「文体の舵をとれ」練習問題

 ここ数週間ばかり「文体の舵をとれ」講評会に参加しており、練習問題としてわずかな文章を書いておりましたので、ここで公開します。大したものではない。

<練習問題①>文はうきうきと
問1 声に出して読むための語りの文
 老若男女島の誰もが、その入り江の名を呼びはしない。強いて聞いても答えは戻らず、みな暗い目をして、唇の前で魔除けの印を切る。入り江の波は穏やかであるが、入り江の木々は緑に燃えるが、蟹ややどかりも群れ集うのだが、そこは人間のための場所ではない。見た目は少しも奇態ではない、岩のごろつく「その入り江」には、いつ頃からか知られてはいない、誰に聞いても答えはないが、おぞましきものが棲むのだという。誰も語りはしないけれども、誰もがそれを知っている。月のある夜は鬱々と、ふつふつ呻き波を立て、風吹く夜は囂々と、すすり泣き吼え叫びを上げる。名を持たぬその忌まわしきもの、名付けられねどそこに横たわる。
 何がいるのか何故そこにいるのか、ひとつも確かな答えはない。けれどもひとつ、これは確かなこと、満月の日が近づいたなら、ひとは入り江に近づかないのだ。
 満ちゆく潮に伴って、次第次第に海は広がり、そうしてかの名を持たないもの、入り江もまた力を取り戻す。満月の日はくびきが解ける。島のものたちは扉を閉ざし、耳を閉ざして目を閉ざして、何も起こっていないふりをする。遠吠え長くびょうびょうと、燃えるめだまの煌々と、我が物顔で大地を踏みしめる、無名の怪の長い手に、捕らえられるのを恐れているのだ。

問2 一段落くらいの動きのある出来事
 高位の相撲取りの数は少ない。ひとたび立ち会えば片方は必ず死ぬからだ。
 二人の力士は手に手に塩を握る。彼らの体で生まれつきの部位は、その手のみしか残されていない。腕を振りあげ振り下ろし、塩を撒き撒き力士たちは、己の武器を誇示し合う。
 括之里の尾が動く。地を打つ。クモザルにも似たその太い尾は、必殺の毒棘を隠しているという、しかしこの尾の神髄を見たものはおらぬ。かれはこの日まで立ちはだかる全てを、力のみで括殺してきた。上体を前傾させた立ち姿は古代の恐竜に似て、突き出た額の下貪婪に目が光る。
 かたや闘牙の顎が外れる。外れたと見えたはその形状のため、闘牙の顎は一八〇度開く。痙攣じみて開閉する顎は、命を与えられた虎鋏のよう。かれはこの肉体改造のため、声を失い舌を失い、なれど勝利を得たという。下顎に煌めく半透明の牙は、肉食魚ペーシュ・カショーロの歯を模したもの。かれと立ち会った力士たちは、あるいは喉をあるいは腹を、すぱり裂かれて血を噴いて死んだ。
「見合ってー」
 いずれ劣らぬ力士と力士。行司の声に視線を交わす。はじめは偶然のように、「見合って」次いで興味を持ったように、「見合って」いずれ必然めいて、やがて熱っぽく。そのありさまはほとんど、運命的な恋に落ちたようである。
 視線が絡み合う、肉体が脈打つ、緊張が刻一刻と膨らんでゆく、はりつめた空気はまるで湖面を覆う氷のよう。括之里の尾が優雅に波打つ。闘牙の唾液が土俵を濡らす。無言のうちに意志が交わされ、土俵に野蛮な興奮が満ちる。どちらかが勝ちどちらかが死ぬ、数分のうちに死と生が決す。かつて群れの頂点を争った霊長類の雄と変わらず、力士は血と栄光を求める。
 あぎとが開かれ喉の奥を晒し、尾が弓の如く引き絞られる。ふたつの力が膨れ上がる。
「はっけよい!」

<練習問題②>ジョゼ・サラマーゴのつもりで
一段落~一ページ(300~700文字)の句読点のない語り
これが銀河系最長の多細胞生物トウカノパイパイこの映像に映っているのは32年前に録画した尾部側末端に近いと考えられる部位でご覧の通り腹部の葉脚が確認できまして葉脚分肢ひとつひとつの直径は20kmほどでしょうかこの分肢はやがて生殖巣に分化し胞子を産生するのですがこの32年にわたり同様の映像を見て下さった皆さんには説明の必要もないかもしれませんのででは現在のトウカノパイパイを見てみますと先程の箇所から32光年離れた腹部にはよく発達した葉脚と共に口器が存在しますおっとこれは珍しい捕食の瞬間が見られましたが視聴者の皆さんは確認できましたでしょうかトウカノパイパイは我々のように感覚器官からの信号を脳に送りまた脳からの指令を各器官にフィードバックする仕組みを持ちませんなぜならあまりに巨大すぎるゆえに信号が中枢神経系に到達するまでに数世紀では効かない時間がかかるためでして刺激を感知すると各体節に複数個存在する神経節が独立に器官を制御してこのような捕食行動が生じますその中で口器が他個体の胞子を摂食した場合には今ご覧頂いているように体節が破裂し自らも胞子を撒き散らして有性生殖を行いますのでこの際には珍しいトウカノパイパイの内臓を確認することが可能になりこの全長3㎞ほどの部位が捕食舌そこに接続しているのが咽頭粘糸と神経節の一部であちらでくるくる回っているのがイヴンヌジャ器官イヴンヌジャについては皆さんもよくご存知と思いますので説明は致しませんできませんなぜなら我々の船は目下咽頭粘糸と接触し徐々に消化されつつあるため説明の時間がないああ長かった我々の旅もここで終わりますでは皆さんさようならさようなら。

