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断髪小説『名もなき夫婦の話』

あらすじ

髪を切るのも美容院に行くのも苦手な妻と、身だしなみとして髪を整えてほしい夫との夫婦の話。

小説情報

文字数  :4,694文字
断髪レベル:★★☆☆☆
キーワード:夫婦、家庭散髪
項目の詳細はこちらをご覧下さい。

本文

「髪切らないのか?」

 ソファーで隣に座る夫が聞いてくる。夫と結婚して一年、私は髪を切っていない。一つに結んではいるが、伸び放題で痛んでいる。それが気になるのだろうか。

「あー、うん。その内ね」

 適当にその場を誤魔化しておく。

「その内って、大分痛んでいるだろう」
「そうかもね」
「何か切らない理由でもあるのか?」
「これと言って特には……」

 言っても理解されそうにないので言葉をにごす。早くこの話題が終わって欲しい。

「せめて揃えた方が良くないか?」
「今はいいって」
「いいってって……、明日切りに行こう」
「それは嫌! やめて」

 思わず大きな声が出た。美容院という場所が怖いのだ。

「どうしたんだよ、急に」

 夫が大きな声に驚いたようだ。

「お願い、やめて。怖いの、そういう場所が」
「そういう場所って、美容院とかか?」
「そう」
「なんで?」
「……昔から怖いの」

 上手く説明できそうになかったので、言葉を繰り返すのに留めた。

「はぁ。分かったよ。無理に連れて行かない」

 夫はため息をついていたが、ホッと胸を撫で下ろす。これで行かずに済む。

「でもそのままって訳にもいかないよな。仕方ない。ウチで切るか」
「へ?」

 何を言ってるのだろうか。そもそも誰が切るのだろうか。

「外で切るのが怖いんだろう?なら家の中で切るしかないじゃないか」
「そんな無理に切らなくてもいいんじゃない?」

 別に髪を切らなかったからと言って生きていけない訳じゃない。夫は何故そんなにも私の髪を切らせたがるのだろうか。

「せめて揃えた方がいい。身だしなみも大事だよ」

 さとすように言われる。美容院も怖いが、それ以上に髪を切るのが苦手だ。出来るだけ避けていた。

「でも……」
「一体何が嫌なんだ?ずっと切らない訳にもいかないだろう」

 呆れている様子だ。夫からこの話題を逸らせそうになく、仕方なく口を開く。

「……バカにされて揶揄われるから」
「誰に?」
「周りの人から」
「何で?」
「知らないよ、そんなこと。私みたいなのが急に背伸びして色気づいてって感じじゃないの? もういい?」

 ソファーから立ち上がって、その場所を離れようとする。これ以上、この話題を話したくない。冷静でいられる気がしなかった。

「待った」

 夫が手首を掴んで、引き留めてくる。

「なに?」
「それってお前だけが損じゃないか?」
「……」
「本当にバカにされたのなら、相手の人間性の問題だろう。何でそれでお前が傷ついて、遠慮しないといけないんだよ。そんな奴の言葉なんか、間に受ける必要なんかない」
「そんなこと言われても……」

 夫もソファーから立ち上がり、そのまま掴んでいる手首を引いて、ダイニングにある椅子に座らされる。

「ちょっと何を、」
「今から髪を揃える」
「強引じゃない?」
「こうでもしないと、ずっとそのままになるだろう。俺は嫌だ」

 なぜ夫の気分で私の髪を切らなければならないのだろうか。

「私の髪よ」
「俺の妻が心無い言葉で傷ついたままで、髪を切れなくなっているのは我慢ならない」
「そんな無茶苦茶な」
「諦めろ」

 頑固な夫のことだ。こうなると何を言っても無駄だろう。言葉通り抵抗するのを諦めた。

「……はぁ、分かったわよ。その代わりちゃんとやってよね」
「どうかな。人の髪を切るのは初めてだ」
「え? 何それ!」
「俺はどうなっても笑わない。お前のことをバカにしない」

