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私の人生会議

幡野さんの書いてる文章を見て、なんだか読みやすくてついつい漁るように読んだ。飾らない文体にきっと人柄が出ているんだろうな、と思う。前に、全然背景を知らずに、なんで僕に聞くの?みたいなタイトルの記事を読んで、どうしてこんな的確に答えられるんだろう?って思っていたけど、もともとそういう人なんだと思う。元々考えたい人、と言っているのを読んで納得だった。


人生会議、という言葉にちゃんとした定義があったとは思わなかった。自分の人生について腰据えて考えてみよ、みたいな意味だと思ったから、そんなに堅苦しいイメージも沸かなかった。自分とする会議なら、きっと楽しいんじゃないかな、と思ったから。


私の理想のバイバイは、あのさっぱりとした道頓堀のふぐの看板。

「ご愛顧ありがとう、みんな元気で、ほなさいなら。」

ニュースでみたとき、最高だな!と胸に風が吹いた。去るものからのカラッとした心地よさがある。去られる私はつられて微笑んでしまった。あ、わたし次に行くとこがあるんで、この辺で、みたいな。あくまで自分が主語なのが気持ちよかったし、多分羨ましかった。ふぐの看板と人の命が同じと言いたいわけじゃない。けど私はあのふぐのバイバイには元気が出た。それでいいよな、って思った。

もし自分が意識を失ったら、どうしてほしいか。こればっかりは先に伝えておかないと、どうしようもない。本当に、どうにもしようがない。

死んだあと樹木葬にしてほしいとか、海に撒いてほしいとか、そういう話の前にどうやって死ぬかを制限はあるにせよ自分で選択するというのは、実はできることなのに今まで死んだ後のことばかりはなしてきたなと思う。

自分が意識を失ったら、まず、身近な人に色々あっただろうけどありがとうって思ってるからね、っていうの知ってもらいたい。そう思った時点で、嫌いな人に使う時間ないな、と気づいた。至極当然だけど‥。時間無駄じゃん。みんなにいい顔してる時間も気力もいらん。これ、生きてる私がやっていることだった。全然捨てきれてない。そして、夫が既に捨てると決めて捨てているものだった。夫すごい。捨てても生きていけてる。

次に、と思ったけど死ぬ期限を自分で決めるのはすこぶる怖い。意識がいつか戻るかもしれないなら、会って話してから死にたいという欲が出る。それが一ヶ月後か四年後か分からない。だから、ちゃんと自分と考えないといけない。続ける覚悟も、止める覚悟も、両方重たい。

これを家族に決めさせるのも、私がその立場なら決められない。何を天秤にかけたらいいのかわからない。でも、かわいそうだから延命しようより、充分楽しんでいたね、と思われる人生を歩んでいたい。と、自分のおばあちゃん(バリバリ元気)を思い浮かべて思った。おばあちゃんを絶対海外旅行に連れていきたい!コロナ落ち着いたら絶対これはやろう、何を差し置いても。

命より大事なものがあると幡野さんは書いていた。私は今日会社のトイレでそれを考えたけど、果たして私にそんなものがあるのか家についても分からなかった。自分を通すには覚悟がいる。それを貫いて嫌われることもある、理解されないこともある。私はそれを怠っているんだと思う。そのほうが楽だから。

でも帰りの電車で分かったことがあって、わたし嫌いな人のことを考えてる時間を持ちたくなかったんだな、と。どうでもいい、と大事の区別さえ突き詰めればついてなかった。至極当然のことなんだけど、生きてるうちは好きな人や好きなこと考えてたほうがいい。楽しい。あと、起こってない未来のこうなったら嫌だな像を想像して不安になるのも、意外とやってた。死ぬことを考えて気づいた。これもやめよう。リスク管理は大事だけど、私にはそれよりカラッとした明るさや心地よさがある方が重要だ。

自分に呪いをかけるのをやめる。

それが、今日のところの私の人生会議の結論。