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理想の社会をめぐって(第2回)

第2回 「ブッダと悟り」
アルボムッレ・スマナサーラ×小飼弾対談

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ブッダと悟り

苦しみを求める心理
スマナサーラ
 人は悩み苦しむことが得意ですけれども、好きかどうかというところが問題です。好きであれば悩んでいればいいでしょう。でも、悩んで、それでも頑張っているのはどうしてでしょう。
小飼 「頑張っている自分が好き」という人は多いですね、とくにこの日本では。
スマナサーラ  やはりだれでも「好き」とか「楽しいこと」を目指して生きているのです。そこに矛盾がある。皆、矛盾を生きています。仏教は矛盾について教えようとしています。
小飼 おまえは好きで不幸な道を選んでいるのだろうと。好きでやっているのであれば、助けようがありませんね。
スマナサーラ  平気で言います。好きで勝手にやっていることでしょうと。幸福になりたければ、しっかりと計画を立てて幸福への道を選べと。
 個人的な相談では、けっこうあります。勉強ができないんだ、集中できないんだ、などという人。そういう人に私は、「あなたは本当は勉強をしたくないんでしょう。落第したことを喜んだらどうですか」と言います。そう言うと相談してきた人は嫌な顔で私のことを見ますが、私は矛盾には乗りません。

ブッダは悟りを奪わない
小飼
 そう考えてみると、たしかにブッダはやりたいようにやってきた人ではありますね。やりたいという気持ちをやりたいままに放っておくのではなく、どうしてやりたいのかということを、とことんまで考えた人ではないかと思います。
スマナサーラ  やりたいことを科学的に、厳密に考えたのです。
小飼  私は自分がこのままやりたいようにやっていくと、悟ってしまうのではないか、という気がするときがあります。ブッダを侮辱しているように思われると申し訳ないのですが、長老の言葉を聞けば聞くほど「悟りとはそんなに難しいことではないのだ」と思うのです。教典などに書いてあるものは、いったいなんだったのでしょうね。
スマナサーラ  ブッダの経典を私は原語で読めますが、読むとこの年になってもびっくりすることがあります。なんと見事に語られているのかと。
小飼  すごいと思うのは、ブッダが悟ってからの行動です。バラモンのソーナナンダとの問答でも、ブッダは質問しかしていなくて、バラモンになるにはなにが必要ですかと聞く。5つ必要な条件がありますと。「これをなくしても成り立ちますか、これをなくしても成り立ちますか」とそれしか言っていないですよね。人が自力で悟る、自ら賢くなるチャンスを奪っていない。私にとっては、ブッダが悟ったこともさることながら、人から悟るチャンスを奪わなかったということがさらにすごいと思います。
スマナサーラ  それが仏教のやり方なのです。

正しい質問
スマナサーラ
 能力のない人というのは一方的にしゃべるのです。自分が知っていることをとにかく一方的にしゃべるというのはよくありません。すべてを知っている人は、相手の情報を整理整頓してあげるのです。完成させるのは本人です。プライドも奪わないし、人権も侵害しない。お互いに気まずくもならないで、すごく自由に対話が終わるのです。
小飼 「奪わずして与える」というのは、まさにこういうことなのだと、いまや私も二児の父なので余計にわかります。私も子どもに、答えをすぐに言いたくなってしまうほうです。8割くらいの場合は、そうしてしまっています。それも子どものことを思ってではなくて、自分が言ってすっきりしたいからそうしているのです。
スマナサーラ  そうすると、人権侵害になってしまうのです。私には子どもはいませんが、子どもとかかわることはよくあります。そういうとき、私は決して「こうしなさい」とは言いません。代わりに「こうしたらどうなるの?」とか、質問をします。子どもはなにかのゲームをやっているように答えます。そうして質問に答えているうちに、「自分でやるしかない」ということになるのです。
小飼 つい答えを与えてしまいそうになるのは、まだ悟りが足りないと思うところです。1で止めておかなければ言いすぎだと思いながら、3まで言ってしまうんですよね。さすがに、10までは言わなくなりましたけれども。そういう自分の悟りきってない点がわかるということや、もう少しなんとかなるのではないかな、と思えることは幸福だと思います。自分に愚かな点があると思うと、幸福になれます。「あ、またやることができた」と考えるからです。
スマナサーラ  自分にやることができると楽しくなるんです。自分の宿題をやることができるということが楽しい。悟りの道とはそんなものです。最終的には、もう終わった、宿題はない、完了だと思うところが悟りなのです。

