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理想の社会をめぐって(第3回)

第3回 「知識と神」
アルボムッレ・スマナサーラ×小飼弾対談

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宗教と経済的発展

日本が豊かになった理由
小飼  現在、先進国のほとんどというのは、キリスト教国でもありますよね。ですから、日本は例外的に、キリスト教国以外で経済発展した国だといえるかと思うのですが。
スマナサーラ  一度、スリランカ人の集まりがあって、大使が私に質問しました。日本は大乗仏教だから経済的に豊かになり、スリランカはテーラワーダ仏教だから豊かになれないのではないかという質問でした。
 私は、質問する場合は、日本は大乗仏教だ「から」、経済的に豊かになった、という証拠が必要ですよと言いました。無批判的に言うのではなくて、なぜ日本は成功したのか、という理由を探らねばならないのだと。
小飼  そもそも日本が大乗仏教の国かどうかというのも、すんなり認められる前提条件ではないですよね。
スマナサーラ  私の個人的な観察からいえば、大乗仏教であることはひとつも原因にならなかったということです。
 日本人というのは仕事がないと情けない、申し訳ないと思う人種なのだと思います。
 お金が欲しいと思うよりも、仕事が欲しい、なにかやりたいのです。「お天道様に申し訳ない」という言葉がありますね。お天道様が見ていなければだれも知らないのに。それから、「人に迷惑をかけるな」とか、これは自分のことは自分でやりなさいということでもあります。
 それは国民だれでも、宗教とは関係なくどんな親でも教えることです。なんとかしなければ、と思っているから頑張るのです。

日本人のメンタリティ
スマナサーラ
  日本人は戦争のときも、ばかげた行為であるのに、自分から死んでいきました。戦争に負けたとたん、今度は逆の方向に頑張る。頑張るのが好きなのです。頑張れば豊かになるのは当たりまえの法則なのです。しかし、どこかで理屈がずれているから、頑張っても頑張ってもどこかでまたパアとなってしまう。私はそこをなんとかしたいのです。かわいそうです。
 こんなに豊かなのに皆、将来が不安で仕方ないし、年金が返ってくるかわからないし、いま仕事があるかないかとかいろいろ悩んでいる。不安なまま生きている必要はないし、もったいないと思います。
小飼  お金がある人たちが、もっと金が欲しいというのも面白いですが、もっと面白いのは、そんな人たちはもっと「自分に頑張らせろ」とも言っている。これは、笑っちゃうしかないですね。本当なら、おまえの仕事はもう、頑張ることではなくて、もっと頑張り足りない人に譲ることだろうということだと思うのです。
 たしかに、意外と日本人というのは、譲るのが下手な人たちかもしれないですね。譲り合いの精神だとか言っているけれども、ここで引っ込めないと世の中でボコボコにされるという恐怖心があるから仕方なく引っ込んでいるにすぎないのではないか。
スマナサーラ  そういう性格は、戦争が終わってからの性格なのです。決して戦争前がよかったわけではありません。農民たちは大地主に奴隷扱いされていましたから、そういうことはよくない。だからキリスト教的な、西洋的な生き方が入ってきて、一部よかったこともありました。民主主義になったこととか、上下関係が消えたとか。平等になりかかったとか、女性が自由になったとか。 これらは戦後よくなったことです。しかし逆に譲り合いはなくなるし、相手をつぶしてでも成功しようという恐ろしい社会にもなりました。

キリスト教は国のためになるのか
スマナサーラ
 キリスト教は国を発展させるためになにかしたのでしょうか。国民を経済的に豊かにするために。
小飼  キリスト教徒たちは、そうだと主張していますね。
スマナサーラ  歴史的な事実で見ると、結局はキリスト教は邪魔ばかりしているのです。たとえば、科学はキリスト教の応援で発展したのでしょうか。科学がなかったら、いまだに地球は平らだと思っているかもしれませんよ。人間には宗教が必要だから、神は信仰するけれども、実際にキリスト教がしたことは教会に逆らってたたかうことなのです。経済的には豊かになってはいくけれども、あまり美しい道ではないのです。
小飼  テーラワーダに対する大乗仏教というのがありますが、キリスト教のテーラワーダにあたるものは、ユダヤ教だと思います。旧約聖書しかないのがユダヤ教ですが、旧約聖書に出てくる戦争というのは、まったく悪いものとしては書かれていないのです。ジェリコの子どもを皆殺しにしてよかったと。神の言うとおりにできた、と書いてあります。
スマナサーラ  神は人殺しが大好きですから。
 キリスト教だから豊かになったとか、仏教だからだめになったとか、大乗仏教だから日本が豊かになったとか、ぜんぶおかしいのです。
 知識人はどこまでばかか、どこまで非知識人であるかと。私はただ、事実だけ見ていきます。イギリスがすごい国になったのは、はっきりいえば鉄砲を持っていたからというだけの話です。どんな人でも強盗をすれば金持ちになります。

