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認識の歪みをもたらすものは?

 都内のスタジオでリアリズム演技を教える演技講師をしております。そこで見えて来るもの、演技と人間、あるいは演技と人生などについて書いてみたいと思っております。

 人は誰でも、自分でも気づかないうちに「色眼鏡」という「認知バイアス」をかけて物事を見聞きしています。人だけでなく、自分と取り巻くあらゆる事柄に関してです。そうして、物事をあるがままに見なくなっています。人間である以上、これは避けて通れないと思われます。好き嫌い、合う、合わないといった極個人的な色眼鏡から始まり、常識といったものも色眼鏡そのものになります。

 この「認識の歪み」に関して、明確に言語化できたのはクラスでのフィードバックの際でした。教えている生徒さんの気づきの中にあったのです。普段、教えているテクニックの基礎にレペテションという繰り返しの練習があります。基本的には二人の人間が向かい合い、同じことを繰り返します。その中で、相手のしぐさの変化に対して、指摘をしないのは「視覚的に見えていない」のだと思い込んでいました。しかし、その生徒さんには、その変化が「視覚的に見えていた」のです。ただし、その視覚でとらえた情報を「認識しない」ということが起きていました。これに気づかせて貰いました。この時に、私の「認識の歪み」は一つ矯正されたように思います。まさに、目から鱗が落ちる状態でした。

 では、この「認識させなかったもの」とは一体何か? ここには色々な色眼鏡が関わってきますが、躾や教育といったものが影響するだけでなく、成長の過程で受けてきた傷、あるいは心理学的用語でシャドウ(影)から生まれた防衛機構が働くことがあります。

 演技の訓練では、社会性を外し遠慮や気遣いを脇に置いておくことが重要になります。自分が感じることをネガティブもポジティブも関係なく許容し、伝えることすら許していくことで、教育や躾によって備え付けられた「ネガティブを抑制する仕組み」を脇に置くことができるようにしていきます。要は、何でも感じていいし、それを抑えずに表に出してもいいよ!ってことなのですが、これだけ読むと、演技って抑制の外れたとんでもない人間を作り出すのでは? と思ってしまうかも知れません。

 ですが、この脇に置く行為は、あくまでも創造的な場所限定での話です。それができる合理的な能力も俳優には求められています。そして、表現を選ぶ人間には、この防衛機制に悩む人が意外と多いのです。なぜなら、そのシャドウ=影が自らを表現へと駆り立てているからです。心の内では自由な表現を求めつつ、外側には社会性によって作られた仮面を被っている状態の葛藤に苦しんでいるのです。

 先ほどの生徒さんの例に戻りますが、この場合、見えることによって自分が感じる不利益があるので、認識しないことで不利益を避ける。あるいは、認識することで自分の身に起きてくる感情が自分には許容できないので、認識しないという方法を選ぶなどといったことが無意識のうちに起きています。

 もちろん、単純に思い込みなどによる認識の歪みもあるかと思います。しかし、その思い込み自体が「過去の記憶」であり、「現在、目の前にいる存在」をありのままにきちんと感じて捉えたものではないのです。

 演技に求められる重要な性質がここにもあります。

 今現在に生きること!

 善い一日を♪

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