「魚河岸十兵衛傳」(仮題)未発表企画・シナリオ。

これも書きたくて描いた物の、さてどこに持って行こうかとしばらく思案していた物なので、もしどなたか気に入っていただき。うちに載せるの検討するよ。というメディア。マンガにしてあげるよ。というマンガ家さんがいらしたら、幸いです。下記までお知らせ下さい。

nabeshi29@jcom.home.ne.jp

masaharu.nabeshima119@gmail.com



「魚河岸十兵衛傳」(仮タイトル)企画書

 現在、築地にある「魚河岸」は1923年の関東大震災で壊滅するまでは日本橋
にありました。これは、徳川家康が江戸開府のさい、現在の大阪の名主、森孫
右衛門一族を呼んで「白魚」の独占漁業権と東京湾での漁業権、江戸城への納
魚を一任したことから、それを一般販売もする「魚河岸」を日本橋で始めたこ
とによります。
 なぜ、そのような特権を、家康が森一族に与えたかと申しますと、家康が伏
見在城の際には御膳魚の調達につとめたり、徳川軍が瀬戸内海や西国の海路を
隠密に通行するときは孫右衛門配下の漁船で運んだり、大坂冬の陣、及び翌元
和元年の同夏の陣では海上を偵察し、軍船を漁船に仕立てて本陣へ報告した
り、と何かと家康に貢献し幇助したらしいのです。
 どうやら森一族は漁民でありながら、一種の海賊、水軍的なものであったら
しく、いわば「海の忍者」とでも言いましょうか。
 その時の貢献に対して家康は、森一族に、江戸湾での特別な特権を与えたの
だと言われています。
 実際に魚河岸には現在でも仲卸の店名に「堺静」など「堺」の名を表したり
関西方面の名前が多く見受けられます。江戸っ子の極みのような魚河岸に面白
いものです。
 また能や歌舞伎との関係性の深さも想像を掻き立てる物があります。
「助六由縁江戸桜」の上演の際は、助六を演じる俳優が魚河岸と吉原を訪れ
小道具の「江戸紫の鉢巻」を贈る慣例は、江戸時代から現代まで続く風習とな
っています。
 
 さて、ここからはそれらの歴史的事実を踏まえましての、私の創作になりま
す。
 日本橋からまっすぐに甲府に向かう甲州街道は、万一、江戸城が攻め落とさ
れた場合、江戸城半蔵門を出て将軍を西へと逃がし、徳川親藩である甲府藩と
甲府城に落ち延び、沿道途中に配された服部半蔵ゆかりの伊賀組・根来組・甲
賀組・青木組(二十五騎組)の鉄砲百人組を率いて警護と江戸城奪還をきする
計画があったと言います。
 それでは一方を海に面し大川があり、水路、運河、縦横に配され海に続いて
いた江戸において海上への同様の非難計画は無かったでしょうか?
 当然、あったのではないか。そしてそれを担っていたのは、海の忍者であっ
た「森一族」から連なる日本橋の「魚河岸の衆(かしのしゅう)」ではなかっ
たかと思われます。
 実際、明治維新のさいに、進軍してきた官軍に対して、さっさと逃げ出した
旗本衆と違い、長年の特権の恩義を返すのは今と徳川びいきであった魚河岸の
衆は、手に手にマグロ包丁や手鉤を持って、前線を張ったそうです。江戸無血
開城のおかげで助かったけれど、さすがに官軍の大砲の前に、全滅を覚悟し
た。と記録に残っています。

 ここからは物語です。
これらの想像の中、何かしらのために侍(旗本、もしくは老中などの家の部屋
住み次男坊とか、妾腹とか)の身分を捨てた主人公が、そうとは(魚河岸の隠
れた任務)知らずに魚河岸の仲卸に婿養子見習いか、もしくは小僧(修行)に
入る。というのはどうでしょう。
 もと侍で剣の腕が立ち、人柄も良い主人公は、魚河岸の衆として魚の修行を
しながらも魚河岸近辺の様々なトラブルを解決していくうちに、プロパーの魚
河岸の衆や統領である二代目である森孫右衛門にも見込まれ、隠密任務も打ち
明けられ、任されていく。
(この秘密が解き明かされる過程が縦軸のミステリーになります)
やがて森孫右衛門の娘にも好かれ、婿養子となって三代目、森孫右衛門になっ
ていくのではないかなぁ? というようなものを漠然と考えております。
形式としては一話完結でありながら縦軸でも引っ張ってく形でしょうか。