豊かな国とは
スマナサーラ  どんな国が豊かなのか、私は疑問に思うのです。スリランカは日本のようにすごく水準が上がることはないけれど、すごく豊かなのです。たとえば私が100万円もらったら、自分がぜいたくすることもできるけれどもしない。お金がない人、皆に配って皆で食べます。かっこつけているわけではなく、そうしないと気持ち悪いのです。長いあいだ、仏教徒の正しい生き方をしっかりやってきましたから。それに、大学を卒業するまで、教育費はただです。だれもが教育を受けています。入学試験もとてもきびしい。大学は国際水準です。
小飼  大英博物館は世界有数の博物館ですけれども、そこでイギリス人を凍りつかせる質問は「この建物の中で、おまえたちが作ったものはどこに?」というものです。あそこにあるものというのは、ぜんぶ盗品ですよね。
スマナサーラ  彼らが自慢できるものがあるとすれば、盗品をそれなりに調べたり研究したりしたことだけですからね。

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システムとコンポーネント

システムの残酷さ
小飼  システムという言葉があります。1+1が2より大きいというようなものはすべてシステムです。たとえば、細胞でできている人ですとか生命ですとかもシステムですし、人間でできている社会というのもシステムなのです。そこで、ひとつ気がついた嫌なことがありまして、システムというのはその部品をいやに粗末に扱うのです。生物というのも例外ではなく、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と仏教ではおっしゃっていますけれども、実際のところ、生命というのは他の生命をすごくぞんざいに扱っているのです。
 これは、人間だけに限ったことではありません。たとえば、私の身体は60兆個の細胞でできているといいますが、実のところ私は一個一個の細胞を、大切にするやり方すら知らない。
 たとえば、腸内の細胞の寿命というのは2日といわれています。2日たつと排泄されてしまう。これを止めるということは、まったくできない。これを人間の社会に当てはめてみると、やはり似たようなことが起こっていて、社会が複雑化すればするほど、人間のほうでも社会に譲りすぎてしまうという現象が出てきてしまうのです。
 神風特攻隊などがこれにあたります。神風に限らず、システムの犠牲になる部品、この場合は社会のために犠牲になる人というのは、尊ばれる傾向があるわけです。そうやって見ると、人間は、ゆくゆくは社会というメタ生物の一個の細胞になってしまうのではないか。それはいきすぎだと思いますが、でもたいていの場合、それでうまくいっているのです。

個を犠牲にするシステム
小飼
 長生きな、そうかんたんに滅びていないシステムを見てみると、システムがあってコンポーネントがあったら、システムがコンポーネントを、一方的に使い捨てにするものばかりなんですよね。
 私は社会から見たらコンポーネントですから、本当は逆のことを期待したいのです。社会があるおかげで、こっちもより幸せになれた、という関係ですね。でも、「社会が幸せになるためだったら、人なんかいくら死んでもかまわない」という考え方というのは、長い歴史がありますし、いわゆる強い国というのはなんらかの形でそういうものを持っているところばかりです。私が仏教を宗教ではないと思うのは、仏教のみが社会と人間があったら、人間のほうを優先しなさいよ、と言ってくれているような気がするのです。この問題について、長老はどうお考えになりますか。
スマナサーラ  人間だけを優先しなさいとは、言っていないと思いますが。
小飼 もちろん、人間だけを優先しなさいというわけではありません。ただ、「社会のために犠牲になりなさい」という言い方は絶対にしないですよね。
スマナサーラ  それは、絶対にありません。自分の命を大事にしなさいということはあります。

