にんげんっていいなに関する考察

 幼少の頃より筆者を悩ませる、ある難問がある。それは、にんげんっていいなにおける、くまの子が見ていたかくれんぼのルールである。

1 何が謎なのか

 まず、かくれんぼに公式ルールというものは存在しないが一般的な遊び方を振り返ってみよう。

遊び方(日本スポーツ協会HPより引用)
❶オニを1人決める。
❷オニの「もう、いいかい?」に対して、子は「ま~だだよ」と応えながら、物陰に隠れる。
❸オニは隠れている子どもをみつけ「○○ちゃん、みつけた」と言う。
❹隠れた子を全員みつけたらオニの勝ちで、最初にみつかった子とオニを交代する。
❺全員みつけることができずにオニが降参したら、最初からやり直す。

 つまり、端的に言えばオニの勝利条件は見つけることであり、オニ以外の勝利条件は見つからないことである。至ってシンプルなルールであり、読者諸君も馴染みがあるのではないだろうか。
 ここでくまの子見ていたかくれんぼ(以下、くまの子かくれんぼとする) へ話を戻す。にんげんっていいなの当該部分の歌詞はこうである。

「くまの子見ていたかくれんぼ お尻を出した子一等賞」
 
 まず、かくれんぼのルール上お尻を出すことに関する記述は見受けられない。では、お尻を出した子を文字通り頭隠して尻隠さずな状態と解釈するとどうだろう。一般的なかくれんぼであれば間違いなくこの状態は隠れている側の敗北であろう。
 しかし、くまの子かくれんぼでは一等賞であるとのたまう。かくれんぼにランキングがあるかどうかはさておき、見つかった時点でオニの勝利であり、少なくとも一等賞と呼べるものではない。
  つまり、敗北者が勝利者となってしまう。まさに謎である。

2 二つの仮説

 くまの子かくれんぼの解釈の仕方として、相反する二つの仮説が建てられる。 

 第1 くまの子かくれんぼは一般的なかくれんぼと同じルールであるとする仮説。これを同ルール仮説と呼称する。
 第2 くまの子かくれんぼは一般的なかくれんぼと異なるルールであるとする仮説。これを異ルール仮説と呼称する。

 そして、歌詞の言葉に誤用が無いということを全ての解釈の共通の前提とする。
 まず、同ルール仮説の場合どういう解釈になるだろうか。同ルールであるから、前述の通りお尻を出した子は間違いなく発見され敗北しただろう、つまり客観的には一等賞ではない。
 ゆとり教育から脱却して久しいが、順位というものは必ずしも客観的にだけつけられるものではない。例えば親にとってはたとえ出来が悪かったとしても我が子が1番かわいいと思うこともあるだろうし、世間的には美男美女じゃなくても自分の恋人を美しい、かっこいいと思うこともあるだろう。人は所詮、主観に左右される生き物であり、そこがまた愛しいのである。
 つまり、お尻を出した子が獲得した一等賞も主観的な一等賞なのではないだろうか。
 では、誰の主観か。慧眼な読者諸君はお気づきだろうがこのかくれんぼを見ていたのは「くまの子」である。そう、この一等賞はくまの子の主観のなかの一等賞なのである。くまの子は我が子を見つめる母のような優しく慈愛に満ちた目で、あるいは恋人を見つめるような愛しさに溢れた目で、お尻を出した子を見つめていたのではないだろうか。
 つまり、「お尻を出した子(だけれども、私の中では)一等賞」という解釈になる。なんともハートフルな話である。
 問題は異ルール仮説に基づく解釈である。異なるルールだとするとくまの子かくれんぼがどのような競技なのかを出来る限り詳細に考察する必要がある。
 また、この歌詞にはお尻を出した子のあとに接続詞や助詞が一切無く、そこを埋めることが必要である。
 よって、次の三つの場合に分けて検討する。

①お尻を出すことが勝利条件である、または有利に働く場合
  つまり、「お尻を出した子(だから)一等賞」という解釈である。この場合考えられる競技はどんなものがあるだろうか。
 まず考えられるのはタイムアタックだろう。文字通りお尻を出す、つまり臀部を露出する速さを競う。お尻を出すことが勝利の最低条件である競技である。
 次に考えられるのは身体のどこかしらの部位を露出し、その得点を競うものだ。出す部位や出し方の芸術性が求められるのかもしれない。局部や乳房を出した子もいるかもしれないが今回はお尻を出した子が優勝したと考えられる。お尻を出すことが勝利に有利に働いた場合である。
 いずれにしても露出する競技であるのに競技名がかくれんぼとはなんとも皮肉である。

②お尻を出すことが勝利と何ら関係ない場合
 この場合、競技の特定は不可能である。お尻を出した子は優勝者の特徴を述べているにすぎず、何らかの競技で優勝したのはお尻を出した子であったという解釈となる。

③お尻を出すことが勝利に不利に働く場合
 つまり、お尻を出した子(だけど)一等賞という解釈となる。この場合も競技の詳細な特定は不可能である。少なくとも臀部を露出するとなんらかの減点やマイナス効果を生じる競技であるということ以外一切不明である。

3 どちらの仮説が正しいのか

 ではどちらの仮説が正しいのか。すんなりと文理解釈出来るのは同ルール仮説であろう。
 しかし、それで正しいと決めつけるのは早計であると筆者は考える。かくれんぼをしているのは動物達であり、我々人間とは異なる常識を持っているかもしれない。
 結局のところ歌詞から得られる情報が少な過ぎて決定打を欠いている状態なのである。検討を進めるプロセスを示すことが出来た点で本書はある程度有用かもしれない、しかし結論を出すには後続の研究に期待するほかない。

4 おわりに

  結局、結論を出せなかったことを深く陳謝したい。そして、ここまで読み進めてくれた奇特な貴方に感謝を申し上げる。
 我々、人間は公共の場でおいそれとお尻を出すと刑事罰や社会的な制裁を受けかねない。それは、人の社会規範がお尻を出すことを許容しないと決めたからである。
 確かに人間社会は発展を遂げ、文明や文化のレベルは大幅に向上し、現状、地球の生命の頂点を自負しているだろう。
 一方でその発展は地球環境を破壊し、社会生活や文化を変容させるとともに新たな問題を生み出した。
 本当ににんげんっていいのだろうか。本来、生物の本分は生きることであるはずだ。しかし、複雑化した社会はただ生きることを許さず、極端な上昇志向や人との比較は嫉妬や怨嗟、無気力を引き起こし、自ら命を絶つ者まで存在する。 
 本当ににんげんっていいのだろうか。お尻を出すことを許容するくらいの寛容さがあった方が生きやすいのではないだろうか。 
 にんげんっていいなは動物の視点から我々にそういった疑問を投げかけているのかもしれない。
 知恵の実を食べて以来、我々は衣服と一緒にくだらないエゴやプライドも身に纏ってしまったのではないだろうか。世界は案外シンプルで美しいのかもしれない。
 たまには貴方もそんな想いにふけりながらお尻を出してみてはいかがだろうか。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?