上の文に後から点を打ってみたもの
これが銀河系最長の多細胞生物トウカノパイパイ。この映像に映っているのは、32年前に録画した尾部側末端に近いと考えられる部位で、ご覧の通り腹部の葉脚が確認できまして、葉脚分肢ひとつひとつの直径は20kmほどでしょうか、この分肢はやがて生殖巣に分化し、胞子を産生するのですが、この32年にわたり同様の映像を見て下さった皆さんには、説明の必要もないかもしれませんので、では現在のトウカノパイパイを見てみますと、先程の箇所から32光年離れた腹部には、よく発達した葉脚と共に口器が存在します、おっとこれは珍しい、捕食の瞬間が見られましたが、視聴者の皆さんは確認できましたでしょうか?トウカノパイパイは、我々のように感覚器官からの信号を脳に送り、また脳からの指令を各器官にフィードバックする仕組みを持ちません。なぜならあまりに巨大すぎるゆえに、信号が中枢神経系に到達するまでに数世紀では効かない時間がかかるためでして、刺激を感知すると、各体節に複数個存在する神経節が、独立に器官を制御してこのような捕食行動が生じます。その中で口器が他個体の胞子を摂食した場合には、今ご覧頂いているように体節が破裂し、自らも胞子を撒き散らして有性生殖を行いますので、この際には珍しいトウカノパイパイの内臓を確認することが可能になり、この全長3㎞ほどの部位が捕食舌、そこに接続しているのが咽頭粘糸と神経節の一部で、あちらでくるくる回っているのがイヴンヌジャ器官、イヴンヌジャについては皆さんもよくご存知と思いますので説明は致しませんできません、なぜなら我々の船は目下咽頭粘糸と接触し、徐々に消化されつつあるため説明の時間がない、ああ長かった我々の旅もここで終わります、では皆さんさようならさようなら。

〈練習問題③〉長短どちらも
問1 15字前後の文による一段落(2〜300文字)の語り
靴下の国を知っているか?靴下はしばしば靴下の国にゆく。靴下の国で靴下は自由だ。そこには様々な楽しみがある。靴下はトリオやカルテットを組む。掟破りの31枚組ダンスも行われる。しかしこうした組はすぐに解散する。靴下はパートナーに飽きているのだ。靴下は何物にも縛られない。かれらは一枚きりで歩き回ってもいい。かれらは靴を包む背徳に耽ってもいい。繰り返すがその国では靴下は自由だ。靴下の国への扉は洗濯機の下にある。扉はまた、棚の後ろにもある。扉は籠の裏側にある場合もある。しかしこの扉は人間には見えない。人間に見えるのは取り残された靴下の片割れだけだ。哀れな貴方は、また靴下が片方なくなったと嘆く。

問2 700文字に達する一文での語り
かすべが首と胴に留め具を括り付け、吊り骨を装着する間、若い飛び鱏は心得顔で大人しく待っていたが、かすべが用意を整えて、吊り鞍にすっかり身を納めてしまうと、かれは大人しさをかなぐり捨ててやにわにじたばたと走りはじめる、不格好に四肢で葉面を蹴ってギャロップし、次いで翼を持ち上げ、骨と腱で支持された皮膜に風を受けて、バランスを取りつつ後ろ脚だけで地をよたよたと掻いて走る、じきにその後ろ脚が、おしまいに先端に皮弁のある長い尾が地面を離れると、獣は不格好さと突如おさらばして、優雅に翼をはためかせて舞い上がり、ようやく吊り鞍との衝突から解放されたかすべにも周囲を見回す余裕が生まれる――今離れたばかりの葉の上で妹が手を振っている、その姿がみるみる小さくなり、葉の全体が目に入るようになると、気室に浮遊ガスを蓄える葉柄に比べれば、葉はほんの小さな一部分でしかないことがわかり、やがてその巨大な葉柄がいくつも合わさって本体を形作る様子が見えてきて、葉柄の裏側からは名前の通りに、嵐の如く囀りながらサエズリトムラが群れを成して飛び立ち、葉をかすめて飛ぶ群れの一頭をめがけてイタチカズラの細長い胴体が突き出される、鉤爪を持つ後脚が掴む新芽がようやく目に入るようになれば、森林を遥か下に睥睨して君臨するフユウアオイの偉大なる全容が露わになり――そこで視界が大きく揺らいだのは飛び鱏の狩りのせい、フユウアオイの花芽に寄生する植物、ゲンドウカズラの飛翔果が回転しながら飛んでゆくのを、後ろ脚ですれ違いざまに捕らえ、飛びながら首を曲げて半分に裂くと、果汁の滴る身の半分を渡して寄越し、首尾よく受け渡したのを確認して元通り頭を上げて、口笛に似た声で機嫌よくさえずる。