自分を犠牲にしてはならない
スマナサーラ  お釈迦さまは質問されたことがあります。
 仏教は執着を捨てる世界です。無執着を説いています。ですから「捨てる」という言葉は仏教の専門用語でありキーワードなのです。心理学的に捨てるという気持ちになるのですね。それで幸福になっていくのです、離れることで。そこをポイントに質問されました。人が、というか生命が、捨ててはならないものはなんなのか。
 お釈迦さまは「自分を捨てるな」と即答しました。「犠牲になるなよ」という意味なのです。自分を捨てること、自分を犠牲にすることは無意味な行動です。システムの中では人は一部なのでしょう? なにか与えてなにかを得て、それで生存するという。与えるだけだとしたら、こちらは死ぬ、ということです。システムも壊れてしまいます。自分が犠牲になることは、仏教はまったく認めないのです。自分の犠牲が偉大なる結果を出すならば、与えるものよりも得るもののほうが大だということですから、それは与えるのが当たりまえの行為です。お釈迦さまはそうお答えになりました。
小飼  仏教に限らず、どの宗教でも無益な殺生をするのは、人間だけだといいますよね。しかし、これはどうやらちがうらしい。実際のところ、生物というのは殺生をするときに、これは無駄かどうかというのは、考えていないらしいのです。
 たとえば、海の中でいちばん強いシャチは、アザラシの子どもでサッカーをするのです。食べるためでは、ありません。アザラシの子どもを遊ぶためにつかまえて、失血死するまで弄んだりするわけです。人間以外の動物にも、そういう例が見られるわけですが、それは例外ではないそうです。

個の犠牲が肯定される価値観
小飼  つまり、生物にとって、生きているということは、自分の遺伝子が残っているということらしいのです。現代の生物学では、いまの地球の人口が70億として、それが7人になったぐらいでは、「まだ、人間は存在するからOK」という見方をするらしいです。なぜなら、遺伝子が残っていますから。
 それと同じようなことを、かつて毛沢東が言ったことがあります。「中国にとって、2、3億人という犠牲はいくらでも耐え得るものだ」と。中国人は、人口が多く生き残る確率が高いから、世界が核戦争になったとき、勝つのはわれわれだというわけです。他の国の人にとってはとんでもない意見でしたが、国際社会でだれも毛沢東に言い返せなかった。毛沢東のような人から見れば、われわれはいくらでも使い捨てにできるものだということになるわけですよね。
スマナサーラ  遺伝子の話というのは現代科学的にいろいろ調べていますね。しかし、世界の知識人というのは、どうも正しくデータを見ていません。遺伝子研究の人たちが調子に乗って、システムを調べて、ああだこうだと言う。しかし、やはり真理を知る方法というのは、正直に自分がどんな気持ちなのか、ということなのです。
 日本に原子爆弾を落とされても、日本人がひとりでもふたりでも残るんだから、「まあしょうがない」ということになるのかということです。やっぱり「やばい、おれが死にたくない」と思うのかどちらでしょうかと。
 たとえば原子爆弾をミサイルで送ったと。もうどうにもならない。10人ぐらいはシェルターがあります、ということになったとします。「あなたが入ってください」と親が子どもに言うことはあるかもしれませんが、それ以外はどうなるのか。やっぱり自分が入りたいのではないかと思います。私は個人的には入りたくはありませんが。
小飼  私もそうですね。あまり入るほうにはいかないでしょうね。

残酷な迷路を抜け出す方法
スマナサーラ  私のたとえはきびしすぎますが、たとえばいま、新型インフルエンザが流行しています。他人に迷惑をかけないようにうつさないようにするか、ただ自分がかからないようにするかというと、私はインフルエンザにかかったらかっこが悪いと思っているのです。情けないことだと。そう思って、自分がインフルエンザにかからないように気をつけています。
 日本中にインフルエンザを広げないようにするためのことはなにもしていません。できれば対策をとりたいのだけれども、どこまでも観念であって実現しない。
 いちばん腹が立つのはたった1週間アメリカに旅行に行った人が、インフルエンザにかかるという事態です。このインフルエンザが流行っている時期によく行くものです。情けないです。一人も行かなかったというならかっこいいのに。全体的な伝染病が現れてくる場合は、一人ひとりが、自分がかからないようにするものではないですか。
 だから毛沢東が言っていたことは、ただの頭でっかちで、知識だけなのです。知識は命ではないのです。命ではないものを人間の哲学にするものだから、これはどんな主義であっても恐ろしいのです。共産主義でもどんな主義でも、知識でつくるものは「がん」です。
 遺伝子だけ自分が生き残ればいいと思っている。生命のことは気にしない。地球上のすべての生命が死んでも10人ぐらい残ればけっこうだ。このような話は遺伝子の働きぶりを調べて作られるストーリーなのです。ストーリーを作るのは文学者の仕事ですけどね。この下手なストーリーは科学者が作ったからといって、そのまま信じなくてもいいでしょう。
 遺伝子は自分だけ生き続けたいといっても、遺伝子には認識能力はあるのか、感覚はあるのかということが疑問です。物質を優先するのではなく心を優先して観察すれば、生きるという残酷な迷路の出口が見えるはずです。