ブッダが出した宿題
スマナサーラ
 悟りの過程では無数に宿題は出てきます。ふつうに生きてみるだけではすべての問題が顕れてきません。ですから一般の方法では悟りまで達しないといえます。生きるとは、生命とはなにかと、客観的に科学的に学んで、人間にとって生命にとって、どれくらい問題は成り立つのかということは別に学ばなくてはいけないんですね。
 そう言うと観念的で現実的にはあり得ない話のように聞こえるかもしれませんが、仏教はその方法を具体的に教える早道なのです。人間に起こり得るすべての問題、解決するべきすべての宿題、それらを明確に発見して整理整頓して「これに限る」という調子で語っているのです。俗世間から見ると、仏教はへんなことに興味を持っているように感じるかもしれません。しかし「どうすればお金が儲かるのか」だけを考えているような人間の生き方は、仏教から見るとへんなのです。
 なにをしてでも生き続けたいと決めつける前に、生きるとはなにかと、その中身を発見することが先決だと仏教は思うのです。「無常」という真理から「成長」「進化」という概念が成り立ちます。「変化」は真理で変わらない。それなら「変化」を「進化」にするべきなのだとするのです。しかし人々は変化を進化に変えるのではなく、どうすれば変化を止められるのかと、無駄な努力をしています。その無駄な努力に発展、進歩、成長などの単語を使っています。この言葉の使い方は間違いです。
 生きるとはなにか、生きるうえでどのような問題が起こるのか、とまず明確に知って、起こり得る問題をひとつずつ自分の宿題として解決していく道。つまり変化を進化に変える道が仏教です。世間の生き方は進化ではなくて単純な回転です。仏教はぐるぐる同じところを回っているだけでは困る、進化しなさい、と言います。グラフであれば、右肩上がりに上がっていってほしいのです。

悟りへの階段
小飼
  ブッダくらい賢い人であれば、たぶん頂上までいちばん短い道を歩むことができるのだと思います。ただ、私などはそうではないので、らせん階段を上がるような生き方というのもありなのではないかと考えたりします。まっすぐ上るというやり方はブッダがやってしまいましたから、同じやり方をしても芸がないだろうと。
スマナサーラ  そういう道はありますが、どこかでこけてしまって、らせん階段がつながる可能性はあります。おっしゃることの意味はわかります。ですが、仏教は科学ですから、飛行機を飛ばすやり方といっしょで、ひとつのやり方でやるしかないのです。芸がないと思っても、自分の好きなようにいじってしまったら、死ぬだけなのです。
小飼  私には「死なない程度には失敗したい」という気持ちがあります。どういうことかといいますと、失敗して「ほら、言ったこっちゃない」というのを自分に聞かせたい。痛い目に遭っておかないと、自分が幸福であるという状態を考えられないのです。こうやると、もしかしたらうまくいかないかもしれない。やっぱり、うまくいかなかった。そして、なんでうまくいかなかったか、というのを考える過程で、「うまくいかなかった」事実を身をもって知っておかないと、ピンとこないのです。

