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エニシング工場留学日誌 Vol.7

エニシング織布工場では豊田のN式という織機を使っています。

工場には、豊田自動織機に半世紀以上技術者として勤めていた方が、織機の調整や整備、指南役として来てくださる関係があります。

その方はトヨタ産業記念館では、ほぼ全ての案内役従業員さんの教育をしていたり、展示してる織機のメンテナンスをするなど、この道のレジェンド、ゴッドファーザーです。
(トヨタ産業記念館ではゴッドファーザーと呼ばれてました…笑)


織機メーカーとしての豊田さんの歴史を少しまとめてみました

豊田織機の歴史

エニシングさんで現在稼働してる織機は計8台。
織機自体が製造されたのはほとんどが戦後ですが、型式は戦前のもの。
豊田、鈴木、遠州の3社の織機を使っています。

豊田、鈴木は今は自動車メーカーとして有名で、遠州は機械メーカー。会社の成り立ちは3社とも20世紀初頭で、自動織機製造でした。

豊田自動織機の創業者、豊田佐吉さんは日本の近代を代表する発明家で、1924年に完成した無停止杼換式豊田自動織機(G型)が代表作です。

1885年『専売特許条例』が発布され、それをきっかけに豊田佐吉は発明を繰り返しました
1890年 豊田佐吉の最初の発明となる「豊田式木製人力織機」
1894年 紡いだ糸を経糸用に効率的に巻きかえる「豊田式糸繰返機」
1896年 日本で最初の動力織機である木鉄混製の「豊田式汽力織機(豊田式木鉄混製動力織機)」
1905年 経糸の送り出し装置を備えた、木鉄混製の堅牢な「豊田式三十八年式織機」
1906年 三十八年式を改良し、能率と織物品質を高めた「豊田式三十九年式織機」
1914年 ウォーム式積極的経糸送出装置を搭載した「鉄製広幅動力織機(N式)」
1915年 現在でも和装の伝統生地の産地等で使われている「鉄製小幅動力織機(Y式)」

N式と同等のフレーム構造に自働杼換装置等を取り付けて、完全なる自動織機の完成を目指し、ついに1924年、「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」を完成させた。

製造されたG型自動織機は、日本のみならず、世界で高い評価を得た。
1929年 世界の繊維機械業界をリードしていた英国のプラット・ブラザーズ社に「日本・中国・米国を除く国々でG 型自動織機を製作・販売する権利を与える」という契約で特許権譲渡をした。

日本人の発明が世界に認められ、外国企業から特許権譲渡を求められたことは、日本の技術史上、特筆される快挙であり、多くの日本人に自信を与えた。

発明への精神は豊田佐吉から豊田喜一郎へ引き継がれ、
織機製作における鋳造・機械加工技術等のノウハウを活かし、研究期間を経て1935年11月にG1型トラックを発表。

ここから自動車の開発も進んでゆく。今では日本一の企業であり、世界でも1位を争う自動車メーカーに。

ちなみに今でも自動織機は作っていて、G型の数十倍のスピードで動くウォータージェットやエアジェットと言われる革新織機を製造している。

エニシングさんではG型のベースにもなった1914年発明の「N式」が毎日動いています。(製造は戦後のものですが)

木鉄混製の機械は現代の織機とは全く違った雰囲気がカッコ良く、見た目が単純に好きです。最終的に織機の仕組みを全て理解して、一人で動かせるようになれるように修行してきます。

三河地域と綿織物について調べたこと

平安時代(799年)、三河に漂着したインド系の崑崙人(コンロン人)が、綿の種を伝え、これが日本に綿が伝来した最初とされている。(諸説あり)

しかし、このときに各地に植えられた綿の種子は定着することなく途絶えた。
その後、綿花栽培が広がったのは江戸時代のこと。
九州から関東に至るまで、おそらくほとんどの地域で綿栽培、木綿織は展開していたと考えられてる。
江戸時代まではほぼ綿製品は明や朝鮮から輸入していて、高級品だったよう。
明治以降、政策により綿布の生産が強化されたこともあり、1930年代には綿布の輸出量が世界一になった。
第二次世界大戦時は綿布の輸出は停止したが、戦後復活し、再び世界一に。
その後は安価なアジア産の綿布に押され、生産量は減少、統計上の国内自給率は0%となっている。

三河は江戸時代後期には、三河木綿の縞柄や格子柄が江戸を中心に全国に知れ渡り、明治時代には三河木綿・三河縞というブランド名が全国に広まった。

エニシングさんの工場がある三河地域は古くは奈良時代から綿花栽培の歴史があり、江戸時代より綿織物の産地として今日まで伝え継がれていることがわかった。

しかし近年は国内で原料である綿花が作られなくなったことと、海外製の生地が安くなったことで産業の規模が縮小している。三河木綿という名前も、業界に入るまで知らなかった。

エニシングさんはそんな三河地域で一部を除き、綿で前掛け用の帆布を製織している。僕がこの三河で出来る事、すべき事は何なのか、それを探す事が大きな課題。


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トヨタさんの歴史を見るとおもしろいですね。一世代で一革命。
そして、走りながら工場留学を通して自身のミッションを探る板倉さん。ちょうど工場留学も折り返しとなるこのタイミングで、近々板倉さんに動画インタビューをさせていただく予定です。そちらもお楽しみください。

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