くヒナに対して、ゼンはあたふたとした表情で

「私、寝ている間に、"さんた"とか何とか、ねごと言わんかった?」と尋ねた。

彼女の顔には、どうしても確認したいという真剣な表情が浮かんでいた。


「え? いや、ゼンちゃん、ずっと静かだったよ?」と答えるヒナ。

ゼンは自分の口元のワインをポケットティッシュで拭き取りながら、安堵の表情を見せた。

その手首には、初めて会った時と同じ白いファーの付いたブレスレットが顔をのぞかせていたが、それも少し赤い汚れが付いてしまっていた。

続いてヒナが自販機から購入した水のペットボトルを受け取った。

ゼンはそのキャップを開け、深く一息ついた後、ガブっと一口飲み干した。おかげでヒナはまたコーラを買えなかった。

「あーしんど。ヒナちゃん、すまんなぁ、こんな夜中に驚かせてしもて…」

ゼンは申し訳なさそうに言った。彼女の瞳はまだ少し濁っているように見えた。

「実はさっきまで、友達と会っててん。そしたら、途中からゲームで勝負をしはったんや。負けた方がこれ飲むゆうのをやってて…ちょっとはしゃぎ過ぎたかもしれんな」

彼女は、今は小さなテーブルに置かれたワインボトルを指差した。

成人して浮かれた学生の飲み会のようなことを、こんなところで?
それとも酔った状態で、他所からこの階まで迷い込んだのだろうか。

「明日、観光案内、大丈夫?」とヒナは苦笑いしながら尋ねた。

ゼンは頷き

「ええ、心配せんといて。オーロラが見られない分、しっかり案内するわ」と、両手を合わせてヒナに再び謝罪の意を示した。

ヒナはゼンの断定的な言葉に引っかかりを感じて、尋ねた。


「えっと、オーロラが見られないって、どういうこと?」


ゼンはしばらく言葉を失い、瞳を細めて窓の方を指差した。


「見て、満月やん。この光の中で、オーロラの繊細な光なんて、かき消されてしまうんよ。それに、雲の流れも良くないわ」

「でも、ゼンちゃん、オーロラの研究をしてるんでしょ? こんなこと、来る前に知ってたんじゃないの?」

ヒナはゼンが京都の大学でオーロラを研究していると言っていたことを思い出していた。

しかし、満月というのは事前に分かる情報のはず。何かがおかしい。

「ベロンッ、この味は!…ウソをついてる『味』だぜ…」ヒナが聞こえないくらい小さく呟いた。
心なしか表情もジョ○ョの登場人物のような画風に変わっていたかもしれない。

ゼンは狼狽えて言葉を探しているようだった。

「いやちゃうねんて…あー、ダメや、少し口を滑らせ過ぎたか…」ゼンは手首のファーの付いたブレスレットに手をかけた。

先ほどまで、ワインの汚れが付着していたと思われたが、なぜか消えているように見えた。

「本当は、オーロラに関係なく、友達に会うのが目的で来たんでしょ」ヒナが指摘すると、ゼンは目を丸くした。

しばらくの沈黙の後、彼女は両手をだらりと垂らし

「せやな…」と認めた。

酔いが抜けてきたはずのゼンだが、再び顔が少し紅潮しているのがヒナにも分かった。

彼女の口調には、先ほどまでの誤魔化しのような雰囲気はない。


「なんて言うたらええかな…実はな、さっきまで会ってた友達なんやけど、1年近くかけて研究してた課題を、期日までに提出できへんかったんよ」
ゼンは深い溜息をついて、続けた。

「彼女がかなり落ち込んでるんじゃないかと心配して、こっちに来てみたんや」

「あーそういう」

”研究”や”課題”というワードがヒナの脳を揺らしたが、何とか付いていこうと集中した。

「意外と元気そうやったから、心配してた分、損した気分やけど。でも、今回の研究、あの子、提出できなかった内容にそもそも納得いってへんみたいで、焼くとか言い出してて」

「えっ!?それって…」

「せっかくの研究やのにな。だから、他のテーマに挑戦する気があるなら、同じ轍を踏まんように、今年の研究は保険として取っておいた方がいいって言ったんやけど…」

「彼女、本当に頑固でガキなんよ。見かけはちょっっっと私より大人に見えるけど。でも、それがアイツのいいところでもあるんやけどな」

ゼンは、まだ少し酔っ払っているのか、熱のこもった様子で語り、ヒナはそれを静かに聞き入れていた。


「大切な友達が悩んでるとき、色々考えてあげたくなる気持ち、わかるよ」

ヒナは優しい目でゼンを見つめた。ゼンは唇を噛みながら

「そうやね。実際、私の中で心配が大きくなってしまって。

でも、そうやって保険をかけることに、逆に弊害もあるんよね」と続ける。

「例えば、保険をかけるって行為自体が、あの子の挑戦する意欲やモチベーションを下げるかもしれない。安心感から、次回の挑戦に全力を尽くさない、あるいは危機感を持たないようになることもあるやろし」

ゼンの瞳には悩みの影が浮かんでいた。

ヒナは、しばらくの間沈黙して考えてから、そっと言った。


「聞いてあげただけでも、その友達はきっとありがたかったと思うよ。でも、ゼンちゃん、最終的な決断はその子のものだと思う。その決断を聞いたとき、できるお手伝いをしてあげたらいいんじゃない?」

ゼンはまた目を丸くして、そして暫く頭を掻いていた。

「うん、そうやな。そう思う。ありがとう」ゼンは笑顔を見せて頷いた。

そして、少し照れくさそうに言葉を続けた。

「…あとな、何かアカンこと考えてへんかチェックしに来たんやって、あの子に言うてもうた。もしあの子に会うことがあったとしても、私が気にかけてたんは内緒にしててくれる?」

それは…「あなたが心配」と言っているのと何も変わらないよ。

ヒナはニッコリとした。


その後もしばらくの間、二人は他愛のない話に花を咲かせた。



5章:あなたの歌、本当にすごいです!


早朝、一人きりのヒメは展望風呂へと足を進めていた。

朝焼けが空を紫とピンク、そして金色に染め上げる中、
ヒメの顔は、美しい朝焼けとは対照的に、曇っていた。



ヒメが起床したのは、その15分ほど前のことだった。

静かな部屋で、ポ○モンスリープのアラームがヒメを優しく目覚めさせた。

隣にはまだ寝息を立てて深い眠りについているヒナの姿。

手に取ったスマホでポケ○ンスリープのアプリを開くと、ヒメは自分の睡眠の質を示す『ぐっすり』の表示を目にし、微笑んだ。

この瞬間がヒメにとっての朝の小さな幸せだ。

そして、ヒメの視線は、ヒナの枕の隣に置いてあるスマホに移った。

一瞬だけタッチして画面を点灯させると、やはりヒナのスマホにもポケモ○スリープの画面が映っており、起床予定時刻はまだ数時間後と設定されていたことがわかった。

ヒメは昨夜のことを思い返した。

確かに、自分はいつの間にか寝落ちしてしまっていたが、その前にはヒナはまだ起きていた。

どれぐらい夜更かししたのかは不明だが、今日は色々な予定があるしヒナにはしっかり休んでもらいたい。

朝風呂を二人で楽しむのもいいけれど、今回は一人で行くことにした。
明日の朝、この島を発つ前にもチャンスはある。

ヒメは、ベッドの隣に置いてあるリュックからお風呂の道具を取り出した。

新しいタオル、ボディソープ、シャンプー。一つずつ確認しながら、手早くまとめた。


そのとき、リュックの奥にしまっていた”例のもの”の存在を思い出し、確認しようと手を伸ばした。

触れた瞬間、ヒメの心はざわついた。

「アチャー」という声が喉の奥まで上ってきて、危うく大声を出しそうになった。

部屋にはヒナの寝息が聞こえていた。ヒメは慌てて声を押し殺し、深呼吸した。

ヒメは”例のもの”をリュックに戻し、頬をかきながら困惑の色を浮かべた。

しかし、今は朝風呂に行くことに決めていた。

「お風呂に行ってから考えよう」と自分に言い聞かせ、部屋を静かに出て、廊下を歩き始めた。

早朝の静寂が宿を包んでいた。

ただ、鳥たちのさえずりや、遠くの波の音が聞こえてきて、ヒメはその音に導かれるように、最上階の展望風呂へと向かった。


朝の光がまだ淡く、室内にほんのりと明るさをもたらしている中、ヒメは改めて展望風呂に足を踏み入れた。

まだ上がり始めたばかりの太陽が、温かな湯気をより一層幻想的に見せていた。

壁面の白は夜よりも明るさを帯び、有機的な曲線の鏡も一層鮮明にその美しさを放っていた。

室内の照明は穏やかなものに変わっており、どこか心地よい朝の静けさを感じさせる。

湯船の先には、夜とは違った風景が広がっている。

ひと際大きなガラス窓を通して、新たな一日の始まりを迎える大自然の美しさが目の前に広がっていた。

湯は相変わらず淡い青みを帯びていたが、その表面には朝日がキラキラと輝いており、湯船からの眺めは絵画のようだった。


ヒメは身体を洗い終え、滑らかな湯の感触を肌で感じながら、一番大きな浴槽へ足を踏み入れた。

温かさが、全身を優しく包み込む。

周囲には何も気にするものがなく、広々とした大浴場で、自分ひとりだけの時間を過ごすこの瞬間は、まさに贅沢の一言に尽きる。

窓の向こうに広がる壮大な景色に目を奪われながら、清々しい気分がどんどんと高まっていく。


最初は自分でも気付かないような小さな声で、ヒメは口ずさみ始めた。

やがて、そのメロディに身を任せ、歌声は次第に大きくなっていった。

手を振りながら、足を踏みながら、ヒメは湯船の中で全身を使って歌いだす。

大自然の中で、風や鳥たち、湯の温かさに触れながら、ヒメは自分が森の精霊になったかのように感じ、さらにノリノリで歌い続ける。

(環境のせい?めっちゃ声出る!)

歌い終えるころには、彼女の声は大浴場全体に響き渡るほどのボリュームになっていた。

そのまま、両手を大きく広げて「は~~~~~」と、最高潮の声を上げた。


パチパチパチパチ、と後ろから予期せぬ拍手の音が突如響いた。
ヒメは驚き

「ピャアアアア!?」と絶叫してしまった。

湯船の中へ身を隠しつつ、慌てて体を反転させて、その拍手の主を探した。


展望風呂全体のちょうど中心の位置に、一人の女性がスタンディングオベーションを続けていた。

セミロングの髪はバーガンディ色だったが、毛先は白い。

昨晩の満月を想起させるシャンパンゴールドの瞳。

身長は平均よりやや高めで、小柄なヒメと比べれば結構高く見えた。

白いタオルをしっかりと巻いていて、窓から指す光に照らされて彼女全体がまばゆいものになっていた。

まるで歌声に応えて現れた本物の精霊のようで、自然と引き寄せられる磁場のような存在感が広がっていた。

なぜ今の今まで気付かなかったのだろう。


ヒメはしばらくは言葉が出なかった。

彼女が現実に存在することを確かめるかのようにじっと見つめ、ヒメは言葉を絞り出した。

「い、いつから…?」と、しどろもどろの声で問いかけた。

彼女は微笑みながら答えた。

「歌い始めからいましたよ」

そして、ゆっくりと手を伸ばして、ガラス扉の向こう側にあるエリアを指差し、続けた。

「実は、先にあちらのワイン風呂にいたんです。でも、あなたの歌声がとても素敵だったので、気付かれないようにこちらへ移動して…今に至ります。」

”気付かれないように”という彼女の言葉に、ヒメはいたずらなニュアンスを感じ取りつつ、恥ずかしさで思わず顔を背けてしまった。


「あなたの歌、本当にすごいです!」淡い金色の瞳がまっすぐにヒメの横顔を刺してくる。

「手振りや身振りからも、まるでステージのプロを思わせるような雰囲気を感じました」

ヒメは、照れくさい気持ちで、湯船の中で手をもみもみとしていた。 

「歌詞もとてもストレートで、あなたの歌声と合わさって、胸に深く響きました!」

「もしかして、他にも歌ってくれる曲はありますか?もっと聞きたいです!」と、彼女は期待に満ちた眼差しでヒメを見つめた。

「あー、もっと褒めてくれ!…じゃなくて、えと、ありがとうございます。
でも、これ以上歌うのは迷惑になっちゃわないかな?」

とヒメが嬉しさ半分恥ずかしさ半分で答えた。

「んー…その心配は必要ないかもしれないですが…」

と言いながら、彼女は少しミステリアスな微笑みを浮かべた。

そして、再びヒメを直視して

「でも、あなたは歌手なんですか?楽曲があなた自身の物語のように感じました。完全に曲を自分のものにしている感じがするんですよ」

と、彼女は両手に力を込めて言う。

「実は…」と、ヒメは自らがヒナとふたり組のYouTuberをしていて、アーティストとしても何年も音楽活動をしていること、つい先日もクリスマスライブだったことを伝えた。

すると、目の前の女性がより一層目を輝かせながら言った。

「ヒメさんとヒナさんという名前の方が来ていることは聞いてましたけど、アーティストだったなんて!今日は朝からとってもラッキーです」

彼女はそう言いながら、距離を詰めてきた。


ヒメの脳裏に昨晩の出来事が蘇った。

宿に到着した直後、関西弁の緑色の眼の女の子が、女将さんに尋ねた台詞。

”なんや、姫はおらんの?”


「…もしかして、あなた様が“姫”さまでございますですかね?」

と、ヒメはまだ少し混乱したまま、ぐちゃぐちゃな敬語で尋ねた。

目の前の女性は、少し笑って言った。

「あはは、ゼンがそう呼んでたんですね」

そして、ヒメと目線を合わせるように、湯舟の縁に座った。

「そうそうそう、ゼンちゃん」たしかにそう名乗っていた。

中学生くらいに見えたが、大学生と言っていたっけ。


「私の名前はメイベルと言いますが、ゼンのことをゼンちゃんと呼ぶなら、私もメイちゃんと呼んでください。どうしても敬語が口癖で、少し変かもしれませんが、ヒメさんは遠慮せず、気楽に話してくださいね」

彼女、メイは胸に手を当てて一礼し、言葉を続けた。

「実は私も、アーティストと名乗れるほどではないんですけど、この宿に居させてもらう条件として、”歌姫”という扱いで時折歌を披露することになっていて。

なのでゼンが、私のことを冗談で“姫”と呼んだんですよ」

ほうほう、とヒメは頷きながら、少し和んだ様子で笑顔を見せた。

「もし時間が合えば、一緒にお歌を歌ったりするのもいいかも」

ヒメは自分のペースを取り戻しつつ、続けて

「二人で歌ったら、二人で“ヒメヒメ”になっちゃうね!」と思いつきのギャグを飛ばした。

メイの顔も綻び、楽しそうに返答した。

「それなら、ヒメさん+メイで”ヒメイ”というのもアリですよね」と提案した。ヒメは噴き出して

「フアッハッハッハッハッ!…面白いねキミ」と言った。

その瞬間、メイが突如

「ピャアアアア!?」と”ヒメイ”を上げてみせた。

ヒメは驚いて湯船の中でひっくり返りそうになった。


「さっき、こんな感じでした」

メイはクスクスと笑いながら、ヒメのリアクションを楽しんでいた。

今の悲鳴は、まるで先ほどのヒメ自身の悲鳴がエコーとして戻ってきたかのようにそっくりだった。

ヒメは、頭がぐるぐるしていたが、目の前の女の子が、丁寧口調と裏腹に、だいぶやんちゃなことだけは理解し始めていた。

「ドッキリの連続で、心臓に悪いよ…」とヒメは苦笑いした。

その時、”ドッキリ”といえばと、ここに来る前に発覚した悲劇のことを思い出した。

ヒメはちょっと迷ったが、メイがこの宿に住んでいることを考えると、何かアドバイスをくれるかもしれないと考えた。

「そういえば…」とヒメが話し始めると、メイは真剣な顔で聞き入ってくれた。

「遅れたクリスマスプレゼントになるんだけど、相方のヒナとお揃いのペンダントを買っててね。

旅行の最後の夜に、ドッキリというか、サプライズで渡そうと思って持ってきたんだけど、今朝、リュックから取り出したら、中で包装が破れちゃってて…」

ヒメの声はちょっと切なくなってきた。

「この近くに、もう一度綺麗に包んでくれるようなお店とか、知らないかな?」

ヒメが悩みを打ち明けたとたん、メイの顔に明るい表情が浮かんだ。

「それなら私が適任ですよ」と、左手で小さく挙手して話し始めた。

その左手に白いファーの付いたブレスレットが見えた。

「私、綺麗な包装やリボンをたくさん持っているんです。普段から贈り物のお手伝いみたいなこともしているから」とメイは言った。

「本当に?」とヒメは目を輝かせながら尋ねた。メイはニッコリと笑い

「はい、ちょっと、趣味でコレクションしてるんですよ。ぴったりのものがきっと見つかると思います。

たしかヒメさんたちは島の神社の周りも観光すると思うんですけど、私もそちらに行くので、ペンダントを持ってきてください。

そこでキレイに包装してお返しできますよ」と提案した。

「えー!やったー!ちょーありがたい!」手を叩いてヒメが喜んだ。

「さっきのお歌のお礼として、少しお手伝いできると嬉しいです」とメイは笑顔で言った。

 
「…それじゃ、悪いけどそろそろ上がるね。これ以上はのぼせちゃうから。フー、あっついあっついね」と言って顔を両手であおぎながら、ヒメはお湯から立ち上がり、手元にタオルを取り戻した。

「たくさんおしゃべりにお付き合いしてもらって、ありがとうございました」とメイが湯舟の縁から立ち上がる。

「いやありがとー、こちらこそ」とヒメは答えたが、最後に気になっていたことを尋ねた。

「それ、ゼンちゃんとお揃いのブレスレット?ふわふわの、めっちゃ可愛いね」

ヒメがメイの左手を少しのぞき込むように見た。

「お揃いと言われれば、確かにそうですね」とメイは微笑みを浮かべて返した。

「でも、びっくりするくらい、お風呂でもそのふわふわ感が変わらないね。こんなの初めて見る。もうちょっと近くで見てもいい?」ヒメが興味津々にメイの手首の方へと手を伸ばすような仕草で尋ねた。

メイは少し考えるそぶりを見せつつ

「もちろん、どうぞ」と手首をヒメの方へ差し出した。

ファーのように見えたその白いふわふわは、毛というよりも粒子のよう。
独特の輝きを放っていて雪の結晶のようにも見えるが、磁石に吸い寄せられた砂鉄の集合によるモコモコが一番近いと感じられる。
そして、微細に動いているかのようにも見えた。


「なんだこれ…?」ヒメが驚きと興味の入り混じった顔でブレスレットをじっと見つめた。

「詳しくは話せないですが、命と同じくらいに大切なものです」メイの返事は意味深で、でも表情は少し誇らしげだった。

「それでは、私も逆に冷えちゃうので、お風呂に入りますね」と告げて、湯舟へ進んでいくメイをヒメは見送った。


一体どういう意味だろう。思いがけない出会いと奇妙な体験。

今回の朝風呂は、情報量が多過ぎて、頭の中が追いつかない感じだった。

この一連の出来事、ヒナには絶対に共有しなければ。
ヒナ、どんな反応をするかな。

ヒメが最後に振り返ると、ちょうどメイが身体に巻いていたタオルを外していた。



6章:ねえ、ちょっとだけ行ってみない?


「で、巨乳だったってわけ」
「ゲホ、ゲホ、ゲホ、ゲホ」

ヒメの朝風呂エピソードのオチを聞いて、ヒナがご飯を喉に詰まらせた。

二人は朝食を食べながら、お互いの体験談を交換し終えたところだった。

「鼻に、シャケが。くしゅん、くしゅん」

連発するくしゃみに苦しんでいるヒナもまた、昨晩に予想外の出会いがあったらしい。
 

朝、霜弧亭のダイニングエリアは活気に満ちていた。

中心には、北海道特産のご当地おにぎりコーナーがドーンと構えており、道産昆布佃煮や塩鮭、更には旅館オリジナルのたらこまで、多種多様なおにぎりが並べられていた。

そして、札幌発祥とされるスープカレーも並んでおり、カリフラワーや道産かぼちゃなど、季節の焼き野菜が贅沢に盛り込まれている。

その他のコーナーも、色とりどりのサラダやフルーツ、北海道の特産品を使用した料理が一堂に会していて、ドリンクバーには、赤いリボンでデコレーションされたピッチャーや、星型の氷が浮かぶ、ぶどうのビネガーが並んでいた。


「おかわり自由、なんて素敵な言葉なんだろう」ヒメが朝からモリモリと食べるのを、ヒナが咎めた。

「昼も夜も食べるんだから、あんまり食べ過ぎないようにしとこ?」

「朝から七味唐辛子をぶちまけてるヒナに言われたくないよ」

午前中はこの霜弧亭に併設されたワイナリーの見学を予定している。

オトナの約束コンプライアンス”により、二人が飲酒することはないが、ワイナリー側もそういった客を配慮し、ノンアルコールのお楽しみも用意してくれていることは必須だろう。

午前はワイナリーだけでも見どころは盛りだくさんらしく、昼食を挟んだら、午後は神社と周辺の自然を散策する予定となっていて、もう夕方まで部屋に戻ることはない。


この旅行の旅立ちの前、ヒメは2種類のバックインバックのうち、一つだけを選んで持ってきた。

大きめのトートバッグと、それよりも小ぶりなナップサック。

どちらも二人のイベントやCD特典となったもので、キュートなイラストがプリントされている。

ヒメは動きやすさを考慮し、両手が自由になるナップサックを選択したのだった。

そして今、ヒナに気づかれないように、そのナップサックへ大切なプレゼントが入った箱を忍ばせる。


部屋の出入り口では、ヒナが手ぶらで待っていた。ヒナは頭を抱えて

「ヒナも持ってくればよかった~!」と嘆いた。


ナップサックを選んだ、それだけのことが、のちに大きな後悔を招くことになるとは、その時のヒメにはまだ想像もできなかった。


 
エントランスを出て、石橋をわたり、右手に現れた案内看板に従って数分歩くと、すぐにワイナリーの工場が見えてきた。

しかし、その僅かな道のりに目を見張る景色が広がっていた。

霜弧亭の裏手に、かつては緑や紫のぶどうの房で賑わっていたであろうぶどう畑が続いていた。

しかし、12月になると、積もった雪がぶどうの木々を完全に覆い、彼らを冬眠させていた。北の大地特有の手法で、木々は雪の下でしっかりと越冬しているのだ。

天気は晴れ、空の青さと雪の白さが鮮やかに映えていた。
太陽の光が雪面に反射し、キラキラと輝いている。

「ぶどう狩りの季節にここに来れたら、畑一面がぶどうでいっぱいになってるんだろうな」とヒメが言うと

「ねー。行けたらいいんだけどなあ」ヒナは夢見るような表情で呟いた。

石畳の小道を歩きながら、ワイナリーの入口が近づく。


『TARURU 』と刻まれたレンガ造りの門を潜ると、石造りの外壁の堂々とした建物が現れた。

その建物は2階建てではあったが、各フロアの天井が高く、それが全体の礼拝堂のような印象を引き立てていた。

建物の中央には高く伸びる塔があり、その上には風に軽く揺れる鐘が見えた。

複数の三角屋根が連なり、それぞれの屋根には、タイル張りの装飾が施されており、ぶどうの葉と果実の房をモチーフにしたアートワークが、ここがワイナリーであることを語っていた。

