断髪小説『美髪フェチの試される忍耐〜ネットスラングに捧ぐ〜』
あらすじ
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本文
それは突然の事だった。
「ヘアドネーションしようと思うの。」
――何・・・だと・・・?
驚きのあまり、ギギギと首を動かして妻に向いた。すごい形相だったのだろう。
「そ、そんな驚かなくても。ここまで伸びた髪なら役に立つかなって」 「ちょっ、ちょっと待て。分かっているのか?髪が短くなるんだぞ。すぐには戻らないんだぞ」
「そんな事くらい分かってるわよ」
「まずはもちつけ。せっかくここまでキレイに伸ばしたんじゃないか。子供のように慈しんで、一緒に二人で何年もかけて育ててきたじゃないか。それをどうしてっ!」
「あなたが落ち着いて」
◇
何を隠そう俺は髪フェチだ。断髪とか特定の髪型を好むとか、髪に何かかけるとかには全く興味はない。ただただ黒髪ストレートを愛でるタイプの美髪厨だ。
妻は昔から髪には無頓着だった。むしろ手入れを面倒臭がっていた。kwsk言うと、リンスインシャンプーを好んでいたし、濡れた髪を平然とタオルでガシガシ拭く。ドライヤーで最後まで乾かさないどころか、あまつさえ髪が濡れたまま寝ようともする。折角、枝毛の出来にくい、羨ましいくらいのストレートヘアなのにだ。
結婚してからその惨状を知った。俺にはそれがどうにも耐え難く、妻の髪は毎日俺が洗って、乾かして、ヘアオイルまで付けている。それが長年子供のいない我が家にとっての大事なコミュニケーションの一つにもなっていると思っていた。
ちなみにシャンプーは冬は保湿成分入りのものを、夏場は洗浄力が強めのものをと、頭皮の状態でも使い分けている。
丁寧にブラッシングもかけて、マメに美容院に行かせて、トリートメントもさせている。紫外線の強い日は帽子を被せたり、日傘を渡すし、最近では部屋の気温と湿度も気をつけている。
その甲斐あって、妻の髪は中々にお目にかかれないレベルの美髪になった。腰まで真っ直ぐに伸びていて、黒々として豊かで、天使の輪っかも輝いていて、触るとひんやりとしていて、スルスルと滑るようななめらかさを備えていた。
俺が数多見てきた中でも最高傑作だった。そして、一連の出来事を通じて美髪フェチなのだと、自覚する羽目になった。
◇
「もう予約してあるんだ」
てへぺろっとでも聞こえてきそうな顔をしている。
――てへぺろっじゃない!
その可愛らしい顔に反して、胸中は全然穏やかにならない。
「い、いつだ?」
日によってはまだキャンセルできて、ワンチャンあるかもしれない。
「今日、これから。」
――もう無理じゃないか……
「な、何でそんな急に」
「結構前から考えてたの。言ったら止められると思ったから、黙ってた」
「か、考え直さないか?」
「もう決めたの。今回は何を言われても譲らない」
妻はプイッと頬を膨らませている。ヘアドネーションする事がすでに妻の中でFAらしい。
――そ、そんなぁ……
がっくりと項垂れた。アルファベット三文字で表せそうな姿だ。今風に言えばぴえんでぱおんだ。
今日で妻の大事に育ててきた美髪が拝めなくなるのだ。淋しくて悲しくて虚無感に見舞われた。涙まで出そうで、涙腺が緩む。
「ちょっとそんな落ち込まないでよ。また一緒に伸ばしていこう、ね?」
妻は慰めるように言ってくる。
「……ほんとに?」
「ほんとほんと」
頭の中で計算が始まる。
――確かヘアドネーションは三十一センチからできたよな?