 真剣な表情で言ってくる。自分のトラウマみたいなものを解消しようとしているのだろう。心を打たれて感動でもする場面なのかもしれないが、そもそも夫が髪を切るのだ。

「あ、当たり前でしょう!」

 感動できそうになかった。



 ケープとかクリップとか細かい道具の類はないが、なぜか家庭用の散髪ハサミは持っていたようだ。夫は昔、使うと思って買ったとか言っていた。

「さて始めるか」

 椅子に座らされているだけで、鏡の類もない。

「どのくらい切るの?」

 正直、どうなるか不安だ。

「傷んでいるところを無くして、揃えるつもり」

 髪は腰には届かないくらいの背中の真ん中あたりまで伸びていた。毛先はバラバラだ。揃えるくらいなら、そんなに変なことにならない筈だと自分に言い聞かせる。

『ジョキ、ジョキン』

 夫はハサミで髪を切り始める。背中に当たるハサミの位置から、体感で五センチ程切っているのだろう。

「んー、斜めだな」

 そんな事を言っている。真っ直ぐになるように切っているのだろう。

「ここも傷んでいるし、意外と難しいな」

 独り言以外は無言だった。必死なのだろう。夫の邪魔をしないように大人しくしている。沈黙は嫌いじゃない。変に会話を考えなくていいのは、正直気楽だ。試行錯誤しながら何度もジャキジャキとハサミが入った。

「後ろはこんなものかな」

 それなりに時間が経っただろう。気づけば肩甲骨けんこうこつ辺りの長さになっていたようだ。十五センチくらい切った事になるだろう。

――結構切ったんだな

 夫は私の後ろから正面に来た。前髪を作りたいのか、くしを使って前に髪を下ろしてくる。前髪も一年前に切ったきりなので、前に下ろすとあごくらいまで伸びていた。いつもは横に分けて流していた。

 何度か櫛を通した後にハサミが近づいてきたので、目を閉じる。

『シャキン、シャキシャキ、パラパラ』

 眉の少し下辺りで切っているようだった。パラパラと細かく髪が落ちてくる。だんだんと目にかかっていた髪が無くなっていく感じがした。

 夫は再び櫛を前髪に通している。またハサミが近づく気配がしたので、目を閉じたままにする。ちょこちょことハサミが眉の辺りに当たる。目を閉じていても、正面から夫の視線を感じる。見られている気がして、気恥ずかしさを覚えた。やがてハサミが離れていき、ようやく目を開いた。前髪が視界に入らず、心なしか周りが明るく見えた。夫が手で顔についた髪を払ってくれた。

「こんなもんかな。お疲れ」

 ポンポンと頭を撫でられた。夫に髪を切ってもらったのは少し恥ずかしかったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。いつもなら誰に何を言われるか不安で仕方なかったのに、今日はそんな不安も感じない。夫が何も言わないからだろうか。

 床や自分の膝にはどっさりと大量の髪が落ちていた。こんなに切ったのかと驚きを隠せない。一先ず膝の上に落ちた髪を床へと払い、椅子から立ち上がる。

「ここは片付けておくから、鏡を見て来いよ。文句は受け付けないけどな」

 夫はゴミ袋を片手に話しかけてきた。どうなっているのか気にはなっていた。

「行ってくる」

 その足で洗面台で自分の姿を見た。前髪も後ろ髪もパツンと真っ直ぐに切られていた。前髪が眉より少し上になっていて、自分の顔がいつもより幼く見える。後ろ髪は肩甲骨の辺りで揃えられていた。傷んでいた髪は大分無くなっただろう。しばらく手櫛てぐしで髪を触る。正直見慣れなくて、どこか落ち着かない。でも髪を切った事に後悔はなかった。

「どうだ?」

 後ろから声を掛けられた。振り返らずに鏡越しに夫の姿を見る。

「なんか慣れない。でも嫌じゃなかった」
「そうか。人の髪を切るのは結構難しかったな。でもスッキリしてて俺はいいと思う」
「なに? 自画自賛?」

 夫を少し揶揄からかう。

「当然だな。ま、お前が嫌じゃなきゃいいさ」
「うん。……ありがと」

 お礼を言うのがなんか照れ臭く、顔が赤くなりそうだ。

「お、珍しく照れたな」
「もう!」

 それから夫は定期的に私の髪を切るようになった。徐々に道具も揃っていき、ハサミの使い方も回数を重ねる毎に軽快になっていった。最初の頃は数センチほど切って、揃える程度だった。しかし最近では自信がついたのか、バッサリと切られるようになっていた。特にしたい髪型がある訳でないので、夫に任せていた。