「一つの街の入り口みたいに見えるね」と会話しながら辺りを見渡すと、他の観光客も感心した様子で建物の外観の写真を撮っている。

人々が向かう方向、レンガ造りから若干浮いたガラス製の出入り口近くに、こちらへ手を振っている人影が見えた。


関西弁のアクセントが際立つ女の子の声が二人の耳に届いた。

「待ったで、こっち!」ゼンは昨夜と同様にスポーティな恰好をしていた。

少し離れたところから見ると、大胆な厚みをもったマキシソールのブーツが際立っていた。

彼女は手で合図をし、二人を『本館』という標示のある建物の中へと誘導した。


「はおー!」「はおはおー!」二人は独特な挨拶をして

「ゼンちゃん、 昨日は遅くまでありがとね」と、ヒナは加えた。

ゼンは苦笑しながら
「ありがとうはこっちの台詞やな。昨夜はホント、助かったわ」と言った。

ヒメはゼンの顔色をうかがいながら
「大丈夫そー?」と心配そうに聞いた。

ヒナの話の中で、死体と見間違えられるほどに酔いつぶれていた印象が強かったヒメは、ゼンの体調を心から心配していた。そして

「ゼンちゃん、そもそもアルコールが大丈夫なお歳なの?」と無邪気に質問した。

「私は大人や! でも、お酒はちょっっっと弱いみたいやな」とゼンはかすかにイラっとした表情を見せつつ、片足を持ち上げて、バレエダンサーのようなピルエットを軽やかに決めてみせた。


クロークにアウターや荷物を預けたあと、三人はワイナリーの建物に足を踏み入れた。

足元の床は、木製で歩く度に軽くきしむ。

レンガの壁の閑静な空間が広がり、天井に目をやると、木製の梁が網目のように組み合わさっており、その構造が見え隠れするのが印象的だった。

入ってすぐ右手には大きなパネル展示が並ぶ。

こちらには、ワイナリーの歴史や、酒造りの伝統、そしてワインが生まれてから現代にかけての変遷が紹介されていた。

近くのガラス戸の中には明治以降に導入された日本酒用の酒造機械や、年季の入ったワインの圧搾機、破砕徐梗機、瓶詰機などが並べられていた。

部屋の各所には、今も使用されているのか、あるいは昔使われていたのか判然としない樽が点在していた。

ヒメとヒナは、パネル展示の古い写真をぼんやりと眺めていたが、ゼンはなぜか古びた日本酒用の機械に夢中になっていた。

「ゼンちゃん、どうしたの?」とヒメが彼女に声をかけようとした瞬間、ヒナが先に驚きの声をあげた。

「ここはワイナリーだよね? なんで日本酒の機械?」その疑問はヒメも感じていたものだった。

「このワイナリー、実は昔は日本酒を生産してたんや。だから、これらの機械も展示してはるの」

ゼンは説明すると、歴史のパネルを指差した。

「ここの歴史については、ちょっとかいつまんで説明するから、全部は読まなくてもええよ」



【太琉瑠ワイナリーの歴史】

1900年代:
太琉瑠島は、その豊かな自然と温泉地としての恵みにより、遠方から多くの観光客や湯治客が訪れる場所となっていました。

この地を代表する名士、黒木家は、地域の発展や観光資源の向上を目指し、太琉瑠酒蔵を興しました。

黒木家の伝統的な日本酒は、品質の高さで広く知られ、多くの人々が太琉瑠酒蔵の日本酒を求めて訪れました。

その歴史を今も感じさせる太琉瑠酒蔵の土蔵は、変わらぬ姿で現在もワイナリーの敷地内に鎮座しており、来訪者にその歴史を伝える記念館として公開されています。

一方、本州の甲州や信州などの地域では、ワイン醸造技術の進化とともに、ワイン醸造場が次第に拡大していく中、その技術や文化が国内外に知られるようになり、日本ワインの基盤が築かれていったのです。

 
1910年代:
開拓使の指導のもと、海外からの果樹の移入が北海道にて活発に行われました。

太琉瑠島もこの流れを受け、特定の果樹栽培が盛んとなり、黒木家もこの機会を活かして果樹栽培を始めました。
 

1920年:
果樹の栽培技術が向上し、特にぶどうの品種において顕著な発展が見られるようになりました。

北海道特有の気候や土壌の特性を考慮した研究を通じて、多くのぶどう品種が試験栽培され、この時代には、デラウェア、カメルスアーリー、ブライトンといった品種が優れていると認識され、多くの農家に広まっていきました。

太琉瑠島でも、これらの選ばれた品種が導入されることとなり、黒木家をはじめ、多くの地域の農家が、これらの新しい品種の栽培技術を学び取っていきました。

 
1940年代:
大戦の影響により、黒木家の事業は一時的に中断されました。

特に米や麦といった食糧は政府に徴発され、民間での所有や使用が制限される事態となりました。

さらに、主要な製造技術者や経営陣が戦地へと送られた影響で、日本酒の製造が困難となり、黒木酒造は約20年間の廃業を余儀なくされました。

しかし戦後、太琉瑠島の温泉が再び観光資源として注目を浴びるようになり、黒木家は温泉事業に専念することとなりました。

1970年代:
温泉事業は順調に推移していましたが、家族が長らく受け継いできた酒造りへの情熱が、三代目・黒木路夫氏の心中で燻ぶっていました。

太琉瑠島において果樹栽培が成功を収めており、特にぶどうの栽培は多くの関心を集めていました。

この状況を背景に、黒木氏はぶどうを用いた新しいビジネスの可能性を模索するため、高齢でありながらワインの本場、フランスへと留学を決意しました。

フランスでの学びをもとに、太琉瑠島の独特な土壌と気候を最大限に活かしたワイン造りの可能性に確信を抱きました。

この黒木氏の情熱と熱意は、同じワイン学校で教鞭を取るヘイブン・ロアエック氏の目に留まり、二人に強い絆が生まれました。

 
1975年:
ヘイブン・ロアエック氏のヨーロッパにおける広範な人脈と高度な技術知識を背景に、加えて黒木家が持つ土地やリソースを活かし、太琉瑠ワイナリーが正式に設立されました。

その地域特有の気候、土壌、地形など"テロワール"の影響をワインに反映させることを重要視するフランスワインの伝統と、日本の風土や東洋的な思想を基盤に、「自然との調和」をワイン造りの中心として据えました。

 
1980年代:
初期の段階では、太琉瑠島の気候が特定のぶどう品種の栽培には適していないという課題がありましたが、温泉地特有の地熱を利用した新しいぶどう栽培方法に挑戦しました。

ヘイブン・ロアエック氏と黒木氏の共同の情熱と知識により、ワイナリーは次第に成功の道を歩むようになりました。

彼らは、5種類以上のぶどうを混醸する方法を採用し、これによって太琉瑠ワイナリー独自の風味豊かなクラフトワインを生み出すこととなりました。

 
1990年代:
黒木路夫氏の娘である黒木典子氏がワイナリーの運営に参画しました。典子氏は、家伝の東洋的思想を受け継ぎつつ、新たな技術やアイディアをワイナリーに取り入れることで、さらなる成長を目指しました。

黒木家が長年にわたって守ってきた日本酒造りの伝統を活かしつつ、ワインの品質向上や新しいぶどう品種の選定など、多岐にわたる取り組みが進められました。

さらに、日本酒製造時代に使用していた土蔵や設備の一部は、ワイン製造にも適していたため再利用され、特に地下の構造はワインの熟成に好都合であったため、そのままの形で活用されました。

 
2010年代:
大手ワイン醸造会社と提携を結ぶことで、太琉瑠ワイナリーのワインは全国へと広まり、多くの人々に愛されるようになりました。

また、かつての日本酒蔵として使用していた施設が記念館として公開され、多くの観光客やワイン愛好家が訪れるようになりました。

 
2015年:
太琉瑠ワイナリーは、15種類以上のぶどう品種を栽培する規模にまで成長しました。

「太琉瑠スター」という名で知られる代表作は、様々なぶどう品種の複雑な混醸、および温泉のミネラルにより、土地特有の独特の香りと味わいを持つワインとして評価されました。
 

2022年~:
「太琉瑠スター」は、更なるブランド力を求め「オーロラ太琉瑠」という銘柄へと名前を変更しました。

 
太琉瑠ワイナリーは総支配人・黒木典子氏のリーダーシップのもと、ワインツーリズムプロジェクトを立ち上げ、観光とワイン産業の融合を目指します。

また、地域の豊富な温泉資源を利用して地熱発電のシステムを導入。これにより、地域のエネルギー安全保障を強化し、持続可能なエネルギー供給を目指します。

このエネルギー自給の取り組みは、太琉瑠ワイナリーだけでなく、地域全体の住民とともに進められる、コミュニティベースのプロジェクトとして位置づけられています。

地域の人々とワイナリーが協力し合い、一緒にエネルギー問題の解決を目指しています。

 
太琉瑠ワイナリーは「風土と思想を描いた滋味」をモットーとしており、持続可能な、エネルギーや労働力を共有するコミュニティベースの取り組みと共に、その哲学は次世代にも引き継がれることでしょう。』



「あ!!!」とヒメが真横で突如大きな声をあげたので、ヒナの眉毛が逆八の字になった。

「この人って…」ヒメが総支配人とされる一人の女性のポートレートを指差す。

「せやで。あの時は『女将さん』と呼んでたけど、実はめっっちゃ忙しい経営者や。霜弧亭も運営してるし、ワイナリーの経営もしてる」

「この『オーロラ太琉瑠』の名称変更も、宿と同じで、最近人気のオーロラを取り込んでの戦略や。

まあ、女将さん曰く、収穫したぶどうすべてを生かす混醸は、その1年間の畑の自然をワインへ映し出すのやから、虹色に変化するオーロラに喩えるのも納得できるやろ?っちゅう屁理屈らしいわ」

「すごーい。商売上手だねー」とヒナも感心。続けて

「ワインを始めたの、結構最近なんだね」ヒナがパネルを見つめながら言った。

事前に漫画『ゴールデンカ○イ』を読んでいたが、日清戦争後の北海道においては、ワイン造りが本格化するのにタイムラグがあり、あまり情景が重ならなかった。

「うん、確かに。例えばフランスのブルゴーニュやボルドーとかはすでに約1000年もの歴史を持ってる。

フランスワインが世界の頂点に立っているのは、長年で築き守ってきた伝統的な製法と経験の恩恵やろうね。

でも、日本のワインも成長が著しいみたいやし、これからに期待やな」ゼンはしみじみとした表情を見せていた。

「座学ばっかりは飽きるやろ?ほな、人気の地下セラーを見に行こ!」

「おーーー!!」


三人組が進んだ廊下の先に、アーチ状の古めかしい入り口が広がり、そこから石段が地下へと続いていた。

石の階段を降りる足音が、こつこつと反響している。

ぶどうの甘酸っぱい匂いが段々と濃くなる中、ヒメとヒナは初めはキャッキャと声を上げていた。

しかし、降りるにつれて空気が徐々に湿り気を帯び、木製の壁やレンガの質感は次第にモノトーンな石造りの壁へと変わり、ひんやりと硬質な雰囲気に変わっていく。

ヒメは声が徐々に小さくなって、階段を降りる足取りも重くなった。

地下室は、まるで中世の城の迷路のように狭く複雑な通路が広がっており、所々には錆びた鉄格子が取り付けられていた。

明かりのない部屋の中には、一升瓶が整然と並べられ、歴史を静かに刻んでいるようだ。

それぞれの部屋には、生産された年代が表示されており、貯蔵庫としての役割を果たしていた。

「ここには輸入物もあって、非売品のヴィンテージが寝てる部屋もあるんやで」とゼンが説明するも、

ヒメはキョロキョロしながら「わァ…ぁ……」となんか小さくて可愛い声を上げるばかりでゼンの言葉が耳に入っていない様子だった。

対照的にヒナは
「うわすごい、ここ、ホラゲーのダンジョンじゃん!バ○オで見た!」と興奮して言った。

ヒメは思わず
「イヤッイヤイヤ!ヒメも頭では思ってたけど、別に言わなくてもいいんだよ!?」と少し怒ったようにヒナにこぼしてしまったが、
その手はしっかりとヒナの裾を捕まえていた。 


「続きはこっちや」と、ゼンが先導し、新たなエリアへと案内してくれた。

目の前には、木樽がずらりと一列に整然と並ぶ樽貯蔵庫が広がっていた。

他の観光客も多く滞留しており、みんな興味津々で樽や展示物を眺めていた。ヒメの表情も徐々に和らぎ

「樽!太琉瑠の!樽!」と誰でも思い付くからこそ、あえては言わなかったギャグを口にするくらいにテンションが回復していた。

「ワインは樽の中で熟成されるんやけど、その間にワインが少しずつ蒸発してしまうんや。

それを『天使の分け前エンジェルズ・シェア』と呼ぶらしいで。

その蒸発分は定期的に補充する必要があるから、補充作業がしやすいように、樽は一列に並べられてる」と、ゼンは詳しく説明した。

「はー、いちいちオシャレだね」とヒナは感心しながら呟いた。

 
先程と同じように鉄格子の部屋が並ぶ通路を歩いていく。

しかし、行きの道とは違い、こちらは一本道。

ところどころ劣化した、白いタイル張りが特徴のアーチ状の壁が進行方向に連続しており、やはりどこか退廃的。

いずれかのアーチの裏に、モンスターが隠れていそうなムードは否めない。


「あっ」とゼンが突如立ち止まった。顔は前を向いたまま、手を胸ポケットに当てた。

「なんかよう分からんけど、メイからの通信や。ヒメヒナちゃん、このまま直進してくれたら、すぐに地上への階段があるから。二人は急がんでええ。後で合流しよ」とゼンは言いつつ、小走りで先へ行ってしまった。


ヒメはスマホを取り出して
「ここ、圏外だね」と不思議そうな顔で言った。

ヒナもちらりと自分のスマホを確認して、
「んー?ゼンちゃんのは、すごい電波の良いスマホなのかな?」と首を傾げた。


そのとき、ヒナが異変に気付いた。

ちょうどヒナのスマホの光が照らした先の、一つの鉄格子が開いている。

他の鉄格子内と違って積み上げられた瓶は無く、真っすぐに、細くて暗闇に覆われた通路が続いているようだ。

好奇心に駆られたヒナが
「ねえ、ちょっとだけ行ってみない?」と提案すると、

ヒメは「ヤダヤダヤダヤダ」と半ば真剣に拒否したが、

「ね?」とお願いするヒナには勝てず、その先を探るため、二人分のスマホの灯を頼りに通路をゆっくりと進んでいった。
 

真っ暗だったが、白いタイル張りの道がスマホの光をよく反射したので、足元に気を付けることは難しくなかった。

それでもヒメの心拍数は100bpmを余裕で超えていた。

そして、二人が恐る恐る進んでいくうちに、ヒナがぽつりと呟いた。

「ん…?ドア?」


突き当りに、真っ白なドアが光を反射していた。

その四角くてシンプルな造りは、どこか子供の遊ぶドールハウスの扉を思わせるものだった。

そのドアには、中央にただひとつ飾りが施されていた。

真っ白な金属製のリースのような装飾。リボンに、ヒイラギの実、ポインセチア、モミの木、マツといった冬の植物の形が、緻密なデザインとして浮き彫りにされていた。

そして、そのリースの中央に"AwA"という文字が刻まれていた。

取っ手の部分にも鍵穴は見当たらず、どこか普通じゃない。

そもそも、ドア自体が周りの雰囲気から随分と浮いている。


意外にも、先に勇気を出したのはヒメの方で、ドアの取っ手に手を伸ばして、そっと握った。

しかし、力を入れても、扉は一向に動く気配がなかった。


残念ながら、どんなに興味深いものを見つけても、この場所はこれ以上、二人が自由に探索できる場所ではなかった。

結局、二人はやって来た通路へと引き返していった。


開いていた鉄格子と細い通路の間に、忍び込む前には視界に入らなかった『STAFF ONLY』と書かれたポールが倒れているのを発見し、ちょっと気まずさを感じつつ、そっと立て直した。

その後、二人はそそくさと上の階を目指していった。


7章:ヒメちゃん、その笑い方おもろいな


二人が急ぎ足で進むと、階段は1階を越え、更に2階へと続いていた。


導線に従って歩くと、迎えてくれたのは明るい日差しとテイスティングコーナーだった。

高い天井に木製の梁が交差し、天窓からの自然光が差し込む。

ガラスのシェードのランプによる光も加わり、空間に深みをもたらしている。

エレガントなバーカウンターが設置され、背後には様々な種類のワインボトルが美しく並んでいる。

バーカウンター上部に吊るされた無数のグラスが、キラキラと光を反射して目を引いた。

が、二人の視線はすぐにカウンター横のチョークボードに書かれた

「One free tasting (includes juice)」の文字を捉えた。

「1杯無料試飲(ジュース含む)」ヒメは眼をキラリと光らせて、瞬時に正確な和訳をしてみせた。

「解読早っ」とヒナが笑いながら、二人の足は中へと吸い込まれていく。

 
奥の方にゼンがいた。

立ち飲みを楽しむための丸いハイテーブルが点在していたが、最も奥にあるテーブルを陣取って、すでにグラスを手にして待っている。

ゼンも二人の到着に気付いた様子で、パッと笑顔になった。

しかし、それも束の間、その顔はすぐに険しいものに変わった。

こちらに向かって何度も指差しながら、口パクで何かを伝えようとしていた。

「う」「し」「ろ」

ヒメとヒナは急いで振り返ると、真後ろに、女の子がいた。

満月のような二つの瞳を、ヒメは早朝に見たばかりだった。

いたずらをしかける寸前に、一層輝きを放つのも同じだ。

メイは、それこそ赤ワイン色の髪をなびかせ、二人の前に向き直った。

そして、何事も無かったかのように
 「ようこそ、太瑠琉ワイナリーへ」と笑顔で言った。

ここまでの一方通行の道のりのどこで、いつから背後にいたのだろうか。

「いやはや、一日に何回驚かせるつもりかね?」と、少しわざとらしく狼狽したようにヒメが答えると

「えー!あなたがメイちゃんさん?」とヒナが尋ねた。

たった今の振る舞いはともかく、メイの服装は大人びた印象だ。

グレーのニットは求心状のノルディック柄だが、モードさも感じられた。黒いベルベットのトラウザーは裾がフレアで、同じく黒のスノーブーツに被さっている。首にぶどうモチーフのシルバーアクセサリーを下げていた。


「こちらこそはじめまして、ヒナさん。二人揃ってお会いできて嬉しいです!」

「まずは集合して、お話しましょう」と、メイはゼンが待つ丸いハイテーブルを指差して提案した。
 


「4人で出来るボドゲとか、持ってくれば良かったね」とヒメが楽しそうに言うと

「あはは、ここでずっと遊んでたら怒られるよ~」とヒナが笑った。

4人は改めて一通り自己紹介を済ませたあと、談笑していた。


「1杯の試飲をきっかけに、たいていのお客さんはそこのカウンターに残るか、レストランやショッピングに行くんですよ。

そして、時間やお金を惜しむことなく投じることになるんです」とメイが企み顔でこのフロアの仕組みを紹介すると、ゼンが

「たしかに巧妙やな。なんか露骨すぎる紹介の仕方やけど…」とツッコミを入れた。

「そんな中毒性が…」ヒナがグラスの越しに赤い液体を見つめる。

まだ全員口を付けていない。

4人とも、カウンターで赤ワイン品種の、発酵前のジュースを注いでもらっていた。

「4杯のうち1杯をワインに交換してロシアンルーレットをしませんか?」とメイが提案する。

「面白そう。やろうやろう」とヒナが乗っかろうとしたが

「”オトナの約束コンプライアンス”!」とヒメがそれを制した。

「自分ところのワインをハズレみたいに扱わんといてくれや」と言ってゼンはメイに軽くデコピンした。

「わかってますよ。それじゃあ、乾杯としましょう」メイがおでこに手をやりながら、せーのとみんなで音頭を取り

「かんぱい!」とグラスを合わせた。


一口含むと、濃厚な味わいが口いっぱいに弾けた。ワイン用に栽培されたぶどうで、砂糖は一切使われていないと聞いていたが…

「「甘っ!!」」と、四人が同時に思わず口にした言葉が、タイミングまで揃っていて、みんなで笑ってしまった。

「でも笑っちゃうほど甘くて美味しいね!」とヒメがまた一口と飲んでいく。

「ほんとおいしー!超絶濃厚だね!」とヒナも感動していた。

「巨峰が糖度17度ぐらいなんですけど、これは糖度25度なんです。無添加、無加糖で、ぶどう本来の甘さがとっても美味しいですよね」と、メイがちょっと自慢気に言う。

「さすが”姫”の解説や、ありがたいこっちゃ」ゼンが皮肉混じりに茶々を入れた。

「”姫”はやめてください。ヒメさんもいるんだから、ごっちゃになりますよ?それに私もここのスタッフのようなものなので、きちんと知ってもらいたいだけです」

メイはあまりお気に召していないようで、ちょっと睨んでいた。


ヒナは、”スタッフ”というワードから、先ほどの地下での出来事を思い出した。

”スタッフオンリー”の通路の先にあった白い扉。

あの不思議なドアのことは、メイがスタッフなら何か知っているだろうか?