生命の残酷を超える
スマナサーラ  「わたし」という現象で見ると、「私は死にたくない」ということになります。親が、自分は死んでも子を助けることはよくあります。それは自分の遺伝子が続くからではなく、手塩にかけて育てたから愛着があるのです。個々の生命は「自分は死にたくない」というスタンスです。であるならば、平等にすべての生命を大事に思うこと、心配することが偉大なる生き方になるのです。それは自然に起こる現象ではありません。あえて実行しなくてはいけません。世間にある「私は生きていきたい、他人のことは知らない」というこの立場を別のバージョンでいえば毛沢東の言葉になります。
 形を変えて変えて、無数に変えて、結局は「私は生きていきたい。他人のことは知らない」と言っているだけです。科学者も世の中にある生命のこの恐ろしい生き様を語っているだけです。なにか変えようとはしないのです。
「科学である仏教」のちがいはそこです。なにかよい方法へ変えようとするのです。生命は本来残酷な存在です。そうでなければ生命として成り立ちません。そのような生命の本能に逆らっていることを承知のうえで、「生きとし生けるものが幸福であるように」というモットーで、生きてみなさいというのが仏教の道徳なのです。 

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知識と神

知識とは武器
小飼  人がやる間違いのうちいちばん多いのは、知識と智慧を混同してしまうことだと私は思うことがあります。
スマナサーラ  蛇には獲物をとるために毒が必要です。馬には脚があるしヤギには蹄がある。すべての生命はこの世に生まれるときに生き続けるための武器を持って生まれるのです。それはえさを得て、生き残るためのものです。
 では人間がどんな武器を持っているか。人間は寒さに弱いし、蚊に刺されても死んでしまう。私の国ではデング熱という蚊が媒介する病気があって、最近はウィルスが変化したのか、薬も効かなくなって年に100人くらい死んでいます。蚊がいる家の人を逮捕する法律ができたくらい、国もきびしく対応しています。そういうわけで、とにかく人間というのは地球上の生物の中でもとくべつに弱い。では、そんな人間にある武器はなにかというと、知識なのです。
小飼  やはり、そこに行き着いたなといいますか。この知識というのは、むちゃくちゃ強力な武器ですよね。
スマナサーラ  人間はその武器で生き続ければいいのです。
 人間以外の動物で畑を作って生きているものはいません。知識があるから、畑を作ることもできたのです。知識というのは、生き続けるための武器です。コブラにおける毒と同じものです。コブラにしても身を守るためにおびえて噛むことがたまにあっても、一回も無意味に人を噛んだりはしません。われわれ人間だけが、知識を悪用しているのです。

知識は倫理をつくれない
小飼  知識の困ったところというのは、物ではないというところですよね。コブラの毒であれば、一度使えば休むしかありません。物であれば、自然に管理されますが知識は勝手に増えますよね。
スマナサーラ  そのとおりです。そこがいちばん危険なところなのです。そこが危険だといっているのは仏教だけなのです。知識なら、哲学ならなんでもいいといっていると、ひどい目に遭います。
 世の中にはあらゆる哲学があります。虚無主義や唯物主義などいろいろありますが、どれもくだらない、時間の無駄。西洋にも哲学にかまう人がいるわいるわ。完璧にだめということはないけれども、ほとんど時間の無駄です。倫理学も哲学の一部ですけれども、人間を倫理的にすることはまったくできません。だからただ、倫理を分析しただけで終わってしまうのです。

神は倫理を保証できない
スマナサーラ
  私は言いたいのです。納得のいく理由もつけず人に向かって「人を殺すな」、と勝手に言ってはならない。「あれやこれややるなかれ」と言うな、と。冗談ではありません。ちゃんとしただれでも納得のいく理由が必要なのです。その理由としてだれも知らない、知る必要のない「神様」などの概念を使って強引に人の思考の自由まで抑えようとする。
「神様が禁じたのだから殺すなかれ」と言うと、人には、殺さないことでなにか得するものがあるか、または殺したほうが得するのか調べる自由もなくなります。反論、異論などを立てることもできなくなります。人の思考の自由を強引に抑えることも非道徳なのです。
 ですから、とつぜん「殺すなかれ」云々と言うことも結局は非道徳なのです。非道徳主義者が道徳を語るとはいかがなものかと思います。とにかく神様のことは知りません。
小飼  神様を持ち出さないと、筋を通せないのです。逆に神が便利なのは、「神様が言ったことだから」と言えば、なんでもありにできますよね。
スマナサーラ  われわれの反論する自由を奪ってしまうし、弁解もできなくなります。その一方で「殺すなかれ」と言う人々は神様のご意思だと思って戦争までやってしまいます。へんだと思います。