〈練習問題④〉重ねて重ねて重ねまくる
問1 語句の反復使用:一段落(300文字)の語りの中で、名詞動詞または形容詞を少なくとも3回繰り返す
 朝もやの中、一群のスプリングボックが草を食んでいる。ふとくちびるの動きを止めて、若い雄が頭を上げる。
 この若い雄はそのこうべに、丁度身分の高い人の飾り帽か、冠のような角を戴いている。かれは若く、強く、たくましい。かれは自分が若く、強く、たくましいことをよく知っていて、もちろんスプリングボックであるかれは、人間のように未来を想像しはしないけれども、いつか、今ではないいつかその日に、他の雄どもを打ち倒し、雌をものにすると確信している。
 スプリングボックたちが草を食む、その間近の叢に一頭の豹が潜んでいる。まだらの毛皮の下に殺意を押し込めて、叢の下に身を押し込めて、狩りの瞬間を待ち構えている。
 不意に豹の四肢が撓んで伸び上がる。スプリングボックたちは驚いて飛び跳ね、てんでばらばらに走り出す。あの若い雄も駆け出し、地を蹴って高く跳ね上がる。
 かれは高く跳ね、低く跳ね、生存に向けて跳ね、未来に向けて跳ねる。かれのすんなりと伸びたすねの筋肉、力強く盛り上がる腿の筋肉、引き締まった胴の筋肉が、伸びて縮み、縮んで伸びる。かれは死を置き去りに跳ね、恐怖を置き去りに跳ね、跳ねて跳ねて跳ね、跳躍のうちに歓びさえ感じる。それは若さの歓び、強さの歓び、生命の歓び。仲間の断末魔の悲鳴でさえ、かれの歓びを消し去ることはできない。
 跳ねてゆく、跳ねてゆく。若い力、強い力、たくましい力がかれの脚を動かす。いつかその脚は止まるだろう。いつか、今ではないいつかその日に、ジャッカルの牙が、ライオンの爪が、毒虫が、病が、老いが、水が、取るに足りないちっぽけな地面の窪みが、かれの脚を止めるだろう。その日までかれは跳ねてゆく、跳ね続ける。
 群れが去った後に、一頭のスプリングボックが倒れている。ほんの数刻前までのかれもまた、若く、強く、たくましかった。けれどもはじめに枯れ草のもつれた根が、次に豹の鋭い牙が、この若い雄の跳躍をとめた。牙の間で潰れた気管をすり抜け、血みどろの息、最期の息が漏れ出る。跳躍の終わりに納得していない脚が、伸びて縮み、縮んで伸びるが、死んだ体を置き去りに跳ねてゆくことはできない。
 豹はのっそりと立ち上がり、死体の頸を咥えて引きずってゆく。角が地面に二条の筋を描く。死体は木に引きずり上げられ、蹄が土くれに跳ねて最後の足跡を残す。二度とその脚が跳ねることはない。
(バカなので一段落300文字という部分をナチュラルに読み落としクソ長くなりました)

問2 構成上の反復:何かの発言や行為のエコーや繰り返しとしての何らかの発言や行為の執筆
 今は昔、月の美しい夜のこと。管弦の名手博雅の三位、朱雀門を訪れ、笛を奏していたところ、見知らぬ男が現れてこれも笛を吹く。その音を聞けばかれもまた世にたぐいなき名手、ふたりの楽士は言葉も交わさず、夜もすがら笛を奏し続けた。
 それからというもの、博雅の三位、月夜のたびに朱雀門にて笛を吹き、そのたびかの男現れて笛を奏し、月夜がくれば笛が鳴り、月昇れば笛を奏で、声も名も身分も明かさぬ、ふたりの交友は長く続いたという。
 博雅の三位の笛、かの名の知れぬ名手と取り替えたもの、三位身罷った後に帝の手にわたり、あの邂逅の遙か後、再び月夜の朱雀門にて鳴らされた。笛の音響けば人のおらぬ楼の上より「なほ逸物かな」と声が返り、かの不世出の笛吹き、朱雀門の鬼の正体が、この時はじめて明らかになった。
 それから一千二百年、人の世は移り変われども、月だけは変わらぬまま朱雀門にかかる。
 円く青醒めた月めがけ、耳をつんざく絶叫が立ち昇る。バンシーが呪詛をひじりあげ、中天の満月に高々とサインをつき立てる。観客の手もそれに合わせ、鉤爪ある手も指輪を嵌めた手も指の長い手も爪を赤く塗った手も、満月に向けてサインを掲げる。首無し騎士がドラムスティックを鳴らせば音が夜を踏みつけ走り出す。客席の熱狂のさまを、次のバンドのボーカルが、妙に黒ぐろとした眼で、ステージの袖から眺める。
 ここは朱雀門、対バンの聖地。一千二百年前の故事にならって、バンド野郎共が腕を競い合う。痩せた老人シタール弾けば化け猫の爪が三味線鳴らし、ドラムの巨人と称えられる巨漢は蜘蛛女の六本腕に劣らぬパフォーマンスを見せる。ギターの鬼と地獄の赤鬼、二人の鬼が腕を競う。骸骨が客席めがけて自らの骨を投げはじめ、抜き取っては投げ投げては抜き取り、持ち時間の終わりにはとうとう、人体の骨二百六個を投げ尽くし跡形もなくなってしまう。
 琴に篳篥、ギターとツィター、シタールチャランゴチャルメラジャンベ、世界中から楽器が集い、肉体あるものに姿なきもの、人なるものも人ならざるものも、世界中から楽手が集い、あらゆるジャンルが、あらゆる文化が、あるいはぶつかりあるいは和して、人の世のうつろいの如く、目まぐるしく移り変わる。
 ひとりの女、フルートを携え、木を削いで彫りだしたような顔を、なお堅く張り詰めさせて舞台に立つ。唇に触れた笛のうちから円やかな音がすべり出る。朱雀門の夜にフルートの音ひとつ舞うことしばし、やがて楼の上から笛の音が落ち、絡み合う響きが月の光のごと地を満たす。客席はひそやかにどよめく。
 これぞ世にも名高き朱雀門のフェス、観客の熱狂はこわいくらいだ。老いも若きも美も醜も生あるものも無きものも、誰もが拍手喝采を贈り、月の下音楽に酔いしれる。
 朱雀門の鬼、フェス開催一千二百回を祝して取材に応え、「なほ逸物かな」とコメントを残す。