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プロフェッショナルの思考法

仕事の現場で起きていること
スマナサーラ
  小飼さんのお話は成長する人の性格ではありますが、余計なことや、まったく無意味なことを、やっぱりやりますかね。
小飼  無意味なことが、無意味だとわかるということは、無意味ではないですよね。「ここのあたりにらせん階段があるな」と感覚的にわかるとでもいいますか。
スマナサーラ  「無意味」と「わかる」ということは、別な話です。
 私がプログラムの制作を頼むとしましょう。それに対して、まあ問題が出てきたらあとで直せばいいやということで、適当なものをいい加減に作る。それを納めて、あとはアフターサービスをしますから、ということで、電話がかかってくるたびに何回も手直しをする。1年かけて何百回と直したところで、やっとうまく動くようになる。そういう道を選ぶか、「この程度のことは自分がぜんぶ知っているのだから」ということで、一発でオーケーになるものを納めるか、そういうことです。
小飼  これは実は両方なのです。プログラムというものに関しては、お客さんが、自分の本当に欲しいものがなにかを知らないことが多いんです。
スマナサーラ  その場合は仕方がないですね。
小飼  人と仕事をするときには、自分がいくら悟っても、自分だけでは迷いが生じるか生じないかということは決められないのです。私はそういうときには「迷うことを、迷わない」というふうにいまのところは決めています。自分だけでは決まらないものがある以上、そこにらせん階段が待っているかもしれないよ、というような感じです。自分がお客さんの場合は、そういうことはありません。
スマナサーラ  お客さんのほうがはっきりしていない場合は、何回も手直しすることになりますが、それは仕事に手を抜いたということにはなりません。お客があまり定かでなくても、この人に必要なのはこれでしょう、と思っていちばんいいものを作って出す、それが最短距離です。それをしてもお客に欲が出て、「やっぱりあれが欲しい」となっても、こちらの責任ではないですしね。
小飼  よくあるケースですね(笑)。

プロの仕事とは
スマナサーラ
  このあいだ、私は、ある業者に仏像の金箔貼りをお願いしました。見積もりをとったら東京の業者は15万円。京都の業者は45万円。ずいぶん差がありました。私は、どちらの仕事ぶりも見たことがありました。京都の業者はもう完璧。15万円のほうの会社は、それとはぜんぜんちがいました。ただ金箔を貼るという仕事なのですが、ちがいはあるのです。
 私は45万円の業者のほうに頼んで、信頼して任せていました。京都の仏師で、伝統の流れをくんでいるでしょうし。しかし仕事が終わって、持ってきたものを開けてみたら、ひどい出来だったんです。しかもあとで、メールでここは難しかった、あそこはどうだったなどと、いろいろと言ってきます。
 私は文句を言いました。「あなたたちは職人だから仕事を頼んだのに、なんですか!」「最終的な結果がものの見事に仕上がって、頼んでよかった、と思うようにならなければ意味がないんだ」「15万円の業者もいたのに、仕事を信頼して45万円のあなたのところに頼んだのだよ」と。そう言うと、「すみません、言われたとおりにはやってあります」と言う。プロフェッショナルには「こうなるべきだ」と、プロのレベルを考えて仕事をしてほしいわけです。仕事を見て知ったうえで頼んでいるのだから、決してできないわけではない。なにかがおかしいと感じざるを得ませんでした。そういう仕事を私は「手抜き」と言います。
 しかしふつう、手抜きをする人は淘汰されます。お金を儲けるのはかんたんだといっても、手抜きするかしないか、仕事にプライドを持っているかいないかは問われます。プロというのは、自分の仕事にプライドを持って、仕事をすることが楽しく、仕上がりも早くて、出来は完璧、満足感もある。そういうものです。そして、仕事を頼まれたら、完璧にやることはもちろんですが、たとえ相手が約束の金額を払わないで逃げまわっても、自分の仕事は文句を言われないようにするのです。
 1千万円の仕事を約束したのに、200万円しか払われなかったら、腹も立つでしょう。ですが、「これは額面がちゃんと払われないかもしれない」と思っても、手抜きはだめです。そういう人はお金を払ってないくせにいろいろ言いがちです。自分のプライドが傷つく結果になります。ですから、本当のプロというものは、お金を考えないものなのです。お金をくれるのは常識です。未払いなら裁判にかけてもかまいません。だからといって仕事は手抜きをしてはいけません。
 それは医者の仕事を考えるとよく理解できます。医者はお金を取りますが、診る前に「あなたはお金を持ってきていますか」とは聞きません。お金が足りないとしても、手を抜くことはまずありません。

