建築士を夢見た19歳が特攻隊員になった話(備忘録)


建築をやりたかった。

学歴は小学校だけ。
東京に出てきて、病院の営繕の仕事をしていた。
知り合いのあてがあり、建築の学校に通うお金を出してもらえることが決まっていた。卒業したら建築士になりたいと思った。

そんなときに戦争が始まった。
学校に通うお金は出してもらえなくなった。

復員する年齢ではなかったが、日本のために戦いたいと思い海軍に志願した。

海軍に入ったときは終戦間近だったため、乗る船がなく港に人があふれていた。
船に乗ることなくただ時間が過ぎ、気持ちが焦っていた。

そんなときに特攻隊の志願者の募集があった。どうしても船に乗りたかったので、迷うことなく志願した。

沖縄がやられた話を聞いて、もう日本は終わりだと思っていた。日本のために死んでもいいと思っていた(ほんとうに、洗脳だよね)

そこから小型船に乗り、色々なところへ行った。
ある港に予定の1日遅れで着いたとき、そこは焼け野原になっていた。もし予定通りに港に着いていたら、空襲を受けて死んでいたと思う。

ある港に寄ったとき、溜まっていた洗濯物を洗濯しようと船を降りた。洗濯が終わり船に戻ろうとするとすでに出港してしまっており、船を戻すはめになった。
その日、点呼係と2人で血が滲むほど尻を金属バットで殴られた。

主な役割は、海中に超音波を出したり、音を聞いて敵の潜水艦を見つけること。5人のうち2人が交代で当直をして、残りの2人は交戦のときに砲台の弾を補充する。

船から戦闘機を狙うのは難しい。

小型船の場合、交戦のときは蛇行して進むことで戦闘機から
狙われにくくなる。
一方、大きな戦艦は蛇行して進むことができないので、戦闘機から
標的にされてしまう。
ある日、大きな戦艦を小型船が囲んでいるときに戦闘になり、戦艦が積んでいた魚雷が爆発した。
大きな音とともに船の半分が破壊され、看板の上にいた人が一瞬でいなくなるのを小型船の上から見た。


終戦があと3〜4時間遅かったら特攻していた。自分が特攻するための魚雷を船に積み込んでいるときに終戦を聞いた。
このまま帰るわけにもいかないのでやらせてほしいと志願したが、上官が年配だったため、止められた。
学校を出たばかりの血気盛んな上官だったら、死んでいたかもしれない。

気持ちがおさまらず、皆で自決しようとも思った。
そのとき、戦時中に大阪湾に落とされた爆弾の除去作業を提案される。

大きな船が通ると爆弾が爆発するため、船が通れなくなってしまっていた。大阪湾で1年間、海中にある爆弾の除去をした。

その後、ある鉄鋼の会社に就職した。
当時、終戦後で職がなく、戦地から帰還した人で東京は溢れかえり、就職することは困難だった。

面接で「自分は戦時中に命をかけて戦った。今度は会社のために命をかける」と言い、採用された。

橋、電車、トンネルの掘削機、電波塔の柱脚…色々なものを造った。自分は工場で組み立てて、現場に送る。
徹夜もずいぶんした。
今もあるその建造物を見に行くたびに嬉しい気持ちになる。

その後は色々な仕事をした。ずっと同じ仕事をせずに、新しい職場に行くたびに一から学んでいった。


運が良かったと思う。何度も、自分はもう終わりだという瞬間があったが、その度に生きながらえた。

今年、コロナウイルスに感染したときも、もう死ぬだろうと思ったが、幸いにも重症化せずに生きている。

歩くことが難しくなったが、電動自転車なら少ない力で漕ぎ出せるので
外出できる。
白内障で目が見えにくい。しょっちゅう自転車で転倒もする。
痛いけどなんともない。
わたしはまだ大丈夫だが、歳を取ったら骨がもろくなって、転倒すると骨折するらしい。


2022年、祖父の家にて


(私の記憶違い・勉強不足で、戦時中のものの名前や表現が違うかもしれません。また、無知なわたしのためにずいぶん現代的な表現で話してくれています)

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