見出し画像

赤ちゃんポスト 慈愛と責任の天秤

2020年05月11日、熊本日日新聞で”困窮する母子に目を向けて 「こうのとりのゆりかご」開設13年”という記事が掲載された。
生まれたけれども育てられない、育てたいけれどもできない、そういった事情のある親から赤ちゃんを預かっている「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」を運営する慈恵病院(熊本市西区)の蓮田健副院長の話しだ。

「使命感でやっている」と話す副院長は、現代社会のシステムの中でこの問題に取り組む難しさや厳しさを語ってくれている。

「こうのとりのゆりかご」へ預けられる新生児や、蓮田健副院長のお話しについては、熊本日日新聞の記事をお読みいただく方が間違いがないので、ここでは割愛させていただく。本記事では、”親に育ててもらえない命”について、私の見聞きした経験を交えて考えを述べていきたい。

命への愛情と現実

私は以前、自身で育てられない子を産もうとしていた女性に出会ったことがある。その女性は、所謂”夜のお店”で働く女性だった。

仕事の都合で”ある経営者”と知り合った私は、その経営者から今回のテーマである「親に育ててもらえない命」についての生々しい話しを、そのとき聞くことができた。そしてその後、その女性と知り合うに至ったのである。

お察しの通り、”その経営者”は”夜のお店”を経営しており、女性はその店で働いていた。当初、”その経営者”と私は取引先という仕事だけの付き合いであり、お店で働く人々や詳しい内情については知る必要もなく、また、探る気もなかった。しかし、取引が長く続くにつれ、仕事以外の付き合いで”その経営者”と打ち解け、それからは、”夜のお店”にまつわる様々な話を聞くことになった。以下に述べる話は、その中の1つである。

ある日、”その経営者”は、ある話しの流れからこんな事を言い出した。
「今店に妊娠してる子がいてさぁ、辞めさせることもできないし、さすがに罪悪感もあるんだけど」

聞いてみると、話の大筋はこうだった。
いつもの通り特に問題も起こさず仕事をこなしていた女性のお腹が、ある日気付くと少し膨れてきていた。それまで気にもしていなかったために気付かなかったらしいが、いざ気付いてみると、明らかに妊娠のそれだとわかる膨らみだったという。女性曰く、「付いたお客さんには全員気付かれている。何故か喜んでもらえていた。」そうしているうちにお店へ知らせそびれ、その日に至ったというわけだ。

その女性は独身、当時の年齢はもうすぐ20歳という頃だった。彼氏とは半同棲をしていたが、彼氏についての詳しい情報は無かった。妊娠発覚後、彼氏には結婚の意志も無く、子供の認知はしないと話しがついていたそうだ。
また、その女性は、両親とは疎遠ですでに何年も連絡を取っておらず、相談できる身内はいなかったという。

そして、仕事の打ち合わせで”その経営者”の事務所を私が訪れていたとき、偶然、その女性が臨月を迎える少し前と思しき頃に出会うことになった。
見るからにお腹に子供がいる女性であった。背は160cmは無いだろうという少し小さめの細身だが、目はパッチリの整った造形、小柄美人といった感じに見受けられた。そのときは、私とその女性は軽い挨拶を交わしただけで、特に会話や交流があったわけではない。

その女性が所用を済まし、事務所を退室してから”その経営者”は言った。
「先日の話の子、産むんだって。育てられないって自分で言ってたのに」

”その経営者”の話す通り、その女性本人も、産まれた子を育てる能力も環境も無いことは自覚していたらしい。それでも産むと決めたのは、「できた命は大事にしたい」という気持ちからだそうだ。

その後、無事出産を終え、赤ちゃんはすぐに施設へ預けられ、その女性はその後も”夜のお店”で働いていた。

聞くところによると、その女性のように、所謂”身寄り”の無い女性は少なくないという。中学は出たものの、その後は家に帰らずそのまま、または、仕事を探して上京したものの、食べていけるだけの仕事にあり付けず、仕方なく”夜のお店”で働くようになったなど。そして、そういった者たちは、元々育った家庭環境に問題を抱える場合が多い、と、”その経営者”は語った。

その女性が、幼少期から家を出るまで、どんな生活をしていたのかは私には想像がつかない。しかし、この話を聞いて思ったことは、自分の意思とは無関係に巻き込まれた負の連鎖を、自分自身の手で、自分の子に繋いでしまったのではないのか。ということだ。

もちろん、施設に預けられた子が、必ずしも不幸という意味ではない。
そういった子でも、その後の養子縁組で良い家庭に恵まれるケースもあるだろう。大人になってから自分の手で人生を切り開いていく者もいるだろう。だが、産まれた瞬間からどう育ててもらうのかは、子供には選べないのだ。選択肢の無い人生の出発点において、実の親から手を離されるという現実を突き付けられる。できるならば、避けてほしい現実であると私は想う。

若さと軽率さと、社会の責任

人にはそれぞれ事情がある。上記のようなケースが全てはないし、誰の責任などと言う気もない。どうすればこのようなことが無くなるのか、おそらく解決策も在りはしない。皆がそれぞれ、自分自身の現実を捉え、状況を把握し、軽率な行為を慎むことでしか、その可能性を下げることはできない。

しかし、それを気にし過ぎた結果が、昨今問題視される少子化に繋がっているようにも見える。軽はずみに子供は作るべきではない。今はそんな意識が少なからず広まってしまっている感じは否めない。

無責任に子供を作ると”実の親が子を育てられない”ケースが多くなる。これは、負の連鎖を自分で生み出さない、自分の子に繋げない、という認識を少しだけ、大人になるまでに持つことができれば回避できるはずなのだが。

私が聞いた話のケースでは、その認識が身に付く前に、その女性に起こった現実であったと言えるかもしれない。家庭環境や職場環境まで考慮すると、教わる相手もおらず、学べる相手もおらず、ただ現実だけが先に訪れてしまったのだろう。軽率と言えばその通りなのだろうが、必要な感情や知識を身に付ける機会を与えられてこなかった者に、私は罪があるとは思えない。

学校では、保健体育や道徳といった授業は、あるにはる。しかし、今回の私の話のケースや、熊本日日新聞の記事のような話を減らすことには、おそらく繋がらない。

今は起こった現実に対して、その都度ケアをしていくしか方法は無いように思うが、社会そのものがもう少し、こういった問題を解決しようとする動きがあっても良いのではないだろうか。「子育て支援」と銘打たれた政策もあるが、それを受ける方法を知らない者も多い。

せめて、「親が我が子を育てられるかどうか」など悩まなくてもよい社会になってほしいと、願うばかりである。

こうのとりのゆりかご

「赤ちゃんポスト」とは、事情があって親に育ててもらえない新生児を、親を匿名にして、特別養子縁組の手配や、保護施設への取り次ぎなどを行ってくれる施設、またはそのシステムの通称。

日本では唯一、熊本県熊本市西区にある慈恵病院がこのシステムを採用しており、同病院では「こうのとりのゆりかご」という名称を使用している。なお慈恵病院はキリスト教のカトリック系の医療法人聖粒会が経営する産婦人科病院で、東京慈恵会医科大学とは無関係である。
(参考:Wikipedia)

ホームページでは、特別養子縁組の養親の募集なども行っている。
不定期ながら、説明会などもされているようなので、興味のある方や子供が授からずに悩んでおられる方は、一度ご覧になられると良いだろう。


慈愛と責任の天秤(終)