小飼弾の思考法
小飼
 見積もりのない仕事ほど、手が抜けないものです。私がいままで作ってきたものを見ても、無償で出したもののほうが出来もいいですし、結果としてお金につながっています。
 私はけっこう、無償でプログラムを配っているのですが、そのおかげで名前が知られるようになりました。ライブドアの前身である、オン・ザ・エッジという会社も、それを見て私に役員になってくれと言ってきたのです。お金のことを考えないでやった仕事のほうが、お金になるということについて、なぜなのかはまだ理由はわかっていないのですが、経験則としてはかなり正しい考え方だという気がします。
スマナサーラ  すばらしい考え方ですね。私は同じことを説法でよく言います。人はなにかを無償で配るとしたら、出来の悪いものは配りたくないんですよ。
 お金は期待しないで、見返りを考えないで、「人の役に立ってほしい」という考えだけで動けば、この世の中でだれも不幸になることはありません。
小飼  やはり、いちばんいいものを出してしまいますね。でも、それをしてしまうと、今度はお金を取るときも「無料のほうでこれだけやっているのだから、お金をもらうならさらにこれくらいするよな」と勘違いする人が多いのではないでしょうか。
スマナサーラ  そうはならないのです。むしろ、100万円を報酬としてもらうなら「100万円程度の仕事」で終わらせてしまうのです。自分にはもっとすごいものができるかもしれないけれども、「100万円ならこれくらいだろう」と思って、その程度のことしかしないものです。
小飼  なんの役に立っているのかというのは、人になにかをしたときにはわからないと思われませんか。私がなにかやったことがどれだけその人の役に立っているのだろうかということはすぐにはわからない。お金ってひどいなあと思うのは、それを無理やり可視化するところなんですね。金額をつけて、「おまえはこれだけやったことにしました」というわけです。「これは100万円なんだ」と言われちゃうと、まさに100万円の価値しかないわけです。「これは200万円分やったのだ」と感じる人は損した気分になりますね。
スマナサーラ  いつでも心しだいでしょう、なんでも。

尺度が問題
小飼
 長老は「だれでも出家できるわけではない」と最初におっしゃいましたが、心しだいだと実感できる人が少ないというのもやはり事実ではないでしょうか。残念ながら、お金しかはかる尺度を持っていない人というのがまだいっぱいいるということもあって、私はまだお金を捨てられずにいます。
スマナサーラ  お金しか尺度のない人というのは、苦しいものだと思いますよ。たとえば最近、アメリカのGMという会社が倒産しました。あれは、お金以外なにも考えていなかったのです。威張って、役に立たない恰好の悪い鉄の固まりとしか言いようのない車ばかり作って。職人さんたちに喜びや充実感を与えなくてはいけないのに、そういうことをなにもしなかったのです。
 顧客に対しては「おれがGMだからわれわれが決めた値段で買いなさい」という調子でした。「だったら倒産してください」ということになるのです。
小飼  ずいぶん時間がかかりましたけれども。
スマナサーラ  勝手に倒産するのはいいけれども、みんなを引きずって倒産するでしょう。リーマン・ブラザーズ証券みたいなものも、極限の犯罪者なのに、ひとりで倒産するのではなしに、世界を引きずって倒産するのですから。
 ですが、そこで引きずられる場合は、われわれも汚ないのです。私たちもそういう思考でいたから引きずられるのです。

本当のことを言うと叩かれる
小飼
 どう考えるのがよいのでしょうか。「引きずったリーマンたちが悪い、GMが悪い」と思うのか、それを見抜けずに引きずられた自分が悪いのか。私は、自分が悪いと考える派です。でも、この派がいかに少ないかというのも強く感じています。みんながGMを責め立てているときに「でも、それに乗ろうとした自分たちも悪いのではないか」などと言えば、おそらく袋叩きにされるでしょう。ときどきブログに書いたりするとぼろくそに攻撃されたりします。
スマナサーラ  はっきり言うと怒られるかもしれませんが、だれかが言わないと、ずっとこんなことが続くでしょう。それもまたよくないことです。
 このままでは、経済がいくらか調子がよくなっても意味がないでしょう。同じことの繰り返しで、また倒れることになりますから。前のバブルでひどい目に遭ったのに、なにも学んでいませんよね。
 リーマン・ブラザーズが破綻したときも、私はこれはたいへんなことだと思い、日本社会が手を打っているのか調べてみました。しかし、なにも手を打っていない。日本の経済評論家たちは気楽なものでした。やっぱりバブルのときにも学んでいないのだと理解しました。

