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痰壺迷想録(1/938)

◉【地獄的】
かつて「親ガチャ」という頭の悪そうな言葉が流行していたとき、「なに言ってんだ、すべての親ガチャは例外なく外れじゃないか」と年甲斐もなく憤ったもの。でもこれでは「事の本質」を言い当てたことにはならないね。(出口のない「独我的議論」はさておき)そもそもあらゆる「有感生物sentient being」はそこにあるというだけで「限りなく不幸」なんだ。このことを「正しく」理解していない者が多すぎる(気がしてならない)。五体満足であろうが五体不満足であろうが、親が資産家であろうが貧乏であろうが、「限りなく不幸」であることには何の変わりもない。せいぜい地獄の業火が一〇〇〇度か二〇〇〇度かといった違いに過ぎない。(「感性」を備えて)そこにあるということはそれ自体が「痛まし過ぎる」なことなんだ。(ごく通俗的=非哲学的に言うなら)そうした「有感生物」は「生まれてこないほうが良かった(Better Never to Have Been)」(デイヴィッド・ベネター)。俗にいう「生きている(現存在している)」ということは、「自らのことが常に既に気になっている状態でいる」ということだ。「完全に安んずることの出来ない当事者性の只中に放り出されている」ということだ。そうした(不愉快的)現存在の「直接原因」として、「生殖」(生物学的契機)などを挙げることもいちおうは可能だが、そもそもそうした「直接原因」などなしでも「発生」しうるのが現存在なのである。この(不愉快的)現存在は「端的にそこにある」だけであって、いかなる「因果的思索」もその「端的さ」に吸収されてしまう。そのことにこそ私は苦しめられているのだけど、これを「理解してくれる人」は信じられないくらいに少ない。というか一人もいない(職業哲学者のなかにも)。私の説明能力に原因があることは確かだが、それだけでもない気がする。

◉【粗めの考察】
「子作り」とは現存在における苦痛を(新参の)他者に感染させることであり、おそらくはそのことで苦痛は多少なりとも分散・軽減されるのだ。生まれてしまった個体はその<怒り>を「親」に向けるのではなく、「まだ生まれていない個体」に向ける。「お前だけ楽にはさせない」ということである。古今の「聖者」が性欲の抑制にあれほど熱心だったのは、性欲の孕むそうした「復讐連鎖性」をよく理解していたからだろう。「孫の顔」を見たがることの害悪。「善良なる迫害者」あるいは「凡庸なる拷問者」。

◉【地上】
イルミネーションによって祝祭的に演出されている大通りをわりと上機嫌で歩いているときでさえ、生きたまま手足を切り刻まれたり、眼を抉られたりしている人間の悲鳴が脳内から消えることはない。「世界」はつねに過剰なくらいに残酷であり、そのことに鈍感でい続けるのはほとんど「犯罪」である。

◉【恨み骨髄】
子供の泣き声は「呪い」に他ならない。人々がそれを過剰に嫌がるのもそれが「呪い」だと直観しているからだ。

◉【引用】
その群衆は、おそらく人生の真の知恵とも言える諦めきった凡庸さを発散していた。
(ヴァレリー・ラルボー『A・O・バルナブース全集(上)』岩崎力・訳 岩波書店)

◉【決意】
「自然」は「倫理的」ではない。「反自然」のすすめ。

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