しかし注意書きが見えなかったとは言え、立ち入り禁止エリアを探索したことは言い出しづらい。

横にいるヒメと目が合った。たぶん、同じことで迷っている。


「どしたの?」

「何か気になることがありましたか?」

前の二人が目配せしているヒメとヒナに問いかける。

「えーっと…あ!!!」ヒメがデカい声を出した。

今しがた泳いでいた目は、壁にかかっている絵画のところに留まっていた。

「あの絵、旅館のエントランスでも同じものを見たなーって思って」
ヒナもフォローを入れた。

扉の秘密は、真正面から質問しても答えてくれないだろうと判断した。

それに、この絵のことが気になったのは嘘ではない。


描かれているのは一匹の獣と一本の木。

獣が見上げる木の枝に、一房のぶどうが実っているが、届く高さでは無いようだ。


「あー、それな。あちこち飾ってあるんやけど」
ゼンも、額縁に飾られたその絵画に目をやって、その後メイをちらりと見た。

「…二人は、『イソップ物語』の、キツネとぶどうの話を知っていますか?」メイが尋ねた。

手でグラスを揺らしながら、視線はその水面を見つめている。

「えと…なんだっけ!?聞いたことあるよ!」とヒメが思い出そうと頭に手を当てた。

そこにぽつりぽつりと、メイがその古く有名な寓話を語り始める。


「その昔、ぶどうを欲しがったキツネが、どんなに試みても手の届かない高さのぶどうを取ろうとしました。しかし取れないことに失望し、『あれはきっとすっぱいぶどうだ』と自分を納得させ、その場を去ってしまった、という物語です」


「あれ?”すっぱいぶどう”って何かの歌詞に無かったっけー?」とヒナが記憶を辿っていく。

「米●!●津玄師だ!…”踊るあほうに見るあほう我らそれをはたから笑うあほう”」
歌詞を引用しつつヒメがくねくねと踊り始め、それを見たヒナがのけぞって笑った。ツボに入ったらしい。

「カッカッカッカッ」ヒメも笑った。

「ヒメちゃん、その笑い方おもろいな、あははは!」

ゼンがメイの背中を叩いて笑っていた。

メイの顔は少し赤くなり、目を閉じた。

一人シリアスなムードで語り始めたのが、小っ恥ずかしくなってきていた。


メイは深呼吸をして再び口を開く。

「キツネとぶどうのお話は、このワイナリーではむしろ、何かに挑戦する際の教訓となっています。寒さの厳しい環境の中で、ぶどう栽培は数々の困難に直面してきました。ですが、その障壁を『すっぱいぶどう』として避けるのではなく、それに立ち向かうための方法を、求め続けたんです」

メイの力説にヒメとヒナはきちんと聞く姿勢へと直った。

「温泉の地熱を活用するアイディアや、多品種を混醸する方法といった、挑戦と研究の結果が、今のこのワインに繋がっています」

メイが手元のグラスをそっと撫でる。

「この寓話は、情熱と挑戦の精神を伝えるものとして、今も大切に語り継がれているのです!」

メイが拳に力を込め、スピーチを締めくくった。

「おおー!」パチパチとヒメとヒナが拍手した。

「今のそのグラスに入っているのはワインやなくてジュースやけどな」なおもゼンはおちょくろうとしていた。

「そうですね。だからこそ、大人の家族や知り合いの方がいたら、ジュースとワインの両方を届けていただいて、ぜひ飲み比べてほしいです。ショッピングコーナーでお待ちしています」

「えー!営業だったの!?」ヒメとヒナは滑りそうになった。

「あはは、冗談ですよ」

「でもこれは購入確定だよ!めちゃめちゃ美味しかったもん」

ヒメが空になったグラスをフリフリした。
ヒナも首が取れるほど頷いている。

「わーい!ありがとうございます!」メイがお辞儀した。

「ショッピングにも行くとして、あと、そろそろお昼の時間だね。お腹空いてきちゃった」

ヒメがお腹をさすってみせる。

「レストランの方にも行ってみない?」とヒナが提案する。

すると、ゼンがメイの肩に手を置きつつ、言った。

「ほんなら、私達はここに残るよ。ガイドはするし、仲良くできるのも嬉しいけど、ヒメヒナちゃん二人の旅行やから」

「ゼンにはそこのカウンターで、もう少し過去のアーカイブとかを紹介したいと思います」メイも続ける。

「メイのおごり?ほんまに?!」

「別におごるなんて言ってませんけど。まあいいですよ」

ゼンは弱くても酒好きらしい。

昨晩、倒れていたのを思い出し、ヒナは少々心配になる。
でも、おごってもらうことの素晴らしさには同感だ。

「二人は、なかよしさんだね」ヒナが微笑んだ。

この二人にも、友達同士の時間があるだろう。

「ゼンちゃんも、メイちゃんに会うために、京都からわざわざここまで来たんだもんね」

と、ヒメが言った途端、ゼンの顔は真っ赤になった。



8章:まあ、おいしいからいっか


「ゼンちゃんに悪いことしちゃったかなー?」

ヒナがローストターキーをフォークでつつきながら、ヒメに話しかけた。

ヒメとヒナは、いったん二人の案内人とは別れ、ランチタイムに入っていた。食事を楽しむ人々の声や、皿とカトラリーの音が心地よい。

レストランは、テイスティングコーナー同様、屋根に沿った巨大な木の梁と大きな窓、幾つもの籠のランプが開放的な空間を演出している。


「仲良しだし、あれでヨシ!…うわ、これおいしっ!」

ちょっと韻を踏んだ調子で言って、ヒメはハチミツとマスタードが塗られたハムをむしゃむしゃとしていた。

ゼンは、この島に来た動機を素直にメイに伝えていなかったようだ。

ヒナは、昨晩のゼンとのやり取りをヒメに全部伝えていたつもりだった。

ごめんね、秘密は守られなかったよ。

あのキツネの絵画が見下ろすテーブルの下で、ヒメに暴露されたあと、ゼンはしばらく赤面したまま硬直していた。

メイは「どういうことですか!?」と繰り返しながら、嬉しそうにゼンの周りを回っていた。

「ツンデレって、本当にいるんだね、現実にも!」ヒメのお皿にはもう何も残っていない。

あらかじめ控えめな分量しか盛っていなかった。

今回のターゲットは、最初からデザートビュッフェであった。

話しながら、ヒメの目はテーブルの向こう側にあるデザートの山に引き寄せられていき、ヒメの声はオクターブ高くなっていた。

「あはは、たしかに。あれは味わい深かったですなぁ」

ヒナも振り返って、近くのメタリックなビュッフェ台に狙いを定めた。

デザートビュッフェの前に立つと、二人の目の前には色とりどりの”デザートの森”が広がっていた。

「ヒナ、これってビュッフェとして出していいレベルじゃないよね?! これ全部手作りなの?」

「見て、この家、窓ガラスまでちゃんと再現されてる! こんなの食べるのもったいないよ!」ヒナはジンジャーブレッドの家を指差しながら言った。

家の横にはブッシュドノエルが、雪に覆われた木の幹のように、テーブルの上でそびえ立っていた。

「これもすごいよ! 木の皮の質感まで作り込まれてる!」

その隣には、シュトーレン。まるで宝石箱のように、中から色とりどりのドライフルーツやナッツがちらりとのぞく。

ふわふわとしたパネトーネは、空に浮かぶ雲のようで、その周りにはミンスパイが星のようにキラキラと輝いていた。

その他にも、星型やツリー型のクッキーは、繊細なアイシングで装飾されており、チョコレートの彫刻一つ一つが芸術品のよう。


二人は、お皿に色とりどりのデザートを選び、席に戻った。

それぞれのデザートの感想を言ったり写真を取ったり、おしゃべりは絶えることが無かった。

しかし、ヒメがふと眉をひそめて、言った。

「…でもさ、これって、もしかしてクリスマスの余りもふぉ!?」
ヒナが手に持っていたキャンディケーンを、ヒメの口に突っ込んで、その率直すぎる感想を咎めた。


「ふぁ、ぉいふぃーふぁらふぃっふぁ」ヒメは言葉を詰まらせながらも、キャンディケーンを口の中でかき回していた。

「口にもの入れたまま喋らない方がいいよ」ふがふがしているヒメを見ながら、ヒナの頭に疑問がもう一つ浮かんでいた。

この太琉瑠ワイナリーおよび霜弧亭は、何故かクリスマスシーズンの開始から25日まで客を受け入れていない。

この旅行の予約を取った時も、少し変だと思ったのだ。

クリスマスシーズンは多くの宿が繁盛する時期であり、ここも例外ではないはずだ。

休業理由は『季節的な保守・メンテナンス』とされていたが、そのうえでこんなに素晴らしいデザートを、この時期に提供できるのは何故だろうか?


しかし、甘くて蕩けるようなシュトーレンを口にした瞬間、そんな疑問まで溶けて無くなってしまった。


「おいひー!」



9章:ヒメと同じ、ヒメたちと同じ


お昼を終え、ヒメとヒナは次の目的地、太琉瑠稲荷神社への移動を始めた。
 

先ほどは、レストランと同じ階にあるショップで、ワインとぶどうジュースの大きな一升瓶とお菓子を購入した。

いずれもスタジオの仲間たちにぜひ味わってほしい。

しかし、これらは重たいためスタジオへ直接送ってもらうことに。

それでも、テイスティングしたぶどうジュースの味が忘れられず、旅行中に飲むために小瓶や缶に入ったものを結構な数、買い込んだ。

 
テイスティングコーナーへ寄ると、案内役であったはずのゼンは、案の定、ワインの影響でテーブルに突っ伏し、よだれを垂らして眠りについていた。

彼女の隣で、メイが苦笑いしながら手を振っているのが見えた。

メイは、ゼンを起こすことなく、静かに「神社には後で合流します」と口元に指を当てながら囁いた。
 

そんなやり取りもあり、ヒメとヒナは太琉瑠稲荷神社へと向かうシャトルバスに乗り込んだ。

バスは島の外周を流れるように走り、窓の外には、冬の海が広がっている。

凍りつくような青さの中に、波が打ち寄せるたびに白い泡をちらつかせ、海自体が生きているように見えた。


「あれ、あの鳥、ペリカン?」と、ヒメがハクチョウを指差して驚いた。

「え、どこどこ?はー!見逃した!」とヒナは頭を抱えた。

ペリカンは主に温暖な地域に生息する鳥で、冬の北海道でペリカンに出会うことはない。

ヒナは、静かなバスの中で、少しうとうとしながら、ずっと幻のペリカンの姿を探していた。

そのうち海は視界から消え、バスは目的地に到着した。約30分の乗車だった。

 
「太琉瑠稲荷神社、到着です。」バスのアナウンスが流れ、二人は席を立ち、バスを降りた。

目の前には、荘厳な雰囲気を放つ太琉瑠稲荷神社の正門の鳥居がそびえ立っていた。

冬の空気に鳥居の赤が鮮やかに映えていた。

ヒナはちょっとした不満を顔に浮かべながら言った。

「ねえ、ヒメ。さっきのアホウドリ、絶対見間違いだったでしょ?」

「うーん、確かにアホウドリっぽかったけど…でも、見間違いではないね!」ヒメはその言いがかりに対抗した。

「じゃあさ、次に本当のアホウドリを見つけた方が勝ちにしない?」

「えー!ずるいよー!」


「――アホウドリは、北海道に、いませんよ」

ゾワゾワゾワっとした感覚がヒメの左耳とヒナの右耳を襲った。

「「うひゃあ!!」」飛び上がる二人の背後にいたのは、メイだった。

先ほどの服装に、フランネルの黒いトレンチコートと、缶バッチの付いたトートバッグが加わっていた。

「やっぱりキミかー!神出鬼没!神社だけに!」ヒメは思わずファイティングポーズを取っていた。

「ASMRは、リラックスしたいときや寝る前に聞くものだよ?」とヒナもついついお説教。

「アホウドリは、伊豆諸島の、絶滅危惧種ですから、いませんよ」

メイは懲りることなく、ASMRの意味を知ってか知らでか左右に揺れながら二人を眠りの世界へと誘う。

「zzz……ハッ!でもさー、ここにアホウドリがいるわけないんだったら、やっぱり見間違いじゃん!」

ヒナが一瞬連れていかれそうになったが、意識を持ち直し、ヒメに向き直って続ける。

「と、いうことは~、ヒナの勝ち~ドンドンパフパフー!」ヒナが小躍りした。

「くっそ~!絶対に幻の生き物を見つけてやるー!」と、ヒメは負けを認めてしまった。

 
神社の境内は、冬の静けさが一層の厳粛さを添えていた。

雪に覆われた参道の石畳は、その冷え冷えとした感触が、訪れる者たちの心を清めているかのようだった。

ヒナは、狐の像をすぐさま指差して言った。

「あっ、見てヒメ!狐発見!これでさらに1ポイントゲットー!」ヒナは得意げに笑った。

ヒメは、うへー、と反応しつつその狐の像をじっと見つめた。

「ねえ、その狐、口に何かくわえてるよ。玉と…もう一匹は…お昼に食べたキャンディみたいなんだけど」

白と赤のカラーリングは、あの時ヒナに突っ込まれたキャンディケーンと、共通していた。

それに対してメイが解説する。

「それは鍵なんです。この狐たちは稲荷大神のお使いとして知られています。玉と鍵を咥えている姿は、稲荷大神の御利益が狐によって人間に運ばれることを示すと同時に、人間の願望を預かって、神様へ届けられる信仰を示しているんですよ」

「へー、人と神様との間を取り持ってたんだね」ヒメはふむふむと頷いた。

「あと、花火の際の掛け声「たまや〜」「かぎや〜」は、昔、花火屋がその玉と鍵にあやかって、会社の名前にしたのだと言われているんですよ」

「何か聞いたことあるかも…?」

アーティスト活動の中で、ステージ衣装のひとつとして狐面を被りつつ、ド派手な打ち上げ花火ソングを歌ったこともある二人なので、どこかで耳にしていた可能性はあった。


その後も壮麗な彫刻が彫り込まれた楼門や、輝く金箔や色鮮やかな装飾が施された神輿が並ぶ外拝殿、地域の人たちが踊りや音楽を披露することもあるという神楽殿等を、三人は見物して回った。

突然、ヒナはおみくじと書かれた看板の方へ、まるでゲームセンターに来たかのようなテンションで、走り寄った。

他の二人はヒナの後を追いかけて

「何でそんなに急ぐの?」と尋ねた。

「神社に来たからには、これっしょ!」と、両手をヒラヒラさせて示したのはおみくじコーナー…

ではなく、隣のカプセルガチャガチャ機。

その名も『太琉瑠稲荷神社 大吉ガチャガチャ』。

機械の正面には、等身の低い狐のフィギュアが全7種類描かれており、ぷにぷにとした愛らしい表情をしていた。

「コンプリート目指す!」ヒナは宣言すると、小銭を機械に投入し、カチカチとハンドルを回し始めた。

「ヒメもヒメも!大吉確定ガチャだー!」と言いながら、ヒメもつられて隣のガチャガチャ機に小銭を滑り込ませた。

大騒ぎしながらカプセルを開けていき、ついに、ヒナが最後の一つ(シークレット)を手に入れた瞬間、二人は歓喜の声を上げた。

ダブったフィギュアの一部はメイが引き取ることになった。

「ありがとうございます、二人とも。これは宝物にしますね」メイのトートバッグは十分なサイズがあったので、カプセルを難無く収納していった。

一方でヒナがワイナリー二階の売店で貰ったショッパーと、ヒメのナップサックは、ジュースの小瓶とガチャカプセルでパンパンだった。

「この先の本殿まで少し歩きますけど、荷物平気ですか?」

メイの指が示す方向には、京都伏見稲荷大社を思わせるような、朱塗りの鳥居が幾重にも連なっていた。

「大丈夫!」と二人は明るく答えた。彼女たちの足取りは軽やかで、神社の静けさに活気をもたらしていた。

その鳥居のトンネルが並ぶ山道をしばらく歩くと、前方で道が三つに分かれているのが見えた。メイが説明する。

「この先は同じ本殿へ続く道なんですが、三本それぞれの道には特別な意味があって、恋愛運、仕事運、健康運を高める力があると言われています。

二人はどの道を選びますか?」彼女の言葉に、ヒナが思考にふける。

「うーん、やっぱり金運がいいかなぁ?」金運は選択肢には無い。

「…でも、何ごともまずは健康あってのものだよね。健康運にしよ!」と決めたヒナ。

ヒメも!と、ヒナと同じ選択をしようとしたその瞬間、ヒメの視線はメイの方に吸い寄せられた。

メイは、ヒメに向かってウインクし、その手に持っているトートバッグを指差して、何かのサインを送っている。

ヒメは、そのサインの意味を汲み取った。

「そうだ!ヒナは健康運、ヒメが仕事運の方に行けば、我々は二人で一つの活動をしてるし、一挙両得じゃん。天才か!」と言って、ヒメは、あとで落ち合うことを提案した。

「じゃ、あとでそっちの道はどんな感じだったか教えてねー」とヒナはそれを了承した。

メイは「私も仕事運が欲しいですね」と言い、ヒメと同じ道を選ぶことを告げた。

そして、一時的に二手に分かれて進むこととなった。

ヒメとメイは、石畳の階段を上がりながら、風に揺れる木々の間から差し込む日差しを浴びて進んでいった。

道は、出発地点から反時計回りにカーブを描きながら、本堂を目指していた。

歩いていると、中腹に傘のような屋根が付いた休憩ポイントが現れた。

ヒメはベンチに座り、ナップサックから、カプセルとジュースの小瓶を掻き分けつつ、ヒナへのプレゼントを取り出した。

箱に入ったペンダントは、どこかで引っ掻けてしまったのか、包装が破れてしまっている。

今朝の約束どおり、メイはトートバッグの中から色とりどりの包装紙とリボンを取り出した。

「ヒナちゃんのイメージに合うものを選んでみてください」と言いながら、彼女は一枚一枚、包装紙を広げてみせた。

「うわっ、すご!本当にありがとう!バリエーション多過ぎでヤバ過ぎる!」

ヒメの目の前に、夜空に輝く星座のデザイン、雪の結晶が舞う冬の景色、そして、クリスマスソングの歌詞や楽譜が描かれているデザインなど、どれも独特で魅力的な包み紙が展開されていく。


「ヒナは、青が好きだよね。だから、この青い流れ星かな。でも、クリスマスツリーのもかわいいし、雪だるまの村も楽しそうだなぁ」と、ヒメは悩みながらも楽しそうに各デザインを比べていた。

メイはもはやショップの店員のようになっていて、声をかけてくれる。

「どれも素敵ですよね。でも、プレゼントの内容や、渡す時のシチュエーションを考えて、一番合うものを選んでみてはどうでしょう?」

ヒメはしばらく考え込んだ後、ピンと来るものを見つけたのか、決意の表情で一つのデザインを手に取った。

「これにする!ヒナが喜ぶと思う!」と、選んだのは夜に浮かぶオーロラのデザインだった。

「これに青いリボンを合わせて、完璧な包装にするぞ」と言うと、

メイは「それなら」と言って、さらに濃淡や色調の異なる青いリボンを何種類も取り出した。

あさぎ色、るり色、はなだ色…どれも美しく、選ぶのが難しい。

ヒメは、ライブの時にファン達がペンライトの色を変えて、曲のイメージに即興で合わせて応援してくれていた姿を思い出した。

「自分が選ぶ立場になると、案外難しいな」と、ヒメは感慨深くつぶやいた。

しばらく迷った末、ヒメは一つのリボンを選んだ。

淡くて優しい青色だ。一瞬、メイの方から息を呑むような音がした。

「それは……勿忘草わすれなぐさ色ですね」

何だろう?一瞬だけ言い淀むようなものを感じたが、すぐに明るいトーンに戻った。

「ヒメさん、最高の選択だと思いますよ。その色は忘れられない思い出や、大切な人への絶え間ない想いを象徴しています」

「そんな褒められると照れるなあ」

えへへ、とヒメがリアクションしている間に、メイがシュバババッと立ちどころにプレゼントを包んだのを見て、ヒメの背筋が伸びた。


「…よし!あとは今日の夜、渡すだけだ!
――メイちゃん、改めてありがとう。こんなにたくさんの選択肢を用意してくれて、そして、色の意味まで教えてくれて」

ヒメは感謝の気持ちを込めてメイに微笑んだ。

「大丈夫ですよ、ヒメさん。喜んでくれるなら、それで私も嬉しいですから。あとはお代さえいただければ、私も満足です」

メイも優しく微笑み返した。

ヒメは一瞬、驚いた表情を浮かべたが、すぐに冗談だと気づき

「えー!そんなこと言わないでよ!」と笑った。


二人は、再び道を急ぎ足で進み始めた。

足元の石畳は時折、霜が降りて滑りやすくなっていたが、二人とも気をつけながら歩いた。

やがて、本殿が見えてきた。

その前には、すでにヒナが待っていた。


「やっと来たねー。二人とも、何か面白い話でもしてたの?」ヒナはちょっと拗ねたように言った。

「ごめんね、ヒナ。ちょっと途中で休憩し過ぎちゃった」ヒメは、申し訳なさそうに言った。

「私が、色々と説明が長くなってしまって…」とメイも理由を付け加える。嘘は付いていない。

 

日差しはゆるやかに西の空へと傾き始めた。

三人は、再び一緒に境内を歩き、本殿に到着した。

その建物は、伝統的な神社の形をしているものの、何となく新しい雰囲気が漂っていた。

メイが説明を始めた。

「この太琉瑠稲荷神社は、神社本庁に属していないんです。そして、ここは戦後に建て替えされた比較的新しい本殿なんですよ」

「え、本当に?見た目はこう、古風な感じだけど」とヒメが感想を述べる。

「そうですね。でも、よく見てみてください。こういった背景があるからか、自由な雰囲気がこの神社の特徴なんです」

するとヒナが、境内の中央に並ぶ狐の像を指差して言った。

「あれ、見て!狐達が何かを運んでるみたい!」

ヒメも目を細めて確認すると、確かに、7体の狐達の口には玉がしっかりと咥えられていた。

その狐達の体勢は、流麗で美しく、今にも動き出しそうだ。

いずれの像も、月明かりのように柔らかい乳白色の輝きを放つ表面を持っており、近づいて触れると冷たく滑らかな感触だ。

玉は全て異なる色で塗られていた。

「メイちゃん。この狐達、さっきのとなんか違うよね?」ヒナが不思議そうに言った。ヒメも頷いた。

「確かに、何か雰囲気が違うような…」ヒメが言葉を続け、メイに説明を求めるように見つめた。


メイはしばらくの間、何か考え込んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「実は、この太琉瑠島には、一般的な稲荷神社の信仰とは異なる、独自の言い伝えがあるんです」

「え、何それ?興味津々だよー!」ヒナがキター!といった様子で目を輝かせて尋ねた。

「下にいた狐達の役割を覚えていますか?」メイは二人に問いかける。

「はいピンポン!人のお願いごとを神様に届けたり、逆に神様のご利益を運んだりします!」

ヒメが早押しクイズのように身振りして、即答した。

「大正解です!…それに対して、ここの狐の役割は、少し違うものとして伝わっています」

メイは、近くで姿勢を低くしている一匹の滑らかな頭を撫でた。


「この狐達は、『白茲はくじの狐』と呼ばれ、思いやりや慈しみといった、人と人との心の接触により放出される、目に見えないエネルギーを感知して、神様のために収集する役目を持っているそうです」

「そして、そのエネルギーのことを『茲力じりょく』」と呼んでいます」
 

「あー!!!」

ヒメがデカい声を出して、しかも少しニヤニヤし始めた。

ヒナが少し呆れ顔で
「ヒメが次に何を言うかわかる気がする…」と言うやいなや

「領域展開!!」

とヒメが片手でうろ覚えの掌印を作ってみせた。ヒナは空を仰いだ。


「ええと、何ですかそれは?」と、メイが二人の意外な反応に困り顔を見せていた。

彼女はアニメや漫画にあまり詳しくないようだ。

ヒナがピンと左人差し指を立てて口を開く。

「『呪術○戦』っていう超超人気の漫画があって、そこで”呪力”っていうキーワードがあるんだけどね、それは怒りとか憎しみとか、人間の負の感情が元となって発生するエネルギーなんだよねー」

「それでそれで、”呪力”で身体能力を上げたり、キャラごとに色んな能力を発動させ」「ちょっとまてい!」

とヒメが、漫画の解説に火が付き始めたヒナの腕を軽く叩いて鎮火させた。

「オタクはすぐ布教したがるんだから…」

ボケとツッコミが次々と入れ替わる様子を見て、メイが笑いながら続けた。

「あはは、それなら案外わかりやすいかもしれないですね。この狐も時に”茲力”を活用して、人の絆の形成や大切な人への行動などの手助けをすると言われています。つまり、この狐は、人々の行動や努力を後押しする側面も持つんです。その時には、分け前として、その分のエネルギーを回収するそうです」とメイが言った。

どこかからカランカランと、子供たちが無造作にカスタネットを鳴らすような、自由で明るい音がする。

「それで、狐さん達が集めたエネルギーって、どうすることになってるの?」

ヒメが尋ねると、メイは本殿の閉ざされた扉を指差した。

紅白のしめ縄に吊るされた、白くギザギザした紙垂しでが風に揺れている。

7体の狐像はみな、その扉の向こうの聖域へ向かっているように見えた。

「年に一度の特別な日に使われるんです。」

「特別な日?」

「そう。年に一度、神様が狐達によって集められたエネルギーを使って世界を駆け回り、人々にご利益を撒いていくとされています。」

「その大切な日に見立てて、毎年立春の頃には『太琉瑠慈流祭たるるじりゅうさい』という祭りをやるんです。

演奏会や特別な儀式など、島の内外から人が集まって、様々なイベントが行われるんです」

「えーめっちゃ楽しそー!」と二人は顔を見合わせた。

二人も定期的に、ファンから集めた自分たちのコラージュ画像やMAD動画を観賞する混沌としたバラエティ祭典企画を催していたが、その祭りの名称をここで口にするのは憚られた。

会話をしながら、メイの先導で三人は絵馬掛所の前に来た。

風に吹かれてカランカランと響いていたのは、絵馬が奏でる音だった。

絵馬掛所は、本殿に向かって左側の脇にあり、木製の屋根がかかった大きな長方形のスペースで、その中には無数の絵馬が縦横に並べられて吊るされている。

「慈流祭は少し先なので、今は絵馬がたくさんありますね。古い絵馬は祭りの日に焚き上げることで、参拝者の願いや感謝の気持ちを天に昇華させるそうです。まあ、いつまでも吊るせるほどスペースが無い、というのが主だった理由だと思いますけど」

それぞれの絵馬には、参拝者たちの願いや決意の言葉が書かれており、その中には、漫画やアニメのキャラクターが描かれたものもちらほらと見受けられた。

「ほら、さっき言ってた『呪術』のキャラのやつがあるよ!めっちゃ上手!」とヒナが絵馬を物色する。

「あ!!ヒナ!『エヴァ』のカヲ〇くんがいるよ!」

「え゛え゛っ!?どこどこどこ!?」

取り乱すヒナに対して、ヒメが半笑いで指し示した絵馬には、白い手袋で覆われた指を、祈るように口の前に交差させ、眼鏡の反射で目の隠れた中年男性のイラストと、“祈るなら早くしろ。でなければ帰れ”というパロディらしき台詞が添えられていた。