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学ぶ力と育てる力

人が育つ仕組み
小飼  学ぶか学ばないかのきっかけが、あいつが悪いと思うか、おれが悪いと思うかのちがいなのです。「おれが悪い」と思わないと、自分というのは学びませんよね。
スマナサーラ  そうです。お釈迦さまも、他人に指をさすなよ、それをしたら終わりだ、とおっしゃっています。もしだれかが殴りに来たなら、よければいい。逃げればいいのです。
 やはり自分の欠点をはっきりさせることが、人間にとって大事なのです。子育ての場合でも、子どもが自力で発見できるようにしてあげるのがよいのです。そうすれば、親が子どもに対して、欲望を持って期待するよりもずっと成長します。親というのは子どもに、いろいろな親自身の夢をかなえてほしいと思うものです。それは愛情というより愛着です。
 子どもを親のプログラムで動かすということは、情けないことです。子どもは自分で自分の問題を発見することになれば、親には想像できないくらい、成長します。どこまで成長するかわからないのです。自分で答えを出してしまう親というのは、子どもの将来を小さくしてしまいます。
小飼  いちばんだめな親というのは、子どもがなにか欲しいと言ったときに、与えてしまう親でしょう。むしろそれだったら、子どもが死なない程度に殴っても意に沿わせる親のほうが、まだましなのではないかと思うようになりました。私がまさにそういう育ち方をしているものですから。

求めるものをはっきりさせる教育
小飼
 私の父親は、自分勝手な人だったんです。私の欲求があって、父の欲求があったとき、かならず父の欲求を通すタイプでした。私はそこで、「ここにいたら私の欲求は通らない」ということを学びました。そして、じゃあどうすれば自分の欲求が通るようになるのか、というふうに考えるようになったのが、私の自我の出発点だったと思います。
 このときに、私が欲しいといったものをぜんぶ与えられていたら、絶対にいまの自分はあり得なかった。ただ、殴られたのは痛かったです。死にかけたこともありました。そういう目に遭いもしましたが、振り返ると欲しがるものをぜんぶ与えるような親でなくてよかったと思います。
スマナサーラ  そのとおりで、子どもにとって育ち方は大事です。親が子育てに成功したというよりも、その子どもがどんなアプローチをするか、ということが大切なのです。
 いま、おっしゃったケースでも、自分がどのように問題を見ているかが問題となります。自分の欲しいものが与えられないのだから、そのために自分はどうしたらいいかということを子ども自身が考えるということです。親にではなくて、自分になにを要求するかということなのです。
 つまり、あくまでも自分の課題でなくてはならないということです。私がよく言うのは、「親の愛情というのは、ただでもらえると思ってはいけない」ということです。親の愛情は買うもの、親に愛されたければ、あなたはそのぶん仕事をしなさいと言います。私自身、大家族でしたから、親はかまってはくれませんでした。子どもですから、親に愛されたいしかまってほしい。「いい子だねえ」とちょっと背中を叩いてほしいのです。ですから、親に売り込むために一生懸命頑張りました。自分を売り込んで、親が買ってくれれば「おまえはいい子だ」と言ってくれる。それがとても嬉しいのです。
小飼  買ってくれるかどうかというのも、相手しだいですよね。私の場合ありがたかったのは、家以外の世界があるということに、かなり早くから気がついたことです。父親に対しては、この人はなにをやっても喜んでくれないなと感じていました。しかし、同じことを他の人にすれば、喜んでくれたり「すごいね」と言われたりする。ですから出家という意味ではありませんが、家を出ることにしたのです。

