“現代人” は考える時間を奪われているのか? 〜思考停止してしまう人たち〜
「考える余裕がない」
現代人は忙しい。日々のタスクをこなし、時間に数字に追われる毎日である。つまり余裕がない。いちいち「何故なのか」を考えたり、ボーッと物思いにふける時間的な余裕が無い。
しかし、それは言い訳ではないかとも思うわけである。我々は “ホモ・サピエンス” として、唯一考えることができる動物として、様々なことを考え直す必要があるだろう。
意味を考えず、ただ守るのがルール
人を一括りにする物言いは好かないが、今回はあえて日本人と書こう。
日本人の思考停止の分かりやすい例を挙げてみると、キリがない。例えば「だってルールだから。そう決まっているから。」というやつである。ルールとして存在していれば、それをただただ遵守する。その意味を考えようとしない。
ルールは誰のために存在するのか?もちろん人のためである。誰が作ったのか?もちろん人である。人が人のために作ったものがルールであり、皆が快適に過ごせるように、あるいは揉め事を起こさないようにと決められているものが規則、ルールなのだ。
異議を唱えない人々の本能
ここまで書いて馬鹿らしくなってきたが、そんなことはスーパーウルトラハイパー当たり前のことで、本当は思考停止している人もそれは分かっているはずだと信じたい。
では何故、ルールに不備がある、おかしなところがある場合でも、彼らはそれを守ろうとするのか?
それはきっと「みんな言わないから私も言わない」のだと思う。他の人と違うことをしたくない。仲間外れにされたくない。
人間が狩りをしていた時代から、1人で小物を狙うより大人数で大物を狙うことが “良い選択” であった。それは社会性と呼ばれ、今日に至るまで人間の遺伝子に染み付いている生存本能である。その本能に則るならば、群れをなし、周りに合わせ、同じように行動することはある意味正常な行動と言えるだろう。
しかし、明らかなエラー、絶対に良くない規則やルールが存在しているならば、それは誰かが正すべきだろう。
ちなみに私は高校時代の部活において、ある特定の人に負担を押し付ける醜悪なルールと直面し、1人か2人だけの仲間と共にその他大勢の部員に立ち向かったことがある。
今思い返すと、それは正しい行動だったし、思考停止のしわ寄せが誰かに押し付けられるルールは、変えるべきだったと思う。(具体的なことは書けないが)
小さなことでも考えよう
最近みなさんは何を考えただろうか?私は、人間の境界線について考えていた。『イノセンス』を鑑賞し直したことが大きいだろう。
人間はどこからが人間なのか?どこまでが人間なのか?我々の細胞は驚異的なスピードで入れ替わっているそうで。1週間前の自分と今の自分は同じ自分なのか?とか、私が食べたものは、出ていったものは私なのか?とか…。その境界が曖昧になっていく様が大好きで、考えれば考えるほど分からなくなる過程が面白くて仕方ない。客観的に見るとおかしな人間かもしれないが。
別にこんな変なことを考えなくとも良い。空はなぜ青いのか?から始めても良い。何でもいいから、日々スルーしていることについて少し考え直してみよう。 “考える” ということは人間の最大の特徴であり、武器であるはずだ。「そんな時間はない」と言い訳せず、毎日少しずつ身の回りの事から考え始めよう。
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