論理を突き詰めると倫理になる
スマナサーラ  道徳は人間にとって不可欠な生き方であると立証して語ることができたのはお釈迦さまだけだと思います。殺すなかれ、嘘つくなかれなどの項目は似ていますが、他宗教では単純な、一方的な命令になります。しかし仏教では立証して真理の発表になります。皆、うるさく世界のだれもが道徳を語りますが、説得力はないのです。
 お釈迦さまは「嘘つくなかれ」とは言いません。嘘をつくとはどういう行為か、どんな結果になるものかを説明して、智慧と幸福を目指す人なら、「嘘をつく・つかない」の二択でなにを選ぶべきかと提案するのです。ですからお釈迦さまの言葉は、「理性のある人は生命を殺さないのだ。嘘をつかないのだ」という調子になるのです。無知な生命の生きる道も、理性の生命が生きる道も教えます。そのうえで、選択の自由はわれわれにあるのです。
小飼  「嘘は高くつく」というのは長老の本にはよく書かれていますよね。「殺すなかれ」よりも「嘘をつくなかれ」のほうが仏教的には重いんだよというのは、たしかに論理的なので、面白く納得できました。
 逆に、「神様がそう言っているんだから」などと言うと、私のような者は反発するに決まっています。

神の起源
小飼
  神という概念は、だれが発明したんでしょうね。
スマナサーラ  石器時代の原始人でしょう。ちまちまと発展していったんですね。
 これは私の説ですが、人間が最初に感じるのは無気力なんです。動物の中にいるときはこれをものすごく感じるのです。人間は偉くないのです。動物のほうが偉いのですね。なにかの本で読んだのですが、進化する以前、人間はすごくみじめでいたんだといいます。狩りもできなくて、隠れていたんだと。凶暴な動物は狩りをして食べていて、あとから出ていったら骨くらいしか残っていないんですね。それで頭蓋骨を割って脳みそを食べたり、骨を割って骨髄を食べたり。しかし一度捨てられたものですからね、食べていてすごくみじめです。しかしそうやって食べたものは体にいいものだったので脳がどんどん大きくなって賢くなったということでした。
小飼  はい、それがいまの定説らしいですね。
スマナサーラ  ですから、人間は無気力ということを長いあいだ、感じていたんですね。
 だからすごい力にすがるんですね、助けてくれと。雨が降って雷が落ちたら、困ります。どうか雷よ落ちないでくれ。森に入れば獲物にしないでくれと。そういう祈願がどんどん出てきて、その流れがあって、ある地方で神のプロダクションが生誕したのです。
 人間は小さなグループで生活すると、100グループあったら100種類の神々が成り立ってしまうのです。それから知識の発展程度でも神の種類が変わってしまいます。それで人間がどんどん社会システムをつくっていくと、神々もまとめなくてはならなくなってきます。2種類の神を信仰しているグループが結婚していっしょになって、いっしょに生活するようになると、神がふたりでは困ることになります。それで政治的に神はひとつにしなければならなくなる。そこでいちばん権力欲が強い、相手を支配したいという支配欲が強い人が、自分の神を絶対神にしてしまったわけです。ですからなんの根拠もないのです。
 神は人間の制作物です。人間がなんにもないところで、自分の恐怖感を使って神を創造したのです。人間が偉いのです。