日本橋魚河岸もしばしば登場する時代劇には「一心太助」という以前はとても
人気のあったキャラクターと物語がありまして、以下の通りです。
この懐かしいキャラをからめるなどするのも、遊びとしては面白いと思いま
す。
『一心太助(いっしんたすけ)』
江戸時代初期の江戸の魚屋といわれ,講談,小説,戯曲に登場する人物。歌舞
伎では河竹黙阿弥作『芽出 柳緑翠松前 (めだしやなぎみどりのまつまえ) 』
で活躍。義侠心に富み,江戸っ子の典型。「天下の御意見番」旗本・大久保彦
左衛門忠教の愛顧を受けたという。
 

シナリオ
『魚河岸十兵衛傳』第一話
鍋島雅治。

#・旗本、柳生家武家屋敷。
十兵衛「なぜですか父上!」
十兵衛「なぜ、私がお役御免に
ならねばならないのです」
宗矩 「いかに、剣術指南役とはいえ
上様を、ああもコテンパンに
打擲しては当然ではないか」
十兵衛 「しかしお言葉ですが、
剣術の修行とは、そのように
厳しい物でありましょう!
私は父上にそのように
教えられ申した!」
十兵衛 「申し上げたくは御座いませんが・・・」
自分の顔の目の上から頬にいたり縦に走る傷あとを差し、
十兵衛 「六歳の時に父上から賜った
この傷も・・・その厳しさ故・・・・と、」
(柳生十兵衛の世に喧伝される隻眼は、父、宗矩が十兵衛幼少時、稽古時に、
十兵衛の天秤に思わず本気になり、潰してしまった。という説がありますが、
実は隻眼ではなかったという説があります、肖像画では隻眼ではありません。
このお話では隻眼にするか、否か、実は迷っております。要相談。)
宗矩、やや贖罪の意識を持ちながらも、すげなく。
宗矩 「・・・・故に、儂にも幾ばくかの悔恨の情はある。
ものには何事も限度というものが
あると学んだのだ。」
宗矩 「わしも若い頃そうであったが
お前は何事にも、融通が利かぬのだ。
この件、お役御免だけではすまぬぞ
上様のお怒りは、我が一族の行く末。
禍わいをもたらすやもしれぬ。
お前の代わりは上様の覚えめでたい
友矩が勤める」
宗矩 「よって、お前に謹慎、蟄居を命じる!」
宗矩 「しばらくの間、雲隠れしておれ!」
十兵衛 「雲隠れ・・・・と申しましてもどこに?」
宗矩 「安心申せ、ちゃんと『雲』は用意してある」
十兵衛 「雲? とは?」

