青い海と赤い屋根

 気分が良い、今私は自由になった。まるで両腕が翼に
なった様だ。このまま丘を走り続ければ、風に乗って空
へ飛び立てる気がした。そう、そんな感じに気分が良い
のだ。
 全速力で走り続ける。こんなに走ったのは何年振りだ
ろう。視界がこんなに狭くなって、耳にかかる風がこん
なに強いだなんて初めて気がついた。
 今日は良い日だ。天気も良いし、季節を考えると随分
暖かい。心が軽くなる。身体も思った以上に動く。今日
は良い日だ。
 なんてやっている場合じゃなかった。そう、私は絵を
書きに来たのだ。普段漫画ばかり描いてる私だけど、風
景画だって書きたくなる。故郷の絵くらい描いたってば
ちは当たらないだろう。
 鞄からスケッチブックを取り出し、早速被写体を探し
始める。見渡す限りの水と屋根と煙突。
「むぅ、何書きに来たんだかわからなくなってきた」
 今、私の家は水の中に沈んでる。私の家というか、町
全体が水びたしになった。もともと海抜0メートルの場
所に建造された町なだけあって、土手が崩れた途端こう
なるのはあっと言う間だった訳だ。
 気がつくと、ここに居た以上の時間を引越し先の町で
過ごした。ここは忘れられた場所になっちゃったのかも
しれない。
 違う、私はこんなネガティブになる為にここに来たん
じゃない。なんていうか、その、イニシアチブじゃなく
て。イマジネーションだ。なにか閃きが欲しいのだ。頭
の上で電球が光る体験がしたいのだ。
 スケッチブックを片手に、風景を楽しみながら歩く。
知っているビルが半分顔を見せていたり。学校の裏山は
そのままだったり。私の子供の頃の記憶はずっとここに
保存されたままだ。観察すればするほどにそう思う。
「わ、なんじゃこりゃ」
 これは困った。あれこれ見ている内に、水面ギリギリま
で来てしまっていたようで、靴がずぶ濡れになっている。
この際、いける所まで行くのも手だ。スカートの端を縛り
膝上までたくし上げる。パンツを穿いてこないで正解だっ
た。
「およ、ここはいいかもしれない」
 丁度水面が足首の上まで来た所で、私の前済んでいた家
が見えた。もちろん、見えたといっても屋根だけだ。近所
の家も屋根が見える。うむ、これは良い対比になる。
 私と、ここに置いて来た過去の私の。
 持ってきた携帯用の椅子を広げる。鞄を木の枝に引っ掛
け、鉛筆一本スケチブック一冊の戦闘体制だ。
 見た物感じた物をとにかく紙に叩きつける。そう、こん
な感じの環境が私には必要だったのだ。四角の部屋なんか
じゃなく無限の天井が無ければ私の才能は爆発できんのだ
よ。
 とまぁ、軽い気持ちで挑んだのが幸いしたのか、随分と
描く事ができた。
「満足できたみたいだね」
 心臓が飛び上がりそうになる。声のした方向を見ると、
お爺さんが私と一緒の格好をして釣りをしていた。
「はは、随分と熱心だったから邪魔をしないようにと思っ
 て、こっちはこっちで楽しんでたよ。君は絵を描くんだ
 ね」
 心臓が飛び上がった後は、顔から火が出そうになる。必
死になっている所を見られたのだ。独り言も聞かれただろ
うか。
「君、制服を着てるけど、学校はどうしたんだい」
 う、また痛い所を突いて来る。私は喧騒から飛び出して
来た。今日は学校も何も無いのだ。私だけ、だけど。
「はは、まぁいいさ。補導官じゃないし、別に帰れとも言
 わないよ。僕も本当は隠れて此処に来てるんだ。御互い
 内緒だよ」
 随分と若い言葉を使うお爺さんだと思ったが。頭もそれ
なりに若いみたいで、非常に助かった。助かったんだけど
もやっぱり恥ずかしい事を見られた事には変わりはなさそ
うなので、それを考えるのは諦める事にした。
「ここって、魚とか釣れるんですか?」
 新しいページを開き、また建物を描き始める。
「釣れるようになったのは、最近かな。正直、此処には
 釣り場を求めて来てた訳じゃないんだよ」
 建物の上に魚を飛ばしてみる。すこしメルヘンになって
きた。なるほど、こういうのも良いかもしれない。
「向こうに僕が居るんだよ。あそこに残してきた記憶の欠
 片を見に来てるんだ。どうも向こうに居る僕を見ると若
 い頃に戻った気分になれてね」
 顔を上げて、町を見渡す。なるほど、私と同じ気持ちに
なってる人が居たんだ。
「お爺さん、あそこのビルの向かいにある赤い屋根の家が
 見えますか?八坂商店の横にある」
「ああ、早苗ちゃんの娘さんか。お嬢さんは」
「ふふ、正解です」
 スケッチブックを畳み、膝の上に置いた。もう絵は描か
なくて良い。探し物が見つかったからだ。
「おや、もう描くのは良いのかい」
「はい、任務完了といった所です」
 椅子から立ち上がり、木の枝に引っ掛けて置いた鞄を取
る。椅子を畳むと、日が落ちかけてる事に初めて気がつい
た。後一時間もすれば、この世界は真っ赤に染まるのだろ
う。今度は絵の具を持ってきて夕焼けを描くのも良いかも
しれない。うん、そうしよう。
「釣れたら一匹上げようと思ったんだが、仕方ないね。早
 苗ちゃんによろしく言っておいてよ」
「安田のおじちゃんも身体には気をつけて。母には伝言伝
 えておきますね」
 家に帰ると、母の怒号が私を待っていた。まずは学校を
サボった事。靴と靴下が水浸しで汚かった事。安田のおじ
いちゃんの事を伝えると、そんな所まで行ったのかと、も
う一度雷が落ちた。一頻り怒られた後は、少し優しい笑顔
が見れた。
 今度は、きちんと休みの日に行こうと思った。探し物は
見つかったけれど、持って帰る事が出来なかったからだ。
だから、安田のお爺ちゃんのように、私も見に行く事にな
るのだろう。
 そう、今度は絵の具も忘れずに持っていこう。

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