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理想の社会をめぐって(第4回)

第4回(最終回) 「理想の政治、理想の国家」
アルボムッレ・スマナサーラ×小飼弾対談

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社会から見た仏教の本質、人間の本質

仏教は社会をつくろうとする
小飼  仏教徒にとって、社会とはどうあってほしいものですか。
スマナサーラ  いつでもお互いに心配し合って、お互いに協力し合って、共存することであると。
 本来、生命は自分だけよければいいのですが、それでは社会は成り立ちません。われわれは互いに協力し共存することに励んで社会をつくらなくてはならないのです。このままの生き方では社会は成り立たない。仏教は社会をつくろうとしているのです。
小飼  社会が成立することを目指すというよりも、ブッダの教えを実践すると、自然と社会というものが生まれてしまうものだということですか。
スマナサーラ  矛盾のない社会が生まれます。それは遠回りしてしまうと間に合わないのです。人間の寿命はそれほど長くありません。長くても100年。そこが勝負です。野球のバッターだったら、スリーストライクを食らう前にヒットを打たないと、アウトになる。だからすぐに「生きとし生けるものが幸せになりますように」と祈りを実行しなさいと言います。なんの損もないのだから。そうすればみるみるうちにあなたの人生は幸せになり、まわりの人々も幸せになるのだからと。それを実行するだけで、あっという間に人類が変わります。それで矛盾のない世界が成立してしまうのです。競争経済もなくなります。共存の経済になります。

社会を他人事としてはいけない
小飼
  仏教的な考え方以外の方法で社会をつくると、「社会は、社会。家内は、家内」という感じになる。社会というものがあちら側にあって、家というものはこちら側であるというように、自分と社会のあいだに対立というものがどうしても生じます。
スマナサーラ  私たちは社会というものが別だとは考えません。テーラワーダ仏教を一般社会からは切り離すことはできません。それは自分が社会だから。家族の中でわざわざ契約をする必要はないでしょう。生まれたときから家族なのですからね。社会福祉活動などは当たりまえのことで、どうしてあなた方は自慢するのかと。ほめるようなことじゃないでしょうと。
小飼  自宅の台所や、トイレを掃除するようなものだと。
スマナサーラ  やらなかったらへんでしょう。たとえば電車で、体の不自由な人に席を譲りましょうとか言っているというのは情けないと思います。看板を書くまでできないほど堕落しているのかと。
小飼  最近では、女性専用車両なんていうのもありますし。道徳というのは、法律ではないですよね。というか、法律になったとたん、その時点で道徳ではなくなってしまいますよね。一から十まで規則に書いてしまったら、今度は自分で考えるのではなしに、法律をプログラムのように実行するようになってしまいますよね。私自身プログラマーですから余計に強く感じるのかもしれませんが、プログラムを実行するのは人の仕事ではなくてコンピュータの仕事だろうと。うざったいことが嫌だから、わざわざ機械にやらせているのに、なんで人がやらなきゃいけないの、というのをすごく強く感じます。
スマナサーラ  たとえば家族の中で子どもたちのために、皆で会議をして決まりを作ったとして、その時点から考えるのはいかにその決まりをくぐるかということです。国が法律を作ると、私たちはこれをどうやってくぐるのか、どうすると触れてしまうのか、そればかり考えるようになります。

お金は関係を壊すものでもある
小飼  法律が長ければ長いほど、社会というのは他人事になっていくんですね。私はこれ以上、社会を他人事にするのはやばいと思っているんですよ。実は、お金というのは、他人事の社会の中で、それでも人とつきあうには便利な道具なんですよ。社会を他人事のままに放置しておいても、お金さえやりとりすればいいわけですから。でもたぶん、それだと未来永劫うまくいかないし、実際に破綻のきざしも見えてきました。
スマナサーラ  そのとおりですね。日本の人々はけっこう外国に行ったりして福祉活動などを立派にしています。もし日本が失敗するとしたら、金で解決してしまおうとすることが原因になるでしょう。まったくといっていいほど金がなくて、年収が1万円にもならない国がある一方で、日本は日収が1万円になったりしますから。

