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この残酷退屈宇宙を浮遊しているロゴス的肉片π

この「世界」はあまりにも何も起こらない。その「空しさ」を嘆いてはいけない。笑われるだけだから。青臭いと。それはまだ君がこの「世界」をじゅうぶんに生きていないからだ、なんて説諭されるのが落ちだから。こんな「空しさ」が続くくらいなら世界核戦争でも始まればいい、などと自棄的なことを言ってはいけない。まさに空しさそのものである彼彼女らの小言を頂戴するだけだから。その「空しさ」を他人と共有しようとしてもいけない。がいして他人とは、「話せば話すほど自分とは縁遠い存在に思えてくる誰か」なのだから。大なり小なり他人とは軽薄なものなのだ。首を吊ろうかそれともババロアを作ろうか、なんて不条理ポエムをいくら作ったところでその「空しさ」は消えないだろう。「空しさ」を飼いならそうとしてはいけない。

あの赤ん坊がしばらくみないうちに大きくなっているのは気持ちが悪い。
大きくなっていなくても気持ちが悪い。肉から肉が生まれること自体、気持ちが悪い。泣き喚く排泄物。

孤児院で生まれたかった、「不幸な私」にもっと酔えたのに、とひところよく考えたもの。

名前を与えるのは「飼いならし」の第一歩だということ。

「私」と「他人」は明らかに異なっている。「私」はつねに開かれていて、どこまでもその現前性に付きまとわれている。「他人」は「私」のまえを通り過ぎることしか出来ない。

何度考えても、「何かが既にある」というのは驚くべきことだ。なぜ誰もこのことを問題にしないのか。語るに値することほど誰も語ろうとせず、語るに値しないことほど誰もが語りたがる。

私が聖者と聞くと思い浮かべるのは、一日中自室にこもってオナニーだけをしている青年の姿。

「居場所」という言葉にはどこか排他的な暴力性を感じる。

祖先など自己否定し損なった連中に過ぎない。

会話が出来ない、という人がいる。たぶんそういう人は普段ほとんど何も考えておらず、それゆえ考える喜びもしらない。だから人との会話となるともっぱら「続けること」に神経を使っている。「考えながら話す」あるいは「話しながら考える」ということをしない。

中途半端な絶望と倦怠しか知らない凡庸人。

「どうせ死ぬのに」と何も手に付かない人間のほうが本当は「健全」なのだけど、この「世の中」においては、そうした空虚感をほとんど覚えずに日々を送れる人間のほうが「健全」とされている。前者はたいてい矯正の対象となってしまう。

虚無への架け橋。

きつい賃労働のおかげで彼彼女らはものを考えないで済んでいる。絶望を自覚しないで済んでいる。

「空しさ」で溺れ死ぬことに成功した最初の人間を目指すこと。

まずは「前向きな人間」を地上から根絶すること。

人間をもはやそれ以上消化できないのに、胃の腑は人間で一杯という状態――これを称して、人間に倦み飽きたという。人間嫌いとは、あまりに貪欲な人間愛の結果であり、「人間食らい」の結果である。
(F・ニーチェ『喜ばしき知恵』第三書 村井則夫・訳 河出書房新社)

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