「テセウスの船」について考えてみた

とある配信で、思考実験の一つである「テセウスの船」について考える機会があった。思考実験とは頭の中で考える実験のこと。特に有名なのが「トロッコ問題」とか。今回は、以前の自分の配信を振り返りながら「テセウスの船」について考えていきたい。

テセウスの船とは

アテネの人々は、英雄「テセウス」が乗っていた船を大事に保存していた。しかし、時間の経過とともにその船は劣化していく。そこで、朽ちた船のパーツを都度新たなパーツに置き換えることでテセウスの船を保っていた。

ここで生じる疑問は、テセウスの船のすべてのパーツを入れ替えたとき、それはテセウスの船と言えるのかということである。

テセウスの船について以前の配信で考えたこと

「テセウスの船」について以前の配信で話していた内容をとりあえずまとめてみる。

  1. まず、すべてのパーツを入れ替えたときそれをテセウスの船と言えるのか?
    →徐々に入れ替えていったと考えると、元の船つまりテセウスの船と言って良い気がする。

  2. 船を構成する物質が変わったとしてもそれはテセウスの船なのか?
    →人間の細胞も生まれた時と同じではないし、新陳代謝と考えれば同じかもしれない。

  3. では、テセウスの船がテセウスの船たる決め手は何?
    →存在しないけど、魂的なものを見出してる気がする。本当かどうかはともかくとしてそう思ってしまう。

  4. すべてのパーツが入れ替わったテセウスの船と、取り去ったパーツを使ってテセウスの船を作った場合、どちらがテセウスの船か?
    →その場合、どちらかを偽物と定義したくない。どちらもテセウスの船だと思ってしまう。そう思いたい。結局は認識の問題で、周りの人がテセウスの船とみなし続ける限りそれはテセウスの船なのではないか。認識は個人に依存するので、ある人は新しいテセウスの船、古いテセウスの船と定義し、またある人はテセウスの船とテセウスの船じゃないものと定義するかもしれない。そういえば、秘伝のタレも創業当初とは構成成分は変わってるだろうけど店主が秘伝のタレと言えば秘伝のタレだよね……?

テセウスの船について再考する

配信を見返してみたら、言いたいことを割と全部言ってくれているような気がしてきた。まあ自分の言っていることだから当然なんですが。
とりあえず、以前の内容を深めたり深めなかったり、そこから派生して考えたことについて書いてみる。

1に関して
すべてのパーツを入れ替てもなおテセウスの船とみなすためには、パーツが”徐々に”入れ替えられていくというのが大事な気がする。ここは割と感覚の問題ですよね。

2、3に関して
以前の配信で話したことを踏まえると、私は中身(魂?)が大切で構成要素(肉体?)はそこまで大事じゃないと思っているのかもしれないですね。

4に関して
配信でゲームをやっている中で偽物とは何かを考える機会があって感じたのですが、私は”偽物”を”偽物”とみなすことに抵抗があるタイプの人間みたいです。テセウスの船に意思はないけれど、もし意思があるとすればどちらもテセウスの船でいいよ、と思ってしまいます。

ふと、「テセウスの船」と似たような問題は、将来的に再生医療によって我々人間でも起きるのではないかなと思った。
現在の技術では、例えば網膜とか脊髄とか薄い(厚みのない)ものしか作ることはできないが、将来的には臓器を作ることが可能になるかもしれない。その場合、どの部品(=臓器)を入れ替えるところまで私は私なんでしょうね?テセウスの船と違って入れ替えられる部品が自分の細胞由来のものであっても、外で培養されて作られた臓器を入れた私は本当に私なのか?とかを考えてしまった。

「テセウスの船」について考えたというよりは、とりとめもなく書いてしまった。思考実験というよりは自己分析に近い形になってしまったかもしれない。
機会があれば、皆さんの思うテセウスの船について聞かせてくださいね。




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