日本人が世界に受け入れられる理由
スマナサーラ
  しかし日本のボランティアの人々は、トラブルになっていません。
 理由はいくつかあるでしょうが、ひとつは宗教を持っていかないことです。日本人ははじめから宗教を持っていない。「なんでもいいや」なんですよ。行った先で宗教的な儀式があれば、興味本位で参加する。いっしょに踊ったり同じように顔に泥を塗ってもらったり。そうやってうまくいくということがあります。
 もうひとつは向こう側から見れば、この人々は偉そうにしてなにかやってくれるために来たとは思わないということです。友達になりたくて来たんだと読むんですね。それではお互い頑張りましょう、ということでいくらか仕事もできるようになる。ですから各国のさまざまなボランティア組織がありますが、トラブルになっていない組織といえば日本から行く人々だといえると思います。人間がお互いに仲よくする、そんなことは当たりまえの話だということで、ボランティアに行くわけですから。

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真理の特性をあえて言うなら

時代を超えた真理
小飼  人間は仲よくするべきということが当たりまえだというのは、現代の日本でこそふつうに言われていることですが、むかしはそもそも人間の定義からしていまとちがっていたわけですよね。バラモンにとっては、シュードラというのは人扱いするものではなかったですし。日本にも、かつて穢多とか非人とか差別されていた人たちがいました。実際、人間の定義そのものというのも、時代によってずいぶん解釈が変わってきていますよね。
スマナサーラ  とにかくはじめに人間が立って歩いたときから、道は間違えているのです。いろいろな間違え方がありますが、基本的に、どこも矛盾でいっぱいなのです。そこはなんとか直そうというのがブッダの世界です。
小飼  ブッダが時代離れしているなあと思うのは、最初から、「なになに人」という言い方をしなかったじゃないですか。
スマナサーラ  そうそうそう。お釈迦さまは自分のことを「真理に達した人」とおっしゃっているのですね。「如来」という言葉はそういう意味なんですね。わかっていたのだから、人間ではないのです。
「あなたは人間ですか」と聞かれ「ちがいます」とお答えになりました。「神ですか」「ちがいますよ」。「ブラフマンですか」「ちがいますよ」。「だったら精霊ですか」「いいえ、ちがいますよ」。「では、いったいあなたは何者か?」、お釈迦さまは「私は真理を知っている人です」とお答えになりました。
 この2500年むかしの古い話はそのまま、私がいまも語れます。すごいでしょう。
小飼  たしかに。そう考えると、ブッダの言葉は、別にブッダが言わなくても成り立つからこそ、真理なわけですよね。
スマナサーラ  そのへんもお釈迦さまはおっしゃるんです。私はいてもいなくてもこんなものだ、と。

真理に著作権はない
小飼  なぜこの話を持ち出したのかというと、現代では、だれかが言ったこと、あるいは見つけたことに関して、だれのものかということをひじょうに気にするじゃないですか、著作権ということで。本来であれば、真理に著作権もなにもないですよね。
スマナサーラ  仏教にはありません。お釈迦さまの経典ではこう言うのです。「太陽は雲に隠れていなければ、自分の本来の力を見せます」と。「月も、雲に隠れていなければ本来の姿を見せます。ですから、オープンで皆にアクセスできたならば、仏教の本当の力がわかります」と。
 だから仏教はだれかの特権になってはならないのです。宗教というのはどちらかというと密教的です。密教という仏教もありますが。たとえばキリスト教では神父様のところで洗礼を受けたりするイニシエーションがあります。聖職者は特権を持っているのです。
 仏教はそうではないのです。著作権はないのです。
小飼  生活している中で、究極の真理ということではなくても、ある種の真理を見つけちゃうということはよくありますよね。「これはだれが言っても成立するな」ということを、見つけてしまう。ところが、私たちは、それを最初に見つけた人にお金を払わなければいけないのです。