子どもを破壊する教育
小飼
 日本は自殺が多い国ですが、自殺してしまう人というのは、家の外の世界を知らない虐待児のようなところがあると思います。なにをやっても、喜ばせることはできないなら、もう死ぬしかないと考えてしまう。ところが、一歩外の世界に出れば、買ってくれる人というのはいくらでもいる。大人になってびっくりしたのは、世の中ってなんて甘いところなんだろうということでした。家にいたときには、こんな人生がずっと続くのかとげんなりしていたのに、一歩外に出てみたらこんなに楽なんだ、と。少なくとも、自分でこういう場所に行けば不幸は避けられるな、という選択ができますよね。
スマナサーラ  子どもはいくらでも甘えて、親はなんでも与える。そうして子どもをだめにする親がいます。その子どもたちが大人になって社会人になったら、社会はきびしいな、と感じるでしょう。社会は王子様扱いをしませんから。
 そうすると人生がだめになってしまうのです。ひきこもることになる。
 もうひとつ問題なのは、なにをやっても親が喜んでくれないとか、ほめてくれないと思っていて子どもが自分で頑張らない、仕事をしない家です。そういう人々も社会に出られません。社会に出てもだめ、家にいてもだめで、自殺しなくちゃいけなくなります。自己破壊にいってしまうのです。

ブッダの教育法
スマナサーラ
 人間一人ひとりの問題は、その一人ひとりにあるということです。自分が頑張って仕事をしなければいけないのです。この法則は基本的なことなのです。
 お釈迦さまも、自分自身で真理を発見しなさいとおっしゃっています。自分で追求して、そのあとで「あ、なんだ」と発見するのです。
小飼  本当に、ブッダが悟ったあとの説法というのはすごいなと感じます。本来、悟ったあとは、だれもいないところに行ってしまってもよかったはずですよね。
スマナサーラ  もう説法しても関係ない、余計なことをする必要はないんだ、とおっしゃっていますからね。それでもやっぱり人を助けるのはだれでもするべき仕事ですからね。悟ろうが悟るまいが基本的な仕事だから、人助けをものの見事にやったのです。
小飼  見事なんですけれども、でも、見事な人のジレンマというのもあると思います。たとえば、子どものころ貧乏だった人が大人になると、つい子どもに物を与えすぎてしまうのではないでしょうか。もっと言いますと、自分が苦労してうまくいったおかげで子どもあるいは弟子が、スポイルされてしまうということがかなりあると感じるのです。
スマナサーラ  それはジレンマではないのです。善良な人が、自分が豊かになったところで子どもになんでも与える。なぜそうするかといえば、自分の過去に対する不満をなんとかしようと思っているからなのです。親の自分勝手な行いです。子どものことを本当に考えているわけではないのです。
小 飼  子どものことを考えるときに、与えすぎてはいけないな、というのは理解しています。ですが、かといって自分の父親のようにふるまうというのはもっとできない。じゃあどうする、というので悩みが生まれてきます。

自分の問題であると気づかせる
スマナサーラ
 どんな時代の人間も、金持ちの子どもであろうと貧乏な子どもであろうと、「できること」は自分の宿題を自分でやるということです。
小飼  少なくとも私が決めているのは、これはおまえがやることだよ、という態度を示すことです。先ほどもお話ししましたが、私のほうが器用にこなせるとしても、自分でやらせる。ブッダのように上手にはできませんが、子どもからそういう機会を奪ってはいけないな、というのはいちばん自分に言い聞かせていることです。なかなかうまくいきませんが。
スマナサーラ  うまくいくわけはないのです。私にも弟子たちがいますが、同じように「自分の問題でしょう」という態度でいます。
「勉強しないで遊んでいて、皆にばかにされるのは嫌でしょう」と言いますが、それでもなかなか自分の問題だということを理解してくれません。
小飼  まどろっこしいですよね。それほどまどろっこしいことを、まどろっこしいからといって投げなかったブッダはすごいなあ、と。ブッダの説法は、頭のよい人には頭のよい人に向けた話し方をするし、そうでない人のためにはそうでない人のための話し方をする。自分が悟っているだけではなく、その人がどういう状態にあるのかというのを見抜く力というのがすごいですよね。
スマナサーラ  それもだんだんできるようになることです。