<練習問題⑤>簡潔性:一段落から一ページ(四〇〇〜七〇〇文字)で、形容詞も副詞も使わずに、何かを描写する語りの文章を書く
生き物は土から生まれ土に還るが、鯨だけは違う。鯨は死んで火山と化す。鯨の骨が深海の生き物たちの拠り所になるのを知っているだろう。鯨骨に集う生き物は熱水噴出孔に棲む生き物だ。火の勢いが足りない鯨は火山になれないが、熱水を求める生き物たちは骨の中の埋み火を嗅ぎつけて集まる。鯨の骨は火山になるため蓄えていたメタンや硫化水素を噴きこぼし、生き物たちに棲み処を与える。死んだ鯨が深海に沈み、火山になったならば、火山は鯨だった頃の夢を見て、潮ならぬ黒煙を吹き上げるのだ。海の火山が鯨からできたなら、陸の火山は何からできたか?近年見つかった首長竜の化石には、骨に集った生き物たちの痕跡があったという。首長竜が火山になるならば、恐竜も火山になるだろう。恐竜は進化して鳥になったというが、恐竜は死んで火山になったのだ。伝説の竜が火を噴くのは、火を噴く山の正体が、古代の竜の化した姿と、知った誰かが考えたのかもしれない。

<練習問題⑥>老女:ひとりの老女がせわしなく何かをしている――そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。二回以上の時間跳躍を行い、ふたつの時間を描写する
 時は2027年、東京と大阪の距離が1時間に縮まる時代。超伝導リニアのホームに並ぶ、老若男女の笑顔をよそに、一人の老女の戦いが始まろうとしている。老女の名をターボババアという。
 前代未聞の挑戦を前に、ターボババアは落ち着いたもの。日々の鍛錬は裏切らぬとばかり、悠々としたストレッチをこなす。股の柔軟、膝を屈伸、アキレス腱を伸ばして足首を回す。二、三度その場で飛び跳ねるが早いか、流星のごと走り出す。
 まずは足慣らしに首都高を流す。バイクの若造相手にならぬ、スーパーカーなど置き去りに、呆気にとられた顔を後ろに、ババアはひとり道をゆく、ババアはひとりゆくものだ。迷わずゆけよゆけばわかるさ、駆けるババアの脚強く。
 ババアは道をひた走り、ジャンクションから駅目指す。おりしもリニアの発車時刻だ、ババアは微笑み位置につく。ホームの人々後にして、リニアとババアは飛び出した。
 リニアの乗客あっと叫ぶ、車か?新幹線か?いやババアだ!皺だらけの脚風車の如く、老いた眼差し炎の如し。速いぞ速いターボババア、これがロートルの脚力か。
 いいや妖怪に若い頃などなし、ババアは生まれつきババアなのだ。ババアの生まれは90年代、まだまだ若い妖怪だが、生まれ落ちた瞬間から今まで、その二本の脚だけを頼りに、車だろうと妖怪だろうと、あらゆる走るものと競い続ける。走り屋共をスピンさせ、首なしライダー鎧袖一触、新幹線も、後ろ盾など何もなくとも、ただただその俊足を誇り続ける。
 これが最大の挑戦だろうか、時速500kmの世界、空気でさえも壁となり、汗が舞い散り顔は歪む、ターボババアは限界だ、けれどもババアは脚を止めない、たとい心臓が止まろうと。
 ターボババアは最速なのだ、どんな相手も下してきたのだ、雷獣だってちぎってやった、韋駄天だって追い抜いた。ここでくじけてなるものか、この世で一番速い女、ターボババアの名がすたる。
 かたやリニアは涼しい顔だ、なんてったって顔がない。
 いよいよ最後の10分だ、新大阪は目前だ。ババアの執念リニアの科学、どちらも譲らずデッド・ヒート。
 ババア勝つか?リニア勝つか?ババア勝つか?リニア勝つか?

