読書ノート1: 高木澪子著「心の科学史」,講談社学術文庫
p. 38: 近・現代心理学の思想史的前提となる物心二元論の枠組み(内と外,もしくは自と他の峻別)は,科学革命の進展に伴い霊物プネウマが死物化して,すべての自然が<物体>とその機械的運動とに還元されおわった時,そのような「自然」の中に収まりきらない<心>が「個人の意識」として改めて定義しなおされることによって成立したものと筆者は考えている.
p. 112: (結論的に言えば)学問の歴史を学ぶことの積極的意味は,現代を含めたすべての時代を相対化することによって,現代を限っていたものの特質を知り,その歴史的制約から現代を未来に向けて解き放つための手がかりの一端を提供することにある.そのために,現代から見て,現代とよく"似た"思想が過去にあったかどうかという,そのこと自体が重要なのではなく,一つの時代の学問を他の時代のそれから本質的に区別しているものを可能な限り明らかにして,それらを"比較の場"にすえることこそ肝要である.
p. 113: それら(※現代とよく似た思想)が形成されてきた過程と,崩壊もしくは消滅していった過程を,資料(事実)にもとづいて正確につかむことが,"学問としての"学問の歴史(科学史)のあるべき方法論であり,なかんずく,その出発点であり,歴史の客観的研究とはそういうことをいうのではないかと,筆者は考えている.
p. 114: 筆者の「心理学史」は,そのような宿命の学問でもある心理学のための(とりわけ"科学としての"心理学のための)心理学史でありたいと常に願いつづけているが,一方,この特殊な背景を持つ「心理学の歴史」をも科学史研究の一端に加えるためには,科学史研究そのものもまた,従来の"自然科学の歴史"や"近代科学の歴史"から"人間と科学の歴史"ないしは"学問の歴史"そのものへと,その自身の枠を広げなければならないだろう.
p. 389: 先生(※梅津八三, 1906-1991)から頂いたいちばん新しい今年一九九〇年元旦の御年賀状の中にあった古い"わらべうた"の一節「数ある小径はみだりに行くな.初めのひとあし,遂には千里」が,しみじみと哀しく,また懐かしく,心の琴線に響くのである.何も見えない,薄暗い,一筋の小みちを一人で歩いて"その日"から早や三七年の歳月が過ぎた.
p. 403: 学問は元来が,競争や,地位や,業績や,あらやる名誉や尊敬からもも無縁のものであり,「真理の探究」のような高踏な目標を麗々しく掲げておこなう誇らしい営為ですらもない.それは徹底して個人的な行為であり,それゆえ学問する者は,しばしば世の中に忘れられ,あるいは時代の主流に逆らって深く傷つくことがあっても仕方なかったのである.
p. 404: 学問は永遠に期待であり,あこがれであり,そして私にとっては人生そのものである.哲学のない学問を私は学問であると一度も思ったことはない.学問する人間は「知性による解決」を常に求め,そうすることによって,いつか知性を越え出る日への"期待的予感"を持つのであり,その"予感"に導かれつつ常に知性的であろうと努力しつづけるのである.時折疲れて休むことはあっても,いのちのある限り,私もまた自分の小みちを一人で歩き続けるほかはない.
(※ )は宮下の注.
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