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算命学余話 #G40 「十大主星に見る性差」/バックナンバー

 今回の算命学余話は、男女の性差について算命学の立場から論じます。というのも、私が常々胡散臭いと鼻白んでいる西洋文明が躍起になって広めようとしている男女平等思想というものが、算命学の是とするところの自然思想に著しく反しているからです。
 西洋文明の思想的根幹であるキリスト教つまり一神教の教典には、女性は男性のあばら骨から生まれたという記述があります。こうした記述のある教典を信奉することによって生まれた女性軽視が長らく居座った歴史の上に立つ西洋人なり一神教徒なりが、その反動として男女平等思想を声高に唱えることで免罪 されたがるのは、当地の歴史における男女差別のバランスを取るためにやむを得ないかもしれません。しかし一神教と無関係に歴史を積み上げてきた東洋思想の民にとってはあずかり知らぬところで、彼らと一緒になって贖罪しなければならない罪状はないし、ましてや同じ思想を強要される謂れは毛頭ありません。

 少なくとも日本の歴史には、一神教的男女差別は存在しませんでした。周知の通り、神道の太陽神は女神ですし、この国が国際的に最初に承認された時は女王が君臨していましたし、その後も中継ぎとはいえ女帝を何度も輩出していることからも、「女性は男性のあばら骨から生まれた」などという思想とは遠くかけ離れた世界観で成り立っている国だということは容易に知れます。
 無論、武力がものを言った武家時代には、女子よりも戦闘に長けた男子が重宝されましたが、そこから生じた日本的男尊女卑は一神教のそれとは比較にならないほど浅いですし、また武家やそれを模倣した豪農が相続のために長子としての男子を重んじた一方、相続するもののない一般庶民の間に制度的な男女差別はなく、恋愛や離婚も自由意思かつ自己責任でした。日本の歴史においては、高貴な身分の者ほど規則が厳しく不自由で、下っ端のド庶民ほど自由を謳歌できたのです。その一例であるお見合い結婚は、お武家などの格式あるお宅の風習であり、庶民は盆踊りの帰りに神社の裏の茂みで婚姻が成立しても、何ら咎められることはありませんでした。
 庶民=貧困層=不幸という図式は、一神教世界には当てはまっても、日本には当てはまらなかった。そしてその様相は、算命学の自然思想に概ね合致している。だから欧化政策以前の日本人の生活には大きな齟齬がなかった。江戸時代に大成していた、ゴミを出さない循環型経済体系も然りです。これが狂い始めるのは、明治維新後の思想的欧化が原因です。

 さてそんな我が国が属する東洋思想の世界においては、男女の性差とは陰陽の差に他なりません。女性は男性のあばら骨から生まれるはずもなく、男子も女子も漏れなく女性の子宮から生まれるのです。そして子供を出産した瞬間から(死産であっても)女性は母になりますが、男性は必ずしも父にはならない。なぜなら父親になるためには妻との婚姻が必要で、上述の通り庶民は今も昔もしばしば正式な婚姻をせずに子を産むものだからです。
 算命学はこういうところは見逃しません。儒教では結婚しない男女の間にできた子を「犬のように生まれた」と蔑むようですが、同じ東洋思想として肩を並べる算命学や儒教にとって、婚姻なしに生まれた子供は一律「馬の骨」だというわけです。未婚のシングルマザーがカッコイイとか言っている人種は、自分自身が馬の骨や犬の子だということを認めたくない負け惜しみだ、というのが算命学の見解です。さすがは算命学です。コロナで老人が死ぬのを腕組みして眺めるほどの、冷たい肝が据わっています(『算命学余話#G32~G33』参照)。

 というわけで、性差を無視した男女平等思想に背を向ける算命学の考える男女の性差とは、陰陽の差のことであり、陰陽に優劣はないと言ってもその作用には差がある。この点は正しく区別しなければなりません。とはいえ難しく考えることではありません。どんなに心と体の性が不一致だろうとも、性転換手術を受けようとも、男性は出産できないし、女性は精子が作れない。それだけ判っていれば十分です。
 ではなぜ子供が生まれただけで女性は母になるのに、男性は父にはならないのか。婚姻は社会的行為であって生理的行為とは無関係ではないのか。なぜオカマはオナベより圧倒的に数が多いのか。数の多いオカマはなぜ少ないオナベよりキモチワルイと言われるのか。等々が、算命学的陰陽の差によって解決される問題なのですが、全てを解決しようとするとキリがなくなるので、今回は十大主星からの視点に限定して紐解いてみます。昔の『余話』(#U89、 #U112等)でも取り上げた記憶がありますが、少しアプローチを変えてみます。

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