一 神教は被虐者の発明か?
小飼
  それは、明らかなことですね。人間は動物の中ではいちばん偉くないようですけれども、少なくとも神よりは偉いということですね。たいへん、納得のいく話です。
 そうやって創り出した神様はいろいろ人間の都合で形が変わったりもしますが、もともとはユダヤ人専門だったユダヤ教がキリスト教になったのは、たぶん最後の審判という考えが大きいと思うんですよね。神様にひいきされる人と、ひいきされない人がいて、どういうふうにすると神様にひいきされるよというのが、宗教の本質なんですよね。ユダヤ教でいえば、まずユダヤ人であることが絶対の条件だった。それが、キリスト教によって緩和された。その代わり、その神に帰依しなければいけないのですが。
スマナサーラ  緩和されたというよりは、イエスがなにかいろんなことを言ってユダヤ人の長老たちをばかにしたでしょう。それから弟子として選んだのはいちばんダサい、社会から追い出されたり、嫌われたりした嫌な悪人のグループなんです。弟子になってからやったことを見てみると、「なんだこれは」と思うくらいです。はじめから、ユダヤ社会から追い出されていた怒りや憎しみがあるのです。いじめられている人々だったから、親切にしたりするのです。私はあまりくわしいとはいえないのですが、黙示録というあの派手な本はあとから書いたもので、イエスの言葉はひとつもないし、ユダヤ人が作った話ではないのです。ユダヤ人のひとりが書いたものかもしれませんが、ユダヤ人はいちおう知識人だから、ユダヤ文化から出てきたものではないでしょう。
小飼  面白いことに、一神教というのは、虐げられた人が、虐げた者を逆に虐げるために作ったという匂いがぷんぷんするのです。ユダヤ人もまた、ホロコーストを待つまでもなく虐げられた人々ですよね。彼らのみが神に選ばれた民であるというのは、「神に選ばれたのにどうしてこんなにきつい思いをしているのだ。いや、神に選ばれたのだからこそ、これくらい耐えられるはず」というのがその論理ですよね。
スマナサーラ  神の概念が生まれたのも奴隷でいたときでしょう。強引に奴隷にされたし、奴隷でいるのはすごくみじめだから、それで神でも鬼でもいいから助けてほしいという気持ち。人間にはもともと独立精神があるし。それからじわじわと神の概念ができたのでしょうね。

神は人を粗末に扱う
小飼  ひとつまずいなと思うのは、われわれは虐げられたから、今度は虐げる側にまわるべきだというのもまたほとんどの宗教がとっているやり方じゃないですか。宗教は、攻守を変えるだけですよね。
スマナサーラ  だから私は、道徳的に生きたければ、宗教を捨てろと言うのです。自分がやられたから自分がやってもいいのではないかと思う。しかしなんでも絶対的な神の意思で行うから、神の責任だと思います。虐げることも、虐げられることも神の仕業です。敵を殺したほうがよいと思うならば、神がやればいいのに。神を否定する人々を、神を信仰している人々が殺してはならないのです。彼らが神を侮辱して神様の仕事を奪っているのです。神の概念に匹敵する矛盾だらけで成り立たない妄想概念は他にはないと思うぐらいです。
 それに一神教の世界では、どうして神々がたくさんいるのでしょうか、唯一の神なのに。名前もちがうし、性格もちがうし。これはおかしいでしょう。
小飼  何種類もいますね。ひとつだけ共通しているとしたら、どの神も人を粗末に扱いますよね。

人間が取り得る選択肢
スマナサーラ
  これは矛盾ですが、論理的にいえば、すべて神の作品だから、いっさいを大事にするしか人間の選択はあり得ません。彼らは頭が悪かったから、その道徳的な結論に達していないのです。
 ブッダの教えを実践する人の目から見れば、人の考えをばかにしてはいけないし、すべて神がつくったというならいっさいの生命を大事にしなくてはいけない。イスラム教の人は、すべて神がつくった、と言います。髪の毛一本でも白くなると、それは神が知ったうえで起こることだ、と。だったらわれわれのようにものすごく生命を大事に生活をしなさいとなりますが、彼らが、それを忘れてしまったのですね。
 ヒンドゥー教の一部は「すべてが神である」という哲学を持っています。最近まで人気があったサイババも、「People think I am GOD. But you are GOD. (私が神だと思っていますけれども、あなた方が神である)」ということを言うのですね。そこは彼が、ヒンドゥー教のウパニシャッド哲学の中から、すべて神である、という一部をパクって言っているのです。森羅万象が神そのものであったら、サイババは明らかに神であるし、サイババを拝んでいる人も明らかに神なのです。
 大乗仏教はヒンドゥー教と同じですからやはり皆、神である、仏様であるといいます。