#・日本橋魚河岸。
人と魚(ザルやもっこす)が行き交う魚河岸の風景。
ナレーション『ここは日本橋魚河岸・・』
『魚河岸は、江戸開闢と同時に開設され、大正の大震災で崩壊し築地に移動す
るまで江戸の中心である日本橋にあった』
ナレ『江戸に日に千両は三つある。と言われ、朝千両が魚河岸、昼千両が歌舞
伎、夜千両が吉原遊郭、一日に千両が飛び交うという繁盛ぶりだった』
そこに、うろうろと、我が身をもてあましきょろきょろする十兵衛の姿。
ドンと後ろから前から魚河岸の軽子(運搬人)や、買い人(天秤棒を担いだ行
商の物)にぶつかられ、怒鳴られる十兵衛。
男たち「どけどけぇ!じゃまだ!」「なにやってんだ!」
憤る十兵衛!
十兵衛「ぶ、無礼者!武士に向かってなんだその言いぐさは!」
と、振り返る鯔背な姿の魚河岸の衆、太ももまでの白股引に、藍半纏の背中に
は「一の魚」のトレードマークに。裾は小紋の波形。捻りはちまき。太助。実
は娘である。十兵衛を見下すように、
太助 「何いきがってやがんだサンピン」
太助 「二本差しが怖くてウナギの蒲焼きが食えるか!
あっちゃ何本も串が刺してあらぁ!」
太助 「いいか、魚河岸じゃあ
人より魚が優先なんだ」
太助 「おれら魚河岸衆はな
上様御用達、江戸城への御納魚を、
一手に任され、運ぶ魚は、
大名行列だってせき止めて
横切る事が許されてんだぜ!」
袖を二の腕までまくしあげると、二の腕に「一心如鏡」の彫り物。
太助 「お前のような浪人者なんかに
一寸だって
下がるものじゃあねぇんだ!」
驚き、気後れする十兵衛。
十兵衛 「そ、そうなのか・・・上様御用達・・・」
(彼にとって徳川家は絶対の物である)
十兵衛 「それは知らなんだ。
作法知らずは儂の方であったか。すまん」
素直な様子に拍子抜けして、太助、裾を下げ、
太助 「なんだ存外、素直なさむれぇだな。」
太助 「だいたいがして侍がよ、、何の用事で
こんなとこに迷い込んで来やがったんだい?」
十兵衛 「それがし魚問屋の魚河岸総領、
森孫右衛門どのを
訪ねてまいったのだが、不案内故、
道に迷うておった、すまんが
あない願えないだろうか」
太助 「なんでぇ、うちに用事かい?」
十兵衛 「えっ?ということは、
そなた、森どののお身内か?」
太助 「ああ!おいら、森孫右衛門の
一人娘で、太助ってんだ」
十兵衛、仰天して、
十兵衛 「娘ご!?えっ!
そなたおなごだったのか!」
太助 「はったおすぞ!こら!」

#・森孫右衛門(2代目)の魚問屋「佃屋(仮)」(注・仮称。何という屋号
だったかまだ分かりません)貫禄のある壮年の大商人である。まさに粋人の
体。
孫右衛門「はいはい。お父上から
お聞きしておりますよ。」
十兵衛 「しばらく世話になる、私は・・・」
孫右衛門「若様、そのお名前は。・・・・
魚河岸(ここ)では捨てていただきます」
孫右衛門「そうですなぁ・・・十助と・・・でも
名乗っていただきましょう」
十兵衛 「と、とうすけであるか・・・・
いかさま町人風ではあるな・・・・・」
以下、十助と表記。
孫右衛門「若様は本来、小田原にて
蟄居している事になっております。
ここにおられることがお上に
知られては一大事」
孫右衛門「魚河岸ではお侍い姿も
お腰の物も目立ちすぎますゆえ
形(なり)も町人に改めていただきます」
刀に目をやり、抵抗を感じながら、
十兵衛 「むむむ、武士の魂までも・・・」
孫右衛門「魚河岸は、あらゆる事情の者が
流れ込んで紛れております」
孫右衛門「人も魚も来る者拒まず。
融通無碍の懐の深さが、
魚河岸の信条で・・・
しばらく雲隠れなさるには
絶好の場所。
最初はとまどうかもしれませんが、
きっと若様、いや十助どのも、
お馴染みになりますよ。」
ちょっと憤慨して、
十兵衛「馴染むほど世話になる
つもりはないがな」
にっこり鷹揚に笑う孫右衛門。

#・佃屋。大店の客間。
鰹縞の刺し子の半纏姿。町人姿ではあるが、髷は侍髷のまま。
刺身で飯を食う。
十兵衛 「これは旨い!」
十兵衛 「初鰹に辛しとは意外であったが、実に合う!
またミョウガにネギに冷えたみそ汁を
かけて冷え汁してもまたたまらん!」
ざざざっとかきこみ。
十兵衛 「ん~たまらん!」

