日向坂46の選抜制導入に反対します

何度も何度も同じテーマでしつこいと思われたかもしれません。

何度も何度も同じテーマでしつこく言い続けても、それでも俺の怒りは鎮まらないんです。

実際に選抜制の導入が発表されたのは2月26日。

今はもう4月。

それでも、俺の怒りは薄まったりもせず、まして鎮まる訳なんてなくて。

たかが制度一つ。
日向坂46の魅力はその程度で無くなるごく小さいものなのか?

その問いの答えは、否、である。
日向坂46というグループは、今まで流行ったどんなアイドルにもハマらなかったこの俺・タンス預金の心を、取り返しがつかなくなるぐらいメチャクチャにして、愛や喜びを俺に与え、教えてくれた存在であると言って過言じゃない。

日向坂の魅力は、どうケチを付けても揺るがない絶対的なものである。

それならば。
選抜制導入に対して、何が気に入らないのか。
何もかもが気に入らない、というのは置いといて。

まず一つ。
乃木坂だの欅坂だの櫻坂だの、遡ればAKBだの48だのという、どれだけ一生懸命アイドルとして活動していても、俺の心は掴めなかった弱者どもの汚い手垢に塗れ切った制度である、ということ。
裏を返せば、全員選抜は日向坂46の特別な専売特許と言っても差し支えのない特別で強力な個性なのだ。

日向坂46は、平凡未満の多数派どもに流されるように特別を捨て、平凡で退屈でつまらない、希望など枯れ果てたグループへと堕ちてしまったのだ。

俺は見たくなかった。

ただ純粋に大好きな、心から愛していたグループが、そうやって腐って死んでいくいく姿など、俺は見たくなかった。

日向坂が死んだ瞬間、俺のグループへの愛情は憎悪に近い…あるいはそのものの感情に頭が支配された。

『好き』の反対は『無関心』なんかじゃない。
『好き』の反対は『嫌い』だ。

俺は反転した。
日向坂46が嫌いになった。

乃木坂だの欅坂だの櫻坂だの、AKBやら48やらなんて退屈な連中では俺の心は動かなかっただろう。

日向坂への愛情が失せた俺の抱く憎悪は、紛れもなく日向坂46を愛した証だ。

俺の愛がお前を殺せるその日まで、俺は何度だって日向坂を愛しそして憎んでやる。

日向坂46に選抜制など導入すべきではなかった。

俺の怒りがお前に伝わるように。

日向坂46が深く深く後悔し、そして最後には笑い話になれるように、選抜制などという下劣な制度は11th限りで封印しなければならない。

これは紛れもなく俺の本音だ。

俺の心の、魂の、奥底からの叫びだ。

俺が嫌な気持ちになっている。
それが選抜制に反対する最大の理由。

日向坂46を応援することが人生の喜びである時期も確かにあった。

その時間こそが、俺のまだまだ短い人生の中で、最も美しく輝いていた時間だった。

人が美しき過去に縋る時というのは、そいつの目に映る現在や将来が醜い時なのだ。

日向坂46が醜く腐って崩れて死んでいく姿なんて、俺は絶対に見たくない。

だけど、このままでは間違いなくそうなる。

全員選抜に戻ってくれ。

もしも日向坂46の死は避けられなくとも、誇り高く、美しく死ねることだろう。

形あるものはいつか崩れると言うのなら、少しでも美しく崩れていけるように精一杯日々を歩む。

それが人として在るべき姿だ。

腐りかけの醜悪な日向坂46を見る度に、俺は胸が苦しくなる。
そして。俺は苦しい思いをすることに耐えられない。

俺が苦しんでる。

だから、この憎しみをインターネットの片隅にぶつけるんだ。

俺の気持ちが分かる人、一人でも居ないかな。

俺の気持ちが分からない人、相当幸せな人生を歩めているんだろうね。

俺は、もう無理。

他のどんなことをやってても、フッと頭に怒りがよぎる。
日向坂46に対するこの怒りが、自分でも予期せぬタイミングで俺の心を蝕み、怒りの感情が俺の心を壊していく。

死ね

死ね

死ね

死ね

死ね

何に対して言っているのかも、自分でもよく分からない。

死ね

憎しみで頭がいっぱいになる。

死ね

苦しくてたまらない

死ね

死ね

死ね

死ね

死ね


文責:タンス預金

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