Theological studies and writings-4

異言は、それが言語的であろうと、非言語的であろうと、今日もタレント(spiritual gift)として受け取られるべきである。
ただし、異言で語られることは誤りうるものである。

今日の授業では、"The Boundaries of the Gift of Tongues: With Implications for Cessationism and Continuationism"という記事を読み議論しました。

この記事の面白かったところは、「異言」について、6つに分類して語っているところ。
同じテーマについて話しているのに、話が噛み合わないことがあります。
それは、前提条件や言葉の定義が同意されていないから。
異言の"Boundaries"について話すにあたり、筆者は以下のように分類していました。

前出の記事より

これに当てはめて、現代の異言について考えてみると、
まず、初代教会の時代に"a"は語られたかもしれないけど、以降において、聖書以外に誤りのないメッセージが語られることはないので、"a"はなし。
"1b"は稀なケースなのでこれも排除。
となると、可能性としては2bと3bが残る。

みたいな感じで論旨は展開されていく。
文の理解に四苦八苦している僕を見かねたクラスメートに言われたのが、
この授業は"Theological studies and writings"の授業なんだから、中身の理解は二の次でいいんだよ。Thesisは何か、それをどうやってサポートしているのか、agreeできるかできないか、論理的におかしかったり理由が足りないところはないか、そういうところを見つけるのがこの授業の目的だよ。
ということ。

ガーン。でも、確かにそうだ。
何が問われているのかを理解することは大前提でしたね。。

とはいえ面白い文章ではあったので、
いつかこの文章の記事を書いてみたいと思います。いつか。

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