寝そべる十兵衛、こと十助、窓の向こうの江戸城を見上げながら、
十助 「魚が旨いのはありがたいが
稽古もしないでは、毎日退屈でならぬわ」
十助 「いつお城に出仕できるのかのぉ」
と、そこに声がかかる、
太助 「おい!」「居候の唐変木の十助!」
十助 「わ、わしの事か」
太助 「決まってら。ただメシ喰らいも
十日までって言ってなぁ」
太助 「そろそろ仕事をしてもらうよ!」
天秤棒を投げてよこされる十助。思わず受け取る十助。
十助 「お、おお・・・」

#・魚河岸の賑わいを、
太助 「そもそも、俺たち魚河岸の衆はな、
江戸開闢のおり摂津国佃村名主
先代の森孫右衛門が
御神君、家康公直々の
お召しにより移り住んで、
江戸城前、江戸前の海での漁業権と
上様ご献上、江戸城への納魚の
独占お墨付きを賜り
納めた魚の余りを売ることから
ここ日本橋に魚河岸を開いたってぇわけだ」
十助 「ほう、そのような云われがあったのか
ご神君、直々のお召しとは・・・
しかし、なぜ家康公は、森一族に
そのような特別なご配慮と特権を?」
太助 「さぁ、知らねぇよ。
先代のおりに何か家康公の
お助けをしたとか聞いちゃいるが
その恩返しかなんかじゃあねえの?」
十助 「なるほど・・・・・」
考え込む十助。
太助、近くにいるとっぽい若い衆に声をかける。
太助 「おい雅! この新米、おめぇに任せたぜ
魚河岸の仕事と流儀を
しっかりと、たたき込んでやんねぇ」
雅 「へいお嬢、がってん承知だ
おい、若いのなんて名だい?」
十助 「拙者、やぎ・・いや、とうすけだ。
よ、よろしく頼む」
雅 「おう!十助とやら、ついてきな!」

#・はしけから、天秤棒を担ぎ、魚の荷揚げをする十助。
揺れるはしけから海に落っこちる。がぼがぼと溺れる。
あきれる雅。
#・細い魚河岸用の荷車である小車を引いて、魚河岸の中を迷い、きょろきょ
ろと見回す十助。
雅 「こらこら!
どこいってたんでぇお前は!」
十助 「すまん。また道に迷うてしもうた」
雅 「荷揚げもダメ。軽子もダメ。
おまけに泳げねぇと来ている
お前にはまったく取り柄ってもんが
ねぇのかい!まったくよぉ~」
十助 「面目ない…」
はしけから江戸城を見上げ、ため息をつく十助。

#・板場。シュシュと包丁をひらめかす十助。
十助 「いやぁ!や!や!」
シュパシュパ!見事な刺身ができあがる。
のぞき込む雅。感心して。
雅 「ほぉ、他はからきし役に立たねぇが、
包丁使うのだけはなかなか
筋がいいじゃねぇか?」
十助 「まぁ、同じ刃物だからかのぉ?」
雅 「はぁ?」
十助 「いや、なんでもない」
江戸城を見上げ、独り言。
十助 「やれやれ、天下の直参旗本、
大名並たる身が
ここまで身をやつそうとはなぁ」
バンと顔に魚を投げつけられる十助。
雅 「ぐずぐずすんねぇ!
山ほど魚はあるんだ!
次々サバかねぇと腐っちまうぞ!」
十助 「へいへい」

