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算命学余話 #G34 「幼い命は救えたか」/バックナンバー

 前回まで二回に亘りコロナ禍考を綴ったところ、意外にも好評でした。前編を読んだ読者が興味を覚えず後編を読まないかもと危惧しておりましたが、ちゃんと両方読んでもらえたようです。有難いことです。ちなみに、コロナ禍考は最初は一回読切りのつもりで書いていたのですが、一万字を超えたので二回に分けました。だから内容はひと続きのものとなっております。
 『算命学余話』は、最近では算命学の鑑定技法よりも思想的展開を書いた方が多くの読者に読んでもらえるのですが、筆者としてはテーマ選びが悩みどころとなっています。シリーズとして連載できる鑑定技法の解説は、内容が決まっているので書きやすいですが単調になりがちで、書いている方も続けて書くと退屈します。きっと読者も同じでしょう。だから思想の話を適度に挟むのですが、これはタイムリーな時事ネタなどとリンクさせないと説得力が得られず、机上の空論風に終わってしまうので、そうならないよう書こうとするとネタ選びに苦心します。いずれにせよ、思想的なテーマは多かれ少なかれ小難しい話になるので、読者が好んで読んでくれることは嬉しいです。

 前回の話にかぶりますが、宝塚音楽学校の奇妙な風習がコロナのお蔭で廃止されたエピソードに似た話が、築地本願寺にも見つかりました。このお寺は宝塚歌劇よりも遥かに古い歴史を持つ古刹で、宗教という性質上その伝統の重みも計り知れませんが、コロナ以前からの取組みによって同様に「要らない」伝統を捨て、装いを一新しています。
 お寺と言えば法事くらいしか思い浮かばない現代人のお寺離れを食い止めるべく、五年前にやり手の元銀行マンを招いて経営を任せたところ、事務所はIT化、法事はリモート化、敷地内にはおしゃれな寺カフェをオープンしてインスタ映えするメニューを提供という今どきリニューアルを断行し、見事、人集めに成功したそうです。信者を増やすというよりは、一般の若者や働き手が敬遠しがちな敷居を取り払うのが狙いで、思惑通りお寺の古臭いイメージを刷新したのでした。
 IT化された事務所で働くお坊さんたちは髪の毛がフサフサ。これは開祖親鸞に倣った上での刷新であり、そもそも坊主が坊主頭でなければならないという決まりは後から生じた風習であって、親鸞以来の伝統ではなかったそうです。剃髪の由来は、修行中の坊主の髪が長いと煩悩に繋がるからというもので、修行を終え僧侶となったならもう煩悩は制御されているはずだから髪を伸ばしても問題はない。こういう理屈だそうです。事実、チベット仏教の高僧はロン毛が多く、ダライ・ラマが剃髪だから皆剃髪というイメージが広がったに過ぎないのだと。
 こうして頭フサフサのお坊さんたちはパソコンに向かって檀家管理をし、リモート画面で法事を行い、仕事が早く上がるので、余った時間と余力を市民の心の相談やカフェ運営に回すことができる。築地本願寺は現代を生き残って未来に繋げるために、見せかけだった不要な伝統ごとを排除して、現代社会と足並みを揃えたわけです。こうした刷新はコロナ禍の諸現象として至る所に見られるという話は、前回した通りです。コロナには大いに効用がある。

 何事にもいい面と悪い面があるものです。算命学の陰陽思想は、こうした一見して悪者と思われる現象にも役立つ効果があることを語っています。物事には二面性があり、更に進めれば多面性がある。世の中はたった一つの価値観で動いてはいないので、これをたった一つの価値観で判断してもいけないのです。
 今回の余話は、そんな二面性や多面性に関連したある宿命の読み方について解説してみます。この宿命は、数年前に事件として報道された育児放棄餓死事件の被害者のものです。死亡推定年齢は五歳でした。算命学は、虐待であろうと事故であろうと病死であろうと、小さな子供が死に至る主原因は親にあると断言しています。それはその親が人でなしであるという意味では必ずしもなく、いい親であってもそうなのです。運勢的な原因は親にある、という判断基準に基づく見立てであり、道徳的にどうだとかは算命学では問題にしません。こうした算命学特有の突き放した物の見方は鑑定者には必須ですので、今回はその辺りを鑑定技術を交えて論じてみます。

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