大乗仏教の成り立ち
小飼
  日本の仏教の宗派というのもほとんど大乗仏教だと思うのですが、あれはわからないというか、学べば学ぶほどわからなさの度合いが増してきて……。
スマナサーラ  そのとおりです。わかったら逆に頭がどうかしています。もし大乗仏教がわかると思ったらね。だってお坊さんに聞いてもわかっていないのですから。ばかだというわけではないのです。皆しっかり勉強しています。大学の博士もいっぱいいます。大学の教授をしているお坊さんもけっこういますし、それぞれしっかりした方々なのですが、しかし自分の宗派の話になると、納得いく話ができないのです。
小飼  にもかかわらず、いちおうは仏教として、大乗仏教というものが出てきたのはなぜだろうと思います。大乗仏教そのものを理解するというのは、ほとんどあきらめてしまいましたが、なぜ大乗仏教が出てきたのかということはまだ考えているのです。これは、ひとつの仮説なのですが、おそらく大乗仏教を立てた龍樹という人は、いい意味でも悪い意味でもおせっかいだったと思うのです。才能のない人たちを「あいつらは、どうせ悟れないから」といって放置するのはおかしいと考えた。「おれがあいつらを救ってやるぞ」というわけです。だからわざわざ彼らの乗れる器もつくったのではないでしょうか。たぶん、出発点はそこだと思うのです。
スマナサーラ  それは出発点というよりは大乗仏教の基本的な態度ですね。その態度からして間違っていますが。
小飼  そうだと思います。「悟りましょう」ではなくて「悟らせてやる」という態度ですよね。

仏教と大乗仏教
スマナサーラ
  インドにおいての仏教というのは、ものすごいエリートの中で広がりました。王様や商人、バラモンたちの中でもケタちがいのエリートたちが皆、仏教徒になってしまったのです。だらしないバラモンたちが神を拝んで金を儲けていたのに収入が減っていった。王の力が弱くなってくると困るのです。そこで彼らは多数派ですから、王をヒンドゥー教徒にしたりする。そういうところでヒンドゥー教が顔を出し始めたのです。
 ですが仏教というのはなかなかたいした教えで、攻撃できませんでした。それでヒンドゥー教が、つまりインドの宗教が、仏教になってしまったのです。仏教という乗り物にヒンドゥー教が乗った、それが大乗仏教なのですね。ヒンドゥー教自体はインドから国外輸出不可能なのです。あれはインド人の宗教だから。日本でいえば神道も、外国へ輸出不可能です。
小飼  はい。というよりも、どちらも、そもそも輸出という考えそのものがないですよね。
スマナサーラ  ですから強制しようとしても意味がないのです。どちらも土着宗教で、ヒンドゥー教はカースト制が必要でしょうし、手が4本ある神様や12本ある神様や頭が象の神様や蛇の神様や、いろいろ必要です。これは外国人がついていけるものではありません。しかし仏教は、生まれたときから人類に語った教えですから、国際宗教であり世界宗教なのです。いまだに世界宗教は仏教だけなのです。仏教に乗ったとたん、ヒンドゥー教は輸出できるようになったのです。
小飼  なるほど。大乗仏教は仏教の皮をかぶったヒンドゥー教……なるほど! これはすごい! これで、どうしてあんなに種類がたくさんあるのかといった、いろいろな疑問が納得できます。そうか! なるほど……。

大乗仏教をブッダが見たら
スマナサーラ
  どうして大乗仏教が生き続けるかというと、器は仏教だからです。ヒンドゥー教にはない道徳もあります。大乗仏教では守ってはいないけれどもそれなりに道徳があったりして、そういうところでなんとか生き延びているのです。
小飼  ブッダがそれを見たら、なんと言うでしょう。私はものごとを考えるときにあの人がここにいたらということをよく想像するのですが、大乗仏教に関しては、その場にブッダがいたらどうするだろうと思います。
スマナサーラ  お釈迦さまが大乗仏教を見たら子どもが海岸で砂で城を作っているような遊びだと思うでしょう。頑張ってもひとつの波がきたら泡と消える教えでしょう、と思うかもしれません。これは私の妄想です。後の人々は仏教を理解しないがゆえに自分に理解できる範囲で変更するだろうという危険性をお釈迦さまは微妙には知っていらしたのです。真理と悟りへ達する道を汚染されないようにいろんなガードをつけたのです。