 馬鹿を言っちゃあいけない、あたしが一番速いんだ。
 リニアモーターカーの建設計画を聞いたその瞬間から、あたしの闘いは始まった。
 かかとを伸ばし膝を曲げ、関節と筋肉を伸ばしていく。何百回と繰り返した動作、でも今日は筋肉がわくわくしているのがわかる。あたしの脚が一番強い。脚もそうだと言っている。脚だけはあたしを裏切らない。ターボババアとして生まれた時から、この脚だけがあたしの寄って立つ杖なのだ。
 今日の首都高は止まって見える。バイクもトラックもスーパーカーも、何でもない石ころと同じに見える。何よりもどこまでも速く速く走れる、あたしの脚が風を切る。
 この首都高で別の場所で、あたしが今まで追い抜いた連中、ランボルギーニだのフェラーリだの、そんなものには何の価値もなかった。あたしが追い抜いた瞬間に、そいつらはなんでもなくなった。あたしが勝つまで輝いて見えた、あたしに負けたら屑になった。
 リニアもきっとそうなるだろう。あたしは最速なのだから。
 ああ発車時刻が近づく、あたしとリニアも近づいた。のっぺりとした面構えが見える、今まで目にした何よりハンサムだ。どれ、おばあちゃんのキスはいらないかい?
 あたりの景色を置き去りに、リニアモーターカーが速度を上げる。あたしもぴったり隣を走る。小さな窓の内側で、人間共が丸く口を開ける。まだまだリニアは本気じゃない。あたしもまだまだ本気じゃない。
 思えば今までの人生の中で、今度こそ負けるかもしれないと、思って走る時間こそが、何より一番幸せだった。韋駄天、雷獣、新幹線、レーシングカー、どれも恐ろしく速かった、追い抜けないかもしれないと思った、けれどもあたしはどれをも置き去りにした。
 ああリニアモーターカー、おまえはそうじゃないのか、最高時速500kmのおまえ、まだまだ速い、速いままだ、あたしもまだまだ速いままでいられる。心臓はドラムのように打つが、肺は潰れたままのように思えるが、あたしはまだまだ走り続ける。股から脚がもぎ取れそうだが、すねの筋肉はひきつっているが、いつまでも今のまま走っていたい。
 やがて新大阪に着く時、おまえは勝手に止まるらしい、名残惜しくはあるものの、あたしが速いかおまえが速いか、その前に決着をつけようか。

<練習問題⑦>視点(POV)
問一 複数人の視点人物がいる場面での三人称限定視点からの語り、同じ場面の別人物による再度の語り直し
 ボートの舳先が蹴立てる波に、輝く陽光が跳ね、エンジンの音が進軍らっぱのように勇ましく鳴り響く。去年の春休みの引っ越しバイト代を丸ごとつぎ込んで買ったスキューバ・ギア一式も、使い込まれて傷を増やし、歴戦の勇士といった風情で潮風を浴びている。
 長期休みになるたびに、あちらこちらへボートを走らせられる兄は、あからさまに迷惑顔で文句を言うが、彼もそれなりにこの冒険を楽しんでいるのだろう、断られたことはない。
 このあたりは小島が多く、入り組んだ地形で見通しが悪い上、サメの姿もよく見られるため、ダイバーたちは近寄らない。けれども人が近寄らぬとなれば、かえって余計に好奇心がうずく。年寄りの漁師たちによれば、この海域のどこかの島陰に、かつてここの海域を根城に、あちこちの船を襲い回った、海賊の船が沈んでいるのだという。
 本当に海賊がいたかなど知らない。本当は海賊の有無などどうでもいい。求めているのは探すことそのもの、地図のない海の中の地図を作り、人の寄らない場所で誰にも知られない秘密を暴く、その探検こそが喜びなのだ。
 気をつけろよと兄がいい、返事もそこそこに海に飛び込む。レギュレーターから吐き出される泡が上へ上へと上っていく。向かいから来た魚の群れがまるで最初からそうと決めていたように、見事に人間を避けて泳ぎ去ってゆく。わずかに濁った水の中には、よくそのあたりに現れるイタチザメの姿もない。
 砂地を這っていたタコがするりと穴に潜り込んで姿を隠す、穴と見えたのは何か陶器の一部、波と年月に痛めつけられても見事な細工は失われきってはいない。見回せばあちらに一つ、こちらに一つと人工物が撒き散らされている。そして砂の中に半ば埋もれて、なお凛々しく屹立しているのは乙女の姿の像だった。宙に向けて片手を掲げ、その周囲の砂の中には、船と共に砕けて撒き散らされた財宝が埋まっているのかもしれない。
 息を呑んで手を伸ばす、乙女の手に指が触れるか触れないか、不意に頭上に影が差す。紡錘形のシルエット、特徴的なのこぎり状の歯。ああ、そんな。