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ベーシック・インカムとベーシック・ニーズ

ベーシック・インカムの考え方
小飼  私はお金の流れについて、ひとつちょっとした提案をしています。人であればだれでも定期的に、一定のお金をもらえる社会保障の仕組みを考えています。ベーシック・インカムといいますが、すべての国民に無条件で定額のお金を配るのです。
 そうするととうぜん、そのお金はどこから出るのかという話になりますよね。その点については、社会相続でやろうと考えています。どういうことかといいますと、いままでは人が死んだらその人が遺した財産というのは遺族だけにいったのですが、それを社会のほうでぜんぶプールして、皆に配り直そうというふうに考えているのです。
 いまの生活保護のやり方というのは、その人の資力をきびしく見るんですね。おまえ、いま働いているのか、貯金はいくらあるのかとか。すごく、差別的なのです。役人に対して、言葉巧みな人であれば受給できるけれども、そうでない、本当に困っている人がもらえない。
 しかし、本当に困っている人だけにお金を渡すというのは、結局だれがいちばん困っているかということを見抜く質問というのが必要になります。それであれば、全員に一律配っちゃうというのが、いちばんフェアでわかりやすいですよね。
 私としては、いまの福祉政策のありよう、お金の再配分の仕方というのは、すごいヒンドゥー教的だと思うんですよ。役人が、だれがバラモンで、だれがシュードラかを決めているわけです。それをなくすために、平等にしちゃったほうがいいと。
 それで、どこからお金を集めるのかといったときには、死んでもう財産のいらなくなった人から集めるのがいいんじゃないかというのが結論です。お金そのものが必要ない、というふうになれば理想かもしれませんが、どんな最短距離をやったとしても、一足飛びには行けないと思うんですよ。

出家にはベーシック・ニーズがある
スマナサーラ
  ベーシック・インカムという言葉にはすごい意味があるんですね。とくに資本主義社会では、ない概念なんですね。自分の国ではよくこういう考え方を使ったりします。基本的な必要なものということ。
 私は経済、金の問題には携わってはならない身分だから、これは心の世界からアイディアを出すということになります。私たちの仏教では、ベーシック・ニーズという言葉なんですね。この言葉の場合は、どうにもなりません。猶予はないのです。これはニーズですから。生きる、ということは、いつでもなにか必要なんです。だから命をつなぐために、最低限の必要なものがベーシック・ニーズです。
 それは人がだれであっても、なくてはならない。もしなかったらとんでもないことです。だれかがサッサッとあげなくちゃいけないんです。
 われわれが出家するとき、ベーシック・ニーズを教えられるんです。出家するにははじめに儀式があるのですが、儀式というのも厳密な民主主義会議なんですけれど、とにかく会議が終わったら、「あなたは比丘になりました」と言われ、いろいろ告げられるんです。これがベーシック・ニーズです。
 まず、食べるもののいちばん最低の条件がありますと。「それだけあったら満足しなさい」というものです。それは、鉢にだれかが入れたもの、托鉢です。托鉢で生活しなさい、それが標準です。もし人がご飯を作ってくれたら、それはとくべつなこと、ついてたとか儲けたという気分になりなさい、ということです。
 そして服は、あちこちに捨ててあるものを縫い合わせて着なさい、それが標準であると。もしだれかがちゃんとした服をくれたならば、あなたはとくべつについてるんだと思いなさい。
 住むところは木の下が標準であると。もし、ちょっとした屋根のあるところ、洞窟で眠れたとしたら、けっこうついてる、余分に恵まれていると思いなさい。病気になったら牛の尿を飲みなさい。それが標準であると。もしだれかが薬をくれたりしたならば、これは標準以上、恵まれているということです、と。
 このベーシック・ニーズに、社会を幸福にするときのヒントがあるんですね。時代によって変動しますが、やっぱり5年ごとにでも、ベーシック・ニーズは認定して、みんなが理解したほうがいいと思います。そのベーシック・ニーズにも届かない人々を助けてあげる義務があるんです。皆が税金を払っているのだから、その義務は政府にあるんです。
 お金を配るからベーシック・インカムというんですけど、もっと具体的にいえばベーシック・ニーズなんですね。私から見ても、すごいかっこいい考え方だな、と思います。

