社会学の社会学

タイトルに社会学とつけているのはなぜかというと、社会学という概念が好きだからである。

社会学とは何なのかを聞かれても、定義は非常に難しく、社会学者によっても曖昧なものなのだ。
社会で起こっている事象について分析して研究すれば社会学を言わざるを得ない。

そして逆に、これは社会学ではない、というのも非常に難しいことなのである。
単なる感想、批判、疑問も社会学とは呼べないにしても、社会学の種ではあるのである。

社会学を大学で学ぶ価値とは、「何でもないことを学問的に考える思考」の概念を持ちながら人生を生きられるということにあるのではないかと考えている。

もちろん社会学部を出たからといって、全員そんなことを考えながら生きているわけではない。
その概念を熱心に持ちながら生きている社会学部の学生(卒業生)はどういうやつなのか。

基本的に世の中を俯瞰から見たり斜めから見る学問なので、大学入学の時点で、人と違う学問を学びたい、何やってるか分かりにくいことを勉強したい、と、ひねくれて社会学部に入った人たちはずっと人生で社会学マインドを持ち続けて生きていく気がするのだ。
逆に楽そうだから、といって入学した人たちはあまり何も得ず卒業していく印象がある。

僕は学者でもなければ深く社会学を勉強した訳でもないが、結局社会学を好きになったのはひねくれているからであり、学生時代にそんなに勉強せず大人になって学びたいと言い出すのも意識が高いのではなく、ただひねくれているだけなのである。

ひねくれている人は社会学に向いていると思う。

僕が伝えたい、社会学の魅力。
社会学は過去の事例や世の中の動きを読み解き、未来の社会を予測したり提言したりする学問なのだが、要は「せんでもええこと」なのである。
法律みたいに決めとかなあかんことでもなければ、工学みたいに新しいものを作る訳でもない。

「待っといたら未来なんか来るしお前がわざわざ予測せんでもええねん」「そうなったからどやねん」「とやかく言わんと今を一生懸命生きろ」「とりあえずさっさとお風呂入りなさい」と言われるようなことを、調査したり、勝手に分析して読み取ったりして、かしこまって喋るという無駄さが面白くて素晴らしいのである。

社会学は生涯学問だと思っている。
いらんことを考えるという思考環境を脳内に持ち続けて生きていく。
ひねくれがなくなったら世の中への関心、疑問も薄くなっていく。そんな中でできる限り歳をとってもひねくれて社会学とか言い続けていたい。老人ホームに入っても、「社会学的には」とか、嫌われない程度に言っていきたい。

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