#・魚河岸の魚倉(漆喰壁の倉庫が立ちならぶ)のあたり。
太助 「まったく、おかしな奴だなぁ」
と、声がかかる。
声 「よぉ!森のお嬢よ」
振り返ると、仲間を引き連れた風体の悪い町人。
太助 「こりゃ本小田原町の
大和屋助五郎さん、
なんかご用ですか?
もっともこっちゃあ
何の用も
ございませんがね」
大和屋 「相変わらずつれねぇなぁ、
なぁ、おれはこんだけ
あんたに惚れて
口説いてんだ。
いい加減に、
俺の物にゃあならねぇか?」
太助 「惚れただと、おきゃあがれ」
太助 「お前が狙ってるのは
森孫右衛門とあたしら摂津派の持ってる
お上御用達の独占漁業権だってぇ
こたぁ分かってんだ」
太助 「それに、何よりおいら、
男ってぇもんが大嫌いでねぇ」
太助 「よけいな物ぶらさげてるてぇだけで
威張りゃがって」
太助 「アタシは、金輪際、誰の嫁にも
行くなんてなまっぴらなんだ
おとといきやがれ!」
大和屋 「やれやれ・・・森の大旦那も
ご苦労なことだ
こんな跳ねっ返りが一人娘とは
それじゃあ跡取りもできやぁしめぇ」
ずらっと若い衆が太助を取り囲む、にやにやとイヤらしく笑いながら。
太助を絡め取る男たち。
太助 「何しやがんでぇ手を離せ!」
苦渋の表情の太助のおとがいを押し上げ、
大和屋 「おいらが種をつけやるよ」

#・魚河岸
雅と十助のところに飛び込んでくる若い衆。
若い衆「た、大変だ!雅のあにぃ!」
若い衆「お嬢が!大和屋の連中にかどわかされた!」
雅 「なんだって!?」
顔を見合わせ駆け出す雅と十助。

#・倉の中、
半纏を脱がされ、さらし一つになって転がされる太助。
にやにやと見下ろす若い衆。
大和屋 「どんなに男勝りでも、
てめぇが女だって事を
いやってほど思い知らせてやる」
服を脱ぐ大和屋。
外から、声がする。
声 「て、てめぇ何しやがる!うわっ」
がらっと戸を開けて入ってくる十助。天秤棒を持った雅。
太助 「と、とうすけ!」
大和屋 「見ねぇ顔だが、てめぇ何者だ?」
十助 「佃屋の食客で、十助と申すもの
太助どのを返してもらおう
でないと、貴殿ら、えらいめに合うぞ」
大和屋 「しゃらくせぇ
お前、この人数に
勝てると思ってんのか?」
大和屋 「かたづけちまえ!」
一斉に飛びかかる若い衆を、右に左に投げ散らし、打ち倒す十助。
大和屋 「くそう」
腰に一本差しのダンビラを抜いて、
大和屋 「こちとらな、町民ながら
道場じゃあ一刀流免許皆伝の腕前だ
覚悟しな!」
ぴゅっ!ぴゆっと刀が降りかかる。危ういとこで一寸の見切りで
これをかわす十助。
雅 「ちくしょう!」
天秤棒で対抗しようとするが、跳ね返され斬られる雅。
太助 「雅、十助!逃げな!」
上段から振りかぶり切り下ろす刀を、拝み取りに挟んで止める十助。
大和屋 「な!なに!」
十助 「これぞ、新陰流、柳生の極意、無刀どり!」
刀をもぎ取る。大和屋につきつけ、
十助 「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。
しかるに、一人の悪を殺して万人をいかす。
是等、誠に、人を殺す刀は、
人を生かす剣なるべきにや…」
十助 「よって柳生の剣は活人剣!
世のため人のため悪は斬る!」
刀を大和屋に振り下ろす十助。
十助 「天誅!」
大和屋 「ひぃいいい!」
太助 「やめな!十助!」
ピタリと、大和屋の頭上寸前で刀を止める十助
太助 「魚河岸での喧嘩は日常茶飯事だが、
そこらじゅうに包丁があるから
危なくてならねぇ。
だから刃物だけは使わないのが掟。
命までは取らないのが掟なんだ」
大和屋をにらみつけ、ペッとつばを吐きながら、
太助 「たとえ相手がどんな下司野郎でもね」
十助 「左様か・・・にっくき奴なれど
掟ならばやむなし」
刀を大和屋に放る十助。
大和屋 「ばかめ!」「やろうどもかかれ!」
刀を取り、斬りかかる大和屋。
雅の落とした天秤棒を手にする十助。

間。

こてんぱんに打ち負かされた大和屋の衆、手足を押さえながら、呻いたりもが
いたりしながらのたうちまわっている。
ナレ 『後の新陰流の、柳生に
柳生十兵衛が考案した
活殺自在の十兵衛杖と言われる
武器と棒術が残されている・・・」
刀を持ったまま壁際で震えている大和屋。
十助 「外道!打擲!」
大和屋を打ち倒す十助。