ベーシック・インカムは楽な制度
小飼
  現実の問題として考えた結果、この考えにいたったわけです。ベーシック・ニーズを政府が理解して配るというやり方を実施するには、賢い政府が必要なわけです。ところが実際に政府はそこまで賢くないし、どうしても役人を養う分のお金を用意しなければなりません。この人はこれくらい必要だというのを一つひとつ見ていくというのは、ものすごくたくさんの数の役人が必要ですから、莫大なコストがかかってしまいます。
 でも、ベーシック・インカムならば、一律なのでそういうことは考える必要がいっさいないですよね。ベーシック・ニーズを配るためのコストが下がるのです。その費用をどうやって捻出するのかというところは、生きているうちは人間というのは気まぐれですから、今日は1億円寄付してもよさそうな気分の人が、次の日にはびた一文やりたくなくなってしまうものです。生きている限り、寄付に頼るというのはなかなか難しい。
 ところが、いま日本では、毎年80兆円の財産が、その持ち主を失っています。これを日本の人口で割りますと、だいたい1人ひと月5万円という数字が出るのです。これはベーシック・ニーズよりも、少し多いぐらいですよね。たぶん、比丘だと多すぎるかもしれません。
 日本は大乗仏教の国で、死んだら仏になる国ですから、その考えとも合致します。いちばん楽なんですよ。国が一生懸命頑張って、この人はこのくらい貧乏だから、このくらい与えるのが適当だよ、といちいち考えたりするよりも。

人間は成長しなくてはいけない

ホームレスのいない世界はかっこいい
スマナサーラ  その考え方から観察すると、結果としてはひとりもホームレスはいなくなりますね。
小飼  あえてホームレスを選ぶというのもありますけれども。本当の意味で出家して、という意味ですが。長老がおっしゃっているのは、家を得られない人たちですね。
スマナサーラ  自分で選んでホームレスをしている人は、みじめな生き方ではありませんから。ホームレスになりたくない人がなってしまったら悲しいでしょう。逆に経済大国といいつつも、ホームレスがいるということはアメリカほどではないかもしれませんけれども、これはちょっと、かっこ悪いんですね。
 まあ、私の国は仏教の国だからそういうことは最初から考えています。みんなに教育を受ける権利がある、人権だと。だったらそういうところは政府でやりますと。また最近まで、病気になったら治療を受ける権利は皆、平等だと。政府がやりますと。そういうことでやっていたんです。
 だから実際にわれわれの手にまわるお金というのは少ないんです。しかしお金はいらないのです。病気になったら大手術であったとしても病院に運ぶだけで、1円も払わないで退院する。1ヵ月間入院してもなんのことはない、食事までくれるのだから。
 それが「グローバリゼーション」とかいって壊してしまいました。金がある人だけやりなさいということです。向こうは頻繁に政府が変わりますけれど、いまの政府ではなく前の政府が壊してしまいました。
小飼  ですが実は、そっちのほうが高くつくのです。はじめから無料で配るほうが、かえって安いんですよ。いま、アメリカの個人破産の約6割は、医療費が払えないからです。それくらい、医療費が上がってしまった。仮に100万円持っているとしたら、15万円は医者に使ってしまうのがアメリカです。実際、病気になるかならないかというのは運の要素も大きいですよね。たぶん、社会保障の意味というのは、そういう問題を解決することで人々の不幸を減らせるということだと思います。