「ねえー!!なぁんでゲン〇ウとカ〇ルくんを間違えるの!わざとでしょ!?」

ヒナが吠え、ヒメがゲラゲラと笑った。

「その絵馬、私が描きました」

「え……!!」

「嘘です」

ヒメとヒナは揃って後ろに倒れそうになった。メイがクスクスと笑った。

 
せっかくだから絵馬を書いていこうと、絵馬掛所の向かいにある瓦屋根の社務所へ入った。

神社の案内図がディスプレイされた木製の引き戸を開けると、木の香りと微かに感じるお香の香りが、三人を迎え入れる。

中には幾つかの丸テーブルと赤いクッションが敷かれたベンチが置かれており、休憩スポットとしても利用されているようだった。

入口近くのカウンターには、裏側に狐のシルエットが描かれた絵馬が展示されており、数種類の中から気に入ったものを選んで購入できる。

ヒメはベンチに腰を下ろしてちょっと気の抜けた声を漏らした。

「あ~~あったかい」ヒナもヒメの隣に座って、手をこすり合わせた。

「外で書くのはちょっとキツかったかもねー」二人はそれぞれ絵馬を選びカウンターで購入。

再びベンチに座ると、テーブルの前で筆ペンを握りしめた。


握りしめた、もののヒメの目は、何度も筆先と絵馬の間を行き来し言葉を探しているようだった。

ヒナも同じように、何度も筆を持ち上げては下ろしていた。


「ねえ、オーロラが見られますようにって書こうかな」とヒナがぽつりと言った。

ヒメは、少し驚いた顔をしてヒナを見た。

「でも、満月の夜は、オーロラは期待できないって」

ゼンちゃんからそう聞いたって、ヒナの方が言っていたはずだ。

「そうだけど、ここまで来たし、あとは天に任せるしかないことを、ここに書くべきかと思って」

それもそうかと納得しつつ、ヒメが自分の考えを伝える。

「んー、さっき狐の伝説の話があったじゃん。だったらヒメたちが達成したいことを書いた方がいいのかな?」

「たしかに。でもその狐は人の行動とか努力を後押しするって言ってたけど、正確には、それは自分のためじゃなくて、他人のための行動を後押しするって話だったよね」

「そうだね。うーん、それなら何を書くべきかな」

二人とも腕組みをし始めたところで、メイは手を合わせて軽く頭を垂れた。

「ちょっと難しく考えさせるようなことを言ってしまって、ごめんなさい」

「ほら、自分の成長や自己実現を目指すことは、人のためにもなることが多いですよね」メイは穏やかな声で言葉を続けた。

「例えば、ある人が自分の事業の成功を願っているとして、その背後には家族を支えたい、地域の雇用を増やしたい、何かのために寄付をしたいなど、さまざまな動機や目指すアウトカムがあるかもしれません」

「逆に、」メイが目を細めて言葉を続ける。

「表向きは社会貢献や他者のために行動しているように見せかけているものには注意ですね。慈善詐欺や、信用できない情報教材とか…」

それを聞いたヒナはにっこりと笑いながらも、目は真剣に

「『すべての転売ヤーに不幸を!』って書こうかな?」と言った。

ヒメはすかさず
「それ、呪いだよ!それに転売は表向きからして人のためになってないじゃん」とツッコミを入れた。

「でも、考えてみると、」

「ヒメたち二人がアーティストとしての夢を追い続けることが、ファンのみんなも元気付けて、みんなの夢や希望にも繋がるんだったら、それは人のための願いとも捉えられるんじゃないかな」

その言葉にヒナも頷いた。

「そうだね。ヒナたちが夢に向かっていくことで、みんなも夢を追い求める勇気を持ってもらえるかもしれない」

「間違いないですよ」メイは微笑んで二人を肯定した。

ヒメは大きな文字で、ヒメとヒナと仲間たちが目指す、夢の大舞台への意気込みを絵馬に刻んだ。

「そうだ、喉も乾いたしちょっと乾杯しませんか。縁起の良さそうなものも持ってますし」

メイは自分のバッグから、ヒメとヒナがお昼に買い込んだのと同じジュースを取り出した。

「ふふ、そりゃシャレたアイデアだね」ヒメとヒナ、そしてメイは再び杯を交わした。

 
一枚の絵馬が完成し、ちょっとした達成感もあって脱力気味のヒナが提案する。

「オーロラのことも書いちゃおうよ。さっきの分かれ道と一緒だよ。二人一緒にお願いごとをシェアしよ?」

「そうだね。2枚目いこ!」

ヒメが賛成し、”二人でオーロラが見られますように”という願いを追加したあと、続けて

「他にも書きまくるか!」と冗談を言った。

「ダメですよ、そんなにたくさんは」と笑っているメイの顔を、ヒメとヒナはじっと見つめ始めた。

「えーっと…?なんでしょうか?」

「ところでさ…」

「メイちゃんは書かないの?絵馬」ヒメとヒナは二人同時に素朴な問いかけをした。

その質問に、それまで少し飄々としていた彼女が、それこそ狐につままれたような顔をした。

「私の…?」

「願いとか、目標とか、あったら教えてほしいな」とヒメが言った。

その声には、真剣さとともに、メイの心の中を知りたいという気持ちが込もっているようだった。

プライベートなことに立ち入るのは少し悩ましいところだったが、それでも尋ねてみたかった。

昨晩、ゼンを通じてメイが何やら悩んでいるような話をヒナは聞いていた。

その情報はヒメにも共有されていた。

ヒナもまた、本人の口からその思いを聞いてみたいという気持ちを隠せなかった。

「実はね、ヒナたち、ラジオでファンのお悩み相談をたくさんやってきたんだ」

「だから、メイちゃんのお悩みも、ヒメたちに任せてみては?」ヒメは、少しおどけたような表情でメイに提案した。

メイは口元に手を当て、しばらくの間、そのままの姿勢で考え込んでいた。

そして、彼女の指がゆっくりと頬を撫でるように下へと滑り落ち、その手が胸の前でもう片方の手に握られた。

そして、組まれた指の上に顎を乗せた。

「……」
「……」

「…いやもうゲ○ドウはいいから」
ヒメがツッコむと、メイは膝に手を置き視線は窓の外の本殿を見つめながら、口を開いた。

 
「実は…太琉瑠島に来てから、私も自分だけのワイン造りを始めたんです。まだ始めてからはそんなに経っていませんが、小さな畑と工房は、私の宝物なんです」

「もしかして、メイちゃん、ここに前から住んでた人じゃないの?」
ヒメが目を丸くした。

「はい、そうなんです。2年ほど前に太琉瑠島へ来る前は、ボルドーにいました」

「えー!こんなに詳しいのに。」

ヒナは驚きの声を上げたが、同時に、ヒナの頭の中にはゼンの昨晩の言葉が蘇っていた。

”なんて言うたらええかな…実はな、さっきまで会ってた友達なんやけど、1年近くかけて研究してた課題を、期日までに提出できへんかったんよ”

ヒナはヒメの方をちらりと見て、同じことを考えていると察した。

メイの目的について、ゼンは「研究課題」として言及し、メイが「ワインづくり」について明かした。

二人の言葉が微妙に一致しないことから、ゼンもメイも何かの「喩え」を示しているというのは、考え過ぎだろうか。

その背後には、メイとゼンの真に関わっている事柄が隠されているように思えた。

二人の中での好奇心は湧き上がっていたが、直接その点について問うのは躊躇われたし、はぐらかされてしまう気もしていた。


「何で、太琉瑠島に来たの?」ヒメが質問した。

ヒナは心の中で頷いた。

ヒメの質問は、現時点で心を開かせるのに最もちょうど良いと思った。

「ボルドーにも、私が所属していた組織があったんです。でも、本当にやりたいことを追求するために、自分の夢を追い求めるためには、組織の枠を超えて、自由に動ける場所が必要だと感じました」

彼女は少し恥ずかしそうに続けた。

「だから、一人で飛び出してきたんです。太琉瑠島は、私にとって新しいスタート地点として、理想的な場所と思ったんです」

「それはすごいね!我々も、仲間たちと一緒に会社とスタジオを作ってきた経歴はあるんだけどさ、一人で日本まで来るのは、結構ファンキーじゃない?言語とかどうしたの?」ヒメが早口で驚きを表現した。

「え?ボルドーって海外なの?ヒナはてっきり、”ボル道地方”って北海道のお仲間的なエリアかと…」

「ヒナさんや、冗談で言ってることを祈るよ」ヒメが肩を落とした。

「日本語は、来る前に少し勉強していました。でも、実際にここで生活する中で自然と身に着けることができました。

それに、協力してくれる温かい人たちもいて、おかげで日本の文化や言葉にも早くに馴染めましたよ」

「支えてくれる人がいると、困難な状況も少し楽に感じられるよね。新しい場所でのスタートは大変だったと思うけど」とヒナが微笑んで言った。

そして、一瞬の沈黙を挟み、次の質問を投げかけた。


「…メイちゃんがそんな大きな決断をしてまで、叶えたい夢って、一体何だったのか聞いてもいい?」ヒメもコクコクと頷いた。

ヒメ、ヒナ、二人の目を順に見つめて、メイは打ち明けるように語った。


「…かつて私は、ある”精製”技術を駆使したワイン作りに身を投じていました。そこで働いていた時、確かにワインの品質を一定に保つという意味では、技術の力は素晴らしい成果を上げていたんです。均一な品質、効率的な生産、それに伴う組織力は、今もそれを求める方々への需要に貢献しています」

再び、メイの視線は窓の外へ投げられた。

「だけど、あるとき気づいたんです。ぶどう一粒一粒には、それぞれに独自の物語があることを。『テロワール』、つまりその土地のとりまく環境や歴史を映すことが、ワイン造りの本質であるべきだと。ボルドーでの経験は、決して無駄ではありませんでした。そこでの学びがあったからこそ、私は本当に大切なことに気がつけたんだと思っています」

メイは、空になったジュースの小瓶をそっと抱いた。

「今では、過去のように大規模なものではないけれど、その分一つ一つのぶどうと対話ができる。私の夢は、それぞれのぶどうが持つ物語を、ボトルに封じ込めることです」

メイの言葉の後、一時の静寂が部屋を包み込み、その余韻が響いていた。


「…メイちゃん、ヒメたちも、自分たちの音楽を追い求めて、多くの困難があって、そうして音楽に込める想いや物語があるんだ」

「それぞれの曲には、ヒナたちやみんなの経験や感情が詰まってる。だから、あなたの夢の話、とっても胸に響いたよ」

メイの言葉の中には、彼女の心からの熱意が確かに在って、それは二人の音楽にも通じるものがあった。

ヒメは、メイの話の核心をしっかりと捉えていた。

彼女が追い求めるのは、”ぶどう”の一粒一粒の個性を大切にした、アートのようなワインづくりだ。

その志向に疑いの余地はない。


しかし、それと同時に、ワイナリー見学の際に得た知識との矛盾を感じ取っていた。

ボルドーという地域は、伝統に裏打ちされた「テロワール」を重んじる土地として知られているはずだ。

それなのに、メイが以前所属していた組織が、その伝統とは異なるアプローチ、科学技術を駆使してワインを造っていたのだろうか。

それとも、ボルドーの中でも、伝統と新しい技術が交錯するような場所が存在するのだろうか。


「そのワインづくりは…上手くいってるの?」

ヒナの質問は、控えめに、しかし真剣に投げかけられた。

ヒナの中では、ゼンの言葉とメイの現状がリンクして、メイが何らかの困難に直面していることを推測していた。

メイは深く息を吸い込み、ゆっくりと息を吐き出して、答えた。


「この一年、理想とするクオリティのぶどうを十分に集められなかったんです。私達の業界の最低条件は毎年の生産。でも、私のワインはまだ熟成されていません。品質に妥協せずに毎年ワインを完成させるのは、正直なところ、現在の私には困難だと感じています」

彼女はテーブルを見つめながら続けた。

心なしか声も震えているように聞こえた。

「この問題には、二つの簡単な解決策があるんです。
一つは、技術の力を借りること。
そしてもう一つは、私がこれまで追求してきた品質に妥協すること…」

「だけど、それは…」

伏し目がちな彼女の瞳には、自分の信念と現実の間で揺れ動く葛藤が宿っていた。

ヒメが続く言葉を読み取った。


「一つ目は、メイちゃんがボルドーを飛び出してきた理由そのものだよね。
我々は、むしろ技術って意味では、動画サイトやらSNSやらのおかげで活動出来ている身ではあるんだけど」

ヒナも頷きながら言った。

「技術は確かに便利だけど、それがメイちゃんを束縛する原因になったんだよね。そして、もう一つの、”妥協”は…」

「私の魂を削ぐことに他ならない」

メイの言葉と声色は、今までで一番、心から自然に紡がれたように思われた。

 
ヒメとヒナは、メイの話した”ワイン”の世界のことはよく知らない。

でも、あることはわかるんだ。

それは、『妥協しない』という心だ。


「聞かせてくれてありがとう。業界の細かいことはわからないけど、メイちゃんの姿勢は、やっぱり、ヒメたちが魂を込める活動の旅路と重なるものがあるよ。ヒメたちも楽曲づくりでは、意地になっても、その時に出来る完璧を追求したり…」

「寝るのも忘れて、締め切りギリギリで何度も録り直したこともあったんだ。ちょっとの違和感が、出来上がった楽曲全体の心残りになるのは、ヒナたちにもファンのためにも耐えられないことだから」

コツンと、メイの持っていた小瓶がテーブルの端に当たって音を立てた。

彼女はすっと立ち上がる。

二人のシンパシーが作用してか、その瞳の奥には新たな光が宿っていた。

「…こちらこそ、聞いてくださって、本当にありがとうございます。『僅かな違和感が曲全体に影を落とすのは耐えられない』
……それは私も同じです」


「だけど、私は理想を追い求めてきて、今、立ち止まってしまっている」

メイの視線が月光のように二人を見下ろす。

「最初は、お二人にここまでお話するつもりはありませんでした。

けれども、聞かせてください。

お二人は、これまでの旅路で、今でも信念を守り切れていますか?」


ヒメはゆっくりと言葉を選ぼうとする。

いたずら好きで、丁寧口調なメイ。

この子が内側にこんな熱を秘めているとは。


そういえば、この子『姫』なんて呼ばれてるんだっけ?

『姫』…ヒメと同じ……

そう、目の前の女の子も、ヒメと同じ、ヒメたちと同じ――

「いつも、挑戦の日々だよ。変わらなきゃいけないときもあった。思い切った”舵切り”をしたことも。でも、それでも、変わってはいけないもの……
それは、我々の芯、音楽への愛、その音楽を愛する人への愛だよ」

「新しい挑戦を恐れずに、だけど根っこのところを見失わずに変化していく。それは変わらないものを守るために必要だって、ヒナたちみんなで決めたんだ」

「ちょっと無責任に聞こえるかもしれないけど、メイちゃんが言うように、自分自身の信念を曲げるような選択は避けた方がいいと思う。ヒメたちは音楽を作る人間で、メイちゃんはワインを造っていて……
そう、あなたも、ヒメたちと同じ――クリエイターなんだ。自分の作品に全てを注ぐ人間なんだよ」

「メイちゃん自身が、答えを見つけ出す力は持っているはずだって…ヒナもヒメも信じてる。だって、一人でここまで出ていくなんて、すごい勇気だよ。大切なもののために何か方法を模索する勇気、それが灯になって、あなたの進む道をきっと照らしてくれるよ」


メイは自分のトートバッグを抱きしめて、ヒメとヒナに背を向け急ぎ足で出口まで歩いて行った。

慌てた動作のせいで、バッグからは濃淡の異なる青いリボンたちが、ひらひらと顔を覗かせていた。

「あ!!メイちゃん!?」ヒメが思わず大声を上げた。

「……私、字がヘタッピなんです」

「…へ?それは意外」

「自分の中の想いも、まだ上手に言葉にするのが難しいです。
だから、帰って考えます。自分の夢をしっかりと絵馬に誓うために」

メイはまだ二人に背を向けたまま続ける。

「相談に乗っていただいたこと、心から感謝します。私たちは異なる芸術を通じて、それぞれの夢を追いかけています。でも今日、ヒメさんとヒナさんがこうして私に力を与えてくれたことは、私にとって、とても大きな意味がありました。二人の言葉は、私のこれからの”ワイン造り”にも反映されることでしょう。ありがとう、本当に」


ヒメとヒナは、去っていくメイの背中を見つめながら、彼女が前へと進んでくれそうなことに安堵の気持ちを感じていた。

いつの間にか、西の空がオレンジ色に燃え始めていた。

 
「ヒメ、なんかクサいこと言っちゃったかな…」

ヒメが鼻の下をこすって言った。

「いや、かっこよかったよ。逆にちょっとプレッシャーになってないといいけど。でも、ヒナたちも頑張んなきゃって思ったよ」


「……あー!!!」今回はヒナがデカい声を出して、ヒメがビクッとした。

「ヒナ!どーしたの?!」

ヒナの頭の中に、あの時引っ掛かったゼンの言葉が突如として浮かんできていた。

 ”でも、今回の研究、あの子、提出できなかった内容にそもそも納得いってへんみたいで、焼くとか言い出してて”