 彼女はしばらく前から、平穏な退屈の中を泳ぎ続けている。魚の血のにおいも、電気刺激も今は彼女の興味を惹かない。いかに退屈していようとも、イタチザメは休むことができない。浮袋を持たないサメは、泳ぎやめればたちまち水底に沈んでしまう。
 といって、サメにとって、退屈は悪いことではない。それは狂乱の飢えにも猛々しい発情にも苛まれていないしるしだ。更に彼女はそれほど憂鬱でもない、一緒に過ごす相手がいる。
 鼻が潮に混じった金属の臭いを嗅ぎ取り、砕けた岩に乱される海流が側線を撫でる。懐かしい気配に身震いする。彼女はここで生まれ、ここで育った。そして砂の間から突き出ている像、彼女がずっと小さい頃からそこにいて、彼女がずっと大きくなってもやっぱりそこにいるそれは、古い馴染みだった。
 大きなイタチザメはゆっくりと像の周りを旋回する。食べられもせず動きもしない像は、ほとんどのサメには岩やサンゴと変わりなく見えるだろう。しかし彼女にとっては特別なのだった。サメの口に微笑みを浮かべる機能があったならば、きっとそうしていただろう。
 平穏を破る騒々しい音を感じ、サメは苛立つ。まだ遠くだが、サメの側線は鋭敏に振動を感じ取る。イタチザメはあの水面近くを走り回るものが嫌いだった。他のサメや魚がそれから降りてきたものに、様々なやり方で殺されるさまを何度も見たことがある。
 その場を離れ、慎重に距離を取る。相手には気づかれないように、自分からは見えるように。やがて騒々しい水しぶきが上がる。魚たちが震え上がり、不安に群れの形が乱れる。生まれたてのイルカだってあんなに不格好には泳がない。飛び込んできたものが頭のてっぺんからゴボゴボと泡を立てる。そのぼこぼこも鬱陶しい。
 あの像と形は似ているが、それは心地いい存在ではない。像の周りを回る様子も、サメに比べればいかにも不格好だ。それが像に触れようとするのを見て、サメはいささか腹を立てた。おいしい相手ではないが致し方ない、ちょいと一咬みしてやろう。

問二 遠隔型の語り手による同じ場面の語り直し
波と砂の立てる音を除いて、海底はまったく静かだった。無骨な岩礁に隠され、砂地に半ば埋もれて佇む乙女の像は、辺りの静寂と相まって、腕を差し伸べた瞬間に時が止まったような印象を与える。頭上で雲の如く形を変える魚の群れは、生き生きとしすぎてこの場には相応しくないようだった。
 と、群れの形が乱れる。鮫が現れたのだ。鮫は初めから心に決めていたように像に近づき、悠々と円弧を描いてその周囲を巡りはじめた。いくつ円を描いただろうか、鮫が突然向きを変え、像から距離を取る、と、ほぼ同時に、遠雷めいた音が響いてきた。はじめ遠く、次第に近く、エンジン音が近づいてくる。
 エンジン音が間近に迫り、ボートが水面を泡立てると、魚の群れは水銀のしずくのように丸く固まって揺れた。ボートの縁に人影が見えたが早いか騒々しく波が立つ。銀色の球は二つに裂けて、落ちてきた人間を避けてゆく。
 ダイバーの吐く泡がふるえながら連なって水面へと上がっていく。足ひれが巻き上げた砂を浴びて、タコが陶器片の中に身を隠す。ダイバーは陶器片を拾い上げ、側に埋まっていた古銭をも手に取った。その場で半回転したダイバーは、乙女の像に顔を向けて静止した。ぎこちなく像に泳ぎ寄り、差し出された手に触れようと手を伸べる。その時だった、鮫が再び姿を現したのは。

問三 傍観の語り手:単なる傍観者・見物人からの同じ場面の語り直し
 海底から見上げると、流れゆく魚の大群は銀の川のようです。白い腹が日光を跳ね返してきらめくのです。してみると、本当の川よりも天の川に例えた方がいいのかもしれません。時折水面に影が差すのは海鳥でしょうか。
 いつもそんなことを考えています。水面を見るより他にできることがありません。
 わたしが船首像であった頃はこうではありませんでした。船首像というものは、木で作られるのが普通です。朽ちず傷つかない石像のわたしは、道中無事であれかしと祈りを込めて作られました。船の舳先に立っていた頃は、船の平穏無事を願う人々に、祈りを捧げられたものです。船が沈んだ今でも、祈りの通り、わたしだけが残っています。
 銀色の流れが分かれ、一頭のイタチザメが姿を見せました。サメは静かにわたしの周りを回り、尾ひれの起こす水流が肌に積もった砂を落としていきました。表情の伺えない黒い目がわたしを見つめます。わたしはこのイタチザメの事を生まれた頃から知っており、彼女もたびたびわたしの前にやって来ます。何かに噛まれた傷を見ればその後数日不安な気持ちになり、若魚特有の美しい縞模様が消えた時は少し寂しくなりました。誰も側にいなくなった今、わたしの友人はこのサメだけです。サメと話せるでもなし、彼女がわたしを友と思っているとは考えにくいのですが。
 サメが身を翻します。魚たちの群れもうねりを上げています。音のないざわめきの中、石のわたしはひとり立ちつくしています。水しぶきを上げて人間が飛び込んできた時、ようやくかれらの不安の理由に気がつきました。
 しきりに泡を吐き出す機械を背負った人間、わたしが陸から離れていた間にこんなものが発明されたのでしょうか。海の中を見慣れてしまったわたしには、かつては毎日接していたはずの人間がひどく奇妙なものに見えます。砂地を眺めていた彼は、突然顔を上げました。彼の目がわたしの目を見つめます。興奮に見開かれた眼鏡の奥の目。わたしの手を取ろうと差し出された手。何十年、何百年ぶりの人間。わたしは喜ぶより不安になります。
 その時です。わたしのサメが猛然と向かってきたのは。