怠ける者よ働くな
スマナサーラ
  そういう話を言っても、社会は全面的に却下するでしょう。結局、資本主義社会で万全ということにはなりません。
 しかし一方で人間というものは本当にへんだから、たとえばベーシック・インカムが皆に入ってしまうと、怠けたい連中は怠けたいだけ怠けてしまうんですね。
 それから、能力がある人が問題です。開発したり発明したり、その能力を人類のために使わなければならない人がいます。彼らが、能力を開発する気がなくなってしまうとこれは危険です。
小飼  たぶん、ベーシック・インカムへの反対論で、いちばん大きいのはそこだと思います。なにもしなくてもお金が入ってくるならば、皆、怠けるのではないかと。でも逆に、その程度で怠けてしまう人には、怠けていてほしいのです。
 なまじそういう人たちが一生懸命に働くと、必要のないものを作り、売らなければいけない。だから、勤勉が似合わない人を無理に働かせる必要はない、というふうに思うんです。計算してみても、どう考えても、日本では半分ぐらいの人は怠けていてもらわないと、職の数というのが足りません。皆が一生懸命というのは、それはそれでけっこうやばいことなんです。日本のやばさの理由のひとつに、そこがありますよ。

人間の能力を止めてはいけない
スマナサーラ
  私がいろいろな人と話した経験から言いますと、まあ、見ただけでその人に秘められた能力というのが見えるんです。しかし、それを生かすには、勉強したり、訓練したりというそれなりの修行が必要です。
 ところが、はじめからはやりたくないということになる。私の言うのはエネルギーの世界ですが、心は回転したいのです。すごいエネルギーを持っているんですね。それをこの人は、強引に怠けを入れてしまって機能させないことにする。そうすると、爆破してしまうのです。破壊するのです。
 勉強しようと思えばできるけれどもやらない。仕事もやろうとすればできるけど、やらない。本当は頭がいいのです。能力はあるのです。でもやらない。あるいは文字を書いてもらったら、なかなかいいなあと思ってしまう人がいます。文字がきれい汚いではなくて、内面的な能力を見ますから、けっこう能力があるということが見えます。けど、やらない。
 仏教者の偏見かもしれませんが、なにごとも進化を止めてはならないのです。進化は欲でやるものではないのです。おっしゃったとおり仕事をするのは面白いのですから。人はそれが欲しいのです。
小飼  そういう、仕事が面白いという人たちが、ちょっと頑張っちゃうだけで食えるほど、もうものを作れるようになってしまったのですよね。まずそういった、必要以上に作れるようになってしまったという厳然たる事実があり、進化したゆえにもう止められないんですよね。
 ベーシック・インカムをやっても大丈夫だと思うのは、結局のところ、世の中で大事なものを作っている人たちというのは、好きでやっているんですよ。だから預金が増えようが増えまいがやっているわけです。

人間は進化している
スマナサーラ
  人間の社会は、ホームレスはいる、飢えになる、ペニシリンさえなくてたくさんの子どもたちが病気で死ぬ。世界全体を見ると、やり方がまずいのでしょうね。
小飼  たとえば魚などは、進化したとされるものほど、多く卵を産んで多く死ぬんですね。マグロなんかは1億個くらい卵を産むのです。しかも、食べ物がないところになぜか卵を産むんです。
 じゃあ、子どもたちはなにを食べるかといったら、自分の兄弟を食べる。共食いをしている。共食いで育つので、あっという間に数が数百匹になって、これが大人になっていくのです。けれども、つい最近までは人間ですら、子どもが死んだら産み直せばいいじゃん、という発想だったんですよね。
 日本も、つい100年前まではそうでした。ある田舎の交番の電話の記録に「うちの子どもが熱を出したんだけれども、医者に連れていくのと、葬式を出すのとどっちが安い?」という記録があります。本当の話です。人間社会でそれが当たりまえだった時代があったけれども、それがよかったと思っているわけではないですよね。そういった意味ではやはり、進化はしているんだと思いますよ。