「ゼンちゃんが言ってた、”今年の研究”の話、覚えてる?」ヒナが尋ねた。

「え?直接は聞いてないけど、たしか、ゼンちゃんがメイちゃんに”提出できなかった課題”を次の機会の保険として持っておくことを、おすすめしてたってやつ?」

「そう、それ。でも、挑戦に全力を尽くすために、メイちゃんがその保険を自分の手で焼いちゃうかもって言ってたよね。

あれって、今年集めた納得のいかない”ぶどう”のことを指してるのかもしれないって、急に気になって…」

ヒメもそれを聞いて、メイの”ワイン”や”ぶどう”が何を指すのか判然としないものの、何を”焼く”つもりなのか、心配になった。

二人は、急いでメイの後を追いかけた。


「メイちゃん、ちょっと待って!」「待て待てー!」二人して叫んだ。

メイはまだ、本殿前で躍動する狐像の中を歩いていた。振り返った彼女の目は少しだけ赤かった。

「え?どうしたんですか、二人とも?」

「…メ、メイちゃん、は、畑、燃やしちゃうの!?」

ヒメは白く息を切らして、ありえないとは思いつつ奇天烈な質問を投げてしまった。

あってはならない事態、燃え盛る炎に佇むメイのシルエットを想像していた。


「ええ!?も…燃やす?」メイはひっくり返りそうな声で返事した。

ヒメとヒナは昨晩、ゼンから聞いた話をもとに、追いかけた理由を説明した。

「あはは、そんな恐ろしいことをするわけないじゃないですか。たしかに、今年のものは次に持ち越さないことにしますが、きちんと適切な方法で自然に還しますよ?」

「なぁんだ、そりゃそうだよね」二人は胸を撫で下ろした。

「自然に還すってどういうことをするの?」

「んー、それは、とっても専門的で、説明するのは難しいですね…」

メイは詳細な解説はしてくれず、そのまま去ろうとする。


「二人に会うのは、次は今晩のディナーショーになると思います。私の出番もあるんです。それではまた」

最後にメイは、二人との距離を詰めて囁く。

「楽しいステージにしましょうね」

メイは履いているスノーブーツに物を言わせて、帰りも”仕事運”山道から、あっと言う間に降りて行ってしまった。

元々、先に帰ると言っていたのを呼び止めたところだったので、ヒメとヒナはゆっくりと、今度は二人一緒に”健康運”から降りることにした。

 
「あれ、ヒナ、これ行きに見なかったの?」ヒメが木製の看板を指差す。

ここへ向かう時の三択でこのルートを選んだヒナが、恐らく合流地点に到達した時に目にしたであろう出口――今の二人にとっては入口の脇に、看板があった。

そこには今二人が去ろうとしている本堂に関する説明が筆字で書かれていた。

「スルーしたよ。だって、行きは別ルートのヒメたちがいつ来るかわかんなかったから」とヒナが答えた。

丁寧な説明書きには思われたものの、すでにメイから口頭で解説してもらった内容と同じだったので、二人は斜め読みしてその場を去った。

本殿の建設時期、7頭の『白磁の狐』像と彼らの役割、毎年立春に開催される『太瑠琉慈流祭』…


しかし、“じりょく”という言葉だけは、看板上のどこにも見つけられなかった。



10章:ヒナはとっても嬉しいよ


ヒメとヒナは、バスのドアが閉まる音を背に、他の観光客とともに白樺台展望台へと足を進めた。

周囲は暗くなり、満月が光り星が瞬き始めていた。

この展望台から霜弧亭までの距離はほど近く、宿への帰路は徒歩で問題無さそうだった。


白樺台展望台は、オーロラの名所として知られていた。

この展望台を有名にしているのは、360度のパノラマだけではない。

二年前に撮られた、伝説的なオーロラの写真がこの展望台で撮影されたことが、多くの観光客や写真愛好家たちを引き寄せる力となっている。

一方で、のちにSNSでオーロラの目撃証言はあれど、その美しさを写真に収めた者は極めて少なく、その証言すら食い違いがしばしば発生している。

オーロラが雲の多い日の一瞬の出来事であることも多く、シャッターチャンスを逃すことも珍しくないようだ。

展望台の開放時間も限られていた。観光名所としては珍しいが、この場所でオーロラを見るためには相当な運を味方につける必要がある。


バスの中では、二人はそういったネット情報を読みながら、運に頼るしかない現象に対して、せめて何が出来るかの作戦会議で盛り上がっていた。


木々を跨ぐようにジグザグと設置された鉄製の通路は、階段とスロープが交互になっており、二人は自然と調和したそれを登っていった。

二人の向かう断崖絶壁の方向からは、海の音が聞こえてきて、そのリズムが心地よい。

「ヒメ見てー!こっからだとUFOに見えるよ」
「アハハ、ほんとだ!」

白樺林に現れた、ネジのような形状の展望台。

円盤型の展望台は、360度のパノラマビューを提供するよう設計されており、外周には等間隔に照明が整備されている。

ヒナが指摘したとおり、この地点からは支柱が辺りの木々に隠れているため、遠目にはUFOが空中に浮いているような錯覚に陥る。

展望台の支柱に辿り着き、二人は宇宙船に乗り込むようなワクワクを感じながら、組み込まれた螺旋階段を上がっていった。


「よいしょ!」と少し息を切らせつつ、ヒメとヒナは最後の階段を上り切り、円形のデッキに足を踏み入れた。

呼吸を整えつつ二人はその空間を見渡した。

「天井がガラスのドームになってる!」とヒナが見上げながら言う。

頂部から放射状に延びる支柱が交差し合うことで、緻密な編目を形成していた。

「ダメだ…蜘蛛の巣以外に喩えるものが見つからない」

「わかる。ヒナもそう思った。何の捻りも無いけど」

くすくすと笑う二人の周りには、他の観光客もちらほら。

デッキの外にはフェンスの施されたバルコニーがあり、そこに出て景色を楽しむ人々の姿も見えた。

デッキをぐるりと囲んだガラス越しには、遠くに見える街の灯り、そして無限に広がる海の闇。

空には、冬の代表的な星座であるカシオペアがはっきりと見え、そのW型の形が浮かび上がっている。

北斗七星の尾をたどると、北極星が静かにその位置を主張していた。

これらの星々は、都会の光に隠れることなく、冬の夜空を美しく彩っていた。

この島の天地すべてがこの場所から一望できるように思われた。

”二人でオーロラが見られますように”。神社で絵馬に願いを込めた。

幸運をチャージするのに、それ以上に効果のありそうなことは無いだろう。

他に直近では、メイのお悩み相談に乗ったり、ヒナは昨晩に酔っぱらったゼンの介抱をしたり…

そんな出来事も幸運に繋がる『徳』のパワーになるだろうと信じることにした。

しかし、夕食の時間まで展望台で過ごせる時間は限られていた。

二人は、この時間とパノラマを最大限に活かすために、全方位の空を見渡す作戦を立てた。

作戦といっても、要は手分けだった。

ヒメは南側の空を、ヒナは北側の空を担当することにした。

はんぶんこにした空を見守り、もしオーロラが現れたらすぐにお互いに知らせる計画だ。

「ヒメ、何か見えたらすぐ教えてね!」ヒナが元気よく言った。

「おっけー!」笑顔で応えるヒメ。

そんなヒメには、もう一つの作戦があった。
ナップサックの奥に潜ませた、ヒナに渡すお揃いのペンダントのことだ。


ヒメはそっと南側のデッキの外に出た。

バルコニーに張られたフェンスは、鉄の棒が横に3本走っており、床も格子状で隙間が多かった。

高所が苦手な人には向かないかもしれないが、ヒメにとっては少しのスリルが心地よかった。

夜空に広がる星々を眺めながら、ヒメは「さてと」とつぶやいた。

ヒナは北側にいるため、ヒメが何をしているかは見えない。

海に面していないこちら側は、人気が無いようだったがむしろ好都合。

ヒメはかじかむ指でナップサックをがさごそと探り始めた。

ジュースのビンと、神社で買ったたくさんのガチャガチャが入っていて、小さなナップサックではなく、もっと大きなトートバッグを持ってくればよかったと少し後悔した。

荷物がパンパンになってしまい、取り出すのも一苦労だった。

やがて手に触れる、四角い感触。

ゆっくりとそれを取り出すと、メイから貰った勿忘草色のリボンと、オーロラの文様が浮かぶ濃紺の包み紙でドレスアップされたプレゼントボックスが現れた。

今度はどこかが切れたり擦れたりすることもなく、綺麗な状態を保っていた。

ヒメは慎重にプレゼントをナップサックのてっぺんに移動させた。

そして、ヒメは荷物を前に抱きかかえ、星空を見上げ、白い息を吐いた。

渡すタイミングは、この観測時間の終わりにしよう。

オーロラが見られずに終わる確率の方がずっと高いことは、ヒメも理解していた。

しかし、今やヒメにとってオーロラはゴールではない…というのは言い過ぎだが、すでに今の景色や、この旅行自体に心から満足を感じていたのは確かだった。

だからこそ、この特別な旅を企画してくれたヒナへの感謝を表現したいというのが、ヒメの一番の気持ちだった。

お揃いのペンダントは、ヒメが選んだものだ。

ナップサックの開け口から顔を覗かせる、包み紙のオーロラをなぞってみる。

「そうだ!」もし本物のオーロラが現れなかった場合には、この包みのオーロラのプリントが、ささやかながら美しい景色の代役を演じてくれるかもしれない。

粋な計らいに思える小さなアイデア。

ヒメは一人でにやにやしていることにハッと気付き、誰かに見られていないか、少しばかり警戒した。

 
そして、周囲を確認したヒメの目に信じられない光景が飛び込んできた。

「な…!?」

左手の数メートル先に白いダウンジャケット姿の、見覚えのある女児を発見したのだ。

昨晩、展望風呂で遭遇したあの子供は、ヒメとヒナの目の前で大人びた雰囲気のワイン風呂にダイブしていた。

そのわんぱくな女の子に、あとで二人は勝手に”大人ジョジ”とあだ名を付けて、小さな思い出の一つにしていた。

しかし、驚いたのはただ再会したからだけではなかった。

なんと”大人ジョジ”は、フェンスの外側にいたのだ。

等間隔に並ぶ半球状の大きな照明器具の一つの上に立っており、両手の掌には白い雪のような塊を持っていた。

「危ない!」ヒメは急いで駆け寄った。

この高所から落ちたら命に関わるだろう。

近づくと、困った顔をした女児と目が合った。

掌に掬っていた白い塊の正体は、『シマエナガ』という小鳥だった。

ヒメはその名前を知らなかったが、真っ白でふっくらまんまるなフォルムとつぶらな瞳は、SNSのタイムラインで時々見かける鳥そのものだった。


「ど、どうしたの!?」ヒメが尋ねると、女児は小さな声で答えた。

「この子、ここの上で弱ってたの。だから助けようと思って…」

彼女は行きにフェンスを越えることはできたが、手に小鳥を持ったままでは、フェンスの内側に戻ることができなくなっていたのだ。

ヒメはまず、女児を落ち着かせることに集中した。

勇気のある子ではあったが、自分の置かれた危険な状況を自覚しているようで、かなり怖がっていた。

「大丈夫、怖くないよ。一緒にいるからね」とヒメは出来るだけ優しく声をかけた。

女児は両親が近くにいることを告げ、一人で動き回ってしまったことを反省している様子だった。

ヒメは手を伸ばし、小鳥を受け取ることも考えたが、女児をその場にとどめることにした。

自力で戻ることも可能かもしれなかったが、ヒメは十分に人手を集めることが最も安全な対処法だと判断した。


「誰かー!!!助けてくださーい!!」とヒメは呼びかけた。

その大声は注目を集めるのに十分なもので、女児の両親や他の大人たちが駆けつけた。

まもなく、女児は無事に救出された。

当然、ヒメの声を聞きつけたヒナもやってきて、二人でその解決を見守ったのだった。

「本当に何事かと思ったよ~」とヒナがへなへなと両腕を垂らしながら言った。

「ヒメも、あんなところに子供がいて、もーーパニック!…でも、何とかなってよかった~」二人の表情が和らいだところで、ヒナがふと尋ねた。


「あれ?荷物は?」


ヒメは両手が空になっていることに気付き、血の気が引いた。

女児の危機に気付く直前に立っていた場所を振り返ると、ナップサックはフェンスの縁付近にぽつんと横たわっていた。

駆け出す直前、とっさに半ば放り投げるようにして置いてしまったのだ。

「あっ、あったあった。良かった~」

そう言ってナップサックに近寄るヒメの背中を、ヒナは見つめていた。


…しかし、ナップサックの前に立ったヒメは、ただ立ち尽くすだけで、それを拾い上げようとしない。

ナップサックは、、横倒しになっていた。


「……ヒメ?」ヒナの声に、不安の色が滲んだ。

重たい動きで、ヒメが、ナップサックを拾い上げた。

荷物を腕に抱きしめたヒメの背中が、少しずつしぼんでいくように見えた。

そして、ナップサックの開け口部分の空間を数回、くしゃ、くしゃと握る。


ヒメは、数歩前に進んだかと思うと、ゆっくり倒れ掛かるようにフェンスに身を乗り出して展望台の下の暗闇を見下ろし、また硬直した。

ヒナからはヒメの表情は見えなかったが、何かただならぬ事態が起きたのだと察した。


「ヒメ…もしかして、何か落としちゃったの?」

ヒナがしおれた背中にそっと問いかける。

ヒメの呼吸は荒く、それでいて深いため息を繰り返しているようで、顔を下に向け、沈黙したままだった。

やがて
「………ガチャガチャ」絞り出すように、か細い声が発せられた。

「…え?ガチャガチャ?」

神社で回したガチャガチャのカプセルは、ヒナの手提げのショッパーにもたくさん入っていた。

これらを下に落としてしまったのだとしても、ヒメから漂う落胆の大きさは、ただのお土産を失った以上のものに思えて、ヒナはその過剰な反応に疑問を抱いた。

「せっかく…二人でコンプしたから…」ヒメが震える声で理由を付け足した。

「たしかに、ここでしか手に入らないお土産で、落としたのは勿体ないかもだけど…でも」

だとしても、勇気ある行動の代償だったのだから。

ヒナが慰めの言葉を続けようとしたその時だった。


「あ。ほら、さっきの子達が来たよ」

ヒナがヒメの正面を空けて、感謝の言葉を伝えにやってきた女児とその両親の3人と対面させた。

何度も頭を下げる両親に対して、ヒメは謙虚に「自分は助けを呼んだだけです」と答えた。

「それでもこのお姉ちゃんが見つけて安心させてくれたんだよね?」と女児の母が呼びかけると

「うん!!おねえちゃん、本当にありがとう!」と女児が元気よく答えた。

その純粋な感謝の言葉に、ヒメの心は少し暖かくなった。

また、女児が助けたシマエナガは獣医さんのところへ行くことになったという話も聞こえてきた。

小さな命が救われたことに、二人は心から安堵した。


親子が去った後、ヒナはヒメに向かって

「ガチャは犠牲になったけどさ、あの子の危険を救ったヒメはヒーローだよ。友達がヒーローになってくれて、ヒナはとっても嬉しいよ」と優しく言った。

「…うん、ありがとう。もう大丈夫」とヒメは微笑みながら答えた。

そして、そろそろ夕食の時間になることに気付いた二人は、宿へと歩いて帰ることにした。



11章:さあ、ショータイムだっ!


「お、おシャンデリアが進化してる~~~!?」

ヒメの声が、霜孤亭のエントランスホールに響いた。


二人が白樺台展望台から戻ってきたとき、一瞬、出入口を間違えたのではないかと思った。

なぜなら、エントランスがパーティー会場に様変わりしていたからだ。

初めて来た時、ヒメが冗談混じりに”おシャンデリア”と呼んだ照明の正体は、和紙のシェードが被せられたミラーボールだった。

その和紙のおかげで、回転する光の群れは壁や床に柔らかな模様を描き、月明かりが水面に反射して踊っているようだった。

”おシャンデリア”の後方のカーテンが開かれ、その先には小さなステージが出現していた。

「これは…まさか、ライブがあるのかな?」ステージでは照明や楽器の準備が進んでいた。

大がかりな設備ではなく、アコースティックギター、マイク、そして小さなアンプが設置されている。

準備しているのは、プロのスタッフではなく地元のおじさんおばさんたちで、この場所がただの宿ではなく、アットホームなコミュニティの一部であることを物語っていた。

ホールには丸テーブルが会場いっぱいに設置され、それぞれに椅子がぐるりと並んでいた。

宿泊客をはじめ、別途チケットを買ってきた地元住民も老若男女問わず参加している様子だった。

そこには、あの”大人ジョジ”と両親の姿もあった。

このディナーショーでは、ドレスコードも特に設けられておらず、実際、中にはジーンズに季節外れのアロハシャツというラフな格好の人もいた。

「席、残ってるかな?結構満員に見えるけど…」ヒメは周囲を見渡しながら、心配そうに言った。

「ヒナ、大体のオプションは何も考えずに予約することにしたから、席はあるはずだよ」

少し探した後、二人の名前が書かれたプレートの置かれた席を会場の中央に発見した。

「ど真ん中じゃん!ラッキー!」

開始まで時間があまりないため、二人は部屋に戻らず、荷物を椅子の背もたれに引っかけた。

ヒナは、かさばりの減ったヒメのナップサックを見て、展望台を出た直後のヒメの様子を思い出す。

後ろ髪を引かれるように何度か振り返っては、展望台全体やその周囲を眺める様子を見た。

しかし、今のヒメは一転して明るさを取り戻した様子で、ディナーコースの書かれたメニューに目を輝かせている。

ヒナはふるふると頭を左右に振った。

ヒメの心中は、ヒメ自身のよきタイミングで語られるべきであり、無理に急がせまいと頭の中で考えながら、ヒナは自分もメニューに目を通すことにした。

(ヒメの心の準備ができたら、ヒナはいつでも話を聞くよ…!)


『~ディナーコース~』

 冷前菜「特産ビーツとクリーミーチーズのテリーヌ」

 温前菜「秘境の森で育まれたキノコのヴェルヴェットキッシュ」

 魚料理「近海で早朝に獲れたサーモンの燻製」

 肉料理「炭火でじっくり焼き上げた北海道産牛タン」

 デザート「太琉瑠産ぶどう”キャンベルアーリー”のソルベ」

 食後の飲み物「島の自然が育んだブレンドハーブティー」

 ※各料理には、それぞれに合わせたワインのペアリングをご提案しております。ぜひお楽しみください。



――ヒナの頭の中は、牛タンでいっぱいになった。

すると、左隣の椅子がガタンと音を立てた。

「このメニュー、ワイン飲ませたいって言うてるようなもんやな~」

そう言って、ゼンがヒナの隣の席に座った。

ワインの試飲コーナーで酔いつぶれた姿を見たのが最後だった。

その後はどこかで横にでもなっていたのだろうか。

「あ、ゼンちゃん!回復したんだね、よかったー」ヒナが笑顔で迎えた。

「私を置いて神社に行ったんやろ?三人で楽しんできたんかいな」

冗談で恨み事を連ねるゼン。

「悪いけど、それは自業自得っていうんだよ」

ヒナ越しに、ヒメが笑って応えたあと、さらに手を伸ばして

「前みたいになったらあかんどす!キミは飲んじゃダメどすえ!」

どこの地方ともわからない方言で注意した。

続けてヒナが提案する。

「ゼンちゃん、ヒナ達もワインは飲まないから、牛タン交換してくれへん?」

「え、聞いてた?だから飲ませちゃダメなんだってば」ヒメは標準語に戻ってツッコんだ。ゼンは笑いながら

「大丈夫、大丈夫。今回はちゃんとセーブするから。寝ちゃったら、ディナーショーが拝めへんもんね!」と手を振った。

神社の山道を駆け抜けて去ったメイの言葉をヒメとヒナは思い出した。

この舞台に彼女も上がり、きっとその歌声を披露してくれるのだろう。

「…寝ちゃったら、メイちゃんの出番が見られないもんね」とヒメがゼンを見て言った。

ゼンは少し素っ気なく

「別にそんなに楽しみにはしてへんけどなー」と目を逸らした。

その視線はヒナの椅子にかかっているショッパーに向けられた。

「ほんで、何のお土産買うたん?」ヒナはくすっと笑いながら

「なんか話題を逸らしてないかな?」と言いつつ、カラフルなガチャガチャのカプセルを取り出して見せた。

ゼンの目はたちまち輝き

「なんやこれ!かわいい!」と狐のミニフィギュアに夢中になった。

クールめな服装に身を包んでいるゼンだったが、愛らしいミニキャラに心を奪われる一面もあるようだ。

それを見てヒメが話を持ち掛ける。

「そんなに気に入ったなら、あげよっか?メイちゃんにもあげたから、これでおそろいだよ!」

ゼンは少し照れた様子で言った。

「え、ほんまに?サンキュー!めっちゃ嬉しいわ…別にお揃いやから欲しいわけやないけど」

ヒメは立ち上がり、ゼンに向かってポイポイと、全部渡してしまう勢いでカプセルを渡し始めた。

その様子を見て、ヒナは首をかしげた。

展望台でのヒメの深い落胆を思い出す。

”カプセルを落とした”という出来事が、ヒメをやけっぱちにさせているのか?本当は何があったのだろうか?

しかし、ゼンがカプセルを受け取るたび、表情をキラキラさせているのを見て、ヒナもついつい餌付けするようにカプセルを渡し続けた。

「こんなに貰ってええの?」

「ガチャは回しているときが一番楽しいまであるからね」

ヒナは微笑みながら言った。ヒメも「そうそう」と同意した。


ヒメとヒナの荷物は、神社に行く前と同じくらいの軽さに戻っていた。

座り直したヒメの瞳に、淡い影が一瞬浮かんだのを見て、ヒナが声をかけた。

「今は代わりに、見えない思い出がいっぱい入ってるね」

「…うん」

ヒナの優しい言葉に対する、ヒメの返事は少し静かだった。

思い出。この旅行の思い出。ヒナがくれた…


「お返しにこれ、受け取ってくれる?」

とゼンが言って、カプセルと入れ替えるように椅子の横に置いていた鞄の中身を取り出した。

その”お返し”という言葉に、ヒメは「ヴッ…」と小さな声を漏らし、胸を押さえた。

「あはは、なんやその反応」と言いながらゼンが取り出したのは、4枚のうちわだった。

冬の北海道でうちわとは、何とも奇妙な持ち物だ。

2枚ずつ受け取ったうちわを裏返したヒメとヒナは眉をひそめた。

そこには、一枚一枚にメイそっくりの似顔絵が、それぞれ異なる表情で描かれている。

アイドルの応援に使われるようなアイテムで、すべてゼンによる手作りであることが伝わってくる。

「…お、おう」
「えー…」

「…なんやその反応。ほんならあとで回収や。まあ、いきなり渡して受け取ってくれへん人もおったけど、これで全部配り終えたわ」

とゼンの表情には何かを成し遂げたような満足感が浮かんでいた。

「全部配った…?」

ヒメとヒナは、精巧なうちわを見つめて再び神妙な顔をした。

ゼンは少し照れくさそうに答えた。

「暇やったから、思わず作ってもうた。もしメイに聞かれることがあったとしても、私が作ったんは内緒にしててくれる?」

「…お、おう」
「激重感情」

「あ、始まるみたいや」


会場の照明が少し落ち、柔らかな光は小さなステージを照らした。

蝶ネクタイをした典型的な司会者風のおじさんスタッフのアナウンスがディナーショーの開始を告げた。

『皆様、お集まりいただきありがとうございます。

太琉瑠島の夜を彩るディナーショーへようこそ。

心温まる料理と、心に残るパフォーマンスのハーモニーを、どうぞごゆっくりお楽しみください。

本日は、3名のゲストが登壇します。それぞれ異なる才能を持った彼らのパフォーマンスを、どうぞお楽しみに』

司会者のアナウンスに続き、ステージ上では薄い色のサングラスをかけた一人の男性アコースティックギタリストが紹介された。

彼の手には愛用のギターが握られており、音楽は主に彼一人が担当するらしい。

ヒメとヒナは拍手しながら、自らの音楽チームで重要な役割を果たすギタリストの姿を思い浮かべた。


「ヒナ、3名の登壇者だって」

ひそりと話す二人の心はわくわくと高まった。ウェイターたちが前菜や飲み物を運び込んできた。

「テレビに出るような有名人は出んけどな。ま、ここは超ローカルな空気感を楽しもうや」

ゼンが3人のいるテーブルへの配膳をフォローしながら言った。
 

そして、バン!と照明が一層強くステージを照らした。

真っ黒なサングラスに着物姿の老人が立っていた。

見事なシルバーヘアーで、身長はかなり高くその存在感に会場の空気が変わった。

司会者が声を弾ませて紹介した。

『皆様、夜の舞台が幕を開けます。まず登場するのは、太琉瑠島が誇る伝説の演歌歌手。彼は、島の風を歌い、波の語りを知る男。長年海と共に生き、その情熱を演歌に込めてきました。その隠された眼差しの下には、無限に広がる海の物語が宿っています。それでは皆様、大きな拍手でお迎えください、”終わりなき波濤はとうの演歌漁師”屋代悟志やじろさとしさんです!』
 


…屋代悟志氏がステージでの熱唱を終えると、会場からは大きな拍手が沸き起こった。

ヒナも手を叩きながら

「MCしてる時の声が声優の中村さんみたいで、すごく興奮しちゃったよ」と言った。

「ヒナちゃん、最初の感想がそれかいなあ…音楽業界人の感想とか無いんか?」とゼンは口の片側を吊り上げた。

「やっぱり違ったジャンルの音楽に触れることで、得られる学びがあるよね」

サーモンの燻製を方張りながら、ヒメが真面目なコメントをした。

「うん、頭の中に海の情景が一気に流れ込んでくるみたいだった」

そう言って頷くヒナの目の端に、メインディッシュを運ぶウェイターの姿が映る。

牛タンへの無限大の期待がヒナの脳内に一気に流れ込み、海をかき消した。


 
ギタリストが静かにステージを後にして、次のゲストが登壇した。

今回のショーは音楽パフォーマンスに留まらないようだ。

会場には、次の演目がマジックショーであることを暗示する有名なBGMが流れ始めた。

登場したのは中高生ほどの青年で、髪は派手に赤と白のツートーンに染められていたが、生え際からは黒髪も覗いている。

司会者が紹介を始めた。

『続いて、摩訶不思議な世界へ皆様をご案内します。まだ中学生でありながら、その才能で島中を沸かしている若きマジシャンの登場です!右手に灼熱を、左手に冷気を宿し、観客の皆様を脅威と感動の渦に巻き込みます。彼が織り成す、幻想に満ちたパフォーマンスを目撃しましょう!”氷炎のイリュージョニスト”紅白夜くれないびゃくやくんの登場です!』


 
…紅白夜くんのマジックショーが幕を閉じると、会場は驚きと賞賛の拍手に包まれた。彼の手から繰り出されるマジックが、何度も息をのむようなシーンを生み出していた。

「ボトルの水がパーッて一瞬でカッチコチになったやつ、どんな仕掛けなんだろう?!あと、炎のマジックも見せてほしかったなあ~」とヒメが感想を述べた。

「”二つ名”といい、『中二病』全開のショーで、めちゃくちゃ面白かったよー」と逆さまにしたタバスコボトルの底を叩きながらヒナが言った。

「出演者に“二つ名”をつけるのは、ローカルルールみたいなんや。知らんけど」

ヒナが空にしたボトルを、引き気味で見つめるゼンの後ろから、ウェイターがデザートを運んできた。

いよいよ、ディナーショーは最終演目へと進む。

「メイちゃんがトリなんだね。なんかこっちまで緊張してきちゃった」とヒナが手を擦り合わせた。

ゼンは「せやな」と一言だけ言って、真剣な表情で瞑想を始めた。

ヒナが、少し血走ってきているゼンのまなざしから視線を逸らして周囲を見渡すと、意外に多くの観客が例の特製うちわを用意していた。みんなノリが良いようだ。

ヒメも2つのうちわに描かれたメイの顔を見つめていた。

彼女のくれたあの青いリボンとオーロラの包み紙は、役割を果たせないままだ。

ヒメは込み上げてくるものを我慢した。


 …やがて照明がさらに暗くなり、手元がぎりぎり見えるくらいの暗闇になった。

そして静寂の中、司会者がマイクを握った。

『今宵のショーのフィナーレを飾るのは、太琉瑠の音楽シーンに波乱を起こした謎の歌姫です。彼女は単身遥か海を越え、島にエキゾチックな色彩を描き加えました。普段はワイナリーでお客様を迎え、夜には魅惑的なパフォーマンスで観客を虜にする彼女が、この宴に革命の鐘を鳴らします。太琉瑠島の夜を照らす、”月の港のかぐや姫”メイベル・メルロットの登場です!』


まばゆいライトに照らされたのは、袴姿のメイだった。

マイクスタンドの前で、後ろ姿で現れた彼女のバーガンディの髪は、大ぶりな漆黒のリボンで飾られている。

間もなく、一緒にスタンバイしていたお供のアコギギタリストが穏やかなコード進行で演奏を始めた。

メイは銀の花火が描かれた灰色の着物を翻し、ゆっくりと正面を向いた。

そして、淡い金色の目を開き、歌い始める。

"À présent, sur le sentier droit nous avançons,
Craftant la beauté qui est bien la nôtre.
Que l'art enflamme ce labeur si monotone."
 
メイの歌声が会場を満たすと、ヒメは思わず息をのんだ。

「このメロディーと歌声、なんだかすごく安心するね。何言ってるかはわかんないのに」とヒナに向かって言った。

和装の姿でフランス語、しかもバラードを一曲目に選ぶというセオリーから逸脱した選択にもかかわらず、メイの繊細で優雅な歌声は、その独特なパフォーマンスを自然に受け入れさせる魔力を持っていた。

「言葉は違うけど、夜の星空みたいに遠くて、でもとても身近に感じる…」とヒナも同意を示した。

ゼンは腕組みをしながら物知り顔で頷いていた。

初めの曲が終わり、会場は拍手の渦に包まれた。

そして、続く2曲目以降はジャズやロックのリズムに乗せて、昔と最近流行した邦楽を交互に歌い上げていく。

観客の幅広な年齢層を順番に満足させていく選曲だ。

「結局、知ってる曲が一番盛り上がっちゃうよ」「ほんと器用だねー」とヒメとヒナも、その後も続くバラエティー豊かなセットリストを楽しんだ。

メイが歌う、振り付けまで正確なアイドルソングの最中に、ゼンが「ヴッ…」と声を漏らし、胸を撃ち抜かれたように押さえたのをヒナは見逃さなかった。

またひとつ、昭和歌謡曲を歌い終えたメイはマイクスタンドに手を置き、歓声を浴びながらしばらく目を閉じていた。

そして流れ始めたノスタルジックなイントロのあと、彼女が再び発声を始めたとたん、各テーブルからはどよめきが起こった。

特に年配の観客たちの中には、驚きで手に持ったカップからハーブティーを零してしまう者までいた。

なぜならメイが昔の名曲を、まるで原曲の歌手がその場にいるかのような声色で歌い始めたからだ。

原曲を知らない者も、その声の劇的な変貌ぶりに感嘆の声を上げた。

メイは歌いながらステージを動き回り、観客との間に目を合わせ、時には微笑みかけた。

このような細やかなジェスチャーにより、録音の再生やボイスチェンジャーの使用を疑う声も起こらなかった。

「どうなってんの!?もしかしてこれもマジック?」とヒナは目を丸くした。

エキサイトする観客と対照的に、ヒメの心の奥で何かがざわめいた。

「…盛り上げるのはええけど、ちょっとやりすぎや」とゼンは唇を噛みながら呟いた。

 
原曲さながらの歌唱が終わると、会場は熱い拍手に包まれ、その神業を称えた。

しかし、ヒメは無性に胸騒ぎがして、集中できていなかったせいで、周囲のタイミングに遅れて拍手をした。

ヒメの手から発せられる音が、周囲の喝采とズレたリズムを刻んだ。

パチパチパチパチ…
 

その時、ヒメの記憶がフラッシュバックした。

今朝の出来事。
展望風呂。
背後に響いた拍手の音。
メイとの初めての出会い。
悲鳴…

”あなたの歌、本当にすごいです!”