「なぁ、ショートにしないか?」
「え? また短くするの?」

 今は肩につかないボブヘアだ。髪を結べなくて、地味に鬱陶うっとおしい長さだ。

「夏も近いしさ。それにその長さは鬱陶しそうじゃん」
「あなたがそうしたのよね?」

 ジトーとした目で夫を見る。

「俺に短くされるのが、嫌じゃないくせに」

 夫の言う通りだった。以前は髪を切られるのが怖かったが、肩くらいの長さにバッサリ切った辺りから、もっと短くしてみたいと思うようになっていた。その心境の変化は自分でも不思議だった。

「どうせ何を言っても、自分のしたいように切るじゃん」

 見透かされてたのがちょっと嫌で、憎まれ口を叩いてしまう。でも夫の強引な所は嫌いじゃない。むしろ自分にとっては楽だ。内心は髪を切りたくて仕方がない。

「本当に嫌がってるならやらないさ。で、どうする?」
「……いいよ」

 夫の手で髪を短くされるのをどこか期待している自分がいた。

 ケープを巻かれ椅子に座っている。目の前には鏡もある。家庭散髪用に買ったものだ。シュッシュッと霧吹きで髪を湿らしてくる。サイドの髪を軽く持ち上げたかと思うと、シャキンと耳の上でハサミを閉じていた。

――えっ。そんなに切るの?

 ショートとは聞いていたが、そんなに短くされるとは思っていなかった。驚きで目を見開いてしまう。夫はこちらの様子は意に介さず、耳が出るようにハサミを動かして髪を切っていく。反対側も同じように切られ、すっかり両耳が出ていた。

「スッキリしたそうだからな」

 夫はそんな事を言って、後ろの髪も首にかからないように切っている。時折ひんやりとしたハサミの感触を首筋に感じる。生え際ギリギリで切っている事が分かる。

――うそっ、そんな短くするなんて。どうしよう

 男の人みたいだ。耳も首筋も出ていて自分の髪は短いんだと、見ている人に主張している気分だ。トップの髪にも容赦なくハサミが入る。バサバサと雨が降っているように、髪が上から落ちてくる。

――こんなに髪の短い女の人なんて、そうそういるのかな

 刈り上げてこそいないが、全体的に数センチの長さで切られた様だ。一番長い髪でも生え際から十センチとない。かろうじて立たないくらいだ。ベリーショートと言えるだろう。前髪も今までにない短さへと容赦なく切られ、額がすっかり出ていた。

「かなりサッパリしたな。涼しげでいいんじゃないか」
「さすがに短すぎでしょ」

 首筋も額もスースーする。確かに涼しい。頭もかなり軽い。ただサラサラと揺れる髪もなかった。

「ドライヤーで乾かすのも早くなるし、楽だと思うぞ。それにしても髪を切る事に抵抗しなくなったな」
「何を言っても無駄だから、諦めがついただけよ」
「本心はやってみたかったように見えるけどな」
「っ……」

 図星で言葉を失った。夫もその事に気付いたのだろう。顔が少し笑っていた。

「誰に何を言われようが、したいようにした方が後悔はないと思うよ」

 美容院は行けそうにないが、夫の家庭散髪に抵抗感は無かった。それは夫のお陰なのだろう。

 夫はどこからかカミソリを持ってきて、首筋に当てていた。さすがに怖くて、体を動かないようにと固まる。

「今度はバリカンを買うか」
「え?」
「刈り上げるのもいいかもな」
「えぇー!?」

 夫の家庭散髪はまだまだエスカレートしそうだ。

後書き


登場人物の名前を考えるのは、思ったより大変です。
名前が決まらず、書き始められないのは良くあります。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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