進化を運転しなくてはならない
スマナサーラ
  進化は止められません。止めようとすることはばからしい。進化というのは車みたいなもので、われわれは運転しなければいけない。それだけのことなんです。どうしたって車は動くんだからといって、アクセルに石を置いておくとか、それじゃいけないのです。運転をしなくてはいけない。
小飼  でもそういうことは、たくさんありますね。難しい何々宗とかいうのは、念じていれば車が念力で動くのではないかなんて言って(笑)。おかしいですよね。
スマナサーラ  やはりわれわれは、進化というものをちゃんと運転しなくてはいけないのです。基本的な仏教的な立場というのは、すべての生命は幸福であるべきである、理由は、一つひとつの生命は幸福になりたいから、です。個人で見れば、苦は、嫌なのです。個が苦が嫌ならば、一切生命が苦が嫌なのです。当たりまえの話です。
 そうならば、それを目的にして生きるのは当たりまえでしょう。矛盾はありません。生命はそれをする能力を持っています。人間は、人間なりの能力を持っている。サルはサルなりの能力を持っている。サルはサルの群れで幸せに生きているでしょう。しかし私たちがサルの森まで奪ってしまうとサルは幸せでいられなくなります。そうするとサルは人家に入って物を奪ったりする。それは人間が失敗した、余計なことをしたという証拠なのです。

人類の役割、人それぞれの役割
スマナサーラ
  いっさいの生命は幸福であるべき、ということを知ったのは人間だけだから、われわれに義務があるのです。しかしそれにはまず人間が問題なくすごす、おだやかに生きなくてはならない。それにはベーシック・ニーズ、ベーシック・インカムという概念はどうしても必要なのです。
 その中で「おれはたくさん欲しい」というと成り立たない。あなたはただひとりの人間です、胃袋がふたつあるわけではないんだと。これは母がよく言っていたことです。私の家は貧しかったので、いつもお腹を空かせていました。もっと欲しい、もうちょっとくれと言うと、皆に平等にあげているのだからいい加減にしろよと言われます。

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理想の政治、理想の国家

ブッダが伝えた理想の政治
スマナサーラ  また、むかしは王政でしたから、お釈迦さまは王様に言うのです。動植物を守ることもあなたの責任だと。また、もしどこかに泥棒がいたら、それは王であるあなたが悪い。人はもともと泥棒をしたいわけではないのに、どうしようもなく泥棒をするはめになった。それはあなたのやり方が悪いからだと。ベーシック・ニーズをあげなさいということをお釈迦さまは政治家に言っているのです。ベーシック・ニーズを、お金という記号にするとベーシック・インカムになります。
 そのとき、能力向上にも気をつけています。能力のことを言う場合、こういうふうに言うのです。農業に能力のある人は農業をやりたいでしょう。ですから政府が、土地と、種とか、必要なものをそろえてあげてください。そうすればその人は喜んで農業をやるでしょう。しかし収穫は本人の必要の量を超えて余分になるのは当たりまえです。余分なものはぜんぶ政府が持っていくのだと。だってお金にならないですからね。商売をやる能力があって商売をやりたくてたまらない人々もいます。じゃあ、資金をあげなさいよと。
 そういうふうに、技術を持っている人、芸術を持っている人、能力のある人はそれを使いたいのですよ。歌える人は朝から晩まで歌いたくてたまらないのでしょう。ならば必要なものを与えて思う存分歌わせる。そのようにしてあげる。
 そうなるとあれが欲しい、これが欲しいという気持ちが消えてしまうのです。国がぜんぶあげているので、自分が喜んで働いたところで余計にたくさん収入が入ってしまう。あの余計な収入分を政府に納めておく。お釈迦さまが考えた税金は国民が強引に自分の意思で政府に納めるべきものなのです。政府が法律を作って罰則で脅して強引に奪い取るものではないのです。
 そうすると、政府が豊かになり国民も全体的に豊かになって貧しさも消えます。そういった中でも仕事ができない人、たとえば障碍を持って生まれたとか。それはだれのせいでもないのですから、みんなと平等に豊かに生きてほしい。あるいは60歳になったけれども、とつぜん病気で寝たきりになったとします。これはその人の責任ではないでしょう。それであっても、その人は死ぬまで、生きててよかったね、というふうに生きていてほしいのです。動物も同じことです。皆が、ああ生きていてよかった、と思えるようにすることが政治というものです。