今の妻の髪を三十一センチ切ったとしたら、肩下くらいのはずだ。かなり短くはなるが、まだかろうじて許容範囲だ。肩より上は論外だ。最低限、髪が波打つ長さはいる。
元に戻るまで一ヶ月に一センチ伸びるとして、およそ二年と半年だ。長い長過ぎる。
――そういえば、一つ試してみたいサプリがあったな
髪の艶とコシが増すらしい。ググってネットサーフィンしたところ、髪が太くなって、早く伸びるともネチズン界隈で噂されている。密林でポチっておこう。
効果の程を見ようと、気を取り直そうとしたが、容易なことではなかった。
◇
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「お、俺も行く」
「えぇっ!?」
強引に付いて一緒に家を出た。もちろん妻を見張るためだ。妻の髪が無惨に切られるは見るに耐えないが、万が一の事を考えての事だった。
髪を染めたり、パーマをかけるのはいくない。短くなるだけではなく、髪が痛むようなことはダメゼッタイ。
「付き添うのはいいけど、口を挟まないでね」
さすがは長年連れ添った俺の妻だ。俺の行動パターンは読まれているらしい。
「わ、わかってる」
動揺で声が裏返った。じぃと妻から睨まれたので、コホンと一つ咳払いをする。
「ヘアドネーションだけで、染めたりパーマをかけたりはしないんだよな?」
「しないよ。髪は整えてもらうけど」
一先ずホッと胸を撫で下ろした。でも妻の言葉には続きがあった。
「でも口を出したら、市販のカラー剤で髪を染めるからね」
「なっ……!」
――俺の大事な美髪を人質ならぬ髪質にするとは、何と卑怯な!
「わかった?」
「……おk」
切った髪はキレイに伸ばせても、傷んだ髪の補修は難易度が高い。折れるしかなかった。
◇
妻は家からほど近くの小さな美容室に入っていった。存在は知っていたが、いつも利用している美容室ではなかった。
「いらっしゃいませぇ」
妻が扉を開けると従業員の一人が出迎えてくれる。若い男性のようだ。イケボだが、赤のハイトーンカラーのツーブロックで剃り込みが入っていて、少々DQNな印象だ。
席数は五つで従業員は三名らしい。妻は出迎えてくれた従業員とやり取りをしていた。
「じゃあ、お連れ様はこちらで待っててもらえますか?」
「…あ、はい」
赤毛の美容師はそれだけを言って、妻をカット台へと案内した。待合の椅子からは後ろ姿しか見えない。二人で話しているようだが、まるで聞こえてこない。
やきもきしながら二人の様子をギンギンに目を見開いて凝視、もとい大人しく見守った。
◇
いよいよカットに入るようだ。妻に白いカットクロスが巻かれている。赤毛の美容師は妻の髪に櫛を入れながら、いくつかの束に分けてゴムで結んでいる。ゴムの位置は肩よりやや下くらいだ。
――ゴムの位置が上すぎないか?
妻から脅されている為、声には出せない。心の中で悪態をつく。ゴムの位置まで四十センチ近くあるだろう。
髪を結び終えた赤毛の美容師は何かを言って、妻にハサミを手渡したようだ。妻が手前の髪を一房、手に持って髪にハサミを入れようとしている。
――まさか、自ら切るつもりなのかっ!?やめろ、やめてくれぇっ!?
その願いも虚しく、妻は自分の髪にハサミを入れていた。シャキンと音が聞こえてきそうだった。
――大事な髪にうわなにをすくぁwせdrftgyふじこlp
心のヒットポイントが削られた気分だ。妻の髪が一房、肩口で切られていた。切った後の髪は赤毛の美容師が受け取り、ワゴンの上に置いている。
今度は反対側の一房にも妻自らの手で切っていた。
――くふっ……!
心に五のダメージをくらった。
妻はハサミを美容師に返していた。美容師が残りの妻の髪を躊躇なく切っている。
『シャキン』
聞こえもしない架空の音が心の中に響く。心を抉る髪の断末魔かマンドレイクさながらのようだ。その音が容赦なく心に突き刺さしてくる。
――ごふぅっ!や、やるな、赤毛……
七のダメージを食らった。
『シャキン、シャキン』
――ぐはっ、げふぅっ!!
連続攻撃だ。一気に二十のダメージをくらった。
――お、おのれ、赤毛めぇっ!
残っていた最後の一束にもハサミが入った。
『ジャキン!』
――ぐふぅっ!!