仏教はだれに向かって語っているのか
スマナサーラ
 お釈迦さまは頭がよいか悪いかではなくて、「人間に語る」のです。皆、人間です。お釈迦さまの時代は格差がひじょうに激しかったですから。頭のよい人は究極に頭がよいし、金持ちは究極に金持ちだったでしょうし。古代のインドは、子どもには勉強させなくてはいけないという世界ではありません。ですから、文字ひとつ知らない人々もいました。奴隷の家に生まれて、死ぬまで奴隷だった人々もいました。
 ところが、お釈迦さまは究極の真理を、だれにでも関係なく教えていくのです。おまえは奴隷だから奴隷にはこんな程度だ、という差別はないのです。奴隷であろうが主人であろうが、知識人であろうが、無学の人であろうが、結局はただの人間でしょう。なんの差もないのです。
 仏教は人がかぶっている知識などのさまざまなかぶりものをめくって、その中に隠れている人間に語るのです。私たちも、社長、課長、社員、大臣、議員、小学生、中学生などのかぶりものの裏にいる人間を発見したらいかがでしょうかと、思います。人間を「人間」と見れば、奴隷には奴隷らしく、知識人には知識人らしくなど、話すべき相手によって差をつけるべきだ、という問題はなくなります。お釈迦さまは優れた知識人にも教養はまったくない奴隷にも、同じ真理を語って悟りへ導くことがおできになったのです。
小飼  「この人は奴隷だからこう言わなければ伝わらないな」とかいう区別はありませんか。差別ではなく、たとえば、英語しか知らない人に日本語で話しかけてもそれはノイズにしか聞こえませんよね。そういった意味です。
スマナサーラ  それはないのです。
 たとえば奴隷がいる、奴隷にも悩み苦しみがいっぱいある、彼らはやっと生きているだけです。しかし、奴隷たちの主人にしても同じことです。奴隷からすると、王様は一生に一度会うかどうかという人で、それにひきかえ主人は王様と食事をしたりしていいなあと思うかもしれません。しかし、主人にしてみても、たとえ奴隷をたくさん抱え、財産がたくさんあったとしても、ちょっとしたことが王様の気に入らなかったり、あるいはだれかが嘘の告げ口をしただけで首が飛んでしまいます。主人は主人で、いつ首が飛ぶかわからない命がけの苦しみの中にいます。そこでお釈迦さまは語るわけです。お釈迦さまにとっては相手に奴隷も金持ちもないです。どんな人もアメリカ式にファーストネームで呼びますからね(笑)。 

時代や立場が変わっても変わらないこと
小飼
 人間であることは共通ですけれども、その人が抱えている悩みというのは、それぞれではないでしょうか。
スマナサーラ  それは見方によりますよ。ご自分の仕事で考えてみていただきたいのですが、プログラムとかエンコードとか、そういうことはかなりややこしい仕事ですね。目を閉じてもできるということではなく、それなりに真剣にやらなくてはいけない。小学1年生の宿題というのは、あなたにとっては難しいものではないでしょう。しかし小学1年生にとっては真剣にやらなければできない。そういうことです。
小飼  ですから、同じように言ってはいけないと……。
スマナサーラ  いえ、苦しみは同じなのです。10ー6は……、と子どもはぎゅうっと考えます。あなたには10ー6は問題ではないだろうけれども、プログラミングに関しては、同じように悩むのではないですか。ですから悩みの量で見ると、年もなにも関係ないのです。「人間」ということなのです。
 たとえば原始時代、社会制度もなにもない時代、仮に男が群れに入るとします。そのときに、少しでも間違えたらやられる。自分が獲物をとろうとしても自分が獲物になってしまうこともあります。これはたいへんな問題でしょう。
 いまも結局は同じことなのです。普遍的な生きる苦しみについて、お釈迦さまはずっと語っていたのです。具体的なものについて語ってしまうと、仏教は時代遅れになってしまうのです。時代がいくら変わっても、人間としての生きるたたかいというものは、変わらないんだと。それを語るから、見事に語れるのです。

(つづく)※全4回

小飼弾[著]『働かざるもの、飢えるべからず』(サンガ、2009)第2部より転載。

2022年2月1日(火)、スマナサーラ長老と小飼弾さんの13年ぶりの対談をオンライン開催決定!
「人間を超える~光の速度は遅すぎる」
https://peatix.com/event/3140576/view


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