 
 ――最初は観客の気付かないような小さな声で、メイは口ずさみ始めた。

やがて、彼女はそのメロディに身を委ね、歌声を次第に力強くしていった。

ギターが基本的なコード進行に従っているため、この曲が歌声を主役にしたアカペラ風の演出であることは明白だった。


「なに考えとんねん…」とゼンはため息をつきながら、舞台上のメイを見つめた。

彼女が自らの声色を、再び異なるものに『変化』させたことで、ホールは再び沸き立った。

しかし、ヒメとヒナの二人にとって、この歌声は。
 
「どうして…」ヒメが掠れた声で呟いた。


手を振りながら、足を踏みながら、メイは全身を使って歌いだす。

観客の手拍子の中で、メイは羽根を生やしたように身を翻し、歌い続けた。

感情の振幅から微細なアクセント、動作までもがそっくりそのままで、ヒメの脳裏には今朝の展望風呂での清々しい情景まで蘇るようだった。

その込められたこぶしと、噛み締めるような力強い歌声。

まさしくあれは…


「あれは…ヒメの…」
「ちがうよ」ヒナがヒメの言葉を遮り、目をじっと見つめた。


「ヒメは、もっとすごいよ。ヒメとヒナの歌は、みんなで作ったこの曲は、もっともっと、すごいんだよ」

そう言って、ヒナが立ち上がった。

 
 ……そうだ。そうだよ。

長い時間をかけて、一音一音、感情を込めて磨いてきたヒメの歌。

ヒメとヒナの歌。
私達の歌は、私達だけのものだ。
私達の感情、私達の物語、私達の心のすべてが詰まっている。
私達の魂を、複製可能な音符のようにこれ以上使わせてはならない。

ヒナの言葉に勇気づけられ、ヒメも立ち上がり、前を向いた。


そして、ステージ上の妖精と目が合った。

彼女は歌うのをやめ、挑発的なウインクを送ってくる。

”楽しいステージにしましょうね”。

メイの神社での去り際の言葉が響いた気がした。

その瞬間、照明の光がゆっくりと観客席の中央へとシフトして、ヒメとヒナを舞台に招待するかのように包み込んでいった。


「…ちょっといたずらが過ぎるぞ!」

心臓の鼓動は激しく、しかしヒメは勇敢に笑ってみせた。

「ヒナ達の旅を、もやもやしたまま終わらせない……
さあ、ショータイムだっ!」

 
メロディーが止んだ。

ディナーショーのクライマックスで起きた突然の出来事。

会場内は一瞬の静寂に包まれ、次いでざわめきが渦巻き始める。

小刻みに震えるヒナの手を、ヒメが握った。

ステージを見つめる二人の瞳に映るのは――炎だった。

メラメラと燃える闘志の炎だ。
 

二人はステージに向かって力強く歩き出した。

そのビジュアルと一挙手一投足、追従する照明が相まって、会場内のざわめきは徐々に好奇心や期待へ変わっていった。

メイはマイクを手に取り、観客に向かって言う。

「皆さん、今夜は特別なサプライズがあります。私たちの島に来てくれた二人組アーティスト、ヒメヒナが、このステージで彼女たちの代表曲を歌ってくださいます!」

ヒメとヒナにとってもサプライズどころではない状況だったが、二人の胸中などつゆ知らず、他の観客は拍手で歓迎する。

ステージへの階段を上ると、待っていた女性スタッフに2本のマイクを渡された。

ステージの脇でノートパソコンの画面を操作していた若い男性スタッフが、腕でスタンバイOKを示す大きな丸を作る。

画面にはヒメヒナの公式オフボーカル音源が表示されていた。

客席からは、すべてが演出の一部として映っていることだろう。

ステージの片隅で、吹き抜ける風のように、メイが二人とすれ違っていく。

「二人の本気の作品、テイスティングさせてください」

彼女は人差し指を口元に当てた。

悪びれる色を見せないその態度は、今やむしろヒメとヒナには都合が良い。

彼女の言葉は、二人の心に灯った炎にさらなる勢いを吹き込むかのようだった。

「その挑戦状、受け取ったよ!」

「ヒナ達が、ショーの一番おいしいところ、いただいちゃうからね!」
 

ステージの中央に立ち、二人は観客に向かって一礼する。

会場から再び、期待に満ちた拍手が送られた。


このディナーショーの”特別メニュー”は、二人が知らぬ間におぜん立てされていたものだ。

それなら、そこにありったけのスパイスをぶちまけよう。

観客が忘れられない味わいを求め、思わず「おかわり」と叫ぶような、刺激的なパフォーマンスを見せつけてやるんだ。

 
「……じゃあ、自己紹介からはじめよっか」

「うん!」

そして、二人は息を合わせて叫んだ。

「「せーのっ!!」」



12章:これは夢かな…


深夜。
寒さが肌を刺す中、ヒメは一人、静かな夜の闇を歩いていた。

息を吐くたびに、白い霧が空に舞い上がる。

路上に積もった雪が月光に反射している。

シャクシャクと、ヒメは孤独な足音を響かせながら、雪に覆われた道を進む。


くすりと、ヒメは笑った。

それは、3時間ほど前のディナーショーを思い出してのものだった。

思いがけないシチュエーションでの歌とダンス、ステージ上でのアドリブ、観客の笑顔…

「やっぱりどこに行っても、ステージは最高だね」

ヒメは心の中でつぶやいた。


ヒメとヒナ、二人のパフォーマンスはあのディナーショーのハイライトとなった。

突然の登壇であっても息はぴったりで、ヒメの声を初めて聞く観客にとっては、メイの模倣の後の”ご本人登場”となり、さらにヒナとのハーモニーが重なることで盛り上がりは加速した。

二人の歌は、やはり二人で歌うことで完成した。

互いのコーラスの掛け合いやステップの一つ一つが観客を魅了し、会場全体に二人の楽曲がもつ世界観の一端を知らしめたのだった。

結局、周囲のリクエストに応え最新曲を含む4曲を披露した。
 
 
「ヒナ…」

ヒメは自分より先に客席から立ち上がってくれた相棒のことを想う。

”ヒナ達の旅を、もやもやしたまま終わらせない…”。

ステージへ上がる前のヒナの言葉を反芻した。


展望台で失くしたプレゼントの中には、ヒナへの感謝を込めたペンダントが入っている。

感謝の気持ちというものは、何を渡すかによって全てが決まるわけではないことを、理解はしていた。

しかし、あのプレゼントは、この旅で過ごした時間を象徴するもののように思えてならなかった。

少しでも探してみなければ、それこそ心に残るもやもやが晴れないだろう。


「1時間...1時間だけ」自らに誓った約束だ。

別に無鉄砲に出て行ったわけではなかった。

ヒメは明確なタイムリミットを設けることで、行動に責任を持つと同時に、ヒナへの配慮も忘れなかった。

ヒナが静かな眠りに落ちた後、そっと置手紙を残し、部屋を後にした。

『少しだけ外出します。1時間以内に戻ります』

展望台でプレゼントを失くしてから、なるべくごまかしてはいたものの、ヒナが内心で自分を心配してくれていることは、ヒメも察していた。

その理由をなるべく早くヒナに伝えなければならない。

だが、もしもこの捜索で無事にプレゼントを見つけ出すことができれば、最も理想的な解決ではある。


スマホの充電を確認し、しっかりと防寒対策をした。

外は満月の光が道を照らし、ヒメにとってはありがたい光源となった。

それでも、なるべく暗い道は避け、時に懐中電灯代わりのスマホの明かりを頼りにしつつ、足元に気をつけながら進んだ。


展望台前のバス停に到着し、木々の間を縫うように曲がりくねった鉄の階段をしばらく上っていくと、UFOみたいなデッキを構える白樺台展望台が見えてくる。

ヒメの心拍数が高まっていくのは、上り階段だけが原因ではない。

(――どうか、プレゼントが見つかりますように)

寒さが体にしみるが、それ以上に周囲の暗さと静寂がもたらす心細さが堪える。

ヒナを連れてくることはできないが、メイとゼン、彼女らがいればこの寂しさが少しは紛れるのにと感じた。

しかし、捜索範囲は限られているし、こんな夜遅くに余計な負担をかけたくなかった。

それに、ディナーショーが終わった後、そもそも彼女たちとほとんど会話するいとまが無かったのだ。

特にメイとは、色々と話したいことがあったのに…。

終幕後に彼女が残した、涙ながらの最後の言葉がヒメの心に残響する。

 
観客が帰り始め、ヒメとヒナも席に戻って荷物を手に取ったときのことだった。

二人に向かって駈け寄ってきたメイの、そのほっぺたをゼンがしっかりと掴み、急ぎ足で別の方向へと連れ去ろうとした。

どこへ行くのか尋ねたが

「これ以上この子にアホなことさせへんための説教タイムや」

とだけゼンは言い残してエレベーターの方へ行ってしまった。

いひゃひゃひゃ!はなひへ!いたたた!はなして!

去り際に、涙を浮かべたメイの目が、ハッとしたようにヒメとヒナの手荷物を捉えたように感じたが、あれは気のせいだろうか。

ヒメは、明日の朝にヒメとヒナが乗るフェリーの出発時間を思い返した。

今夜のような別れが最後になったら、ちょっと寂し過ぎる。

(…明日もまた、会えるよね)

 
とうとう、ヒメは展望台の前に到着した。

相変わらず全体がキノコかネジのような形状の展望台だ。

正面の壁に取り付けられた入口のドアは、当然ながら閉鎖されている。


「よし!」パンとヒメは両頬を叩く。

まずは、その支柱を囲う地面を時計回りに、祈るような気持ちでゆっくりと探す。

展望デッキが屋根になって、雪は積もっていない。

ヒメはスマホの光を頼りに、周囲を囲う鉄柵を含めて丹念に探していく。

1周…2周…


「はあ…何やってんだろ」

ヒメは天蓋のように広がるデッキを見上げて独りごちた。

ヒナと二人で展望台を離れた時に、すでに悟っていたことだった。

プレゼントを落としたデッキの笠は、今探している入口階の地面より張り出したオーバーハング構造なのだから、落とした瞬間に風でも吹かない限り、内側に着地するはずがないのだ。

そして、鉄柵の向こう側は…以前見下ろしたとおり、暗黒だ。

夜が更に深まり、その闇は一層濃厚になっていた。

林の中の展望台自体が高所に建設されていて、柵の外側に手を伸ばせば、白樺の木の頂上に触れられるポイントもあった。

この高木は最低でも10メートル以上、20メートルに達していてもおかしくない。

枝に引っかかっている可能性を考え、ヒメは柵の外側に目を凝らして一生懸命に探し回ったが、目当てのものはどこにも発見できなかった。

ヒメの最後の希望は、入り口の反対側にある通路に託されていた。

バス停から登ってきた道とは反対に、海に向かって伸びる階段とスロープを、少し歩いてみる。

カツカツと金属音が反響した。

しかし、この道はただ展望台から離れるばかりで、プレゼントが落ちたと予想される場所からも遠のいていく。

遠くから展望台を見渡しても、照明や構造物に何かが挟まっている様子は見えなかった。


ヒメは力なく頭を垂れた。肩は小さく震え、深く息を吐きながら、ゆっくりと海の方へと振り返った。

太琉瑠島の美しい海が、失意に沈むヒメを静かに見守っていた。

上空の星々のきらめきが冷たく感じられ、満月も無表情な光を放っている。


 ”二人でオーロラが見られますように”

と、ヒナと二人、神社で絵馬に込めた願いが、今では遠い夢のように思えた。

オーロラどころか、代わりに起きたのはプレゼントの喪失という小さな悲劇。

この太琉瑠島の神様はいじわるだ。


タイムリミットまではもう少し時間があった。

だけど決断は早ければ早いほどよい。

凍りつきそうな寒さの中、ヒメは自分にできることはすべてやったんだと、己に言い聞かせるより他になかった。

一日中の観光とステージでの熱唱による疲労は、ヒメの身体をじわりと支配している。

ヒメは、喉に手をやった。

自分の身体は、自分だけのものではない。

ヒナやスタッフ、仲間たち、たくさんのファン…。

この身体はアーティスト活動、プロジェクト全体の心臓であり、みんなの大切な宝物。

ここで無理を選ばないこと、この瞬間に後退を選択することが、自分と周りの大切な人々を守るための、勇気ある決断だった。


微かな嗚咽が寒空に響いた。

少しだけ、少しだけ泣いてから帰るのもいいかもしれない。

そう、ヒメが考えた時だった。

 
トンッ…という音が背後から聞こえ、微かな振動が足元を通じて伝わってきた。
ヒメの立つ金属製の通路に、まるで何かが着地したような感覚だ。

ヒメの鼓動がドクドクと早まる。

背中に、何かの気配を感じ取る。

人か、それとも鳥か、もし熊のような猛獣だったらどう対処すればいいのだろうか。

あるいはオバケ…。

恐る恐る、ヒメはゆっくりと振り返った。

 
――そこにいたのは、一匹の狐だった。

白く輝く狐がいた。

その毛並みは雪原から生まれたように純白であった。


「キ…キツネ…?」ヒメは反射的に数歩後ずさった。

あまりの驚きで悲鳴も出せずに、その白狐をじっと見つめた。

白狐のサイズは猫より少し大きい程度で、神社で見た白狐像に比べればずっと小さく、ヒメの警戒心が少し緩んだ。

この島に来て、何度か背後からのサプライズを経験したが、まさか今度は狐とは…


目が合った。

ヒメを見つめる白狐の2つの瞳は
――今宵の満月を想起させる、淡い金色だ。


「あっ!」とヒメが驚きの声を上げる間もなく、白狐は軽やかに通路を跳ねて進み、途中で鉄柵に華麗に飛び乗る。

ヒメが「危ないよ!」と声をかけたが、白狐は鉄柵の向こう側へと飛び降りた。

ヒメは、白狐が20メートル近い高さから落下するのを予想し肝を冷やしたが、白狐は再び安全に着地する音を立てた。

急いでその姿が消えた鉄柵の方へと駆け寄ると、下にはしっかりとした足場が存在していた。

恐らくこれは通路のメンテナンス用の足場だろう。

柵の錠を外すと、扉のように開くことができ、狭い梯子が下へのアクセスを可能にしていた。


「これは夢かな…」ヒメは自身に問いかけるように呟いた。

謎めいた狐に示される道。

恐怖と寒さが身を包む中、一度決めた帰るという誓いを思い出しつつも、ここの探索を最後のチャンスとすることに決心を固めた。

それに、なぜだろう。

あり得ないはずなのに、あの白狐の瞳には、どこかで見たような奇妙な親しみを覚えたのだ。


通路の下に広がる工事用の足場は、通路の全長にわたって伸びている。

展望台側には、そのタワーの基礎を支える八本の強固な柱が、高くそびえる白樺の木々の中に秘密の要塞のように佇んでいた。

さらに、展望台自体の支柱にも、それを取り囲む足場が設けられている。

白狐はその支柱を囲む足場にいて、ヒメの視線を感じると、素早く反対側へと回り込み、再びヒメの視界から姿を消した。

白狐を追って展望台の支柱に辿り着いたヒメは、その壁面に巨大なピアノの鍵盤のように凹凸が繰り返されているのを見た。

この規則的な形状は、寒冷地での熱損失を軽減するための工夫であり、内部の空気層が断熱材として機能し、凍結によるダメージを減らす。

ヒメがその壁面を慎重に観察しながら進むと、支柱の中心に向かう、人が通れるほどの深い溝が目に入った。

その先は暗く、どこまで続いているのかは見えなかった。


「これは夢だな…」ヒメはぷるぷると頷きながら、自分を納得させようとした。

この刺すような寒さ、身体を蝕んでいく疲労感、すべてがめちゃめちゃリアルな夢。

こんな夢初めて。

これは夢だから、大丈夫。


すべてが夢の一部だと信じ込むことで、ヒメはスマホの光を頼りに、暗く深い溝を進んでいった。

ああ、ヒナがそばにいれば、こんなにも心細くはないのに。


 ――ふと、デジャヴに似た感覚に襲われる。

そういえば、今日の午前中にも、ヒナと一緒にこんな感じの場面に遭遇していたような。

あの時、進んだ先にあったのは…


 
「ドアだ…」

狭い溝を進んだ突き当りに、真っ白なドアが光を反射していた。

四角くてシンプルな造りの、ドールハウスを思わせる、ドア。

唯一施された白い金属製のリースのような緻密な装飾。

そして、リースの中央に刻まれた文字――"AwA"。


ヒメの呼吸が早くなった。

このドアは、午前中にワイナリーの地下で見た、立ち入り禁止区域の行き止まりにあった白いドアと瓜二つだった。

あの時はどんなに取っ手を回しても開かなかった。

そして今、再びヒメは震える指先でドアノブに手をかけ、ゆっくりと力を加えた。


ドアノブが、回る。


『カチッ』という小さな音がして、そしてドアが僅かに開く。


ヒメは驚きで息を止め、その隙間を見つめた。


 
「あー!不法侵入者です!」一気に扉が開き、女性の声が響いた。

「くぁwせdrftgyふじこlp;@!!!!!」

ヒメは半狂乱で絶叫し、その場に崩れ落ちた。



13章:必ずヒナさんにプレゼントを渡してくださいね


「ヒナと歌を始めた頃はさ、この部屋よりちょっと広いかどうかってくらいに、本当に小さい小さいスタジオに集まって、中学生の自由工作みたいにね、朝まで活動をしてたんだ」

「こんな狭い1Kでごめんなさい」

「いやいやいやそういうことが言いたいわけじゃなくって!スタジオの話だよ?」

「ふふふ、わかってますよ」

「でも…本当に、ふつうに、1K…の部屋だね」

 
ベージュ色の、人をダメにしそうなビーズソファに座っていたヒメは、改めてメイの住まいを見回した。

窓の無い8畳程度の空間に浮かぶ、和紙製で提灯型のペンダントランプは、旅館からの頂き物らしい。

部屋の一角のコンパクトなデスクと椅子はこの島の白樺で出来た特注品で、しかしそれ以外はほとんど無印○品かIK○Aだとか。

デスク上にはノートパソコンと小さなクリスマスツリー、それにオーディオ機器やファッション雑誌が奔放に置かれている。

写真立ての中の8人グループの集合写真の中に、あのゼンの姿と、他に金髪や桃色の髪をした女子が映っていたので、ヒメの視線を捕まえた。

オフホワイトでさざ波状のカーペットの上に、折り畳み出来る長方形のテーブルが置かれ、キノコ型の小さな白いテーブルライトが載っている。

寒冷な気候を考慮して、メイは初心者向けなガジュマルだけ育てているらしい。

もの足りないグリーンを補うかのような、森の風景を描いた壁紙が、少し歪んで貼られていて、その失敗を隠すように配置された大きな棚には、様々な民芸品やヒメとヒナからもらったキツネのガチャガチャのフィギュアが並んでいる。

その引き出しには、ヒメに分けてくれた包装のコレクションが入っているのかもしれない。

しかし特に目を引くのは、天井を横切る突っ張り棒と、そこにずらりと掛けられた洗濯物…


本当に、わりとふつうだった。

そのありふれた光景は、それまでのメイの神秘的な雰囲気を和らげ、ヒメには彼女の人間らしい一面が垣間見えたように感じられた。

チョコレート色したジャージ姿のメイに向き直って、ヒメは仕切り直すように質問を切り出した。


「それでさ、ほんっとに色々と聞きたいことあるんだけど、まず最初の質問してもいい?」

「はい。今なら出来る限りお答えします」
と、ベッドに腰掛けたメイが真剣な面持ちで答えた。

 
「――柔軟剤何使ってんの?」

「そうです。私があの狐です」

「…」

「あ…私は香りが苦手で、香りが残らない無香料のを使ってます」

「えっ!?そうなんだ!ヒメはグリーンな感じの香りがするやつ派!」

「いいですね。洗濯物がさわやかになるんだろうな。いろんな種類を選ぶのも楽しいですよね」

「ごめん、ヒメ洗濯オタクだから、さっき洗濯機の前を通った時に見ちゃったんだけど……洗濯ネット……結構あったね」

「服から出てきた糸くずが、別のに付くのはなるべく洗濯の段階で防ぎたいので。大事な服にはダメージを減らすためにも必須だと思ってます」

「ヒメもヒメも!やっぱ細かく分けないとね!」

「あと、洗濯といえば基本部屋干しなのが悩みで…あ。あんまり洗濯物は見ないでくださいね。下着もあるので…」

「おっけおっけ女同士だし気にしない気にしない」

「片づける暇なかったんですよ。ヒメさん、意外と早足で付いてくるんだから」

「アッハッハ!もーね、これは夢だ!って腹くくって、それで、メイちゃんを」

「……」

「……」

「えええええ!!!狐!?な、人間、え?ええええ?!」

ヒメは立ち上がろうとしたが、ビーズソファに手足を取られてもがき苦しんだ。

天井の提灯型ランプを見上げながら、放棄しかけた思考を整理しようと試みる。

思ってたより人間味のある部屋だと思ったのに、思ってたより人間ではない?

なぜ彼女はこんな隠れた場所に住んでいるのか?……いや彼女のことだ。
ジョークを言っているのでは?

