世界に名だたる『〜』を『〜』たらしめるのは『〜』である。


もはや『〜』の中には何が入ってもいい。
万物の関連性はそれぞれの根源に宿る。

例えば男を女たらしめるものがカマキリだっていい。
カマキリを鉄たらしめるものがナトリウムだっていい。

世界に名だたるものとはもはや
それそのものでなくても良い、
それは絶対的な象徴でありさえすれば良いのだ。
どういうことかと言うと
例えば私と言う人間を他者が評価する上でそれぞれその私と言う像は違う、
家族、兄弟、肉親、知人、友人、同僚それぞれに見せる私の像全て違う、評価の程は程々千差万別だといえる。
これは全てにおいて言えることだとも言える。
私がみてる誰かも、それそのものであると言う保証はどこにも無く、あくまでも私の認識の中というわけだ。
勿論私はその他の動物でもなく、石などや鉱物でも、国でも宗教でも風習でも無い。
このことから考えると、やはりこの世界に名だたる『〜』というものには何ら具体性もなく、定義される事すら危ういのだ。
例えばそれが海だとしよう、
海に対しては大まかには陸なのだろうが、
海を定義するにあたり、陸の概念がもし存在しなければ、今の海の概念も危ういものだと言える。

ようは常にそれでない何かの定義を前提とし成り立つ
その本質ですら原因と結果により裏付けられるからにはそれそのものをそれといえる理由とは常に一つの糸口でしかない。

更に言うなら、それそのものと思っていたものは数多ある表情の中の一部であり、それそのものの本質とは見えない部分も含めその実さらに大口を開けて繋がっている。

例えば鉄がナトリウムと同じと言うカテゴリーを用いる上では、無理解に至る関連性をベースとする必要がある。
全く別とも呼べる数多ある私の像が同一の何かでくくられているように、
全てはそっくりそのまま、あるいは異なるであろう全てと同一である可能性すら考えうる事である。

通常の脳では別のものをやはり別として括るのが基本的なオチとして用いられるが
全てを疑った時、
例えばこのタイトルにあるように様々をそこに当てはめた時、それは一つの思考実験として用いられるわけだが
通常別として認識していたものが、意外たる関連性を孕み出し、見えない何かが見えてくるのでは無いかと思う。

過去を生きた賢人達は
それぞれの人生の苦しみの中に欠片としてその関連性を見出してきた。
そして隠されたロゴスは各々が見た世界に、表面化して現れる。
同じようなものを抱えるならば過去の賢人達との共感性も存在するように、
抱えたものの様相が異なるならば見える世界もまた変わり否定批判、派閥すら生まれるが
それはそれぞれが見たロゴスが完全たるロゴスの断片でしか無いと言う事でしかなく、議論はもはや無意味と化してしまうのだ。

つまりはそれぞれが見たのは真実の断片であるのだ。


形ある物を語る者とは物質的な物に食われた者であり
形なきを語る者とは形なき事に誘われた者を言う

そう考えると愚鈍なる者、非凡なる者の見た世界もまた、露呈したロゴスの一部であることは言うまでもない。


一方私は、何かが何かである事にすら多少疲れが出てきているように感じる。
何かは何かであるべきだと言う前提に呪われているように私の目には映る。

そのせいか最近はずっと眠いのだ。


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