妻の艶やかで滑らかな長い髪が完全に切り離された。その光景を含めてクリティカルヒットだ。一撃で十八のダメージをくらった。
五十しかない俺の心のヒットポイントはもうなけなしの瀕死だ。もうだめぽ。回復するには妻の髪束を頬擦りするしかない。
妻の切った後の髪束が乗るワゴンに、震える手を伸ばしかけたその時、赤毛の美容師がそのワゴンをスタッフルームへ引っ込めていった。
そのスタッフはチラッとこちらを見て、ふふんと勝ち誇ったかのような笑みを浮かべていた希ガス。赤毛はメシウマだろう。
止めには充分だった。
――燃え尽きたぜ……真っ白にな……
妻の髪は肩につくくらいで切られていた。
『You Lose』の文字が空中に浮かび、あぼーんした。
◇
どうやら俺が真っ白になっている間にシャンプーを済ませ、髪を揃えてもらったようだ。
「ね……ねぇ……、ねぇってば! 終わったよ」
妻に声を掛けられて、ハッと気が付いた。重ための肩口のボブになっていた。前髪も眉の辺りで揃えてもらったらしい。
――あぁ、妻の髪が短い……。誰か夢だと言ってくれ……
できることならこのまま気を失って、再び目を開けたら妻の髪が戻っている夢ヲチを願ってやまない。
「ほらっ、居座ったら迷惑でしょ! 会計も済ませたから、もう行くよっ!」
妻は俺の腕を引っ張っている。仕方なくふらふらと立ち上がり、店を後にした。遠くから「ありがとうございましたー。」と勝ち誇ったかのような声がして、あたかも勝利のファンファーレが美容院に鳴り響いている希ガス。
◇
妻の少し後ろをとぼとぼ歩く。妻は自分の髪を触りながら、スキップをして鼻歌を歌っていそうな軽い足取りだ。
「かるーい。すっきりしたー」
「……なぁ、そんなに長い髪が負担だったのか?」
そうだったとしたら、正直寂しい。妻がくるりと振り返った。
「ううん。あなたが手入れしてくれてたから、全然。むしろ手を入れればこんなにキレイになるんだって感心してた」
「……じゃあ、なんで」
「予行練習かな。任せっきりじゃなくて、自分でできるようにならないとね。長いままだとできそうにないし」
「……別に俺は負担じゃなかったし、むしろその時間が楽しかったのに?」
妻の髪の手入れをする時間は我が家の大切なコミュニケーションの一つだと思っていた。妻はそうではなかったのだろうか。
「本当はもっと短くショートにしようと思っていたんだけどね。さっきの美容師さんに止められてね」
そんなに切るつもりだったのかと、落胆を禁じ得ない。むしろ知らぬ間に九死に一生を得ていたらしい。あの赤毛の美容師は俺の味方だったのかもしれない。いやむしろネ申だ。
「……長い髪が好きなのを知ってるのに、そこまで短くしなくても……」
俯きがちにポツリと言うと、妻が立ち止まって、スッとこちらに寄ってきた。
「臨月前にまたこのくらいに髪を切ることになるから、今から落ち込んでたら、やっていけないよ。産後は髪が抜けるって言うし」
「へ? りんげつ? さんご?」
「そう。これから三人での生活になるから、私の髪ばかりに時間を取れないでしょ?」
「えっ?」
妻はお腹をさすっている。
「もう少しで三ヶ月かな。だから頼りにしてるよ、パパ」
「まさか、俺との?」
「そうだよっ! ……ずっとできなかったから、半ば諦めてたけどね」
――妻と俺の子供がお腹に……
欲しいと思っていた時期はあった。なかなかできず、病院で検査もしたりした。俺にも妻にも問題は見当たらず、どうしたらいいか悩んで過ごしたこともあった。
時間が経つにつれ、だんだんと無理して作らず、いつかぬこでも飼って、二人きりで楽しくリア充すればいいかと、自然に任せるようにしていた。
でもいざできたと分かると目頭が熱くなってきた。胸熱だ。場所も弁えず思わず妻を抱きしめていた。
――キタ―――(゚∀゚)―――― !!
「……サンガツ。ううっ」
「わわっ、ちょっ、ちょっと!」
暫く妻を抱きしめたまま泣いていた。
◇
「初めてのことだし、この通りズボラでガサツで不器用だからさ、色々やらかすと思うんだよね。でも頑張ってみるから、あなたも一緒に子供の面倒をみてね」
「……ううっ、もちろん!」
これから先、どんな事があっても妻とまだ見ぬ我が子の美髪を守り抜こうと心に誓った瞬間だった。
(いや、なんか違っ)
後書き
えっと、なんかごめんなさい🙏💦
少し前にネットスラングが死語だという記事を目にして、使いたくなりました。
生粋のねらーだったら自然と盛り込めそうなものですが……、とりあえず5000字以内に収まってよかったです😮💨
それにしてもギャグは難しい。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
(次回は通常の文章に戻ります。)
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