問四 潜入型の作者:潜入型の作者のPOVによる語り
 突然頭の上の石が動いたので、冬眠していた年取ったヒキガエルは、寒気と眠気でよく回らない頭の片隅で、きっとおかしなことが始まるに違いないと考えた。
 ヒキガエルの寝床になっていたもの、それは古びた石灯籠である。脚を折り曲げ上体を低く、もちろん顔はないにしろ、見てわかるほど険悪な様相、油断なく一本脚でステップを踏む。若奥さんが買い求めてくる置物共、ウサギもカエルも気に入らなかったけれど、近年増えたこびとの像、彼奴らはまったく邪悪だった。人が、いやさ物が、何も言わぬのをいいことに、愚連隊まがいに徒党を成して、七福神を順々におびやかし、水琴窟には如雨露で水を流し込み、レジンの赤ずきんだの隣家のリヤドロ人形だのナンパしては、夜通し踊るのでうるさくてかなわない。それでも黙って我慢していたが、古馴染みのたぬきの置物を、池に突き落として処刑をするに至っては、とうとう堪忍袋の緒が切れた。このおぞましい小鬼たちとは、共に庭を分かつことができぬ。火など灯したことはないのだが、心のうちには火が燃える。七人合わせても目方が石灯籠に及ばぬ、ちっぽけな新参の連中、のしかかり押しつぶしてしまおうと、無言のままに怒りを燃やす。
 かたや並ぶのはこびとの像。身の丈より高い金槌を手にひとり、冬の寒さに枯れた蔦を編み込んだ手製の投げ縄を携えたものがひとり、チベットスナギツネ像にまたがるふたりは、騎士さながらに手綱をまわし、ひとりがスコップ、ひとりが鎌を、ぽってりした手に握り締める。残る三人はショベルでこさえた、お手製投石機を組み立てていた。服装も顔立ちも異なるこびとたち、それぞれ同じ残酷な笑みを浮かべる。メーカーは違えども心は同じ。あの老頭籠を打ち砕いてやる、たぬきと再会させてやろう、二度と朝日は拝ませまいぞ。
 戦いを見守るものたちも、それぞれに思いを抱えている。七福神たちは喜びと尊敬にみちた瞳で、石灯籠の勇姿を見つめていた。七福神と七人のこびと、数は同じでも大きさは違う。手乗りの小さな七福神、こびとにかなう道理がない。亡き同胞のため物々のため、数は不利でも戦いに挑む、英雄の姿を目に焼き付けておこうと、見開く陶器の目に涙が浮かぶ。
 レジンの赤ずきんは困っている。まあどうしましょう、こんなことになるなんて。こびとさんたちだってあんなことをする方々ではなかったのに。助けを求めるまなざしに、セット売りの相方のオオカミがふいと横を向く。いい気になって遊び歩いて、困ってから頼られたってどうしようもないぜ。
 その頃隣家ではリヤドロの貴婦人が高笑いを上げていた。ホッホッホ、争え争え!こびとたちを煽り立て増長させたのは彼女、石灯籠のことさらいやがる踊りを求めたのも彼女、気に食わぬたぬきの置物を壊してしまおうと吹き込んだのも彼女。特にこれといった理由はない、彼女はひたすら破壊が見たい。見た目が優雅だからといって心もそうとは限らない。
 そうとは知らぬ物々は、戦さを目前に睨み合う。十二時の時計が鳴ったなら、それが戦いの始まりなのだ。こびとにわき腹を蹴られながら、チベットスナギツネ像は瞑目した。ああ、どうしてこんなことになっちゃったんだ?

〈練習問題⑧〉声の切り替え
問一 複数のさまざまな視点人物(語り手を含む)を用いた三人称限定で、視点を切り替えながら物語を綴る。視点の切り替え時には目印をつける
 それに名はなく、声はなく、記憶はなく、心も欲望もなかった。ゴーレムは思考しない、少なくとも通常の方法では。それが考えているのはただ一つ、定められた道を定められた通りに歩くことのみだった。かつてそれに与えられていた指令がいつからか失われたことも、それの体表に棲み着いている生物種の組成が変わったことも、それの歩みにとっては全く重要ではなかった。今脚を登っている者の目的についても、それは全く頓着していなかった。

 隣を登っていた若者が悲鳴を残して消えた。遅れて巨大な翼の起こした風が、早足のレビィの顔を打ち据えた。
 レビィは地上を走るのは得意だったが、上から襲ってくる敵に立ち向かう方法は知らなかった。今では絶えて久しい、古代の魔法の落とし子たるゴーレムの脚を登る者は多いが、脚を登り切る者は少なく、登って降りてくる者は更に少ない。名も知らぬ山師の一人、死んだところでさして悲しいとは思わないが、その後を追うのは勘弁だ。どうにか切り抜けねばならない、レビィは知恵を巡らせる。