#・夕暮れ。魚河岸、海を見ながら、
太助と十助
太助 「アンタ、強いんだね」
十助 「当然だ・・・
生まれてからずっと
剣の道しか知らぬのだからな」
太助 「ふぅん、かわいそうな人だねぇ」
十助 「かわいそう?儂が?・・・・
ふむ。かわいそうか」
太助 「かわいそうさ。
アンタ、うちに来るまで、
本当に旨い魚、食ったこと
なかったろ?
それだけでかわいそうさ」
十助 「確かにな・・・・・」
太助 「あたしゃね
男も嫌いだが
侍は特に大嫌いなんだ。
人殺しの、やっとうの技ばっか
磨きやがって
こちとら同じ刃物の包丁で
魚を殺生はしても、
それを人様の生きる
糧にするのが商売。
活計(たづき)の道にしてんだ」
太助 「アンタとアタシじゃ、
生きる道はまるきり逆なんだよ」
十助 「そうか・・・・・
儂はそうとばかりでは
ないような気がするがな・・・」
夕日に、照らされ、にっこりと爽やかに微笑む十助。
十助 「少なくとも、儂は気に入った
魚河岸も魚河岸の衆も・・
そなたもな!」
顔を赤らめる太助。
太助 「ば!ばっきゃろう!
お、おきゃあがれ!」

#・「佃屋」
十助の侍髷を結い直す雅。
太助 「ほう、なかなか
鯔背髷も見合うじゃねぇか。」
十助 「そ、そうか?
儂もこれで魚河岸の男かのぉ?」
魚の市の半纏を着る十助。襟に「佃屋(仮の森の屋号)」
太助 「へん!十年早いや!」
十助 「魚も旨いし、
もうしばらく、世話になるか・・・」
髷を撫でながら、江戸城を見上げる十助。
今日は晴れやかな笑顔。

#・江戸城
魚河岸を見下ろす父、宗矩。その後ろに、シュタッと舞い降りる忍者装束の森
孫右衛門。
宗矩 「森孫右衛門か・・・」
孫右衛門「若様には、魚河岸の本来の姿、
若様に課せられたお役目は、
いつお知らせしましょう?」
宗矩 「奴のことだ。きっと自ら魚河岸で
何かに気づくだろう」
宗矩 「それからで良い」
孫右衛門「はっ。しかし、今朝ほど届いた西からの魚の
報告(しらせ)では、さほど猶予はございません」
孫右衛門「場合によってはこのお江戸、
いや日の本中が再び戦乱の世に
逆戻りせぬやもしれません・・・・」
宗矩 「むぅ。」
魚河岸を見下ろす苦渋の顔の宗矩
宗矩 『頼むぞ…十兵衛…』

#・魚河岸
働く十助、太助、雅。十助は頼りなく天秤棒をかつぎ、ヨロヨロ。
ナレ 『柳生宗矩の嫡子、十兵衛三厳は宗矩と共に
三代将軍徳川家光の剣術指南役を
務めていたが、家光の不興をこうむり小田原に蟄居』
そ海に落ちて溺れる十助。
十助 「た!太助どの!雅どの助けてくれ!」
それを笑う雅と太助。
ナレ 『その後、小田原を出奔して以来、
再出仕を許されるまでの十二年間、
どこでどのように
過ごしたのか、定かではない・・・』

終わり

注・
本小田原町に魚問屋を興した大和桜井出身の大和屋助五郎は,森一族と対抗し
ながら魚河岸の覇権を争った。

17世紀は1601年から1700年まで。

1590年 魚河岸開設
1603年 江戸幕府開闢

1604年 徳川 家光(とくがわ いえみつ)誕生
慶長9年7月17日(1604年8月12日)第3代将軍(在職:1623 - 1651)

1607年 柳生十兵衛生まれる
1617年 元和3年(1617吉原開設。

1927年 十兵衛20歳。家光の不興をかい蟄居。
以降、12年間行方不明。この時、家光ば23歳。三つ年上ですでに将軍職
理由は諸説あり。十兵衛は既に父とともに家光の指南を務めていた。