借金をしたら失格
小飼  そこまでは福祉国家に限らず、資本主義にどっぷりつかった人ですら、納得がいくところなんですが、資本主義を知っている人はふた言めには「じゃあ、そのお金はだれが出す」ということになるんですね。これにきちっと答えない限りは、ベーシック・インカムは単なる理想で終わっちゃうと思ったので。
スマナサーラ  だれが出すと言いますが、政治というシステムがあるのだから、それは国民がつくったシステムなのです。政府が出すことに決まっています。政府は国民を管理するのですから、管理者が出すのです。
小飼  そのとおりです。その管理者が国民からお金を集めるときに、どうやって集めるかというのがありますが、いまの日本がやっているのは、借金なわけです。将来の子孫が払ってくれると。これは、子どもはたまったものではないですよね。
スマナサーラ  借金をしたら失格です。その政府をくびにしなくてはいけない。政府という会社を頼んでいるのに、会社が赤字だらけになったら仕事をする資格はないでしょう。一日で選手交代しなければいけない。これが仏教的な立場です。

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エピローグ

社会を壊してはならない
スマナサーラ  こんなにものの見事に同じ考え方の人に会ったことがないですね。まるまる仏教的思考なのですね。ご自分で自分を仏教徒だとは思っていないでしょう? 自分でたんたんと考えているだけでしょう?
小飼  長老が「仏教は宗教ではない。心の科学だ」とおっしゃってくださったので、私も安心して話せました。そうでないとしたら、もしかしてブッダはこういうことを言っていたかもしれないけれども、私は少なくとも仏教徒とか、何々教徒というふうに見られるのは御免こうむるという考えがあったので。
 皆が出家する必要はないし、ブッダもそれを望んでいるわけではないというのを聞いてすごく安心しました。
 私は出家する人を見送る側にいるのも悪くないな、と思っているんです。自分が旅に出る側ではなく。少なくとも、比丘の方にはだれかバックアップする人がいたほうがいいですよね。出家する人を応援しつつ、自らは俗にとどまるというのも悪くないな、と。
スマナサーラ  社会は壊してはならないのです。社会はシステムです。システムというのは食い争うものではありません。みんなシステムの使い方を間違えていますね。システムの一個一個の歯車が大事な仕事をしているのです。一個一個の歯車をちゃんと守ってあげないと、壊れますからね。私たちはそこをやっています。よく壊れますから。
 身体はシステムですが、身体の細胞が死んでいくことは止められませんし、細胞が死ぬことが生きることなんです。ですから死は避けられません。老いることは避けられません。生まれた瞬間から老いていくのだからね。

命の締め切り
小飼
  それは本当に、ありがたいことです。というのは、永遠の命があるということは、諸行無常が無意味になるということじゃないですか。いくらでもやり直しがきくわけですからね。どんなにひどいことをしても、ひと晩寝ればまた永遠の明日が待っているわけでしょう。そんなのは勘弁してほしいです。
 それに、僕はすごく自堕落なので、締め切りがないと仕事ができません。人生に締め切りがあるというのは、すごくありがたいことですよね。
スマナサーラ  命の締め切りは、悟りに達することです。解脱するということ。そこに早く達すると、すごく楽になるのです。われわれの言い方は、まずすばらしく生きて、最後だけでも頑張ってくださいと。日常の仕事などは軽い気持ちで頑張ってくださいと。家族のことや子どものことや仕事や。それは軽い仕事で、もうひと仕事ありますよ、と。そう言うのです。
小飼  言うは易しなんですけれども、実践するのは難しいですね。
スマナサーラ  いやいや、それはね。
小飼  でも、ブッダが生きていたのは2500年前ですよね。その時代に、こんな教えがあったとは、やっぱりすごいとしか言いようがないです。

(了)

小飼弾[著]『働かざるもの、飢えるべからず』(サンガ、2009)第2部より転載。

2022年2月1日(火)、スマナサーラ長老と小飼弾さんの13年ぶりの対談をオンライン開催決定!
「人間を超える~光の速度は遅すぎる」
https://peatix.com/event/3140576/view

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