 飛竜は後ろ脚を上げ、わめく獲物を持ち替えてぼりぼりと齧った。鳴き声が止まる。やかましくされて同種や敵を呼び寄せては困る。この手の弱くてのろい獲物は久しぶりだ、沢山捕って帰らねばならない。巣で待つ妻と子供たちが腹を減らしているのだ。こいつを巣に持ち帰ったら、もう一仕事しなければ、と彼は翼を広げて伸びをした。

 また一人が掴みあげられていく、血のしたたりを顔面に浴び、レビィは身震いして覚悟を決めた。腰のザイルに命を預け、壁の窪みに脚をかけて上半身を起こした。狼は何匹も殺したし、人間だって何人か斬った。すらりと長剣を抜き放つ。たかが飛びトカゲ一匹だ。殺して殺せない筈があるか。剣を持つ手の震えを押さえつつ、レビィは竜の到来を待つ。

 獲物を捕らえに戻って来た飛竜は、ふと不安な予感に駆られた。はっきりとは言えないが嫌な気配がある。彼は爪を開きかけて躊躇い、2回3回と獲物の周りを回った。やはり不安が拭えない。獲物は惜しいが、諦めよう。飛竜はすっぱり諦めて次の獲物を探しに飛び立つ。

 去っていく飛竜の背に、レビィは安堵の高笑いを投げかけた。空を飛ぶとはいえ所詮は獣、剣は怖くて諦めたか。そして吹きつける熱風と、火薬に似た臭いを嗅いだ。彼は今まで、飛竜ですら見たことがなかった。まして、地上では滅びた種族のひとつ、ジェットカタツムリに対抗するすべは知らなかった。

 自分の脚の上で何かが起きていたことに、ゴーレムは気がつかなかった。仮に気がついたとしても、興味を持たなかったに違いない。ゴーレムはゆっくり、極めてゆっくりと、数日かけて脚を地に下ろし、数百年そこに生えていた大樹を踏み潰した。

問二 薄氷:読者に対する明確な目印なく、視点人物のPOVを数回切り替えながら、さきほどと同じ物語を書く
 ねむけと憂鬱の中で苔と石を食む土の季節は終わり、火の季節が訪れた。ジェットカタツムリにとって火とは怒りだ。殻の中に蓄積されたフロギストン結晶が静かに体を突き刺す。怒りが生じる。怒ると火花が吹き上がり体を炙る。怒りが爆発する。ジェットカタツムリは怒り狂い、怒りのままに火炎を炸裂させる。怒り怒り怒ると突然、殻口から火柱が吹き上がり、カタツムリを空に打ち上げる。火薬に似たにおいが一瞬、早足のレビィの鼻をくすぐったが、すぐに血のにおいがそれを塗り替えた。飛竜の爪が目の前の男を掴む。翼の起こす風が顔を打ち据え、男の姿は消え失せる。一攫千金を求めてゴーレムの脚を登るものは多いが、戻るものはほとんどいない。それはこういうからくりかと、早足のレビィはようやく気づく。しかし今更戻ることはできない、地上は既に遙かに下だ。すぐに飛竜は戻ってくるだろう。登り続けるしか助かる道はない。必死に壁を登る生き物たちの姿を、飛竜は見つめ記憶しておく。またここに戻ってくるために。巣で待つ妻と雛たちのために、まだまだ多くの獲物を持ち帰らねばならない。脚に掴んだ獲物がやかましく、かれはそれを噛み砕いて黙らせた。さあ頑張ってもう一仕事、と翼を打ち振り高く舞い上がる。翼の落とす影の下で、レビィは戦う覚悟を決めた。また一人が掴み上げられていった。ひとりひとり順々に死んでいく。死を待つよりも敵を待つ方がましだ。腰のザイルに体重を預け、剣をすらりと抜き放った。狼も斬った人も斬った、たかがトカゲ一匹殺せないわけがあるか。壁面にほぼ垂直に立ち上がり、レビィは竜の到来を待つ。飛竜は獲物の姿を前に、何か奇妙な感覚を受けた。何かはわからないが何かがおかしい。飛竜は爪を開閉しつつ、獲物の周りを何度か回り、違和感の原因を探ろうとした。何がおかしいやらわからないが、やはり不安が拭えない。惜しいが新しい獲物を探そう。飛び去る飛竜の後ろ姿に、レビィは安堵の笑いを投げかける。空を飛ぶとはいえ所詮は獣、剣を恐れるのは変わらない。握ったままの剣がまばゆい閃光を映す、火薬のにおいと熱風を感じる。ジェットカタツムリは怒り狂っていて、見知らぬ生き物にも容赦しない。壁面に激突するのも構わず目の前の生き物を掴み殺し、殻から突き出した軟体部が焦げたのに怒って、ろくに食いもせずそれを投げ捨てる。かれは怒り、怒りのままに目に映る生き物を襲い、目の前を通りすぎるものを追い、執拗に追跡し、やがて突然自分が交接していることに気づく。なにやらかれの中に納得のようなものが生じるが、それはそれとしてまだまだ怒りは治まらない。足にまといつく生き物のいとなみには一切頓着せず、ゴーレムはひたすらに歩き続ける。ゴーレムが考えるのは決められたルートを守ることだけで、何百年経ってもそれは変わらない。

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