1629年 寛永6年伊勢の海士船の鮑漁や
1952年 承応年間(1652~54)紀州の漁民が房州の浦々に出漁した記録が
残されている。魚河岸に新勢力が流入して混沌となる。競合抗争が起きる。
1939年 十兵、再び現れる。
1646年 むねのり死去。

寛永15年(1638年)再出仕。
正保3年(1646年)父宗矩が死去

その後、十兵衛、役目を辞して柳生庄に引き篭もったとも見られるが詳細は不
明。
1650年 慶安3年、鷹狩りのため出かけた先の弓淵(早世した弟友矩の旧
領)で急死[注 11]。享年44。奈良奉行・中坊長兵衛が検死を行い、村人達も
尋問を受けたが死因は明らかにならないまま[注 12]、柳生の中宮寺に埋葬。

1662年 森孫右衛門(1662年)没。(死んだと見せかけて実はこちらが本
当の十兵衛だったとか。)

元禄
元禄(げんろく、旧字体では元祿)は、日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の
前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕
府将軍は徳川綱吉。

当初は魚河岸の中のイザコザ抗争や、江戸市中の事件を解決していく。
やがて縦筋として、魚河岸の「海の忍者」としての任務も果たしていく。

ラスボス候補。
★駿府城主徳川大納言忠長
1603年 慶長11年、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男として江戸城西の
丸にて生まれる。
1963年 寛永10年12月6日、幕命により高崎の大信寺において自刃。
寛永6年(1629年)の駿府城御前試合を絡めても。

★徳川義直
通称 尾張大納言
時代 江戸時代前期
1601年 生誕 慶長5年11月28日(1601年1月2日)
1650年 死没 慶安3年5月7日(1650年6月5日)
江戸時代初期の大名。徳川家康の九男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始
祖である。新陰流第4世。
義直は「家康の実子」としてのプライドが高く、また物事の筋目を重んじる堅
物な性格であり、たびたび甥の3代将軍徳川家光と衝突した。権現様の実子で
あることを看板とする義直は「生まれながらの将軍」であり、祖父である家康
を強烈に意識していたとされる家光には目の上の瘤であったとされる。

1634年  永11年(1634年)、家光が病床に伏した際、義直は大軍を率い
て江戸に向かい、幕閣のみならず家光をも慌てさせた。
「御三家筆頭として自身の将軍職相続を確実にするために、武力をもって江戸
を制圧することで、武門の長たる将軍後継らしい態度と実力を示し、徳川家内
外からの異論を挟ませないための行動」とする説もある。
柳生利厳より新陰流剣術を学び、利厳より流儀を継承して新陰流第4世宗家と
なった。

参照。
魚河岸の創始者とされる森孫右衛門について調べてみると、ある不思議な記述
に行きあたります。かれの生没年についての謎です。築地本願寺に残っている
墓碑には、寛文二年
(1662年)没とあり、故郷の摂津佃村で九十四歳の長寿をまっとうしたことに
なっています。そこから逆算すれば、孫右衛門は永禄十二年(1569年)の生ま
れ。すると家康が多田の住吉神社へ参詣し、そこではじめて孫右衛門と会った
とされる天正十年(1582年)の時点では、かれはわずか十四歳にしかなってな
いことになります。いくらなんでも家康に謁見するには若すぎるようです。一
方、『紀要』の家康との出会いを三十五歳とする方をとるなら、寛文二年には
実に百十五歳となり、これもなかなか考えにくいことになります。
 この疑問について『日本橋魚市場の歴史』(以下『歴史』と略す)では、実
は二人の森孫右衛門が存在したと推理しています。二人は父子で、天正十年に
家康に会ったのは父孫右衛門の方。おそらく当時三十五歳前後で、子はまだ幼
名でした。その後、江戸に渡った孫右衛門は子の方であったとしています。孫
右衛門は庄屋としての名を世襲しますので、こうしたことは珍しくはありませ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?