日本の仏教はヒンドゥー教
スマナサーラ
  日本で、同じ仏教なのですけど禅寺などに行きます。そこでは若い坊さんが合掌すると、老僧もていねいに合掌する。これはおかしいな、と思っていました。
 NHKの番組で、禅のお寺でお坊さんが言っていました。「自分から見ると他の人も仏様である、だから仏様に礼をするのです」と。私はなるほど、そういう理屈なのかと思いました。この言葉で謎が解けました。へんな、気持ちの悪い習慣ではなくて、この人々は仏様を拝んでいるんだと。これは観念的な、形而上学的な思考ですが、しかしそれがヒンドゥー教なのです。
小飼  たしかに日本の神道も、神様がいっぱいいるという点では、ヒンドゥー教にかなり近いですね。日本では八百万の神という言い方をしますが、あれにも神様がいる、それにも神様がいるといった感じで、トイレにまで便所神という神がいることになっている。

神の論理が帰結するところ
スマナサーラ
  森羅万象すべてが神様そのものである、という考えをまじめに突き詰めていくと、ふたつの立場が出てきます。ひとつはもの皆すべて大事にしなければいけない。神ですから粗末に扱ってはいけません。だから大乗仏教にしても、すべて仏性だといったならば厳密に道徳は成り立ちます。戒律は守らない、認めないという立場はとれないのです。しかし一般的な大乗仏教がとった次のステップはもうひとつの立場、なんでもいいやという極限ではないかと思ってしまうこともあります。
小飼  すでに神様なんだし、ということですよね。
スマナサーラ  そうです。だから殺しても、神様だから殺せないでしょう、ということになります。ヒンドゥー教はふたつの立場をとっているんですね。なにをやってもいい、ということと、極めつけの非暴力主義で、肉も魚も食べない、ものすごく質素な生活をするということです。
小飼  アヒンサーが、非暴力主義という名の暴力主義だといったのは、それなんですね。
スマナサーラ  ガンジーは政治的にはものすごく凶暴でしたからね。屁理屈ばかり並べてね。もちろん立派な方でしたし、このようにたたかうべきだということを世間に見せましたから、彼の貢献はきわめて大きいのです。しかし私たち仏教者は原子顕微鏡でものごとを見ますから、一言いってしまいます。

神よ、もっと学べよ
スマナサーラ
  現代インド人も、ふたつの種類の人たちがいます。なんでもいいやの人々と、かなりきびしく戒めていける人々と。仏教者からいえば、絶対的一神教だというならば、人間は道徳の道を選ぶべきでした。なぜならば神がいようがいなかろうが、死後の世界があろうがなかろうが、それに関係なくわれわれの生き方で次の結果は出ますから。それははっきりしています。ですから正しい行いをするのは避けられないことであると、言うのです。
小飼  仏教がうまいなあと思うのは、いま長老がおっしゃったように、神がいてもいなくても成り立つところです。仏教の真理というのは、神の存在とは独立しているではないですか。いてもいなくても変わらないという点が、「これは本物だな」と思わせます。
スマナサーラ  神を信じている人たちがいくらおどしても、私たちはぜんぜんこわくならないんですよ。
 よく駅前で拡声器なんか使って言っているでしょう。そろそろ神様がこの世に現れます、すべての悪人は裁かれますよ、いますぐ悔い改めなければみんな最後の審判でつぶされますよ、神様はぜんぶ破壊して完全な社会をつくりますよ……。人をおどすことおどすこと。そうすると私の心の中で冗談が生まれてくるのです。いままでの神様がつくった世界はだめだから、最後の審判でみんなつぶしてしまうということですか? みんながだらしなくて神を信じないからだめだということでしょうね。しかし、そのわれわれをつくったのは神ではないのですか。だから神が次に完璧な世界をつくるとは思えない、と。次につくる世界も、同じことになるでしょう。信頼できないと。信頼したいけれども、それには神が勉強して学んだと証明してください。失敗から学んだと。そういう冗談を言いたくなります。
小飼  それはいいですね(笑)。
スマナサーラ  神はもっと学べば、もっとよくなるでしょうから、そのとき信仰しましょう、と。結局は「あなたたちはばかなことを言っているんだよ」と、それでお話は終わりですからね。
小飼  おっしゃるとおりですね。先ほど、「私は、最短距離を歩けないかも」と言いましたが、学ばない神様につきあうほど遠回りするつもりはないですね。そこまで、人生長くない。

(つづく)※全4回

小飼弾[著]『働かざるもの、飢えるべからず』(サンガ、2009)第2部より転載。

2022年2月1日(火)、スマナサーラ長老と小飼弾さんの13年ぶりの対談をオンライン開催決定!
「人間を超える~光の速度は遅すぎる」
https://peatix.com/event/3140576/view



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