…うん、そうだ。冗談だ。

ひとまず白狐については、単に野生の動物であり、その行動が偶然にもメイの住居へとヒメを導いたのかもしれない。

あるいは白狐はメイのペットか友達のような存在で、メイのお願いに従って動いたのかもしれない。


「…それじゃあさ、今すぐに、狐に変身してみせてよ。それが一番の証拠になるわけだし!」と体勢を整えたヒメは挑戦的に言い放った。

「今はもう変身は無理です」とメイは左手のファー付きブレスレットになぞりながら、リクエストを拒んだ。

「ふーん、じゃ、嘘確定ね!」
ヒメはメイを指差し、自分の結論を表明した。

「とりあえず、信じる信じないは置いておいて――」
メイはベッドからすくと立ち上がり、キッチンの方へ行ってすぐに引き返してきた。

「今はヒメさんにはここで身体を温めてほしいんです」
彼女の手にはお馴染みになりつつある缶入りのぶどうジュースがあった。

「お…おおお。ありがと。

成り行きは理解できてないけど、寒さヤバかったし、あったかい部屋に上げてもらえたのは正直助かったよ」と、ヒメは感謝を示して缶を受け取ろうとした。

しかし

「ちべたっ!ちょっと!」手に触れた缶は予想に反して冷え冷えとしていた。

メイはヒメの反応を見て、缶を左手に持ったまま

「今のは意地悪じゃないですよ。ちゃんと温めますから見ててくださいね」と、言葉とは裏腹にいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

そして、メイは再び左手のブレスレットに触れる。

……すると、それが微かに赤い光を放ち、鳥の囀りに似た”キュイッ”という音を発した。

そして、その数秒後


「あっ、熱っ!」とメイは小さな悲鳴を上げて、缶をテーブルに落とした。

「持ったままやるんじゃなかった。カッコつきませんね」

コロコロと転がった缶をヒメが指で触ると、確かに”あったか~い”を超えて火傷しそうな熱さになっている。

ヒメはしばらく呆けた表情で缶をつついていた。

メイは再びキッチンへ行き、今度は自分用のワインボトルとグラス、栓抜きを持ってきた。


紅白夜くれないびゃくやくん…だっけ。ショーで2番目にお披露目してたマジシャンの子」

ヒメは思案顔で言葉を紡いだ。

「つまり、彼のようなトリックを使っていると言いたいわけですね。まあ、確かに、そう簡単には信じられない話です」

とメイは言いながら、一息にワイングラスの中身を空にした。

水を飲むようにワインを飲み干したメイと、熱々の缶ジュースをテーブルで転がしているヒメの視線が交錯した。

ディナーショーの話題が出て、二人とも同じ回想に行き当たっているようだった。

 
「…あの時、挑発的なことをしてしまって、本当にごめんなさい」

先に口を開いたのはメイだった。

「いいよいいよ。ステージは我々の生きがいだからね。

もし先に知ってたら、準備に気を取られて、観光も豪華ディナーも心から楽しめなかったかもしれないし」

とヒメは穏やかに返答した。


「ヒナが勇気をくれたから、ステージに上がれたけど、少し不安だったんだ。朝の方が歌声の調子、良かったような気がして…」

あの時、メイが舞台上で披露した歌声の再現は、一瞬だけアーティストとしての自尊心を揺さぶるほどのものだった。

「あの時の声は」ヒメは固まった。

あの完璧なコピーが、メイの実力によるものではなく、今示された魔法のような力によるものだとしたら、それは一種の救いだった。

しかし、自分が『魔法』を信じないというスタンスを取ったばかりだったので、その矛盾に言葉を濁したのだ。

トクトクとワインを注ぎながらメイは言う。


「……声には、その背後にある持ち主の経験や感性、時にその日、その瞬間の感情の波までもが反映されるものです。私の『模倣』は、完璧な音階を再現するかもしれませんが、真の共感や共鳴は、人と人との繋がりの中でしか生まれないのです」

「えっと…つまり?」

「私たちの経験、人間関係…歴史が作品に息吹を与えるということです。『魔法』であろうがテクノロジーであろうが、聴き手と演じ手の間に存在する繊細な絆は再現できない。ヒメさんとヒナさんのおかげで、その大切さを再認識できました」

メイの言葉に、ヒメは今日の客席にいた一人の女児の笑顔を思い出した。

それだけじゃない。

他の観客たち、そしてこれまで出会ったすべてのファンの笑顔が、声援が、心に刻まれていた。

「…ヒメたち、ただいつも通りにやっただけだけど、そんな風に言ってもらえるのは嬉しいな」ヒメははにかんだ。

「本当に素晴らしかったです。ヒメさんも、そしてヒナさんも。二人から学んだことは、ずっと忘れません」

グラスを置いて頭を垂れるメイに、手をひらひらさせてヒメが謙遜する。

「いやいや、われわれもまだ修行中の身よ。

活動5年も6年も7年も、アーティストというか、何かを極めるうえでは全然ひよっこだよ…友達の言葉を借りるけどね」

「ヒナさんですか?」

「んーん、別の人」

カチッと缶の蓋を開け、適温になったジュースをヒメは一気に半分飲み干した。

甘い味と温かさが胃に広がり、心地よい。

飲み終わったら、ヒナのところに帰らないと。
約束の時間が過ぎてしまうかもしれない。

「ぷはっ……あとは出演料さえもらえれば、ヒメは大満足かな?」

ヒメは、今度は神社で言われたメイの冗談を引き合いに出しつつ、にやりと笑った。

「それは、包装紙とリボンだけではお勘定が釣り合わないかもしれませんね」

とメイが応じると、ヒメは彼女の言葉に隠された意味に感づいた。

「…ごめん。やっぱり気付いてたんだね。ヒメがヒナにあのプレゼントを渡せてないこと。あんなに可愛くラッピングしてくれたのに」

ヒメは少し顔を伏せて言った。

「ショーが終わった時、リボンを介してプレゼントが成就したかどうかを確認しました。リボンに紐づいたヒメさんの失意に気付いて、ゼンをどうにか説得して私を解放してもらいました。実はそれから時間はそう経っていないんです。ヒメさんがプレゼントを探しに来るかもしれないと思って、私も白狐の姿でヒメさんを探していたんですよ」

再び、自らが狐に変身したとメイは言う。

さらには、あのプレゼントのリボンにも特別な力が宿っていたと。

ヒメは考える。

もし、仮に、そんな魔法が実在するのだとしたら…


「もし本当に『魔法』が使えるなら、あのプレゼントを取り戻すことはできるの?や、やばい契約とか要求されない?」

ヒメは慎重になって尋ねた。

都合の良い話には裏があるかもしれない。以前、メイ自身が警告していたように。

ヒメは、まどマ○の最新映画を観るまでは、易々と魂を売るわけにはいかない…

 
「ふふ、言ったじゃないですか。釣り合っていないのは私の方だって――」

ワイングラスをもう一度飲み干したメイが左腕を前に出すと、彼女のブレスレットがほのかな緑色に光り始め、再び鳥の囀りのような連続音とともにふわふわが膨らんで形を変えていった。

まるで生きているかのように、ブレスレットは手首から離れ、一足の白い靴下に変わり、メイの膝の上に静かに着地した。

その靴下は、ヒメの視界の隅にぶら下がっている、普通の黒い靴下とは比べ物にならないほど大きく、長靴以上のサイズだった。

そして、目を真ん丸にしているヒメの前に、メイは靴下のファー付きの履き口を差し出した。


「この靴下には、周囲から欲しいものを引き寄せる力があります。

手を入れて、目を瞑り、強く何かを願ってください。

ただし、自己中心的な欲求には反応しませんし、望むものが遠くにあるほど、より強いイメージが必要になります」

半信半疑のまま、ヒメは靴下に手を近づける。

靴下の暗く空洞のような口元に手を差し入れるのは、少し躊躇われた。

しかし、もし本当に願うものが取り出せたなら、それは魔法の存在を肯定する大きな証拠になるかもしれない。


「…試させてもらうね」

ヒメは意を決して、靴下の中に右手を滑り込ませ、ぎゅっと瞼を閉じた。


靴下の内部は外見からは想像もつかないほどの深さと広がりがあり、別の次元に繋がっているかのようだ。

そして、ヒメが伸ばした右腕を動かしていると、突然何かが指先に触れた。

それはテープのような形状で、それをゆっくりと手繰り寄せ
……掴み取った。


「……!!」

――ヒメの中で、これまでの常識が大きく揺らぎ始めていた。

その微かな身体の震えを見て、メイは得意げな表情で言った。

「さあ、取り出してみてください!」


ヒメはカッと目を見開き、
右腕を力強く引き抜いて、
握りしめたピンク色のブラジャーを高く掲げた。

 
「…ウワアアアァァ!!!」

メイは慌ててヒメの手から自らの下着を奪取し、そのまま部屋の片隅にあるウォークインクローゼットへと駆け寄って、中に放り投げ、扉をバタンと閉じた。

「すごい」

「どこもすごくありません!えっち!意味わかんない!それともガーランドが壊れた!?」

メイが靴下を振り回して取り乱す姿を前にしながら、ヒメは真剣なトーンで話し始めた。


「ごめんね。でも、それを確かめたかったんだよ。もし手品だったら、メイちゃんが用意した想定通りのプレゼントが靴下に仕込まれているはずだよね?
…だけど、今のメイちゃんの反応を見て、ヒメは魔法の力が実在するって信じることができたんだ」

「私のブラジャーで確信を得ないでくださいよぉ…」

メイはベッドに腰を落とし、説明を始めた。

「はあ……。私たちはこれらの力を”茲力”あるいは”狐火”と呼んでいます。それは、言うなれば、思いやりから生まれる魔法。私たちが特別な存在から授かった、他人を助けるためにのみ使える、制約のあるものなんです
……本来はそうあるべきなんですが」

一転してメイの方が、とりわけその制約条件について自信無さげな態度であった。

「洗濯物を干す時は、もう少しスペースを空けた方がいいよって思ってたんだ」とヒメが笑いながら言った。

「そ、そんな理由で…?確かに、この力の条件は時に曖昧ですけど
……ともかく、次は最後のチャンスですよ。不本意なプロセスがありましたが、今なら疑いや迷いなく、自信を持ってヒナさんへのプレゼントを取り出せるはずです」

そう言って、彼女は再びヒメに靴下を差し出した。


ヒメはうなずき、深く息を吸い込んだ後、再度目を閉じて靴下の中に腕を伸ばした。

心の中にお揃いのペンダント、オーロラ模様の包装紙、そして勿忘草色のリボンを思い描きながら、ヒメは空間を探った。


しばらくすると突然、右腕が冷たさに包まれた。

まるで外の厳しい寒さに腕だけが突き出されているかのような感覚だった。

いや、実際に、この袋の中は外の世界に直接繋がっているようだ。

プレゼントは、恐らく密生する白樺林の根元のどこかに落ちているのだろう。

雪を掻き分けるようなシャリシャリとした感触を感じながら、ヒメの手はついに一つの箱を捉えた。

そして、慎重に腕を引き抜き、目を開けた。


 ――間違いない。

手に掴んだのは今度こそ、あのプレゼントだった。

ヒメは右腕を引き抜き、瞳を潤ませながら、ようやく取り戻したその箱を強く抱きしめた。

 
役割を終えた白い靴下はすでに姿を消し、メイのブレスレットに戻っていた。


「正直、まだ、ヒメは夢ん中みたいだよ。メイちゃん、こんなにも色々と、本当にありがとう!」

涙目のままヒメはお礼を言った。

「…これが私の使命ですから」メイが微笑む。


使命。
神社でのメイの話、彼女の活動と理想が織り成す物語。

詳細は掴めないが、これらの不思議な力が間違いなく関与していることをヒメは感じとっていた。

尋ねたいことは山積みで、気がかりな点もあるが、時間は待ってくれない。

大切な友達のことを思い、ヒメは決意を固める。


グビッと残りのジュースを飲み干して、ヒメは立ち上がった。

「もうすぐ1時間が経っちゃう。ヒメは、そろそろヒナのもとへ戻らなきゃ。でも明日、ヒメ達が出発する前に…みんなでまたお話しよ?」

ヒメは、キッチンと玄関側に繋がるドアに体を向けた。


その時、メイの沈黙に気づいた。

ヒメは自分の涙で視界がぼやけているのかと思ったが、よく見るとメイの目にも涙が浮かんでいた。

「あれ…?」

「はい、聞こえていますよ」

メイはベッドから立ち上がり、ヒメの手から空き缶を回収すると、部屋とキッチンを仕切るドアを静かに開けた。


「今から、玄関のドアを霜弧亭の最上階に繋ぎます。ただし、1分しかもちません。急いでくださいね」

メイが左腕のブレスレットに触れると、例の口笛にも似た”キュイッ”という音が響いた。

開け放たれた洗濯機、幼子が書いたような筆跡のメモが貼られた冷蔵庫、そして水切りラックのかかったキッチンの先にある、白い玄関ドアが自動的に開いた。

ヒメが到着した時と同様、狭い通路が続いていたが、今回は外の景色ではなく、機械的な光が漏れる空間へと続いていた。

メイの言葉通り、ドアの先は展望風呂がある霜弧亭の最上階の休憩ホールに繋がっており、通路の先の、整然と並んだ自動販売機の隙間から外へ抜ける出口が見えた。

「えっ!!も、もう残り1分ー!?てゆーか、こんなどこでもドアみたいなことまでできちゃうの?!」

ヒメが通路の先を見ながら驚愕の声を上げた。

「どこでもというわけではないですし、誰でもというわけでもないんです。

今回はヒメさんのために設定していて、私自身は通ることができません。

ですから、ここでお別れですね」

そう言いながら、メイはヒメの手にあるプレゼントを優しく包み込むように両手で触れた。

「神社でのお悩み相談も、目の前で聞けたお二人の歌も、私にとって、宝物です」

「……今度こそ、必ずヒナさんにプレゼントを渡してくださいね」

目の前のメイの顔を見つめ、ヒメは思う。

なぜそんなに寂しそうな顔しているのだろう。
まるで…


ヒメの視線は、手に持ったプレゼントに落ちた。

雪に濡れた包装紙は湿ってふやけていたが、リボンの方は健在だった。

淡くて優しい青色…勿忘草色…

ヒメの心にあった引っ掛かりが、さらに強くなった。


「霜弧亭への道が鎖されてしまいます。早く行ってあげてください」

メイが急かした。

ヒメは足を進めたが、白い玄関ドアを出る前に、もう一度振り返った。


 
「ところで、メイちゃんは、お花……好き?」

「……え?」


最終章:メリークリスマス

 
霜弧亭のエントランスで、ヒナはガラス越しに満月を眺めていた。

風で震えるガラスに映ったヒナの瞳に、その一点の明かりに焦がれるような憂いが宿る。

深夜の静けさが館内を支配し、数時間前のディナーショーの賑やかさはすっかり消え去っていた。


突然、その静寂を破るパタパタとした足音と、ヒナが待ち望んでいた声がホールに響いた。

「ヒナーーー!!」

「えっ、ヒメ?外にいたんじゃなかったの?」

振り返り、ガラスに背を向けたヒナは、ホールの階段側から現れたヒメの姿に驚いた。

「これから、全部話すから。でも、まずは謝らないと

……ヒナ、ホントにごめん!」

ヒメはまだ息を整えながら、両手を合わせて深く頭を下げた。


1時間前にヒメが部屋を抜け出してからしばらくして、ヒナは奇妙な夢にうなされて目を覚ました。

ヒメが残していったメモを発見すると、すぐに上着を羽織り、エントランス前でヒメの帰りを待つことにしたのだった。

一方、ヒメは霜弧亭の最上階に戻ると、スマホの電波が急に安定し、ヒナからの多数の着信とメッセージを一気に受け取った。

そこからヒナの待機場所を確認し、急いでこの場所へ向かった。


「こんなに寒い夜に外に出ちゃうなんて……ヒメを信じてここで待ってたけど、時間が経つにつれて、だんだん不安になってきたよ」

ヒナの声にはまだ心配の色が滲んでいた。

「ごめんっ、心配かけて…」両手をグーにして、ヒメは再び謝罪の言葉を口にした。

「でも、無事に戻ってきてくれたから、もう大丈夫」

ヒナは微笑んだ。

その微笑みの後、ひと時の静けさが二人を包み込んだ。

ガラス越しの月明りが、パーティ仕様から復元された幽玄な空間を照らし、ドライフラワーや観葉植物の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。

 
ヒメはヒナにこれまでの出来事を順を追って説明した。

旅行の出発前、クリスマスプレゼントとして選んだお揃いのペンダントのこと。

その包装が鞄の中で破れてしまったこと。

メイに新たなラッピングを施してもらったこと。

展望台で、女児のアクシデントへと駆け寄る際にプレゼントをデッキから落としてしまったこと。

先ほどまでそのプレゼントを探していたこと。

展望台の近くにメイの住処があったこと。

そこで失われたプレゼントを取り戻す機会があったこと。

そして――

 
「えーー!プレゼント、あの子にあげちゃったのー!?」

ヒナの声がホールに反響した。

「本当に申し訳ないと思っている!」

ヒメが3回目の謝罪をした。

「ペ、ペンダントは、また探せば新しく買えるけど、今回のあのプレゼントはメイちゃんのを借りて取り戻したから、なんか、自分の力で手に入れたっていう実感が湧かなくってさ!結局、サプライズは大失敗になるけど、それでも、ヒナには正直に全部話すのが一番だと思った」

ヒメは服の裾を揉む手に力を込めながら熱心に事情を説明した。

そして、そっとヒナの表情を窺う。

…ヒナは眉をハの字に曲げつつ、口元には小さな微笑みを浮かべていた。

ヒメの弁解は理解してもらえただろうか。


「…貰えるものは貰いたかったけどなー!」

ヒナは厳しい判決を告げた。

ヒメの頭の中には、ゴーンというSEの空耳まで聞こえてきた。

「しかもさー、ヒナから見たメイちゃんって、もちろんお世話にもなったけど、友達の声マネで挑発してきた悪戯っ子で終わってるんだよね」

「あわわわ」

「それがさー、さらにヒナ宛てのプレゼントをさらっと持っていったオンナになっちゃったんだけどー!今のヒナは不憫系の幼なじみポジションってやつです」

「ももも、もう次に会えるかどうかわかんないし、思い出を大事したかったと言いますか…いや、その理由はかえって、苦しいか…」


今のヒメの感情を伝えるためには、メイが示した思いやりの魔法、”茲力”についての説明が不可欠で、さらには多くの推測までもが含まれる内容だ。

そして、ヒメ自身もその力を目の前で展開された時さえ、最初は信じられなかった。

言葉だけでヒナにその存在を理解してもらうのは、困難を極めると思われた。


 …ヒメは深く息を吸い込んだ。

それでも、ヒナなら、どんなに信じがたい話でも、耳を傾けてはくれるはずだと信じて。

「ねえ、ヒナ、魔法って、あるのかもしれない」

「んー?」ヒナは首を傾げた。

「ちょっと信じられない話があるんだけど、聞いてくれるかな…」

「信じるよ」

「うん、すぐには信じられないと思う。だけど……って、ええっ!?」

「ヒメが信じるなら、ヒナも信じるよ。詳しく聞かないとって気持ちもあるよ?

…でも、展望台でプレゼントを失くした時の、ヒメのすごい真剣な顔、それにさっきまで頑張って外に探しに行ってたこと

…そんな大事なものを諦めるのは、きっと相当な理由があるんだと思う。

さっきは冗談でああ言ったけど、ヒメを信じない理由なんて、ないよ」

「ヒ…ヒ…ヒナァ…」

ヒナの温かい笑顔と言葉に、ヒメが子犬のような声をあげた。

「あとね、今の流れでヒナも一個謝らないといけないことがあってさ…」

ヒナは頬を掻きながら告白した。


 
「この旅行、ホントは企画したのヒナじゃないんだよね」

「…………な、な、なんだってーーー!!?」

 
ヒナは両指を付けたり離したりしながら言った。

「二人でどこかに旅行したいとは思ってたよ。スタジオのみんなに聞いたら候補をくれて、ヒナが行き先を決めたんだ。二人で行くから、予約はヒナの名前でしたけど、実際の見どころやルートの計画は、スタジオの"雑務代表"がほとんどやってくれたの。クリスマスライブの準備で忙しくて、プレゼントを用意する時間がなかったから、この旅行をプレゼントにしたらって提案してくれたんだ。
ごめんね、ヒメ。”貰えるものは貰いたかった”って言ったけど、実際はお返しとして受け取るほどの権利はなかったんだよ」

「でもでも、この素敵な場所を選んだのはヒナだし、旅行のスケジュールをきちんと覚えてくれて、道案内もしてくれたじゃない?権利がないなんてことは絶対ないよ。えと、まあペンダントモノは無いんだけどさ」

とヒメはヒナの貢献を振り返った。

そして、ヒメも「実はね」と続ける。

「ヒメが選んだペンダントも、完全に自分だけで決めたわけじゃないんだよね。ライブの準備中に、"雑務代表"からいくつかの候補をもらって、そこから選んだんだよ。ヒナと似たような状況だったね」

二人はしばらく沈黙し、状況を整理した。


「それじゃあ、結局はお互いに準備されてたプレゼント交換だった…ってこと?」ヒナが先に尋ねた。

「そうみたい。みんな忙しい中、ヒメ達にこんなに気を使ってくれてたんだ」

「うわー、おみやげたくさん届くようにしといて良かったー!」

とヒナが言うと、二人は揃ってホールに笑い声を響かせた。

笑いがおさまると、ヒメはヒナの目を見つめて、心からの言葉を伝えた。


「ヒナ、何も手に入れられなくてごめんね。でも、あらためて言わせて
……メリークリスマス。ヒナがいてくれて、ヒメはいつも幸せだよ」


「ヒメと過ごす時間が、ヒナにとって一番のプレゼントだよ。こちらこそいつもありがとう。これからも一緒に素敵な思い出をたくさん作ろ?
…メリークリスマス」

ヒメの笑顔が消えた。
……ヒナには、一体何が起こったのか理解できなかった。


「え……?ヒメ…?」

目の前の、ヒメの唇はわずかに開き、息が止まったかのように動かない。

両目は徐々に、徐々に、大きく見開かれていった。

やがて、ヒナはヒメの大きな瞳の中に、光を見つけた。

ゆらゆらと動く、緑色の光――


その視線の先にあるものをヒナは察し、ゆっくりと振り返った。

夜空が、波打っている。

緑、青、ピンク…色とりどりの帯を描きながら、オーロラが空を舞い、光のショーを披露していた。

しばらくヒメとヒナは揃って静止していたが、それから感情が一気に溢れ出し、二人は同時に歓声を上げた。


「「オーロラだ!!」」


二人は玄関から外へと飛び出し、夜空に広がるオーロラの全貌を目の当たりにした。

その壮大な光景に、二人は跳ね回った。

「やったー!すごいすごいすごいすごい!!」

「こんなの、泣いちゃうよー!」

オーロラが閃くたびに、冷えた空気を二人の温かな笑い声が震わせた。

「そうだ!早く、写真を撮らなきゃ!」ヒメが慌ててスマホを取り出した。

二人は、オーロラの下でポーズを取り、その一瞬をカメラに収めた。

二人の笑顔は、オーロラの光に照らされ、さらに輝いて見えた。


「…って、あれ?」
「あ」

本当にあっという間だった。

まるで二人のために踊っていたかのようなオーロラが、急に現れた雲に覆われてしまい、夜空は再び元の景色に戻ろうとしていた。


「まだ一分も経ってないよね?」

「これ、目撃できたのヒナ達だけなのでは…?」

二人はお互いの顔を見て、きょとんとした表情を交わしたあと、ふふっと吹き出した。

 
「これは絶対に忘れられない思い出になるね」とヒナが嬉しそうに言った。

「うん!」

ヒメも笑顔で頷き、手を繋いで再び空を見上げた。

雲の隙間からオーロラの灯が消えていくのを、二人は最後まで見守った。

(終わり)

ここまで読んでいただきありがとうございました。
ちょっとでも感想をいただければ嬉しいです。ハッシュタグは #Santacraft_0 でお願いします。



【サンタクラフト】

『サンタクロース』たちの忠実な眷属は、トナカイだけではない。

狐たちレヴォンズ”もまた、クリスマスエンジェルとしての使命を担い、『サンタ』たちが世界中の子供たちへ『プレゼント』を配るために不可欠な”茲力じりょく”の収集と管理を行う。

この茲力は、思いやりや慈しみがもたらす魔法のような力とされている。

電磁場が存在する場所に光子があるように、感情や絆の”茲場”が形成される場所には茲力が存在する。

家族や友人、恋人との感動的な瞬間など、特別な思い出が新たな茲場を生み出し、その過程で現代科学では捉えられないエネルギーが放出される。

狐たちはこの玄玄しき物質ダークマターを感知し、時に茲力を使って発動する”狐火”を駆使して、通常は放出と同時に失われるこのエネルギーを組織的に収集する。

厳選された茲力は、滋霊酒”サンタクラフト”に形を変えて『サンタ』たちへ供されるという。
 

深夜、霜弧亭の客室廊下にて、誰かの帰りを待ち伏せているかのよう佇む彼女もまた、狐たちレヴォンズの一員である。

彼女が所属する協会、その正式名称は『 Ambrosial Wishes Association』。

日本支部は京都・伏見に座標を同じくする茲気圏内に位置し、日本国内の狐たちレヴォンズを統括する中心地である。

彼女はその日本支部のリーダーで、本名を控え『代表レプリゼント』と名乗っている。

しかし、彼女の同期や近しい仲間たちは、親しみを込めて彼女をと呼ぶ。


15章:狐火の夜


「もういくつか寝るとお正月。今日のプレゼントはお年玉で補填してね、ヒメ」

「あれ?さっきと言ってることが違うね、ヒナさん?」

「約2か月後のヒナ祭りも、ヒメには期待しています」

「もう、ヒナ~!」

軽快な会話を続けながら、ヒメとヒナは霜孤亭の廊下を歩き、自分たちの部屋へと戻っていった。

各部屋には小さな客室温泉も備わっており、深夜ではあったが、ヒナは外出したヒメのために風呂を用意してから部屋を出ていた。

二人が部屋の近くに差し掛かると、扉の前に立つ小柄な黒髪の女の子の姿が目に入った。

今も彼女は黒いフードコートを身に纏い、両手をポケットに入れたまま、静かに立っている。

彼女もヒメとヒナの到着に気付いているようだった。

「あ、ゼンちゃんだ。こんな夜中に起きてるってことは、もしかして!」

ヒナが、ヒメより先にゼンを発見し彼女に近寄った。

「ねえ見た見た?あのオーロラ!ヒナ達、ばっちりなタイミングに空が見られてさー、めちゃくちゃすごかったよー!」

「……ああ、アホみたいにキラキラしとったな。ええ思い出になったやろ?」

ゼンは廊下に並ぶ照明に目を落としながら、応じた。

「ほんとだよー!ゼンちゃんは、オーロラの感動を伝えに、わざわざここまで来てくれたのかな?」

ヒナがゼンの訪問理由を尋ねると、ゼンはニコリと笑って答えた。

「ちゃうねん。ヒメちゃんとヒナちゃんに、"忘れ物"を贈り届けに来たんや」

ゼンの手は、一見して何かを持っているようには見えなかった。

その時、ヒメは何かを言いたげに口を開きかけ、ゼンの方を見つめた。

「ヒメちゃん、どしたん?」

ゼンがヒメの様子に気付いて声をかける。

「えっと、メイちゃんから何か聞いてる?」

少し焦った様子で尋ねるヒメの記憶は、メイの部屋を出る直前の光景を回想する。

◆◆◆
 
「ところで、メイちゃんは、お花……好き?」

「……え?…もちろん、好きですけど…」
 

ヒメは自分でも何故かよくわからないが、少し涙声になっていた。

「……じゃあ、このペンダントは、キミにあげよう!
ヒナにはやっぱり、正直に全部お話することにする。もし箱の中身を見て気に入らなかったら、明日の朝、エントランスで返していいから!
気に入らなくても、ホールで、待ち合わせだよ?
…ゼンちゃんも、みんな、一緒だよ?!
絶対に来るんだよ!」


ヒメは呆気に取られているメイに半ば強引にプレゼントを押し付けるようにして、宿と白いドアの繋がりが途切れる前に急いで部屋を後にした。

メイは自身が語った『ヒメのために繋げた出口』という条件に従い、ドアを再び開けて追いかけてくることはなかった。
 
◆◆◆

「見積もりが甘かったみたいやね。メイはいつもそう、甘ちゃんや

……あの子の部屋を出る前に気付いたんやろ?ヒメちゃん」

ゼンはゆっくりとヒメの側に回り込み、向き合った。

ヒナは二人の横顔を交互に見つめながら、状況を理解しようとしていた。

「もしかして、さっきの魔法の話?ヒナ宛のプレゼント、戻ってきたのかな?」

ヒナの声には、混乱と好奇心が混ざり合っている。

「ちょっと待っててヒナ…あのさゼンちゃん、明日も朝のエントランスで会えるように、伝えてくれないかな。帰る前にさ、もう一度みんなで乾杯しようよ。ね?それで」
「なあヒナちゃん!」

ゼンはヒメの言葉を途中で遮るように手を広げたあと、ヒナの方へ首だけ回して話し始めた。

「ちょうど昨日のこんな夜中やったな……君にした保険がどーのっちゅう話、憶えてる?」

「昨日だもん、忘れるわけないよ!でも、どうして急にその話?」

ヒナは昨晩のことながら少し懐かしく思いつつ、尋ね返した。

ゼンは真剣な表情でヒナを見つめながら言った。

「ヒナちゃん、あの時はありがとうな……私も、やるよ。ヒナちゃんが言ったように、友達のためにできることを」

「え?」ヒナが首を傾げると、再び緊張気味のヒメが口を開いた。

「ねえ聞いて。ゼンちゃんも、メイちゃんと、なんだよね?」


「……同じってどういうことや?昔は他所の国にいたっちゅうこと?」

ヒメの正面で、ゼンは首を傾げておどけたふりをした。

「いや、そうじゃなくて…あれ、そうだったの?…あ、でも確かに目が…」

ヒメはゼンの瞳に目を留めた。

「せやろ?綺麗な緑のおめめって言いたいんやね…ヒメちゃんも、ほんまにありがとうな

――ほんで、私の目、もっとじっくり見てくれへん?」

その言葉のあと――ヒメが固まった。

ゼンの瞳を捉えたまま、まるでオーロラを発見した時のようにじっとしたまま動かない。

「1…2の……ぽかんと」

ゼンが呟いた直後、ヒメが元気な声を上げた。

「あー寒っ!さてと、お風呂入るぞお風呂ーー!」

とヒメはドアに飛びつき、鍵を開け一目散に部屋の中へ駆け込んでいった。


「えっ!?ヒメー?」

ヒメがゼンとの会話を中断し、部屋に入ってしまったことにヒナは戸惑った。

「ヒナも来なよ!お風呂入ろーよー!」
と閉っていくドアのすき間からヒメの声が明るく響く。

まるで直前の会話なんて最初から無かったかのように。


「…安心してくれてええ。
ヒメちゃん、ヒナちゃんがこの旅で得た経験や学び、思い出のすべてが矛盾なく整合するように、私も監修しとる。メイの切なる願いで、あの狐火の感動も含めてね」

ゼンは横顔のまま、空中に語った。

そして、一度ため息をついたあと、身体をヒナに向けた。

「ほな、ヒナちゃんも、私の目、見てくれる?」


言われたとおりゼンの瞳を見たヒナは、心配そうに顔をしかめた。

 
「…あれ?…ゼンちゃん……泣いてるの?」


そう言ったあと、ヒナもまた、視線をドアへと切り替えて、駆け足で部屋に向かった。
 
「寒い寒い!お風呂だ、おっ風呂ーっ!」


 ――バタンと、ゼンの背後で音が響いた。

ドアが閉まったあとも、まだ微かにヒメとヒナのはしゃぎ声が耳に伝わってくる。

薄暗い廊下には、残されたゼンが一人、立ち尽くしていた。


「……別に泣いてなんかないわ」ゼンは俯いた。


「それよか、他に驚くことあるやろ……変な子」

小さく呟いた彼女の右の瞳は、銀色になっていた。

瞳だけでなく、髪の色も右半分が雪のように白く変化していた。


廊下の照明がちらつくと、ゼンの外見は再び元に戻り、彼女は目をこすりながら、霜弧亭の廊下をひとり歩き去った。



16章:幻の鳥


「ボルドーが北海道の近くのエリアだって、ヒナが言った時はもう言葉を失ったよね」

「忘れろビーーーム!!」

ざぱんと、波が船底を叩く。

ヒメとヒナは、出航したばかりのフェリーの甲板に立ち、遠くで鳴く海鳥の声と波のリズム、そして船のエンジンの低い唸りが一つに溶け合うのを聞いていた。

冷たい海風が二人の頬を突き刺し、吸い込むたびに冷気が肺を満たしていく。

空には深い群青色が広がり白い雲が浮かんでいたが、その美しいコントラストも厳しい寒さを緩和することはなかった。

他の旅行客のほとんどが屋内に避難している中、ヒメとヒナが甲板に留まるのは、太琉瑠島の姿がまだはっきりと見えるうちに、その美しさを心に刻みたいと願ったからかもしれない。


ポケ○ンスリープのアラーム音が鳴り響き、ヒメとヒナは朝を迎えた。

夜更かしの疲れを微塵も感じさせず、二人は朝の光を浴びながら元気に身支度を始めた。

宿のダイニングエリアに足を踏み入れると、昨晩のオーロラについての話題はどこにもなく、やはり、あの景色を目にしたのは二人だけだったようだ。

美味しい朝食に舌鼓を打ったあと、『極光の湯宿 霜弧亭』の看板の前で記念撮影をして、宿のスタッフの面々と温かい挨拶を交わし、ヒメとヒナは宿を後にした。

シャトルバスの車窓から島の最後の風景を眺め、フェリー乗り場に到着し、船も定刻通りに出航、二人は甲板で今回の旅を振り返っていた。

 
「あ!!!」

揺れる甲板の上でヒメがいつものように大声で叫び、ヒナの耳をつんざいた。

「見て見てアホウドリだよっ!幻の!本当にいたんだ!」

ヒメは空に舞う一羽の白い鳥を指差し、ヒナの肩を叩いた。

鳥はまるで二人を見送るかのように、頭上で優雅な弧を描いていた。


「えー!あれはハクチョウだよヒメ!

ちょっと、あなたもヒナの常識を馬鹿にできないでしょー!

わざわざ帰り際にヒメの間違いを直しに来てくれたんだよ

――降臨、満を持して…!」

ヒナは平成ライダーのハクチョウをモチーフとした登場キャラクターの台詞を引用しつつ、ヒメの勘違いを訂正した。


ハクチョウはキュイッと鳴き声を放ち、太琉瑠島の方へと飛び去って行った。


「そ、そうだね。アホウドリは絶滅危惧種だって、アルバイトの巫女さんが言ってたもんね」

とヒメが思い出しながら頭を掻いた。

「巫女さんだけじゃなくって、ワイナリーのスタッフさんやソムリエさん…たくさんの人にお世話になったねー」

とヒナが島で出会った人々に思いを巡らせた。

「でもでも、あの演歌歌手の人にいきなり挑戦者チャレンジャー扱いされた時は驚いたよね!?」

ヒメがディナーショーでのサプライズを振り返る。

「ほんとだよー!でもやっぱさー、一番の思い出は、二人で見たオーロラ!まさか本当に見られるなんて!」

ヒナが目を輝かせながら言った。

「ヒナ達がこれまで積んできた”徳”が、功を奏した瞬間だったのでは?」

「いやはやいやはや、びっくりしたよー!写真もバッチリとれたし!ほら…」

とヒメは上着のポケットに手を差し込んだ。

しかし、ヒメの笑顔が困惑の表情に変わる。

そして、ポケットから取り出したものを見つめ、しばらく考え込んだのち、ヒナに問いかけた。


 
「ねえ、ヒナ、魔法って、あるのかもしれない」

「んー?」ヒナは首を傾げた。

怪訝な顔をするヒメの掌に広げられていたのは、スマホではなく、薄茶色をしたクラフトペーパーの、一枚のメモだった。

続けてヒメが思い出したように声を上げた。

「……あ!もしかしてヒメがあの展望台で助けた”大人ジョジ”が、実は、隠れ魔法少女だったりして!」

ヒメが冗談めかして話す。

「むむむ?……”ありがとう”って書いてある?これ。…どゆこと?」

ヒナがメモをじっと見つめながら、書かれた文字を読み上げた。

「だってさ、こんなメモをヒメのポケットに入れる機会なんてなかったし、でもお礼を言われることがあったとしたらあの女児しか思い当たらないし!それに、だってこの字」

……だってこの字は、大人の筆跡とは思えないほど、つたない。

 
 ポタリと落ちた水滴が薄茶色の紙にシミを作った。


「…あれ?…ヒメ……泣いてるの?」

「……え?ほんとだ。なんだこれ」ヒメは目をこすり、ヒナの心配を手で静めた。それ以上の涙は零れてこなかった。

「大丈夫、大丈夫。…きっと、この旅がめちゃめちゃ楽しかったんだよ。あらためてヒナ、ありがとう」

ヒメが感謝の5文字が書かれたそのクラフトペーパーを、ヒナに手渡そうとした瞬間、風が強く吹き、紙を海へとさらっていってしまった。

「あー……」ヒメの手が空を切った。

「…」
 


「……ねえ!ヒナ達も最後に感謝の気持ちを伝えようよ!」

ヒナがヒメの手を握り、甲板の端へと駆けていった。

息を切らしながら、ヒナは朝靄に消えていく太琉瑠島のシルエットに向かって声を張り上げた。

「ありがとーーーーっ!!!」

ヒナの声が海の向こうへと響いた。ヒメも力いっぱい叫んだ。

「ありがとーーーー!!!!」と、手を大きく振り上げて。


二人は、その小さな宝石のような島が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。



エピローグ:天のぶどうに夢を見る


「ララララララ、ララッラッラー」
 
「ララララララ、ララッラッラー」
 
白樺台展望台の特徴的なUFOのような形状のデッキから、二つの歌声が空に響き渡っていた。

詳しい者ならすぐに気が付くだろう。

この声は、二人組のアーティストユニット、ヒメとヒナの歌声だ。

「ララララララ、ララッラー、ララララーララー」

「おーい!…それ、やめろや」

猫のようにしなやかな動きで梯子を上ってきたゼンが、歌を口ずさむ彼女の隣に現れる。

デッキの屋上の中央で、メイが体育座りをしながら一人で歌っていた。

メイとゼン、二人の装いはお揃いで、共通のユニフォームを身に纏っている。

随所に白いファーとテープが施された黒いコート、白いブーツ、そして黒いサンタ帽。

コートの胸元には、クリスマスリースを模した『AwA』という文字と、二人のサンタが杯を交わすデザインのエンブレムが付いていた。

メイは歌を止めたものの、前方をぼんやりと見つめていた。

「はあ…こんなところにおったんやな。そんなにいじけんといて」
とゼンが言ったが、メイは黙ったままだった。

「さっきまた変化へんげして、最低限の見送りはできたやろ。声真似といい、なんでメイはそんなにソレ系の条件が緩いんやろな、私にはようわからんわ」

とゼンが言いながら、メイを立ち上がらせるように服の裾を掴んで上に引っ張った。

メイはゆっくりと立ち上がりつつ、視線を遠くに彷徨わせながら口を開いた。

「プレゼントを渡す手伝い、それが私の使命なのに…失敗しちゃったんです。ヒメさんとヒナさんからは、本当に大切なことを学んだのに……
ヒメさんは、私にペンダントを渡して、急いで部屋を出ていったんです」

メイはそっと首にかけたペンダントのチェーンを左手に取り、コートの襟元から引き上げ、花の形をしたペンダントトップをじっと見つめた。

「はぁ……まだ私は、プレゼントをもらう側にいるんでしょうか」

「もう同じ話をグチグチ言うてもしゃあないわ。茲力のことも、私達のことも、絶対に記憶に残しちゃいかんのや。それが魔法の類の秘密を守る時のセオリーやからな。それゆえヒメちゃんには気取られてもうたけどね。
それでメイの記憶操作は、ペンダントとの交換条件を満たさず発動しなかった。おかげで私が事態を収拾せなアカンくなったわ。このままやと協会本部に、色々見せ過ぎたこともバレてまうかもしれへん……だからほな、京都行こ。今日はまだ”麋角解さわしかつのおつる”、トナカイの角も抜け落ちて、サンタも狐もみんなバカンスやろ。今のうちに何とか言い訳を用意しておかなアカンわ」

ゼンがメイを引っ張ろうとしたその時、メイが右手に何かを握っていることに気づいた。

それはゼンには見慣れたもので、クリスマスツリーの飾り玉オーナメントに似たボールだった。

ガチャガチャカプセル大のサイズで、透明なケースの中には虹色に輝くエネルギー体が、プラズマのように光を放っている。

ゼンはその色彩に目を見張った。

「…これが、今回の”天使の分け前エンジェルズ・シェア”か…
こんな色、見たことないな。これがメイがいつも話してる、私たちがガチャガチャポンで精製するものとは違う色相なんやろか?」

ゼンの驚きの言葉にも、メイは心の重荷を抱えた様子のまま、再び口を開いた。

「ヒメさんが部屋を出た後、私は何としても、二人に感謝の気持ちを伝えたかった……

自分にしかできない方法を考えながら玄関を開けたら、私の工房に繋がっていたんです。そこで、私は、クリスマスまでに集めた茲力をすべて空に還しました。夜空に奔った狐火のショーに、二人は本当に喜んでくれていましたよ」

メイは、輝くオーナメントボールを抱く力を強めた。

「ですけど、正直、まだ後悔の念が残っています。ヒメさんとヒナさんは、本物の自然現象であるオーロラを望んでいたはずです。私が造ったのは、実際のオーロラのように、太陽フレアのプラズマが大気中の原子や分子と衝突して発生する光を模倣したものに過ぎません。あれは、”ツリー”に蓄積されていた茲力を全て空に打ち上げて、大気との衝突で可視光を放つようにしたイミテーションなんです。あのオーロラのレプリカは、本当に、価値ある贈り物だったのでしょうか?」

視線を落としているメイに、ゼンは小さなため息をついた。

「もう今さらどうにもならんし、ずっと特定の人ばっかり見てるのもええ加減にせなアカンけど、でもな、メイがいつも言うてることと同じ答えが、ここにもあるんちゃうかな」

とゼンは言いながら、右手を伸ばしてメイの胸元に埋まったオーナメントボールに軽く人差し指で触れた。

「メイが造ったオーロラは、メイが己の信念で、人間の創造性や歴史、関係性を讃えて蓄えてきた茲力から生まれたんやろ?」

「…はい。今年の”サンタクラフト”には、エントリーすら出来なかったけれど、茲力をいただいた人たちの顔は今でもはっきりと覚えています」

ゼンの問いかけに、メイは真剣な眼差しで頷いた。

「自然の美しさとはちゃうけど、それはそれで価値があるんやない。それに、アレは、ヒメちゃんとヒナちゃんへの感謝と愛情の表現やったんやないの」

「…私なりに、その時にできる最善のことだと思っていました」

「その表現自体が、ヒナちゃんたちとの絆や共に過ごした時間の価値を象徴してるんや。たとえ数日間やったとしても、や。
ほんなら、そのオーロラのレプリカはそう、仮想的バーチャルな価値を持ってる、真贋を超えたものと言えるんちゃうかな。大事なのは、メイが伝えたかった感情と、彼女たちがその瞬間に感じた感動や喜びで、それが真実やったら、それでええんちゃう?」

ゼンがメイを見上げ、肩に手を置いた。

「後悔することなんてない。メイが彼女たちに与えたものは、メイ自身の心から生まれたものやからな」

ゼンの励ましの言葉に、メイは目を閉じてじっと耳を傾けていた。

やがて、ゆっくりと頷き、ふと視線を右上に向けながら言葉を紡いだ。


「えっと……ファ、ファンサー…あと、アイドル?でしたっけ…?」

メイの脈絡の感じられない返事に、一瞬きょとんとした表情を見せたゼンだったが、すぐに合点がいった様子で、力強く両手を握りしめて応えた。

「ファンサ!アイドル!それに、おねがい〇ーリン!!可愛くてごめん!!――だいしきゅー、だい〇ゅき!!!!まだある!一昨日にいっっっぱい教えてもらったんや!それにもちろんヒメちゃんヒナちゃんの最新曲!今回のヘルプで苦労した私へのお礼としてな、昨日も言ったけどメイにはちょっっっとした取引があってな!…ほら、ショーでかわいい系の一曲やってたやろ知らんけど、あれと同じ感じで今度はセットリストの半分くらいやってみてほしい!…私が個人的に望んでるわけやなくってそれがゆくゆくは世界の平和に繋がるようなそんな気がするんや…はあはあ」

ゼンは早口で両手を上下に動かしながら懇願した。

「じゃあ、次はそのスタイルでやってみますね。

私としては、おじいちゃんおばあちゃんも楽しめるような内容がいいと思ってるんですけど…

でも、ゼンには本当に感謝していますから、お願いは受け入れますよ」

とメイが応じた。


その承諾を耳にしたゼンは、右の拳を天高く振り上げ、そのまま動きを止めてしまった。


……ゼンにお揃いのペンダントのもう片方を渡そうかと考えていたが、彼女の応答がなぜか無くなってしまったので、その話はもう少し後にしてもいいだろう。

代わりに、メイはコートのポケットから小さな絵馬を取り出し、オーナメントボールとともに両手に握りしめた。

そして、ヒメとヒナを乗せたフェリーが去った海の方向を再び眺めた。


(『私の”サンタクラフト”をサンタたちへ贈りたい』
……私がこれからも手を伸ばし続けるその夢は、二人にお話出来るものでも、絵馬掛け所で公にするものでもありませんでした。だけど、このオーナメントと一緒に、私の次なる”ツリー”に掛けておくつもりです。
目標は、文字にして記したり、声に出して言葉にしたときに、初めて実現に向けた一歩を踏み出したことになると思うんです。
…ヒメさんとヒナさんが最初に書いた絵馬も、そういうことでしょう?)


メイは、狐が描かれた絵馬と虹色にきらめく玉を両手に、それらを太陽の光にかざしてみた。


「高いところに実るぶどうが、日の光をたっぷり浴びた夢が、すっぱいなんてあるわけない――

絶対に、絶対に甘いんです!」

◇◇◇

「そうだ、ヒナ、乾杯しようよ!」

甲板で太琉瑠島への別れを告げてからしばらく経ち、ヒメとヒナはフェリーの船内で心地よい暖かさに包まれていた。

通路で区切られたカーペット敷きのスペースには、畳の雑魚寝エリアが広がり、旅人たちは靴を脱いでリラックスしている。

まだ本土への到着には1時間以上かかるが、船内はすでに終わりゆく旅の余韻に満たされていた。

老夫婦はお土産を手に取りながら誰に何を贈るかを話し合っており、隣では若いカップルが撮った写真を見返して笑い合っている。

その間に挟まれて、窓際の畳に座るヒナは、スマホの画面に映るSNSのフィードを熱心にスクロールしていた。


突然、画面に影が落とされて、顔を上げると目の前には膝立ちで微笑む相棒の姿があった。

その両手には、島で買ったぶどうジュースの缶が握られている。

「…乾杯?どしたの急に?それ、最後のやつじゃん」

「あのねヒナ、さっきまで、楽しかった旅行もおしまいだなーって考えてたんだけど、でもこの船はただの帰り道じゃないんだって、思ったんだよね。これからも夢の舞台に向かって前進する、われわれの次の航海の始まりなんだ!って。
あの絵馬にお願いしたとおり奇跡のオーロラも見られたし、もう一個もいける気してこない?」

ヒメは缶を軽くカツカツと叩きながら、まだピンときていない様子のヒナに向けて、言葉を続けた。


と、……ゲン担ぎだよ、ゲン担ぎ!」

そう言って、ヒメがニッと笑った。

「あははっ、そーゆーことか!」

ヒナも笑いながら缶を受け取り、そのタブに爪をかけると、プシュッと心地よい音が響く。

二人は窓から差し込む波のきらめきを背に、未来への誓いの杯を合わせた。

「「――乾杯!」」

一口含むと、濃厚な味わいが口いっぱいに弾ける。

ワイン用に栽培されたぶどうで、砂糖は一切使われていないと聞いていたが…

  
「「甘っ!!」」と思わず口から出た台詞をハモらせて、二人は笑った。

(完)



あとがき

普段はイラストを中心に活動している私、ふぐてん(https://twitter.com/FG_taiten)ですが、今回は初めて物語の執筆に挑戦してみました。

始めは軽い気持ちでしたが、気づけば85,000字を超えるものが完成していました。

この物語には冗長な部分や説明不足、稚拙な箇所、自己中心的な表現も散見されるかと思います。

それでも、最後まで読んでくださった方々には心からの感謝を。

そして、もしかすると読み終えた方がいないかもしれませんが、私にとっては完成させたこと自体に大きな意味があります。

これからは再びイラストの世界へ戻りますが、もし私の物語が少しでも心に残ったなら、感想をツイッターで

#Santacraft_0

のハッシュタグを使って共有していただけると嬉しいです。

ただし、質問はお答えできないことが多いと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?